今さら「間違いだった」? ごめんなさい、私、もう王子妃なんですけど

有賀冬馬

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私は、ただただ、泣き続けた。私の純粋な心を、ラミエル様がこんなにも簡単に踏みにじるなんて。信じていた分だけ、裏切られた痛みが大きくて、息をするのも苦しいくらいだった。

「どうして……どうしてなの……!」

掠れた声で何度も繰り返すけれど、答えなんてどこにもない。ただ、心の奥底で、何かが音を立てて壊れていくのが分かった。あのキラキラした夢は、まるで泡のように弾けて消えてしまった。

夜が深まり、部屋の中は真っ暗になった。窓の外では、月だけが冷たく輝いている。私は、ベッドにうずくまったまま、動けずにいた。お腹は空っぽで、喉はカラカラに乾いていたけれど、何もする気になれなかった。

こんなに悲しいのは、生まれて初めてだった。父や母は、いつも私を大切にしてくれた。使用人たちも、私に優しかった。だから、こんな風に、誰かに心を深く傷つけられたことがなかったんだ。

しばらくして、部屋のドアがそっと開く音がした。私は身じろぎもせず、目を閉じたままだった。

「サラ……?」

母の声だった。優しくて、心配そうな声。私は、母にこの醜い姿を見られたくなくて、布団を深く被った。

「サラ、起きてるかい? 夕食も食べてないだろう?」

母がベッドの脇に座る気配がした。布団の上から、そっと私の頭を撫でてくれる。その温かい手に、また涙が溢れてきそうになったけれど、私は必死でこらえた。

「大丈夫よ、お母様。少し、疲れただけなの」

震える声でそう言うのが精一杯だった。母は何も言わず、ただ私の背中を優しくさすってくれた。その温もりが、私の張り詰めていた心を少しだけ緩めてくれた。

結局、その日は何も食べずに眠りについた。夢の中では、ラミエル様が私に向かって冷たい目で笑っていた。彼の隣には、あの高慢な貴族令嬢がいて、私を指差して嘲笑う。悪夢にうなされ、夜中に何度も目を覚ました。

次の日の朝、私は熱を出してしまっていた。頭がガンガンして、体は鉛のように重い。母が心配して、お医者様を呼んでくれた。

「心労でしょう。しばらくはゆっくり休んでください」

お医者様はそう言って、私に薬をくれた。私は、ただぼんやりと天井を見上げていた。このまま、ずっと寝ていられたらいいのに、と思った。目を覚まさなければ、悲しい現実と向き合わなくても済むのに。

何日か寝込んでいるうちに、少しずつ体は回復していった。でも、心の傷は癒えるどころか、さらに深くえぐられていくようだった。ラミエル様のことを考えると、胸が締め付けられ、息が詰まる。あの冷たい視線、私を侮辱する言葉、そして彼の隣で嘲笑った貴族令嬢の顔。どれもが鮮明に思い出されて、私を苦しめた。

私は、部屋に閉じこもりがちになった。窓の外から聞こえてくる、街の賑やかな声も、鳥のさえずりも、私の耳には届かなかった。本を読もうとしても、文字が頭に入ってこない。大好きな刺繍も、針を持つ手が震えてしまう。

父も母も、私を心配して色々と話しかけてくれたけれど、私は上手く笑うことも、話すこともできなかった。

「サラ、気分転換に、どこかへ行かないかい?」

ある日、父が優しく声をかけてくれた。

「少しでも、外の空気を吸ったほうがいい」

私は、ためらった。正直、誰にも会いたくなかった。街に出れば、ラミエル様や、あの貴族令嬢に会ってしまうかもしれない。そんなの、耐えられそうになかった。

「……森へなら」

ポツリと呟いた。街から少し離れた場所に、大きな森がある。そこは、人があまり訪れない、静かで穏やかな場所だった。昔、父に連れられて何度か行ったことがあった。

父は、「分かった」と優しく頷いてくれた。そして、私に誰にも邪魔されないよう、馬車や護衛もつけずに、私一人で行かせてくれた。




私は、森の奥へと続く道を、ゆっくりと歩いていた。ひんやりとした森の空気と、土の匂いが、私の心を少しだけ落ち着かせてくれる。木漏れ日が、葉っぱの間からきらきらと降り注ぎ、地面にはまだらに光の模様を描いている。

普段なら、こんな場所を一人で歩くのは少し怖いけれど、この時の私には、そんな感情はなかった。ただ、この心を締め付ける苦しみから、少しでも逃れたかった。

森の中をしばらく歩くと、小さな湖が見えてきた。水面は、鏡のように澄んでいて、空の青と、周りの木々の緑を映し出している。その美しさに、私は思わず息をのんだ。

湖のほとりに、大きな岩があった。私はそこに腰を下ろし、静かに湖を眺めた。波一つ立たない水面は、私の荒れ狂う心とは対照的で、まるで私の心を嘲笑っているようにも見えた。

私は、湖に映る自分の顔を見た。目の下にはクマができて、顔色も悪い。この数週間で、すっかり痩せ細ってしまった。これが、かつてラミエル様の婚約者として、幸せいっぱいの笑顔を浮かべていた私なのだろうか。

ふと、ラミエル様が私を「足枷」と呼んだ言葉が頭をよぎった。あの言葉が、私の心に深く突き刺さって、抜けずにいる。私は本当に、彼にとって、そんなに邪魔な存在だったのだろうか。

涙が、また滲んできた。もう、泣くのは嫌なのに。泣けば泣くほど、自分が惨めになる気がした。

その時、背後から優しい声が聞こえた。

「おや、こんなところに誰かがいるなんて、珍しいね」

私は、ハッと息を呑んで振り返った。そこには、見慣れない青年が立っていた。年齢は私と同じくらいか、少し年上に見える。きっちりとした服を着てはいるけれど、貴族のような派手さはない。でも、どこか気品が漂っていて、思わず見とれてしまうような美しい顔立ちをしていた。

私は、急いで涙を拭い、顔を上げた。こんなにみっともない姿を見られてしまった。

「あ、あの……」

言葉が出ない私を見て、青年は困ったように眉を下げた。

「ごめんね、驚かせてしまったようだ。まさか、こんな場所で人に出会うとは思わなくて」

青年は、私の隣にそっと腰を下ろした。少し距離を置いて座ってくれたから、私は少しだけ安心した。

「ずいぶん、悲しそうな顔をしているね。何か、辛いことでもあったのかい?」

優しい声だった。まるで、私の心の奥底を見透かしているかのような、まっすぐな瞳。私は、この見知らぬ青年に、なぜか心の扉を開きたいような気持ちになった。

私は、ためらいながらも、自分の身の上を話し始めた。商人の娘であること、騎士ラミエル様との婚約が破棄されたこと、そして、彼に蔑まれたこと。言葉にするたびに、胸の奥がチクリと痛んだけれど、青年は何も言わずに、ただ私の話に耳を傾けてくれた。

「……そして、彼は私を、『貴族階級にふさわしくない』と……」

そこまで話すと、もう言葉が詰まってしまった。また涙が溢れてきそうになり、私は俯いた。

青年は、私の肩にそっと手を置いた。その手は、温かくて、私を安心させるようだった。

「それは、きっと君のせいではないよ。彼は、君の本当の価値を見抜けなかっただけだ」

彼の言葉は、私の心をじんわりと温かく包み込んだ。初めて言われた言葉だった。誰も、私の味方になって、そんな風に言ってくれる人はいなかったから。

「君は、とても聡明で、そして誇り高い。たった今、少し話しただけでも、それが分かる」

青年は、私の目をまっすぐに見つめた。彼の瞳は、私の心を映し出すかのように澄んでいて、そこに嘘偽りがないことが分かった。

「そんな君を、『足枷』だなんて言う男のほうが、よほど見る目がない。彼のほうが、よほど器の小さい人間だよ」

その言葉に、私の心が大きく揺さぶられた。今まで、私は自分自身を責めてばかりだった。私が、何かが足りなかったから、ラミエル様は私を捨てたのだと。でも、この青年は、私を肯定してくれた。

「君は、誰かの足枷になるような人間じゃない。きっと、君にはもっとふさわしい、君の価値を理解してくれる人がいるはずだ」

私は、彼の言葉に、思わず涙が溢れてしまった。今度は、悲しみの涙ではなかった。温かくて、じんわりと心に染み渡るような、優しい涙だった。

「……ありがとうございます」

私は、彼の言葉に感謝した。こんな風に、私を励ましてくれる人がいるなんて思わなかった。

「私は、ただ思ったことを言っただけさ」

青年は、少し照れたように微笑んだ。彼の笑顔は、とても穏やかで、私の心を癒してくれるようだった。

私たちは、それから色々な話をした。彼は、旅の途中で、この森に立ち寄ったのだと言っていた。私は、彼の旅の話を聞くのが楽しくて、いつの間にか、婚約破棄の悲しみを忘れて、笑顔になっていた。

「君と話していると、本当に時間が経つのがあっという間だね」

青年がそう言うと、私は太陽を見上げてハッとした。もう、こんな時間になっていたなんて。

「もう、そろそろ戻らないと……」

私が立ち上がろうとすると、青年も一緒に立ち上がった。

「また、会えるかな?」

青年は、少し寂しそうな顔で尋ねた。私も、彼ともっと話していたかった。この温かい時間を、終わらせたくなかった。

「……もしよろしければ、またこの場所で」

私は、思い切ってそう言った。青年は、パッと顔を輝かせた。

「もちろんだ! 君にまた会えるのを楽しみにしているよ」

青年は、私に微笑みかけ、去っていった。その背中を見送りながら、私の心は、この数週間で初めて、明るい光が差し込んだようだった。

彼の名前も、素性も知らない。でも、彼の言葉は、私の心を救ってくれた。もしかしたら、私にも、新しい未来が待っているのかもしれない。そんな、淡い希望が、私の心に芽生え始めた。


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