ご愁傷様です~「冴えない女」と捨てられた私が、王妃になりました~

有賀冬馬

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市場に通うようになってから、私の日常は少しずつ色づいていった。侯爵家の中では相変わらず地味なクラリスだけれど、街では、私も一人の人間として扱われる。それが何よりも嬉しかった。

ある日のこと。いつものように市場を歩いていると、賑やかな通りの片隅で、小さな人だかりができているのが見えた。何だろうと思って近づいてみたら、一人の老人が、道端に倒れている。

「大丈夫ですか!?おじい様!」

思わず、駆け寄っていた。周りの人たちは、ただ遠巻きに見ているだけで、誰も助けようとしない。私は、震える手で老人の体を支え起こそうとしたけれど、思ったよりもずっと体が重くて、なかなか持ち上がらない。

「すみません……足がもつれてしまって」

老人は、苦しそうに顔を歪めていた。顔色はあまり良くないみたい。私は、どうしたらいいか一瞬戸惑ったけれど、すぐに決心した。

「私にお任せください!少しだけ、我慢してくださいね」

私は、老人の腕を自分の肩に回し、ゆっくりと、本当にゆっくりと立ち上がらせた。市場の人混みを避けて、近くの日陰まで連れて行く。

「こちらで少し休みましょう。何か飲み物でも買ってきましょうか?」

老人は、息を整えながら、私の顔をじっと見つめた。その眼差しは、どこか澄んでいて、優しくて……。あれ?こんなおじいさん、市場でよく見かける人たちとは、ちょっと違う気がする。清潔な身なりに、上品な話し方。もしかして、どこかの屋敷の使用人さん、とか?

「いえ、大丈夫です、お嬢さん。お優しいお心遣い、痛み入ります」

老人は、深々と頭を下げた。その動作が、どこか洗練されている。

「でも、お一人で大丈夫ですか?誰か、お迎えに来たりはしないんですか?」

私が尋ねると、老人は困ったように笑った。

「いや、私は一人暮らしでね。散歩中に、うっかり転んでしまったんだ」

なんだか、本当かなって疑ってしまったけれど、それ以上は聞かなかった。

「では、少し休まれたら、お気をつけてお帰りくださいね」

そう言って、私は老人のそばを離れようとした。その時、老人が私を呼び止めたの。

「お嬢さん、お名前は?何か、お礼をしたいのですが」

「いえ、お礼なんて結構です。困っている方を放っておけないのは、人として当然のことですから」

私はそう答えて、軽く頭を下げた。でも、老人は諦めないみたい。

「だが、それでは私の気が済まぬ。せめて、これを受け取ってくれないか」

老人は、懐から小さな袋を取り出した。中には、キラキラと輝くコインが何枚か入っている。

「いいえ!本当に結構です!」

私は慌てて断った。見ず知らずの人からお金をもらうなんて、そんなことはできない。

「だが……」

「もし本当に感謝してくださるなら、またお元気な姿で、この市場でお会いしましょう。それが、私にとって一番嬉しいお礼です」

私が笑顔でそう言うと、老人は少し驚いたような顔をした後、ふっと穏やかに微笑んだ。

「なるほど……。お嬢さんは、本当に変わった方だ。しかし、心が洗われる思いがします。そうか、それが一番の礼か。では、また会えることを楽しみにしていますよ」

老人はそう言って、ゆっくりと立ち上がった。私がお手伝いしましょうか、と声をかけると、「いや、もう大丈夫」と力強く答えてくれた。そして、深々と頭を下げて、人混みの中に消えていった。

その日から数日後。私はまた市場へ来ていた。目的は、最近見つけた美味しいパン屋さんに行くこと。焼きたてのパンの匂いに誘われて、お店の前で列に並んでいると、不意に声をかけられた。

「やあ、お嬢さん。また会えたな」

振り返ると、そこにいたのは、先日助けた老人だった。彼は、前回よりもずっと元気そうな顔をしていて、私の顔を見るなりにこやかに微笑んだ。

「おじい様!お元気そうで良かったです!」

私は心から安堵した。あの時、ちゃんと助けられたんだって、嬉しくなった。

「君のおかげだ。本当にありがとう」

そう言って、老人は私の隣に並んだ。そして、私に話しかけてきたの。

「いつも、この市場に来るのかい?」

「はい。たまに、気分転換に」

「ふむ。侯爵家のお嬢さんにしては、珍しいな」

え?侯爵家?どうしてこのおじいさんが、私の身分を知っているんだろう?私は、フードを深くかぶっていたし、誰にも正体を明かしていないはずなのに。

「あの……どうして、私のことを……?」

私の問いに、老人は楽しそうに笑った。

「ふふ、まあ、この私にも、色々と情報が入ってくるのだよ」

一体この人は何者なんだろう?ただの老人じゃない。そう直感した。でも、彼の瞳はとても優しくて、警戒する気持ちよりも、不思議な好奇心が湧いてきた。

それからも、老人は、私が市場に来るたびに、どこからともなく現れるようになった。私たちは、パン屋の前のベンチに座って、色々な話をした。私は、今まで誰にも話せなかった、心の奥底にしまっていた気持ちを、彼に打ち明けることもあった。侯爵家での孤独な生活、病弱な体、婚約破棄されたこと……。彼は、ただ静かに耳を傾けてくれた。

「君は、本当に聡明な女性だ。そして、何よりも優しい。そのような君を理解できない男は、よほど愚か者なのだろうな」

エルマー様のことを話した時、老人はそう言ってくれた。誰かに、こんなに真っ直ぐに肯定されたのは、生まれて初めてのことだった。彼の言葉は、私の心をじんわりと温めてくれた。

老人は、とても博識だった。世界の歴史、各国の文化、果ては天文学のことまで、何でも知っていた。彼の話を聞いていると、まるで新しい世界が目の前に広がるようだった。私は、彼の話に夢中になった。そして、私自身も、今まで学んできた知識や、本で読んだ物語について、彼に話すようになった。

「クラリス嬢は、本当に素晴らしい教養の持ち主だ。私が知らないことも、たくさん知っている」

老人は、いつもそう言って、私の話に真剣に耳を傾けてくれた。彼の隣にいると、私は自分が侯爵家の地味な長女だということを忘れることができた。ただの一人の人間として、彼と語り合える。それが、本当に心地よかった。

私自身も、少しずつ変わっていった。以前は、常にうつむき加減だったけれど、最近は顔を上げて歩くことが増えた。心なしか、表情も明るくなったと、たまに侯爵家で会う使用人たちに言われるようになった。

「クラリス様、最近、なんだかお顔が明るくなりましたね」

そんな言葉を聞くたびに、私の心は温かくなった。これも、きっとあのおじいさんのおかげだ。

だけど、一つだけ、気がかりなことがあった。このおじいさんが一体何者なのか、いまだに分からなかったのだ。彼は自分のことはほとんど話さない。いつも「ただの隠居暮らしの老人だよ」と笑ってごまかすだけ。
でも、彼の言葉の端々からは、尋常ではない知性と、ある種の威厳が感じられた。
私は、彼に淡い恋心を抱き始めていたけれど、この関係がどこへ向かうのか、不安でもあった。彼は、いつか私の前から消えてしまうんじゃないか。そんなことを考えて、胸が締め付けられる夜もあった。

それでも、私は彼に会うのが楽しみだった。彼との時間は、私にとってかけがえのないものになっていたから。この秘密の交流が、いつまでも続けばいいのに。私は、そう願っていた。
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