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女社長と秘書(袴田SIDE)
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いよいよ、開発部長就任の正式な辞令が出た。
こうなるまでは長いと思っていたけれど、なってしまえば早かったな、などと思うのは不思議な事だ。
正直、皆が人格者と認める進藤部長を追い落とす形になったのは複雑な気分だが、部長のポストは限られているわけで、俺がなるなら誰かがどこかへ行く事になるのは変わらない。
幸い進藤部長本人は部長の座から陥落せず人事へ異動となった。
一方で、彼女--松浦部長を追い落とす形にならずに済んだのは、ありがたいと思う。
おそらくそちらの方が、敵を増やす気がしたからだ。
…それは彼女が当社唯一の女性部長だからなのか、俺が彼女を好いているからなのか、理由ははっきりしないけれど。
それと、奇しくも俺の担当をする秘書は、あの二宮冴子という事だった。
一番やりにくい相手が一番身近な、しかも頼らざるを得ない存在になろうとは。
きっと二宮本人も思っているだろうけど、新任部長に新任秘書ってどうなのよと。そこは俺も同感だが、仮に俺が差配したとしても、彼女は開発部著秘書を継続と判断するだろう。
それぐらい、彼女は進藤部長とうまく行っているような噂を聞いている。
本来であれば、若い役職者はあまり秘書には依存しない。
ましてや役員でもない立場なら尚更だ。
だが、俺は少なくとも開発部のメンバーからすれば面白くない存在であるに違いなく、彼らといち早く打ち解けるために二宮冴子と良い関係性を築くのは至上命題だと思っている。
…という事で早速、開発部に軽く挨拶しに行ったついでに二宮女史を捕まえてオープンスペースへと移動した。
明らかに警戒されている感満載だが、仕事は仕事である。露骨に態度には出して来ない所は、一応心得ているという所か。
「…相変わらず?」
「……何がですか」
「いや、何でもない」
カマをかけたが乗って来ない。当然だと思った。
しかし二宮の表情にわずかな揺らぎを感じて、何か言いたいのだろうかと構えていると、急に自分から妙な事を語り出す。
「…一度その、ピンチにはなりました」
腑に落ちる要素はあるが、俺はあえて驚き笑顔を作って見せた。
「そういう隙があるようだと俺はすかさず行くタイプなんだよね、わかってるだろうけど」
「はい」
二宮は短く答えてから、俺を観察するように見つめていた。
…なるほど、その件を察知していたかどうかをはかっている訳か。
察知しているに決まっているだろ、ナメるなよと思ったが、それをあまり顔には出さないようにした。
「今日の所は挨拶しに来ただけだけど、長い付き合いになるんだしお互い良い関係を作っていきましょう」
「…そういう言い方がちょっと」
「あ、調子出てきたんじゃないの?」
「……」
俺のわざとらしい言葉のチョイスに過剰反応するあたりからして、相当に意識されているのだなとわかる。
「まあ、一つ思う事として、言っておきたいんだけどさ」
今度はくだけた口調をした俺を軽く睨んで来たが、特に気にしなかった。
進藤部長はもっとくだけた言い回しをしていただろうに。
「色々と、俺たちには共通項が多いという事に気付いてもらえたらなと思います」
「……?」
「わかりやすい所はさておき、やたらと女にモテるとか、そういう事も含めて」
含みを持たせてそんな言葉をぶつけてみると、どうやら思い当たる事があるらしく、しかもそれはどうやら「ピンチ」とやらの直接的な引き金になったらしい事まで伺わせるほど、二宮は狼狽しているようだった。
「そこらへんのあしらい方は相当下手そうだよね」
「余計なお世話です」
いよいよ敵対心を隠さなくなった二宮が反論してくる。
確かにこちらも言い過ぎてしまった。
「申し訳ない、嫌味を言いたいわけではなくて、その…俺は君が失敗すればいいなんて事は全然考えてないよ」
「……」
「逆に、こなれてる奴には興味ナシって事なんだろうしね、彼女が」
二宮はぐっと息を潜めて俺の言葉を受け止めている。
彼女はひとえに若い。だから心理的に揺さぶるのはたやすいと思える。
正直言って、松浦部長を落とすより先にこの娘を落とした方が話しが早い気もするが、そんな事をしたら松浦部長に殺されそうなので、その考えは取り消した。
「失礼、余談が長くなりました。この辺で」
「ありがとうございました」
形式的な挨拶を交わすと、二宮は俺を廊下まで見送った。入れ替わりにやって来た進藤部長に「ちょっと、気が早いよ~、しかも何で二宮さんと打合せとかしてんのよ」と冗談交じりに絡まれた。
それを軽く振り切って俺は開発部から離れる。
*-*-*-*-*-
二宮女史と関わるようになれば、自然と彼女の暮らしぶりなんかも見えてくるだろう。
あるいは彼女の目を通した松浦部長の別の顔というのも、透けて見えるようになるかもしれない。
開発部のメンバーは、常識的な温かい態度で俺の挨拶に応えてくれていたけれど、内心ではこれから俺を品定めしてやろうと思っているかもしれない。
そうでなくても、当然進藤部長と比較される。
ここへ来るまでの間に松浦部長からアドバイスは受けていた。
今日あえて二宮に絡んだのも、彼女のアドバイスによるものである。
腹を割って話したりするのも、やはり大切な事だと言われて来たのだ。
かつて俺は、彼女らにとっては非常に嫌な方法で、あぶり出しのようにその関係性を特定した。
そこまでは良かったが、実際彼女らの関係性というものについて、一体どういうきっかけで?とか、一緒にいる時何やってんの?とか、疑問は尽きないし想像を始めれば果てしなくパターンが多くて頭が疲れた。
相手が男なら、どんな風に関わってどんなセックスをするかまで、簡単に想像がつくのに、である。
ばかばかしいと思いながらも、実はアダルト系動画サイトで、女性同士のジャンルのものを見たりもしてみた。
学生同士とか、年上のお姉さんと妹のような関係性とか、いろんなものがあったけど、少しでも彼女らに近しいシチュエーションをと思って、職場の上司と部下という設定のものと、女社長と秘書というものを試しに見てみる事にした。
特に女社長と秘書というテーマのものは内容的にも刺激が強くしてあって、女社長が秘書に自分の足の指を舐めさせたり、仕事中の秘書にこっそりと遠隔操作できる玩具を仕込んで弄んだりする場面があった。
ただ、それらの若干虐めっぽい行為に、秘書は悦び率先して参加している。
オフィスの至る所で行為は繰り広げられていた。
それにこの動画は社長室がある設定だから、昼だろうと夜だろうとやりたい放題なのだ。
男女ものと違い、女性同士のものはとにかくねちっこいキスシーンが多く、そうしながら互いの秘部に指を挿入し合って絶頂にまで達する事も多い。
そうでなければ互いの股間をひたすら舐め続けて、一度や二度は達するのだ。
クライマックスは、お互いの秘部同士を擦り合わせるという、実に難しそうな事をして互いに絶頂するというシーンになっている。
なぜか、俺の印象に残ったのは、トイレでのシーンだった。
どこか出先から戻った所なのか、廊下を歩いている最中にいきなり女社長が「もう我慢できない」と言って秘書をトイレの個室へ連れ込む。
狭い空間で夢中になって唇を重ねて性急に秘書のスカートをめくり、その中身を暴いてその場所も夢中になってしゃぶりつく。
秘書は声を殺すのに必死なのだが、しまいには大きな声で喘ぎ悶えてよがるのだ。
そして一度達して見せてから、お返しにと言わんばかりに秘書から乱暴に女社長のブラウスをはだけさせ胸を露わにさせたかと思うと、その場所を揉んだり吸い付いたりして見せる。
女社長はすぐに喘ぎ声を上げてあっという間に達してしまう。
そして今度は互いの唇を重ねたままで、立ったまま互いの股間に指を這わせ奥深くへと指先を挿入させ刺激していく。
くぐもった喘ぎ声が重なり、二人の身体が跳ねるように痙攣したかと思うと、その後脱力していった。
この場面の秘書の感じが、どういう訳だか二宮冴子のイメージにやたらと重なる気がしてならなかった。
別に、彼女のそういう時の様子を知っている訳ではないけれど、やられる時には存分にそれを満喫しておいて、達した後でも嬉々として女社長を絶頂まで導くパワーのある感じ。
俺の想像だけど、二宮はおそらくセックスがかなり好きであるか、もしくはさほど好きでないかもしれないけれど強いような気がしてならない。
経験上、セックスが強い女というのはいるが、概して彼女らはセックス自体が嫌いではなくむしろ好きな方である。
ただ、自分の期待に応えられる男の少なさに、どこか絶望しているか諦めているのだ。
二宮からは、そういう女と似たような空気を感じる。
男に対して「どうせ無理なんでしょ」というような、そういう冷めた目線のようなものを感じるのだ。
それでいて相手がいなければその行為自体ができないわけで、男そのものを嫌っているわけではない。
二宮が仮にかなり旺盛なタイプだとしたら、相手が男だろうが女だろうが関係なく、そのパワーは開放され一点に集中するだろう。
男に対するあのニュートラルなような、冷めたようなスタンスは、二宮冴子独特のもので、男によっては居心地の良さすら感じる事もあるだろう。
自身がセックスの対象とされない限り、プレッシャーが一切かからない為だ。
…という事は、もしその推測が間違っていなければ、彼女らは毎日浴びるようにセックスしているのだろうか。
人事情報から調べた二宮の住所は松浦部長とは別のものだったけど、あるいは居候しているという事はあり得ると思う。
考えにふけっている間にレズ動画は終わってしまっていたけれど、俺の頭の中では、いましがた見たばかりの、トイレでの二人の行為がオーバーラップして、まるで松浦部長と二宮冴子が同じようにしているかのようなイメージにとらわれる。
因みに付け加えておくが、動画の女社長と松浦部長は全然似ていない。全くオーバーラップのオの字も、あってはならないレベルであると言うのに、どうした事だろうか。
それを言ったら秘書の方も二宮と似ているとまでは言えない。
ただ、身体つきはちょっと似ているかもしれなかった。
胸のサイズは二宮といい勝負ぐらいではないかと思われる。
…いや、何を考えているんだ俺は、と冷静になろうと思うが、現にあの二人は間違いなく付き合っているのだ。
付き合っているというのは、そういう、いやこういう事をしている関係性なわけで。
女同士で交わると言えば、こういう事なわけで。
まともに想像する事は避けてきたのに、動画の所為でスイッチが入ってしまった。
まさか会社のトイレでやったりしてないよな?だとしたら俺は二宮を叱ってやるとまで考えている。
動画の情景以上に、この具体的な二名が交わる妄想は果てしなく、そして卑猥なものだった。
松浦部長が二宮の胸をしゃぶったりしているのか?など具体的に考えれば考えるほど、いても立ってもいられなくなる。
と言うか、俺はこれからまともに二宮と顔を合わせて話ができるか不安にさえなった。
…大丈夫、その場になればこんな妄想思い出す事さえないはずだ。
ましてや二宮からそれを連想させるような発言などは考えられない。
いや、この動画を見るのが異動後で良かった。
松浦部長と毎日顔を合わせる状況で見ていたらと思うと、ぞっとする。
面倒な上に変態の烙印まで押されてしまいかねない。
それは二宮に対しても同じと言えば同じだが、俺は二宮に対して敵対心以上に、不思議と親近感を覚えているのは事実だ。
相手にしてきた女の数で負けているつもりはないし、慣れているという点で言えばきっと俺の方が優位である。
それに、二宮は俺をそういう目で見る事は絶対にしない。そこがとにかく俺の気持ちを楽にさせるのだ。
敵対心など、それに比べればどれだけ楽な事か。
…待てよ、そう考えれば、俺の担当が二宮というのはある意味適材適所という事になるのだろうか。
秘書課員が全員女性愛者でない限りは、その仮説は正しいものとなる。
過去も含め社において女性秘書が男性役員と恋仲になった事があったのかなかったのかは詳しく知らないが、ここ最近はそのような話を聞かない。
そういう事がないように、組み合わせを厳選しているという事なのかもしれないと思った。
そもそも、二宮は女性愛者なのだろうか。
ネイティブという気はしない。彼氏がいたらしい情報もどこかで得ていた気がする。
何より俺の直観では、女性オンリーという訳ではないだろうと思われた。
二宮から漂っているのは、男とのセックスを十分知っていて、その上で冷めている女の空気だと思ったからだ。
あれこれ考えていると、さきほどのトイレでの常時を描いた動画のように二宮の身体を暴いてやりたい衝動が、遠くに現れた気がしたけれど、それは明確なものとはならないままに消え去った。
基本的に女に不自由しないタイプの俺がこう思ったという事は、そうでない男からはかなりの確率で下品な妄想のえじきにされているのだろう。
それに対する諦めのようなものも、二宮の醸す空気の一部なのかもしれなかった。
普通はスルーされる、わずかなものでしかないが、俺にはそれがはっきりと理解できている、そんな確証すらある。
本人には「女にモテる所が通じている」と言ったけど、本来は俺が女にモテている事と対応させるなら、二宮が男にモテているという表現をするべきだった。
そこの経験値で言えばほとんど同じか、彼女の方が上かもしれない。
俺は早くから、どうでもいいような女を寄せ付けないための対策を講じているけれど、二宮にはあまりそれらしい気配がない。
自分自身の見られ方を客観的に理解できないと、イメージのコントロールという芸当はなかなか身に着けられないものだ。
まだ若いしそんな事に長けても仕方ないかもしれないが、俺が普通にやっている事と同類の事を二宮もできていれば、変なトラブルにも巻き込まれずに済んだかもしれないなと思った。
そういう意味で、どこか親近感を覚えているのだ。
どうでもいい娘に言い寄られるという悩みと似たものを、二宮は理解できるだろうから。
しかし、羨ましい事には変わりない。
それから、やっぱり性的な意味では特に、太刀打ちできる気がしない。
男の俺と二宮は比較の対象とならないのかもしれないが、松浦部長にとって男と女は別腹ではないらしいというのは感じる。
二宮は、もしかすると別腹なのかもしれないけれど。
それも単なる直観でしかなく、にわかに確認できる内容ではなかった。
羨ましいのはもう一つ、二宮と進藤部長の関係性である。
進藤部長のあの、一瞬で懐に入り込む柔らかいキャラクターは、俺には全くないものだ。
二宮も、親しみと、尊敬の両方をもって進藤部長に接している。
それが、進藤部長の子飼いの部下だった松浦部長と二宮が親しい事の裏付けのようでもあって、そこも含め妬けるのかもしれない。
…何か、二宮に挨拶した事は逆効果にならなかったろうか。
宣戦布告のように受け取られたかもしれず、そうだとしたらそれは俺の本意ではない。
彼女の協力が必要不可欠なのは事実なのだから。
なんとなく、昔の女の事を思い出す。
とりわけセックスが強い女の事を、久々に思い出した。
彼女は二宮同様、にわかに男を近づけるようなタイプではないものの、そこそこモテる要素を持っていたと思う。
ただスイッチが入ると、正に人が変わったように貪欲になる所があった、その事を思い出した。
セックスに強い自覚のある女は、カマトトぶりはしないけど、いわゆるそれぞれのモードのようなものを持っていて、意識的に開放させるかどうか、意志の力で動かしている。
多分二宮は間違いなくそっちのモードというのを隠し持っているだろう。
あれだけ容姿とスタイルに恵まれていて、かつそういうモードを隠し持っているとなれば、相手は相当選ばないと、困った事になるだろうなと思った。
全くもって余計な心配だけど、察するに余りある。
それを、どういうきっかけかは知らないが松浦部長とそういう関係になって、余す所なく受け止めてもらえているのだとしたら、救われているのは二宮の方という事になるだろう。
あるいはそれだけではやっぱり足りなくて誘惑に負けたから、ピンチとやらが来たのかもしれないが。
あまりに強いのも考えものだなあ、と他人事のように思う。
俺はそこまで性的な分野のみで相手に執着するという感性はない。
そもそもセックスで自分の素を晒すのは、恐怖に近い感覚である。
「あなたってこういう人だったのね」と、女に秘密を握られるのはあまりいい気がしないからだ。
それにその事だけであれこれ判断されたくもない。
だから、そこを重視する女はどちらかと言うと対象外だ。
二宮にとっても俺は相手として「あり得ない」だろうが、俺からしても似たようなものなのである。
*-*-*-*-*-
あれ以来、なぜか社のトイレ、それも女子トイレの前を通る時には妙に意識してしまうようになっていた。
時間が経てば薄れていくだろうとは思うが、何かまずいものを目撃、いやまずいものに遭遇するのではないかと、いらぬ不安や緊張を感じてしまっている。
二宮冴子の所為で本当に変態になってしまったのではないかと頭を抱えたくなるが、そんな事に気を取られている場合ではないのだ。
しかし開発部部長としてなじむためには、二宮冴子との関係性を良くしなければならず、二宮について考えると必然的にいらぬ妄想が呼び起こされるという状況は悪循環のように続いている。
俺がまさか、と思う反面、彼女が秘書課所属で本当に良かったと思った。
またしても余計なお世話だろうが、彼女が例えば営業部や企画部の部員だったなら、そしてその隣席が男だったなら、毎日間近で二宮と関わる苦痛はひとしおだろう。
ましてや俺は二宮が実際に交わっているであろう相手を具体的に知っている。
だから余計妄想が具体化してしまっておかしな事になっているのだ。
そんな事、あるわけがないのに、トイレからあのレズ動画宜しく女同士の喘ぎ声でも漏れ聞こえてきたらどうしよう、などと考えている。
どうもこうも、そこでじっと様子を伺うのも、中に入るのも異常行動になるのだから、ただ通り過ぎて聞こえてないふりをする以外ないと言うのに。
このまま、変な意識が続いて、挙句幻聴まで聞こえてきたらもうおしまいだ、と思っていたある日の事だった。
俺は副社長に話があり、役員室のあるフロアを訪れていた。
この階には役員室と秘書課が入っており、役員室側のトイレは男性用も女性用も人気がない。
そもそも使う人数が限られているのだから、込み合う事などあり得ないのだ。
副社長との話は手短に終わり、まだ少し荷物を残している企画部へ戻ろうか、それとも一旦開発部へ行こうか迷って歩を緩めた時、その物音が耳に入ってきた。
…物音、ではない。人の声だ。
それも、あの時動画で見たものと近しい類の声ではないか、と感じる。
廊下にも勿論人気はなく、俺は思わず役員室そばの女子トイレの近くで足を止める。
5、6秒そのままじっと耳をすましていると、また小さくうめくような声が聞こえた気がした。
だがあまりに小さく聞き取るのが困難なので、気の所為かもしれないとも思える。
情けないが、俺は自分の耳で聞いたそれの正体を確かめたくて、怪しまれない程度の距離の廊下にもたれてスマホを取り出し、着歴やメッセージを確認するふりをした。
そうしていると、疑念は確証へと変わっていく。
今度は確実に、そうとわかる声を、俺の耳でもはっきりととらえる事ができた。
少し苦しげな吐息のような声と、「言えなかったんです」というような言葉が聞こえた気がした。
…誰の声だろう。
頼むから二宮冴子ではなくあって欲しいと思うけれど、じゃあ誰なら良いんだよと自らに突っ込んでしまった。
第一、事が済んで中の人物が出てくるまでここに居るのは難しい。
誰なのかは確かめようがないなと思って、それと同時にこんな所でそれを知ってどうするという気にもなった。
…まあ二宮に限らず女性同士そういう事をする者がいないわけでもなし、そんな人物がここの女子トイレに目を付けるのも当然か、などと思って、変に何でもかんでも二宮と結びつけて妄想するのは良くないと思い直してスマホをポケットにしまった。
そうして顔を上げた所で、なんと秘書課の良心、これまた人格者の名高い夏川真帆が出て来たではないか。
…夏川は手を洗っていたろうか。
どうだったか、はっきりわからない。
でも俺にとっては夏川はいきなり現れた、という印象だった。
中にいた一人は夏川、もう一人は誰だ。
秘書課の誰かの可能性は高いが、考える余裕も時間も残されてはいない。
俺は偶然を装い夏川真帆と目を合わせた。
「あら、袴田部長どうされました?こんな所で」
そう言う夏川の声は、心なしか大きく響いた気がした。
まるで、中に残っているもう一人にそれを知らせているかのように。
「副社長に要があって」
「左様でしたか、お戻りになる所ですか?」
言いながら夏川は秘書課の方へと歩を進めていく。
俺も遅れないようにペースを合わせて歩き出した。
歩き出してやっと気付き、質問してみる。
「ところで二宮さんは?」
「…お探しですか?」
「いや、要はないけどもし秘書課のデスクにいるようならと思って」
「…私が席を立った時には、居なかったと思います」
「そう、ありがとう」
この会話を、トイレにもっと近い所で切り出せば良かった。
俺の秘書は二宮なんだから、探していると言って何ら不思議はないのだ。
「すみません、こちらで失礼します」
夏川はいつも通りの穏やかな笑顔で、廊下を真っすぐ進んでいく。
俺はエレベーターホールに向かい廊下をそれて歩いた。
…今更あのトイレの方向に戻るのもおかしいので諦めるが、何か怪しい気がしてならなかった。
「言えなかったんです」
あれは二宮の声だろうか。
はっきりと特定はできないが、若い女の声には違いない。
まして夏川に敬語を使う立場の人間であるから、彼女より年下か社歴が短い、というのは明らかだがそんな人物は秘書課外を含めれば山のように存在する。
だいたい喘ぎ声の途中で「言えなかったんです」とは、どういう会話の流れなのだ。
もう、あれが誰か特定できないとしても、今から数分間の間に実物の二宮と遭遇さえすれば、あそこに居たのは二宮ではなく別人という証明になるだろう。
だが、俺が思う時間の間には二宮と遭遇する事はなかった。
次に二宮と遭遇したのは、およそ1時間ほど後の事だ。
俺はわざと、秘書課へ電話を入れて「もし二宮の手が空いたら、片付けを手伝って欲しいと伝えて」もらうよう頼んでおいた。
そうしておけば、少なくとも二宮が消えている時間の長さは特定できると思ったからだ。
「すみません」
現れた二宮に、ぎりぎり嫌味にならない程度に聞いてみる。
「どこ行ってたの?」
二宮ははっきりとは答えなかった。
勿論、遅い昼食を摂る事もあるだろうし、コンビニへ行く事もあるかもしれない。何か買い出しを頼まれて文具店や雑貨店へ行っていたかもしれない。
もしかすると調子が悪くて、短時間で戻れるくらいの病院や薬局などへ行っていたかもしれない。
けれど俺は、答えない二宮を責めるような態度は取らなかった。
また、あぶり出しをやったと思われ嫌悪感を増やされるだけになるのは後々困る。
ただ、二宮の表情に微妙な動揺の陰が見え隠れした気がして、やはり間近で話せばわかる事は多い、若狭があると思った。
十中八九、あのトイレに残っていたのは二宮だと思われる。
そうでなければ、夏川はわざわざ俺が傍にいる事を中の人物に知らせる必要などないだろうし。
…何、夏川まで仲間って事なワケ?
それとも、二宮を巡って松浦部長は夏川と争ってたりするの?
そもそも二宮を「ピンチ」に追い込んだのって誰よ?
誘惑から逃れられなかった相手、それって…社の人間って事じゃないの?
つまり二宮が中心で三角関係とか四角関係とか、もしくはもっと複雑な事にでもなってんの?
…俺が思い描いていた構図は、もしかすると全くの勘違いなのではないか、と今度は頭がぐらぐらしてくる。
松浦部長を好きなのは俺の他に、熱量で言えば二宮が最大級に警戒すべき相手だが、他は皆憧れとかそんな程度のものでしかない気がするし、噂も聞かない。
ところが二宮本人に関してはノーマークだった。
あの娘を狙ってる人物、しかも女子がいるという想定はできたけど、まさか秘書課にいるとなれば話は複雑になるのではないか。
…それが夏川?考えられない。
第一、そうだとしたら二宮を置き去りにしてトイレを出たのは何故だ。
少なくともあの時点では、俺の推測では「始まったばかり」のような雰囲気で、とても絶頂云々という状況には思えない。
そういう、熱っぽい空気は、トイレからも夏川からも感じなかった。
…だとすると、その後入れ替わりに誰かが二宮の相手をした事になるのだが。
…誰だよ、それ?
ごちゃごちゃ考え事をしつつも、俺は二宮にそれらしい指示を出して、二宮もその作業に取りかかっている。
『あぶり出し』の言葉が自責の念をどんどんと強くさせる。
今この状況で、松浦部長の名前を話題にすれば、そのリアクションで二宮の相手を特定できるかもしれないと、思いついてしまった。
そして俺は、二宮を探している間にやはり、松浦部長の姿も見ていない。
「……」
止めておこう。
二宮がトイレでしていた相手が松浦部長なら、それで良いではないか。
そういう事にしておくのが、むしろ一番いいような気がした。
夏川は、何らかの理由であそこに居合わせたが、きっとその後松浦部長を呼びに行ったのだ。
二宮が出て来なかった理由はわからないが、具合でも悪かったかもしれない。
カマをかければそのリアクションで大筋読める相手なだけに、二宮を揺さぶりたい衝動はあるが、あまり変に思われるのは得策でないと考え、諦める事にした。
こうなるまでは長いと思っていたけれど、なってしまえば早かったな、などと思うのは不思議な事だ。
正直、皆が人格者と認める進藤部長を追い落とす形になったのは複雑な気分だが、部長のポストは限られているわけで、俺がなるなら誰かがどこかへ行く事になるのは変わらない。
幸い進藤部長本人は部長の座から陥落せず人事へ異動となった。
一方で、彼女--松浦部長を追い落とす形にならずに済んだのは、ありがたいと思う。
おそらくそちらの方が、敵を増やす気がしたからだ。
…それは彼女が当社唯一の女性部長だからなのか、俺が彼女を好いているからなのか、理由ははっきりしないけれど。
それと、奇しくも俺の担当をする秘書は、あの二宮冴子という事だった。
一番やりにくい相手が一番身近な、しかも頼らざるを得ない存在になろうとは。
きっと二宮本人も思っているだろうけど、新任部長に新任秘書ってどうなのよと。そこは俺も同感だが、仮に俺が差配したとしても、彼女は開発部著秘書を継続と判断するだろう。
それぐらい、彼女は進藤部長とうまく行っているような噂を聞いている。
本来であれば、若い役職者はあまり秘書には依存しない。
ましてや役員でもない立場なら尚更だ。
だが、俺は少なくとも開発部のメンバーからすれば面白くない存在であるに違いなく、彼らといち早く打ち解けるために二宮冴子と良い関係性を築くのは至上命題だと思っている。
…という事で早速、開発部に軽く挨拶しに行ったついでに二宮女史を捕まえてオープンスペースへと移動した。
明らかに警戒されている感満載だが、仕事は仕事である。露骨に態度には出して来ない所は、一応心得ているという所か。
「…相変わらず?」
「……何がですか」
「いや、何でもない」
カマをかけたが乗って来ない。当然だと思った。
しかし二宮の表情にわずかな揺らぎを感じて、何か言いたいのだろうかと構えていると、急に自分から妙な事を語り出す。
「…一度その、ピンチにはなりました」
腑に落ちる要素はあるが、俺はあえて驚き笑顔を作って見せた。
「そういう隙があるようだと俺はすかさず行くタイプなんだよね、わかってるだろうけど」
「はい」
二宮は短く答えてから、俺を観察するように見つめていた。
…なるほど、その件を察知していたかどうかをはかっている訳か。
察知しているに決まっているだろ、ナメるなよと思ったが、それをあまり顔には出さないようにした。
「今日の所は挨拶しに来ただけだけど、長い付き合いになるんだしお互い良い関係を作っていきましょう」
「…そういう言い方がちょっと」
「あ、調子出てきたんじゃないの?」
「……」
俺のわざとらしい言葉のチョイスに過剰反応するあたりからして、相当に意識されているのだなとわかる。
「まあ、一つ思う事として、言っておきたいんだけどさ」
今度はくだけた口調をした俺を軽く睨んで来たが、特に気にしなかった。
進藤部長はもっとくだけた言い回しをしていただろうに。
「色々と、俺たちには共通項が多いという事に気付いてもらえたらなと思います」
「……?」
「わかりやすい所はさておき、やたらと女にモテるとか、そういう事も含めて」
含みを持たせてそんな言葉をぶつけてみると、どうやら思い当たる事があるらしく、しかもそれはどうやら「ピンチ」とやらの直接的な引き金になったらしい事まで伺わせるほど、二宮は狼狽しているようだった。
「そこらへんのあしらい方は相当下手そうだよね」
「余計なお世話です」
いよいよ敵対心を隠さなくなった二宮が反論してくる。
確かにこちらも言い過ぎてしまった。
「申し訳ない、嫌味を言いたいわけではなくて、その…俺は君が失敗すればいいなんて事は全然考えてないよ」
「……」
「逆に、こなれてる奴には興味ナシって事なんだろうしね、彼女が」
二宮はぐっと息を潜めて俺の言葉を受け止めている。
彼女はひとえに若い。だから心理的に揺さぶるのはたやすいと思える。
正直言って、松浦部長を落とすより先にこの娘を落とした方が話しが早い気もするが、そんな事をしたら松浦部長に殺されそうなので、その考えは取り消した。
「失礼、余談が長くなりました。この辺で」
「ありがとうございました」
形式的な挨拶を交わすと、二宮は俺を廊下まで見送った。入れ替わりにやって来た進藤部長に「ちょっと、気が早いよ~、しかも何で二宮さんと打合せとかしてんのよ」と冗談交じりに絡まれた。
それを軽く振り切って俺は開発部から離れる。
*-*-*-*-*-
二宮女史と関わるようになれば、自然と彼女の暮らしぶりなんかも見えてくるだろう。
あるいは彼女の目を通した松浦部長の別の顔というのも、透けて見えるようになるかもしれない。
開発部のメンバーは、常識的な温かい態度で俺の挨拶に応えてくれていたけれど、内心ではこれから俺を品定めしてやろうと思っているかもしれない。
そうでなくても、当然進藤部長と比較される。
ここへ来るまでの間に松浦部長からアドバイスは受けていた。
今日あえて二宮に絡んだのも、彼女のアドバイスによるものである。
腹を割って話したりするのも、やはり大切な事だと言われて来たのだ。
かつて俺は、彼女らにとっては非常に嫌な方法で、あぶり出しのようにその関係性を特定した。
そこまでは良かったが、実際彼女らの関係性というものについて、一体どういうきっかけで?とか、一緒にいる時何やってんの?とか、疑問は尽きないし想像を始めれば果てしなくパターンが多くて頭が疲れた。
相手が男なら、どんな風に関わってどんなセックスをするかまで、簡単に想像がつくのに、である。
ばかばかしいと思いながらも、実はアダルト系動画サイトで、女性同士のジャンルのものを見たりもしてみた。
学生同士とか、年上のお姉さんと妹のような関係性とか、いろんなものがあったけど、少しでも彼女らに近しいシチュエーションをと思って、職場の上司と部下という設定のものと、女社長と秘書というものを試しに見てみる事にした。
特に女社長と秘書というテーマのものは内容的にも刺激が強くしてあって、女社長が秘書に自分の足の指を舐めさせたり、仕事中の秘書にこっそりと遠隔操作できる玩具を仕込んで弄んだりする場面があった。
ただ、それらの若干虐めっぽい行為に、秘書は悦び率先して参加している。
オフィスの至る所で行為は繰り広げられていた。
それにこの動画は社長室がある設定だから、昼だろうと夜だろうとやりたい放題なのだ。
男女ものと違い、女性同士のものはとにかくねちっこいキスシーンが多く、そうしながら互いの秘部に指を挿入し合って絶頂にまで達する事も多い。
そうでなければ互いの股間をひたすら舐め続けて、一度や二度は達するのだ。
クライマックスは、お互いの秘部同士を擦り合わせるという、実に難しそうな事をして互いに絶頂するというシーンになっている。
なぜか、俺の印象に残ったのは、トイレでのシーンだった。
どこか出先から戻った所なのか、廊下を歩いている最中にいきなり女社長が「もう我慢できない」と言って秘書をトイレの個室へ連れ込む。
狭い空間で夢中になって唇を重ねて性急に秘書のスカートをめくり、その中身を暴いてその場所も夢中になってしゃぶりつく。
秘書は声を殺すのに必死なのだが、しまいには大きな声で喘ぎ悶えてよがるのだ。
そして一度達して見せてから、お返しにと言わんばかりに秘書から乱暴に女社長のブラウスをはだけさせ胸を露わにさせたかと思うと、その場所を揉んだり吸い付いたりして見せる。
女社長はすぐに喘ぎ声を上げてあっという間に達してしまう。
そして今度は互いの唇を重ねたままで、立ったまま互いの股間に指を這わせ奥深くへと指先を挿入させ刺激していく。
くぐもった喘ぎ声が重なり、二人の身体が跳ねるように痙攣したかと思うと、その後脱力していった。
この場面の秘書の感じが、どういう訳だか二宮冴子のイメージにやたらと重なる気がしてならなかった。
別に、彼女のそういう時の様子を知っている訳ではないけれど、やられる時には存分にそれを満喫しておいて、達した後でも嬉々として女社長を絶頂まで導くパワーのある感じ。
俺の想像だけど、二宮はおそらくセックスがかなり好きであるか、もしくはさほど好きでないかもしれないけれど強いような気がしてならない。
経験上、セックスが強い女というのはいるが、概して彼女らはセックス自体が嫌いではなくむしろ好きな方である。
ただ、自分の期待に応えられる男の少なさに、どこか絶望しているか諦めているのだ。
二宮からは、そういう女と似たような空気を感じる。
男に対して「どうせ無理なんでしょ」というような、そういう冷めた目線のようなものを感じるのだ。
それでいて相手がいなければその行為自体ができないわけで、男そのものを嫌っているわけではない。
二宮が仮にかなり旺盛なタイプだとしたら、相手が男だろうが女だろうが関係なく、そのパワーは開放され一点に集中するだろう。
男に対するあのニュートラルなような、冷めたようなスタンスは、二宮冴子独特のもので、男によっては居心地の良さすら感じる事もあるだろう。
自身がセックスの対象とされない限り、プレッシャーが一切かからない為だ。
…という事は、もしその推測が間違っていなければ、彼女らは毎日浴びるようにセックスしているのだろうか。
人事情報から調べた二宮の住所は松浦部長とは別のものだったけど、あるいは居候しているという事はあり得ると思う。
考えにふけっている間にレズ動画は終わってしまっていたけれど、俺の頭の中では、いましがた見たばかりの、トイレでの二人の行為がオーバーラップして、まるで松浦部長と二宮冴子が同じようにしているかのようなイメージにとらわれる。
因みに付け加えておくが、動画の女社長と松浦部長は全然似ていない。全くオーバーラップのオの字も、あってはならないレベルであると言うのに、どうした事だろうか。
それを言ったら秘書の方も二宮と似ているとまでは言えない。
ただ、身体つきはちょっと似ているかもしれなかった。
胸のサイズは二宮といい勝負ぐらいではないかと思われる。
…いや、何を考えているんだ俺は、と冷静になろうと思うが、現にあの二人は間違いなく付き合っているのだ。
付き合っているというのは、そういう、いやこういう事をしている関係性なわけで。
女同士で交わると言えば、こういう事なわけで。
まともに想像する事は避けてきたのに、動画の所為でスイッチが入ってしまった。
まさか会社のトイレでやったりしてないよな?だとしたら俺は二宮を叱ってやるとまで考えている。
動画の情景以上に、この具体的な二名が交わる妄想は果てしなく、そして卑猥なものだった。
松浦部長が二宮の胸をしゃぶったりしているのか?など具体的に考えれば考えるほど、いても立ってもいられなくなる。
と言うか、俺はこれからまともに二宮と顔を合わせて話ができるか不安にさえなった。
…大丈夫、その場になればこんな妄想思い出す事さえないはずだ。
ましてや二宮からそれを連想させるような発言などは考えられない。
いや、この動画を見るのが異動後で良かった。
松浦部長と毎日顔を合わせる状況で見ていたらと思うと、ぞっとする。
面倒な上に変態の烙印まで押されてしまいかねない。
それは二宮に対しても同じと言えば同じだが、俺は二宮に対して敵対心以上に、不思議と親近感を覚えているのは事実だ。
相手にしてきた女の数で負けているつもりはないし、慣れているという点で言えばきっと俺の方が優位である。
それに、二宮は俺をそういう目で見る事は絶対にしない。そこがとにかく俺の気持ちを楽にさせるのだ。
敵対心など、それに比べればどれだけ楽な事か。
…待てよ、そう考えれば、俺の担当が二宮というのはある意味適材適所という事になるのだろうか。
秘書課員が全員女性愛者でない限りは、その仮説は正しいものとなる。
過去も含め社において女性秘書が男性役員と恋仲になった事があったのかなかったのかは詳しく知らないが、ここ最近はそのような話を聞かない。
そういう事がないように、組み合わせを厳選しているという事なのかもしれないと思った。
そもそも、二宮は女性愛者なのだろうか。
ネイティブという気はしない。彼氏がいたらしい情報もどこかで得ていた気がする。
何より俺の直観では、女性オンリーという訳ではないだろうと思われた。
二宮から漂っているのは、男とのセックスを十分知っていて、その上で冷めている女の空気だと思ったからだ。
あれこれ考えていると、さきほどのトイレでの常時を描いた動画のように二宮の身体を暴いてやりたい衝動が、遠くに現れた気がしたけれど、それは明確なものとはならないままに消え去った。
基本的に女に不自由しないタイプの俺がこう思ったという事は、そうでない男からはかなりの確率で下品な妄想のえじきにされているのだろう。
それに対する諦めのようなものも、二宮の醸す空気の一部なのかもしれなかった。
普通はスルーされる、わずかなものでしかないが、俺にはそれがはっきりと理解できている、そんな確証すらある。
本人には「女にモテる所が通じている」と言ったけど、本来は俺が女にモテている事と対応させるなら、二宮が男にモテているという表現をするべきだった。
そこの経験値で言えばほとんど同じか、彼女の方が上かもしれない。
俺は早くから、どうでもいいような女を寄せ付けないための対策を講じているけれど、二宮にはあまりそれらしい気配がない。
自分自身の見られ方を客観的に理解できないと、イメージのコントロールという芸当はなかなか身に着けられないものだ。
まだ若いしそんな事に長けても仕方ないかもしれないが、俺が普通にやっている事と同類の事を二宮もできていれば、変なトラブルにも巻き込まれずに済んだかもしれないなと思った。
そういう意味で、どこか親近感を覚えているのだ。
どうでもいい娘に言い寄られるという悩みと似たものを、二宮は理解できるだろうから。
しかし、羨ましい事には変わりない。
それから、やっぱり性的な意味では特に、太刀打ちできる気がしない。
男の俺と二宮は比較の対象とならないのかもしれないが、松浦部長にとって男と女は別腹ではないらしいというのは感じる。
二宮は、もしかすると別腹なのかもしれないけれど。
それも単なる直観でしかなく、にわかに確認できる内容ではなかった。
羨ましいのはもう一つ、二宮と進藤部長の関係性である。
進藤部長のあの、一瞬で懐に入り込む柔らかいキャラクターは、俺には全くないものだ。
二宮も、親しみと、尊敬の両方をもって進藤部長に接している。
それが、進藤部長の子飼いの部下だった松浦部長と二宮が親しい事の裏付けのようでもあって、そこも含め妬けるのかもしれない。
…何か、二宮に挨拶した事は逆効果にならなかったろうか。
宣戦布告のように受け取られたかもしれず、そうだとしたらそれは俺の本意ではない。
彼女の協力が必要不可欠なのは事実なのだから。
なんとなく、昔の女の事を思い出す。
とりわけセックスが強い女の事を、久々に思い出した。
彼女は二宮同様、にわかに男を近づけるようなタイプではないものの、そこそこモテる要素を持っていたと思う。
ただスイッチが入ると、正に人が変わったように貪欲になる所があった、その事を思い出した。
セックスに強い自覚のある女は、カマトトぶりはしないけど、いわゆるそれぞれのモードのようなものを持っていて、意識的に開放させるかどうか、意志の力で動かしている。
多分二宮は間違いなくそっちのモードというのを隠し持っているだろう。
あれだけ容姿とスタイルに恵まれていて、かつそういうモードを隠し持っているとなれば、相手は相当選ばないと、困った事になるだろうなと思った。
全くもって余計な心配だけど、察するに余りある。
それを、どういうきっかけかは知らないが松浦部長とそういう関係になって、余す所なく受け止めてもらえているのだとしたら、救われているのは二宮の方という事になるだろう。
あるいはそれだけではやっぱり足りなくて誘惑に負けたから、ピンチとやらが来たのかもしれないが。
あまりに強いのも考えものだなあ、と他人事のように思う。
俺はそこまで性的な分野のみで相手に執着するという感性はない。
そもそもセックスで自分の素を晒すのは、恐怖に近い感覚である。
「あなたってこういう人だったのね」と、女に秘密を握られるのはあまりいい気がしないからだ。
それにその事だけであれこれ判断されたくもない。
だから、そこを重視する女はどちらかと言うと対象外だ。
二宮にとっても俺は相手として「あり得ない」だろうが、俺からしても似たようなものなのである。
*-*-*-*-*-
あれ以来、なぜか社のトイレ、それも女子トイレの前を通る時には妙に意識してしまうようになっていた。
時間が経てば薄れていくだろうとは思うが、何かまずいものを目撃、いやまずいものに遭遇するのではないかと、いらぬ不安や緊張を感じてしまっている。
二宮冴子の所為で本当に変態になってしまったのではないかと頭を抱えたくなるが、そんな事に気を取られている場合ではないのだ。
しかし開発部部長としてなじむためには、二宮冴子との関係性を良くしなければならず、二宮について考えると必然的にいらぬ妄想が呼び起こされるという状況は悪循環のように続いている。
俺がまさか、と思う反面、彼女が秘書課所属で本当に良かったと思った。
またしても余計なお世話だろうが、彼女が例えば営業部や企画部の部員だったなら、そしてその隣席が男だったなら、毎日間近で二宮と関わる苦痛はひとしおだろう。
ましてや俺は二宮が実際に交わっているであろう相手を具体的に知っている。
だから余計妄想が具体化してしまっておかしな事になっているのだ。
そんな事、あるわけがないのに、トイレからあのレズ動画宜しく女同士の喘ぎ声でも漏れ聞こえてきたらどうしよう、などと考えている。
どうもこうも、そこでじっと様子を伺うのも、中に入るのも異常行動になるのだから、ただ通り過ぎて聞こえてないふりをする以外ないと言うのに。
このまま、変な意識が続いて、挙句幻聴まで聞こえてきたらもうおしまいだ、と思っていたある日の事だった。
俺は副社長に話があり、役員室のあるフロアを訪れていた。
この階には役員室と秘書課が入っており、役員室側のトイレは男性用も女性用も人気がない。
そもそも使う人数が限られているのだから、込み合う事などあり得ないのだ。
副社長との話は手短に終わり、まだ少し荷物を残している企画部へ戻ろうか、それとも一旦開発部へ行こうか迷って歩を緩めた時、その物音が耳に入ってきた。
…物音、ではない。人の声だ。
それも、あの時動画で見たものと近しい類の声ではないか、と感じる。
廊下にも勿論人気はなく、俺は思わず役員室そばの女子トイレの近くで足を止める。
5、6秒そのままじっと耳をすましていると、また小さくうめくような声が聞こえた気がした。
だがあまりに小さく聞き取るのが困難なので、気の所為かもしれないとも思える。
情けないが、俺は自分の耳で聞いたそれの正体を確かめたくて、怪しまれない程度の距離の廊下にもたれてスマホを取り出し、着歴やメッセージを確認するふりをした。
そうしていると、疑念は確証へと変わっていく。
今度は確実に、そうとわかる声を、俺の耳でもはっきりととらえる事ができた。
少し苦しげな吐息のような声と、「言えなかったんです」というような言葉が聞こえた気がした。
…誰の声だろう。
頼むから二宮冴子ではなくあって欲しいと思うけれど、じゃあ誰なら良いんだよと自らに突っ込んでしまった。
第一、事が済んで中の人物が出てくるまでここに居るのは難しい。
誰なのかは確かめようがないなと思って、それと同時にこんな所でそれを知ってどうするという気にもなった。
…まあ二宮に限らず女性同士そういう事をする者がいないわけでもなし、そんな人物がここの女子トイレに目を付けるのも当然か、などと思って、変に何でもかんでも二宮と結びつけて妄想するのは良くないと思い直してスマホをポケットにしまった。
そうして顔を上げた所で、なんと秘書課の良心、これまた人格者の名高い夏川真帆が出て来たではないか。
…夏川は手を洗っていたろうか。
どうだったか、はっきりわからない。
でも俺にとっては夏川はいきなり現れた、という印象だった。
中にいた一人は夏川、もう一人は誰だ。
秘書課の誰かの可能性は高いが、考える余裕も時間も残されてはいない。
俺は偶然を装い夏川真帆と目を合わせた。
「あら、袴田部長どうされました?こんな所で」
そう言う夏川の声は、心なしか大きく響いた気がした。
まるで、中に残っているもう一人にそれを知らせているかのように。
「副社長に要があって」
「左様でしたか、お戻りになる所ですか?」
言いながら夏川は秘書課の方へと歩を進めていく。
俺も遅れないようにペースを合わせて歩き出した。
歩き出してやっと気付き、質問してみる。
「ところで二宮さんは?」
「…お探しですか?」
「いや、要はないけどもし秘書課のデスクにいるようならと思って」
「…私が席を立った時には、居なかったと思います」
「そう、ありがとう」
この会話を、トイレにもっと近い所で切り出せば良かった。
俺の秘書は二宮なんだから、探していると言って何ら不思議はないのだ。
「すみません、こちらで失礼します」
夏川はいつも通りの穏やかな笑顔で、廊下を真っすぐ進んでいく。
俺はエレベーターホールに向かい廊下をそれて歩いた。
…今更あのトイレの方向に戻るのもおかしいので諦めるが、何か怪しい気がしてならなかった。
「言えなかったんです」
あれは二宮の声だろうか。
はっきりと特定はできないが、若い女の声には違いない。
まして夏川に敬語を使う立場の人間であるから、彼女より年下か社歴が短い、というのは明らかだがそんな人物は秘書課外を含めれば山のように存在する。
だいたい喘ぎ声の途中で「言えなかったんです」とは、どういう会話の流れなのだ。
もう、あれが誰か特定できないとしても、今から数分間の間に実物の二宮と遭遇さえすれば、あそこに居たのは二宮ではなく別人という証明になるだろう。
だが、俺が思う時間の間には二宮と遭遇する事はなかった。
次に二宮と遭遇したのは、およそ1時間ほど後の事だ。
俺はわざと、秘書課へ電話を入れて「もし二宮の手が空いたら、片付けを手伝って欲しいと伝えて」もらうよう頼んでおいた。
そうしておけば、少なくとも二宮が消えている時間の長さは特定できると思ったからだ。
「すみません」
現れた二宮に、ぎりぎり嫌味にならない程度に聞いてみる。
「どこ行ってたの?」
二宮ははっきりとは答えなかった。
勿論、遅い昼食を摂る事もあるだろうし、コンビニへ行く事もあるかもしれない。何か買い出しを頼まれて文具店や雑貨店へ行っていたかもしれない。
もしかすると調子が悪くて、短時間で戻れるくらいの病院や薬局などへ行っていたかもしれない。
けれど俺は、答えない二宮を責めるような態度は取らなかった。
また、あぶり出しをやったと思われ嫌悪感を増やされるだけになるのは後々困る。
ただ、二宮の表情に微妙な動揺の陰が見え隠れした気がして、やはり間近で話せばわかる事は多い、若狭があると思った。
十中八九、あのトイレに残っていたのは二宮だと思われる。
そうでなければ、夏川はわざわざ俺が傍にいる事を中の人物に知らせる必要などないだろうし。
…何、夏川まで仲間って事なワケ?
それとも、二宮を巡って松浦部長は夏川と争ってたりするの?
そもそも二宮を「ピンチ」に追い込んだのって誰よ?
誘惑から逃れられなかった相手、それって…社の人間って事じゃないの?
つまり二宮が中心で三角関係とか四角関係とか、もしくはもっと複雑な事にでもなってんの?
…俺が思い描いていた構図は、もしかすると全くの勘違いなのではないか、と今度は頭がぐらぐらしてくる。
松浦部長を好きなのは俺の他に、熱量で言えば二宮が最大級に警戒すべき相手だが、他は皆憧れとかそんな程度のものでしかない気がするし、噂も聞かない。
ところが二宮本人に関してはノーマークだった。
あの娘を狙ってる人物、しかも女子がいるという想定はできたけど、まさか秘書課にいるとなれば話は複雑になるのではないか。
…それが夏川?考えられない。
第一、そうだとしたら二宮を置き去りにしてトイレを出たのは何故だ。
少なくともあの時点では、俺の推測では「始まったばかり」のような雰囲気で、とても絶頂云々という状況には思えない。
そういう、熱っぽい空気は、トイレからも夏川からも感じなかった。
…だとすると、その後入れ替わりに誰かが二宮の相手をした事になるのだが。
…誰だよ、それ?
ごちゃごちゃ考え事をしつつも、俺は二宮にそれらしい指示を出して、二宮もその作業に取りかかっている。
『あぶり出し』の言葉が自責の念をどんどんと強くさせる。
今この状況で、松浦部長の名前を話題にすれば、そのリアクションで二宮の相手を特定できるかもしれないと、思いついてしまった。
そして俺は、二宮を探している間にやはり、松浦部長の姿も見ていない。
「……」
止めておこう。
二宮がトイレでしていた相手が松浦部長なら、それで良いではないか。
そういう事にしておくのが、むしろ一番いいような気がした。
夏川は、何らかの理由であそこに居合わせたが、きっとその後松浦部長を呼びに行ったのだ。
二宮が出て来なかった理由はわからないが、具合でも悪かったかもしれない。
カマをかければそのリアクションで大筋読める相手なだけに、二宮を揺さぶりたい衝動はあるが、あまり変に思われるのは得策でないと考え、諦める事にした。
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