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私の名前はクラリス。侯爵家の長女として生まれたけれど、正直、その響きとはかけ離れた人生を送ってきたわ。物心ついた頃から、体が弱くて、よく熱を出したの。それに、顔も華やかじゃなくて、どちらかというと地味な方だったと思う。鏡を見るたびに、ため息が出ちゃうくらい。
「お姉様、またそんなところで本ばかり読んで。たまにはお庭に出てみたらどうですの?」
聞こえてくるのは、妹のロザリアの声。彼女はいつも、私とは正反対だった。健康で、まるで陽だまりみたいに明るい笑顔。誰もが振り返るほどの美しい金色の髪に、吸い込まれそうな青い瞳。社交界でも、ロザリアの周りにはいつも人だかりができていたわ。
「ええ、少し疲れたから休んでいるだけよ」
私は曖昧に答えて、視線を再び手元の古い物語へ落とす。物語の中の主人公は、いつも困難を乗り越えて幸せになる。私とは違う、キラキラした世界がそこには広がっていた。
両親は、そんなロザリアを溺愛していたわ。私が熱を出しても、気遣う言葉は形ばかり。でも、ロザリアが少し咳をしただけでも、大騒ぎして医者を呼んでいたもの。使用人たちも同じ。私には事務的な礼儀しか見せないのに、ロザリアには「お嬢様、何かご入り用ですか?」って、まるで女神様みたいに扱うの。
もちろん、私はわかっていたわ。私が病弱で、社交も苦手で、侯爵令嬢としては欠点だらけだってこと。だから、みんながロザリアを選ぶのは当然なんだって、自分に言い聞かせてきた。心の中では、いつも寂しさが渦巻いていたけれど、それを表に出すことはなかった。そうしないと、もっと惨めになるって知っていたから。
そして、私の婚約者である騎士のエルマー様。彼は、私よりも何歳か年上だったけれど、その態度はいつも冷たかった。親が決めた婚約者だから仕方なく私と会っている、そんな雰囲気が彼からは常に漂っていたもの。
「クラリス、君のような地味な娘とでは、騎士として恥をかく」
初めて会った時、エルマー様はそう言ったわ。幼いながらも、その言葉は私の心を深く傷つけた。それからも、彼はいつも私を「面倒な女」としか思っていないのがありありとわかったわ。たまに会食の場で同席しても、彼は私の方を一瞥もしないで、ひたすら他の令嬢と談笑している。私はただ黙って食事をするだけ。周りの視線が痛かったけれど、どうすることもできなかった。
「クラリス様、本日はエルマー様がいらっしゃいますよ」
ある日の午後、メイドが声をかけてきた。いつものことだから、別に何も期待していなかった。ただ、決められた義務を果たすだけ。そう思って、私は客間へ向かったの。
客間に入ると、エルマー様がすでにソファに座っていた。いつも通りの、無関心な表情。彼の隣には、見たことのないほど美しい令嬢が座っていて、にこやかに彼を見上げていた。
「あら、いらっしゃいましたわね、クラリス様」
その令嬢が、私に挨拶した。まるで、私がお邪魔虫とでも言いたげな、わざとらしい笑顔。エルマー様は、私の方を一瞥もせず、その令嬢の手を取って微笑んでいる。私の胸が、チクンと痛んだ。
「クラリス」
低い声で、エルマー様が私を呼んだ。珍しい。いつもは私に直接話しかけることなんて、ほとんどないのに。
「君との婚約を、解消したい」
彼の口から出た言葉は、あまりにも唐突で、私の頭は真っ白になった。今、何て言った?婚約解消?
「わたくしは、こちらのリーゼロッテ様と、新たにご縁を結ぶことになりました」
エルマー様は、隣の令嬢を自慢げに紹介した。リーゼロッテ様は、私に向かってにっこりと微笑んだ。勝ち誇ったような、嘲るような笑み。
「リーゼロッテ様は、社交界でも名の高い、素晴らしい淑女だ。君のような地味な娘とは、もはや釣り合わない。侯爵家の名誉のためにも、この婚約は続けるわけにはいかない」
彼の言葉は、まるで鋭いナイフのように私の胸に突き刺さった。地味な娘。釣り合わない。私は、全身の血の気が引いていくのを感じた。目の前が、ぐらぐらと揺れる。
「そんな……」
かすれた声が、やっと喉から絞り出された。エルマー様は、私の動揺に気づくこともなく、冷たい視線を向けるだけ。
「それに、病弱で社交も苦手な君では、いずれ騎士の妻として不都合が生じるだろう。君も、私にこれ以上迷惑をかけたくないはずだ」
私に迷惑をかけたくない?一体いつから、私が彼に迷惑をかける存在だったっていうの?彼の言葉は、私の心をズタズタに引き裂いた。怒り、悲しみ、そして何よりも、途方もない屈辱感。
でも、それと同時に、どこか納得している自分もいた。ああ、やっぱりこうなるんだ。最初からわかっていたことじゃないか、と。
客間には、いつの間にか両親もいた。でも、二人はただ黙って成り行きを見守っているだけ。私を擁護する言葉なんて、一つもなかった。ロザリアの姿は見えなかったけれど、きっとどこかでこの光景を嘲笑っているに違いない。
「分かりました」
私は震える声で、ようやくそう答えた。それ以上、何も言えなかった。言っても無駄だと、わかっていたから。エルマー様は、私の返答に満足げに頷くと、リーゼロッテ様の手を取り、さっさと客間を出て行ってしまった。まるで、私という存在が最初からなかったかのように。
取り残された私に、両親は何も言わなかった。ただ、憐れむような、あるいは呆れたような視線だけが私に向けられた。私は、その場に立ち尽くすことしかできなかった。心臓が鉛のように重い。
その日から、侯爵家での私の立場は、さらにひどいものになった。婚約破棄された娘なんて、もはやお荷物でしかない。使用人たちは、私を見るたびにひそひそと噂話をしている。両親は、私を避けるようになった。私がいる場所は、侯爵家の片隅にある、ほとんど使われていない離れの部屋。食事も、部屋に運ばれてくることが増えたわ。
でも、不思議と、あの時ほどの絶望感はなかった。むしろ、少しだけ肩の荷が下りたような、そんな感覚さえあった。これで、エルマー様の冷たい視線に怯えることもない。社交界で無理に笑顔を作る必要もない。
私は、離れの部屋でひっそりと過ごすようになった。本を読んだり、庭の隅にある小さな花壇の手入れをしたり。今まで、病弱を理由にほとんど何もしてこなかったけれど、このままでは本当にダメになってしまう。そう思って、私は少しずつ、自分でできることを探した。
ある日、気分転換に、私はメイドの目を盗んで市場へ出かけた。侯爵令嬢が一人で市場へなんて、考えられないことだ。でも、私は誰にも見つからないように、フードを深くかぶり、人混みに紛れ込んだ。
市場は、侯爵家の屋敷とは全く違う、活気に満ちた場所だった。新鮮な野菜や果物、焼きたてのパンの匂い。今まで知らなかった世界が、そこにはあった。
「あら、この野菜、新鮮そうだわ」
私は、野菜を売っている露店のおばさんと話をした。こんなささやかな会話さえ、私にとっては新鮮で、心が温かくなるようだった。
その頃、街ではエルマー様とリーゼロッテ様の話題で持ちきりだった。二人は連日、豪華な馬車で街中を練り歩き、その美しさと華やかさを誇示している。貴族たちの間でも、二人の結婚は「侯爵家と有力貴族の結びつき」として、祝福されているようだった。
「エルマー様とリーゼロッテ様、本当にお似合いね」
市場の片隅で、そんな声が聞こえてきた。私の胸が、またチクンと痛んだ。でも、もう、あの時のように涙は出なかった。彼らがどんなに華やかであろうと、私には関係ない。私は、もう、過去の自分とは違うのだから。
私は、自分なりに小さな目標を立てた。まずは、自分の部屋の掃除を完璧にすること。それから、自分でお茶を淹れる練習をすること。そして、いつか、自分の力で生きていけるようになること。
「ふう、今日はたくさん歩いたわ」
市場からの帰り道、私は満足感でいっぱいだった。侯爵家に戻ると、またあの灰色の日常が待っているけれど、それでも、私はもう以前の私じゃない。少しずつだけど、前を向いて歩き始めているんだから。
(もし、あのままエルマー様と結婚していたら、私はもっと不幸になっていたかもしれない。)
ふと、そんな考えが頭をよぎった。この婚約破棄は、もしかしたら私にとって、新しい扉を開くきっかけになるのかもしれない。そう信じて、私はぎゅっと拳を握りしめた。
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