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しおりを挟むラミエル様の甘い声が、耳元で囁かれるたびに、私の心臓はきゅん、と音を立てた。春のやわらかな日差しが差し込む広々としたお部屋で、私たちは向かい合って座っていた。テーブルの上には、つやつやに磨かれた銀のポットと、私の大好きなハーブティー。窓の外では、咲き始めたばかりのバラたちが、風に揺れてる。この瞬間が、私にとって何よりも幸せな時間だった。
私は商人の娘、サラ。父は大きな商会をいくつも持っていて、この街でも指折りの裕福な家だと言われている。でも、私はそんなことよりも、ラミエル様との婚約が決まったことが、一番の自慢だった。ラミエル様は、この国の騎士様。きりっとした眉に、青い瞳。背が高くて、まるで物語に出てくる王子様みたい。そんなラミエル様が、私みたいな普通の商人の娘を選んでくれたなんて、夢みたいだった。
「もう、ラミエル様ったら。からかわないでください」
頬が熱くなるのを感じながら、私はティーカップに目を落とした。でも、口元は自然と緩んでしまう。だって、本当に嬉しかったんだもの。ラミエル様は、いつも私を特別扱いしてくれた。初めて会った時も、お茶会でぎこちなく座っていた私に、わざわざ話しかけてくれたっけ。
「からかってるんじゃないよ、サラ。心からそう思ってるんだ」
ラミエル様は、私の手を取って、優しく微笑んだ。その指先が、私の指に触れるたび、ゾクゾクするような感覚が走る。あぁ、なんて素敵な人なんだろう。この人と結婚して、ずっと一緒にいられるなんて、私は世界一幸せな女の子だ。
婚約が決まってから、私たちは頻繁に会っていた。二人きりで散歩に出かけたり、街のパン屋さんで焼きたてのパンを買って食べたり。ラミエル様は、私が好奇心旺盛なのを知っていたから、色々な場所に連れて行ってくれた。騎士団の訓練場を見学させてもらったり、普段は入れないような貴族の社交場にも、遠くからだけど連れて行ってくれたこともあった。
「サラは、本当に物知りだね。君と話していると、時間がたつのがあっという間だ」
そう言ってくれるラミエル様の言葉に、私は舞い上がった。私は本を読むのが大好きで、父の書斎にある本はほとんど読破していた。歴史や地理、経済のことまで。ラミエル様は、そんな私の話にも真剣に耳を傾けてくれたから、話しているのが楽しかった。
「ラミエル様も、色々なことをご存じですよね。騎士のお仕事って、私には想像もつきません」
私が目を輝かせると、ラミエル様は得意げに胸を張った。
「もちろんだ。私も騎士として、この国の未来を背負っているからね」
その時のラミエル様は、本当に頼もしくて、輝いて見えた。私もいつか、この方の役に立ちたい。そう心から願っていた。
でも……。
季節は移ろい、バラが満開になる頃、ラミエル様から少しずつ変化が見え始めた。最初は、ほんの些細なことだった。約束していたお茶会が、急にキャンセルになったり。
「ごめん、サラ。急に騎士団の集まりが入ってしまって。君に会いたかったのに、残念だよ」
そう言って、申し訳なさそうに眉を下げたラミエル様に、私は「大丈夫ですよ」と微笑んだ。騎士様のお仕事は大変だから、仕方がない。そう自分に言い聞かせた。
でも、キャンセルは一度だけではなかった。二度、三度と続き、そのたびにラミエル様の口からは「貴族の集まり」とか「公爵様のお招き」という言葉が聞こえるようになった。
私は少しだけ、寂しくなった。以前は、どんなに忙しくても、私との時間を最優先してくれたのに。でも、きっとそれだけラミエル様が偉い人になっていってるんだ、と自分を納得させた。貴族の方々との交流が増えるのは、ラミエル様にとって良いことなんだ、と。
ある日、私は街でラミエル様を見かけた。彼は、見慣れない華やかな馬車から降りて、美しい貴族の女性と談笑していた。彼女は、ふんわりとしたドレスをまとい、きらきらと輝く宝石を身につけている。私とは違う、まるで絵本から飛び出してきたようなお姫様だった。
ラミエル様は、その女性に向かって、私が彼にしか見せないような優しい笑顔を向けていた。そして、彼女の腕をそっと取り、エスコートするように建物の中へと入っていった。
私の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるような痛みを感じた。あれは、誰だろう? ラミエル様が、私に話してくれたことがない女性だ。もしかして、お仕事の関係の人なのかな? でも、あんなに親しそうに……。
その夜、私はなかなか寝付けなかった。ラミエル様が、あの女性と楽しそうに話している姿が、何度も瞼の裏に浮かんできた。不安が、心の奥底で小さく芽生え始めた。でも、私は必死に打ち消した。ラミエル様は、私を愛している。私との婚約を、何よりも大切にしてくれているはずだ。だって、いつもそう言ってくれたから。
翌日、ラミエル様から手紙が届いた。久しぶりに会える、と書かれていて、私の心は少し軽くなった。もしかしたら、昨日の女性のことについても、何か話してくれるかもしれない。そう淡い期待を抱きながら、私はラミエル様の屋敷へと向かった。
屋敷の門をくぐると、いつもより人の気配が少ない気がした。庭師の姿もなく、静まり返っている。少し首を傾げながら、私は慣れた足取りで玄関へと向かった。ドアをノックすると、いつもとは違う見慣れない使用人が出てきた。
「ようこそ、サラ様。ラミエル様がお待ちです」
そう言って案内されたのは、いつもラミエル様とお茶をしていた部屋とは違う、奥まった場所にある応接室だった。なんだか、空気がいつもと違う。胸騒ぎが止まらない。
扉が開くと、部屋の中にはラミエル様が一人で立っていた。その顔は、いつもの優しい笑顔ではなく、どこか冷たい表情をしているように見えた。私の心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。
「ラミエル様……?」
私が声をかけると、彼はゆっくりと私の方へ向き直った。その瞳は、まるで私を初めて見るかのように、冷たくて、見知らぬ人のようだった。
「サラ」
彼の口から発せられた私の名前は、まるで他人行儀な響きだった。私は思わず、ごくりと唾を飲み込んだ。何かが、おかしい。
「今日は君に、大事な話をしなければならない」
ラミエル様の声は、低く、重かった。私の背筋に、冷たいものが走った。
「あの、ラミエル様……?」
私の言葉を遮るように、ラミエル様は話を続けた。
「君との婚約だが、これを破棄したいと思っている」
その言葉が、私の耳に届いた瞬間、世界が音を失ったかのように静かになった。え? いま、なんて言ったの? 婚約を……破棄?
私の頭の中が真っ白になる。理解が追いつかない。まさか、そんな。冗談でしょう?
「な、何を……仰っているのですか、ラミエル様……」
震える声で尋ねると、ラミエル様は私から目をそらし、窓の外に視線を向けた。
「君は、商人の娘だ。確かに聡明で、美しい。だが、私にはもっとふさわしい相手がいる」
彼の言葉が、ナイフのように私の胸に突き刺さる。ふさわしい相手? いままで、私を選んでくれたんじゃないの?
「私は、近いうちに公爵家の令嬢と婚約することになった。彼女こそ、私の将来を支えるにふさわしい女性だ」
ラミエル様は、感情のない声でそう言い放った。公爵家の令嬢……。昨日、街で見かけたあの女性だろうか。
私の唇がわなわなと震え、何も言葉が出てこなかった。ただ、目の前の現実を信じることができなかった。
「君は、貴族階級にふさわしくない。いくら私が君を愛そうと、周囲がそれを許さないのだ」
まるで、今までの私の存在を否定するかのような言葉。愛してる? そんなの、嘘だったの?
「私がもっと高みを目指すためには、君のような商人の娘では足枷になるだけだ」
足枷……。私、そんな風に思われていたの? 今まで私が抱いていた幸せな夢が、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
私の瞳が潤み始めたけれど、私は必死に堪えた。ここで、泣いてはいけない。こんな男の前で、涙は見せられない。
「……そうですか」
絞り出すように、ようやく言葉が出た。
「そう、いうことであれば……仕方がありませんね」
私の言葉に、ラミエル様は一瞬だけ、驚いたような顔をした。まさか、私がこんなにも冷静に受け止めると思っていなかったのだろうか。
「理解してくれて、助かるよ。慰謝料はきちんと払わせてもらう」
慰謝料? そんなもの、いらない。私の心は、お金で買えるようなものじゃない。
「結構です。あなたからのものは、何もいりません」
私は、精一杯の強がりで言い放った。私のプライドが、それを受け取ることを許さなかった。
ラミエル様は、何も言わなかった。ただ、私を値踏みするような冷たい視線を向けただけだった。
私は、もうこれ以上この場所にいたくなかった。これ以上、この男の言葉を聞きたくなかった。
「それでは、失礼いたします」
私は、頭を下げ、部屋を後にしようとした。その時、扉が開き、一人の女性が入ってきた。
昨日、街で見かけた、あの貴族の令嬢だった。彼女は、私を上から下まで値踏みするように眺め、鼻で笑った。
「まぁ、これが例の商人の娘? 見るからに下品だわ。ラミエル様には、私のような貴族がふさわしいに決まっているでしょう?」
高慢な声が、私の心臓に突き刺さる。ラミエル様は、その女性の言葉に何も言わず、ただ私を見ていた。
私を蔑むような二人の視線が、私の胸を深く抉る。悔しかった。悲しかった。そして、怒りが込み上げてきた。
「ご心配なく。あなたのような方に、嫉妬する趣味はございませんから」
私は、精一杯の皮肉を込めて言い放った。その言葉は、私の震える体とは裏腹に、驚くほど冷静に響いた。
貴族令嬢は、一瞬言葉を失い、顔を歪めた。ラミエル様も、少しだけ目を見開いたように見えた。
私は、もう二度と振り返らなかった。そのまま、応接室を出て、慣れた道を引き返した。屋敷の門を出るまで、私の足は震えていたけれど、それでも、私は涙を見せなかった。
自宅に着き、自分の部屋に戻ると、私は鍵を閉めた。そして、ベッドに倒れ込むと、もう我慢できなかった。
込み上げてくる感情が、止められない。喉の奥から、ヒュッ、と奇妙な音が漏れる。
「うっ……うううっ……!」
私は、枕に顔を埋め、声を押し殺して泣き続けた。今までラミエル様と過ごした、幸せな思い出が、次々と頭の中を駆け巡る。そして、そのどれもが、今は私を傷つける刃となって突き刺さる。
どうして? どうして、こんなことになったの?
私は、彼にとって、ただの遊び相手だったの? それとも、最初から貴族の女性と結婚するために、私を利用していただけ?
「嘘つき……!」
私は、枕を強く握りしめ、憎しみを込めて呟いた。私の純粋な気持ちを、踏みにじったラミエル様への怒りが、全身を駆け巡る。
こんなにも愛していたのに。こんなにも信じていたのに。
私の心は、バラバラに砕け散ってしまったかのようだった。もう二度と、誰かを信じることなんてできないかもしれない。二度と、人を愛することなんてできないかもしれない。
私は、ただただ、泣き続けた。終わってしまった夢と、砕け散った心に、ただ涙を流すしかなかった。窓の外では、夕日が沈み、空が茜色に染まっていく。まるで、私の心の色を表しているかのように。
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