婚約破棄された伯爵令嬢は、かつて“月影の魔女”と呼ばれた存在でした ~今さら跪いても、貴方の席はありません~

有賀冬馬

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私の名前は、リディア・アシュレイ。
アシュレイ伯爵家の長女で、今年で二十歳になる。

──けれど、そう名乗ったところで、「ああ、あの地味な令嬢」と返されるのがオチだ。

きらびやかなドレスや、香水の香り、舞踏会のざわめき。
社交界のあの空気が、どうにも苦手だった。
私はいつも、隅っこの椅子に座って、甘くないお茶をすする役。
口元に笑みを浮かべて、ただ静かに時が過ぎるのを待っていた。

「また、つまらなそうな顔してるな」

ふいに声をかけられて顔を上げると、目の前には、
いつものように気だるげな笑みを浮かべた、私の婚約者がいた。

ダミアン・フェリル。
侯爵家の三男で、金髪碧眼、背も高くて、顔立ちも整っている。
だけど──口を開けば、だいたい人を小馬鹿にしたようなことばかり言う。

「僕の隣にいるっていうのに、どうしてそんなに退屈そうなんだ?
可愛いドレスも着てるのに、笑いもしない。ほんと、つまらないよ、リディア」

「……そう。ごめんなさい、ダミアン様。つまらなくて」

私は少しだけ首を傾げて、そう答えた。

彼は、ふん、と鼻で笑ってワイングラスをくるくる回した。
私の顔を見ようともしないで、グラスの中の赤い液体ばかり見ていた。

私のことなんて、もともと見ていなかったのよね。
リディアという名の“お飾り”に、ほんの少しの興味もなかったくせに。

でもそれで、よかった。
彼の興味が私に向かなくなってから、もうずいぶん経つし。
私はただ、その日が来るのを待っていた。

──婚約破棄のその日を。




舞踏会の夜は、まるで絵に描いたように煌びやかだった。

真紅のドレスに身を包んだ私は、いつもよりもほんの少しだけ、背筋を伸ばしていた。

貴族たちが集う大広間で、音楽が鳴り響く中、
ダミアンは美しい金髪の少女と手を取り、軽やかにステップを踏んでいた。

その少女の名前は、セリーヌ・モルドレッド。
侯爵家の次女で、妖精のように愛らしく、誰よりも注目を浴びる存在。

──彼が私の元から離れる理由としては、申し分ない相手だった。

そして、音楽が止まった瞬間。
ダミアンは皆の前で、誇らしげに笑ってこう言った。

「本日をもって、僕はリディア・アシュレイとの婚約を破棄する。
理由は簡単。彼女はあまりにも“つまらない”からだ。
僕には、もっとふさわしい相手がいる。
そう──このセリーヌこそ、僕の理想の女性なんだ!」

空気が凍った。

セリーヌは頬を赤らめて、うっとりした顔でダミアンの腕に寄り添っていた。
周囲の貴族たちは、口元を手で隠してささやき合う。

「まあ……」「なんてことを……」「婚約破棄を、こんな場で……!」

だけど私は、静かにその場に立っていただけだった。
涙も出なかったし、怒りもなかった。
ただ、「ああ、ついに来たな」と思っただけ。

「そう……わかりました」

私はダミアンを見上げて、ゆっくりと微笑んだ。
会場中の視線が、私に集まっていた。

「これで……あなたの“退屈”も、少しは晴れるといいですね」

それだけ言って、私はくるりと背を向けた。

ドレスの裾を踏まないように気をつけながら、
扉の向こうへと、一歩ずつ、歩いていった。

彼が何かを言いかけていたけれど、もう聞こえなかった。
私の耳には、誰の声も届かない。

──さようなら、ダミアン様。

これから、私は自由にさせていただきます。


屋敷に戻ると、私はそっと書き置きを残して、
長年暮らした伯爵家を後にした。

「──お嬢様……どちらへ……!」

慌てて飛び出してきた侍女の声に、私はふと足を止める。

「少し、風に当たってくるわ」

そう言って、月明かりの下、馬車に乗り込んだ。

私の帰る場所は、ここではない。
ずっと封じていた“あの場所”へ──

魔塔。
それが、私の本当の居場所。

そして、私はもう誰にも遠慮しない。
誰にも蔑まれず、誰にも縛られず。
私の力を、私の生き方を、私のすべてを、自分で決める。

さようなら、令嬢リディア。
これからは、魔女リディアとして──








夜の風は、思っていたよりもずっと冷たかった。

私を乗せた馬車が、ゆっくりと街を抜けていく。
煌びやかで人の多い王都の中心から離れれば離れるほど、
街灯の数は減り、静寂が広がっていった。

「本当に……これでよかったの?」

小さな声で、自分に問いかけてみたけど、返事はなかった。
もちろん。返してくれる人なんて、最初からいなかった。

私はただ、前を向くしかなかった。

婚約破棄の場で、あれだけのことを言われたのに、
悔しくて泣くことも、声を荒げることもなかった。

というより……そんな価値もない相手だったって、
本当は、もうずっと前からわかってた。

でも、それでも。
「許嫁」という肩書きに、私は少しだけしがみついていたのかもしれない。

だってそれを失ったら、私は──何者でもなくなってしまう気がして、こわかったから。

「……ううん、違う。私は、最初から“誰かのもの”なんかじゃなかった」

小さく息を吸って、馬車の窓を開けた。

遠くに、月が見える。
冷たいくらいに白くて、鋭く光っていて──でも、不思議と安心した。

あの月が見ていた。
私が婚約を破棄される瞬間も、誰にも必要とされなかった日々も。
全部、見ていた。

「リディア様、まもなく魔塔が見えてまいります」

御者の声がして、私は目を細めた。

……そう。私の帰るべき場所。
それは、王都の華やかさでも、伯爵家の屋敷でもない。

──それは、誰も寄りつかない、封印された塔。

“魔塔(まとう)”。
人々が「災厄の塔」と恐れた場所。
でもそこは、私にとっては……一番落ち着く“家”だった。

「ただいま、帰ってきたわ」

誰に言うでもなく、私は小さくつぶやいた。


塔の扉を開けた瞬間、重たくきしむ音が響いた。
埃の匂いと、なつかしい薬草の香りが鼻をくすぐる。

「ふふ……やっぱり、ここの匂いが好き」

私はドレスの裾をたくしあげて、ゆっくりと階段をのぼる。
この螺旋階段、昔は何度も転びそうになったっけ。
だけど今は、目をつむっていても登れる。

「……来たか、リディア」

中層の書斎にたどり着くと、そこにいたのは、私の“師匠”だった。

マルグリット様。
元は宮廷魔導師団の最高顧問で、今は引退して魔塔に隠居している。
彼女がいなければ、私は魔法の力も、心の支えも持てなかった。

「おかえり。遅かったじゃないか」

「……ただいま、マルグリット様」

私はその場に膝をついて、頭を下げた。

だけど次の瞬間、マルグリット様は私の髪をくしゃくしゃと撫でて、
まるで子どもにするみたいに、ふわっと笑った。

「お前がここに戻ってくる日を、ずっと待っていたよ。
――“月影のリディア”が、世界に戻ってくる日をね」

私は目を見開いた。

……その名前は。
昔、魔塔で修行していた頃、仲間たちが私につけた異名。

夜の魔力を操る得意属性から、そう呼ばれていた。

だけど、伯爵家に戻ってからは、ずっと封じていたの。
“魔法のことは忘れなさい”って、父に言われて……
いい子の令嬢でいるために、ずっと……ずっと。

「マルグリット様、わたし……本当に、これでよかったのかな」

「後悔しているのか?」

「……いいえ。してません。
私は……ただ、魔法を“使ってはいけない”って思い込んでいただけ。
でも今は違う。今は……使いたいって思ってる」

胸に手を当てると、熱くなった。
冷たい塔の空気とはまるで反対の、あたたかい火が、胸の奥で灯っていた。

「もう、誰かに否定されるのは嫌なんです。
誰かのために、自分を小さくするのも……」

「よく言った。では、その魔力……見せてごらん」

マルグリット様の声に、私は深く息を吸って、
ずっと、ずっと封じていた力にそっと手を伸ばした。

「――月影よ、私に応えなさい」

その瞬間、部屋の中に冷たい風が吹いた。
月の光が窓から差し込み、私の髪がふわりと浮かぶ。

まるで世界が私を認めてくれるような、そんな感覚。
何もかもが静かに、でも確かに動き出した。

「ああ……帰ってきたんだ、私……」

私は、もう“ただの令嬢”じゃない。
私は、魔女として生きる。

――“月影の魔女”として。
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