輪廻の誓いは、愛になる

帰り花

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第一部 運命

送別の温度

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 黒瀬迅くろせじんの留学は、想像以上に早く“学校の話”になった。
 廊下の掲示板に貼られた通知。
「海外研修プログラム参加者」
 その文字列の中に、黒瀬の名前がある。
 先生たちは「立派だ」と言い、クラスは「すげえ」と騒いだ。
 興味と羨望と、少しの寂しさ。
 それらが混ざった空気が、教室を満たす。
 月那るなは、笑う練習をした。
「すごいね」
「頑張ってね」
 そう言えば、それらしく聞こえる。
 問題は、身体だ。
 黒瀬の名前が出るたびに、胸の奥が小さく跳ねる。
 熱が、遅れてじわりと上がってくる。
 喉が渇き、息が浅くなる。
(……やめて)
 言葉のせいじゃない。
 雰囲気のせいでもない。
 ただ、“黒瀬がいなくなる”という事実が、身体のどこかを引き裂くみたいに反応する。
 そんなの、おかしい。
 自分で自分を叱っても、反応は止まらない。
 止まらないことが、怖かった。
 昼休み、机の上に寄せ書き用の色紙が置かれた。
 クラス委員が言う。
「黒瀬の送別会やるから、ひと言ずつ書いて」
 ペンが回ってくる。
 月那の手のひらが、じんわり湿る。
 紙に触れただけで、指先が熱い。
(何を書けばいい)
「向こうでも頑張れ」
「また会おう」
「体に気をつけて」
 どれも嘘じゃないのに、どれも足りない。
 足りないのが、怖い。
 月那は短く書いた。
【応援してる】
 それだけ。
 それ以上は書けなかった。
 黒瀬に渡る“言葉”が、増えるほど、身体が揺れる気がしたから。
 放課後。
 送別会は、教室で行われた。
 机を少し寄せて、ジュースと菓子が並ぶ。
 大げさじゃない。
 この学校らしい、控えめな祝福。
 黒瀬は、いつも通り不機嫌そうな顔をしていた。
 でも、目の奥が少しだけ落ち着かない。
「向こうでも揉め事起こすなよ」
「英語喋れんの?」
「帰ってきたら土産な」
 雑な冗談が飛ぶ。
 黒瀬は鼻で笑って、適当に返す。
 月那は、少し離れた位置にいた。
 近づかない。
 近づけば、熱が上がる。
 息が浅くなる。
 自分の身体が、勝手に“余白”を埋めようとする。
(……だめ)
 そのとき、陽臣はるおみが隣に立った。
 いつの間に。
 気配だけで分かる。
 陽臣は、月那の表情を見て、何も言わない。
 ただ、紙コップをひとつ渡す。
「飲む?」
「……うん」
 口をつけると、冷たい甘さが喉を通る。
 それだけで、呼吸が少し深くなる。
 陽臣の“整える”は、こういう形だ。
 押さえつけない。
 命じない。
 ただ、正常に戻れる道具を置く。
 送別会が終盤に差しかかり、担任が言った。
「じゃあ黒瀬、最後に何か」
 黒瀬が立ち上がる。
 背が高い。
 その姿に、教室が静まる。
「別に言うことない」
 いつも通りのぶっきらぼう。
 でも、視線が一度だけ教室をなぞる。
 その中で――月那のところで、ほんの一瞬、止まりかけた。
 止めた。
 見ない。
 引く。
 選んだ引き方。
 それなのに。
 月那の胸が、どくん、と鳴る。
 首筋が熱い。
 息が浅くなる。
 下腹の奥がじんわり疼くように熱を持つ。
(やめて)
 誰にも気づかれないように、膝の上で指を握りしめる。
 爪が掌に食い込む。
 黒瀬は続ける。
「……まあ、」
 言葉を探すみたいに、少し間。
「……こっちにいる間、悪くなかった」
 それだけで十分だった。
 教室が笑って、拍手が起きる。
 黒瀬は座り、ジュースを一口飲む。
 “悪くなかった”
 その言葉が、月那の中で何度も反響する。
 悪くなかった。
 ――じゃあ何だ。
 何だったんだ。
 自分の身体の反応は。
 怖い。
 怖いのに、身体がまだ求めている。
 送別会が終わり、皆が帰り支度を始める。
 黒瀬は荷物を肩にかけ、さっさと出ていこうとした。
 扉の前で、誰かに呼び止められても、振り返らない。
 足を止めない。
 引く。
 徹底して引く。
 月那は、その背中を見てしまう。
 見た瞬間、熱がまた上がる。
 頭がぼうっとする。
 息が浅い。
(……追いかけたら)
(壊れる)
 壊れるのは、黒瀬との関係じゃない。
 自分の中の何かだ。
 月那が立ち上がりかけた、そのとき。
 陽臣の手が、月那の手首に触れた。
 強くない。
 でも、止めるには十分な温度。
「行かない」
 陽臣が言う。
 命令じゃない。
 確認だった。
 月那は唇を噛む。
 行かない。
 行けない。
 分かっているのに、身体だけが前へ出ようとする。
 月那は小さく息を吐き、首を振った。
「……行かない」
 言葉にした瞬間、熱が少し引いた。
 それがまた、怖い。
 陽臣がいるだけで、引く。
 落ち着く。
 安定する。
 まるで、黒瀬が残した熱を、上書きするみたいに。
 帰りの車の中。
 窓の外は夕方の青だった。
 月那は、黙っていた。
 口を開けば、余計なことを言いそうだったから。
 陽臣が隣に座っている。
 距離は近い。
 昔から同じ距離。
 なのに、今日はその近さが、少しだけ痛い。
 陽臣が言う。
「今日、しんどかった?」
 月那は一瞬迷って、頷いた。
「……うん」
 陽臣はそれ以上聞かない。
 聞かないまま、月那の指先を包む。
「大丈夫」
 いつもの言葉。
 でも今日は、“大丈夫にしてやる”の含みが強い。
 月那は、視線を落とした。
(ぼくが、一番怖い)
 黒瀬が引いても、身体は引けない。
 反応が残る。
 熱が残る。
 余白が残る。
 その余白が、いちばん危険だ。
 だから。
 陽臣の整える世界が、最善だと思ってしまう。
 そこにいれば、落ち着く。
 安定する。
 怖くないふりができる。
 ――理想の運命の番。
 ――理想の婚約者。
 そういう形で生きていけば、壊れない。
 壊れないために、生きる。
 月那は陽臣の袖を掴む。
 無意識だった。
 掴んだ瞬間、陽臣の呼吸がわずかに変わる。
 嬉しいのか、安堵なのか。
 その違いは分からない。
 でも確かに、陽臣は“整う”。
 月那は目を閉じた。
 黒瀬の背中が、遠くに流れていく。
 海外という距離が、現実になる。
 ――引かれた。
 ――置いていかれた。
 なのに。
 熱は消えない。
 だからこそ、怖い。
 月那は、静かに確信する。
 自分を抑えられるのは、陽臣の近くだけだ。
 なら、そこにいるしかない。
 車は屋敷へ向かう。
 余白のない、整えられた道を走る。
 冬の空は澄んでいる。
 何も壊れていない。
 けれど。
 “壊れないための安定”が、また一枚、厚くなった。
 それは安心で、檻で、そして――薄氷だった。
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