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第二部 安定と余白
光の名前
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春の研究棟は、まだ冷たい。
窓の外は桜が咲いているのに、白い廊下の空気は消毒の匂いで薄く乾いていて、季節の感触が遅れて届く。
医学部――生殖医学研究科。
ここでは春ですら、データの一部みたいに扱われる。
月那は白衣のポケットに指を入れて歩いた。
指先が少し冷えると、胸の奥の沈殿も一緒に冷える気がして、息が楽だった。
背後に、陽臣の足音がある。
同じ歩幅。 同じ速度。 同じ方向。
隣に並ぶのではなく、いつも少しだけ斜め後ろ。
視界の端に“必ずいる”位置。
その配置が、月那を落ち着かせる。
(今日も大丈夫)
そう思うだけで、胸の内側が静かになる。
それがもう、習慣になっていた。
研究棟の掲示板には、昨日より紙が増えていた。
学会情報。実習の注意。奨学金。研究室配属の説明会。
その中に、見覚えのある文字がある。
共鳴性番固定症候群(RBS)治療研究
——説明会:本日 15:00
——会場:第3講義室
——責任者:生殖医学研究科 教授 神谷 光理
月那の呼吸が、ほんの少し止まった。
苗字は硬いのに、名前だけが胸に残る。
“光理”。
ひかり、という音。
そこに“理”がついて、妙に真っ直ぐで、冷たいのにあたたかい。
(教授……)
会うこと自体は珍しくない。
けれど、この名前は、ただの肩書きより先に胸に触れてきた。
月那は視線を外した。
外したのに、文字が残る。
背後で、陽臣の気配が止まる。
「気になる?」
声はいつも通り低い。
穏やかで、揺れない。
なのに、月那の胸が少しだけ固くなる。
「……研究、だし」
答えながら、何が“気になる”のか自分でも分からない。
RBS。
医学の言葉にすぎないはずだ。
ただの病名。 ただの研究テーマ。
それなのに。
(……光)
その名前の前では、ただの研究じゃなくなる気がした。
「行ってみたい?」
陽臣は、月那の顔を覗き込まない。
覗き込まないまま問う。
逃げ道があるように見せる問い方。
月那は、迷った。
行けば、何かが変わるかもしれない。
変わることは怖い。
でも、“何も変わらない日常”の薄氷も、ずっと怖いままだった。
「……少しだけ」
小さな声。
それでも、口にした瞬間、胸の奥がざわついた。
陽臣は一拍置いて頷く。
「じゃあ、一緒に」
“当然”みたいに。
その当然が、今は少しだけ重い。
午後。
第3講義室は、いつもより明るく見えた。
照明のせいじゃない。
人の密度のせいでもない。
空気の張り方が違う。
前方の演台にはスライドが映っている。
RBS。共鳴。番固定。断裂。治療。
聞き慣れた単語が並ぶのに、どれも遠い。
月那は無意識に、陽臣の袖を探してしまう。
触れたくて、ではない。
“位置”を確認したくて。
陽臣は隣に座っている。
いつもより近い。
講義室では、距離が詰まる。
それだけで月那の呼吸は戻る。
胸の固さがほどける。
(……大丈夫)
そう思った瞬間。
扉が開いた。
足音がひとつ。
静かで、無駄がない。
白衣が揺れて、春の光がそこに絡む。
壇上に立った男は、若く見えた。
教授という言葉の重さより、目の透明さが先に来る。
外国にルーツがあるのだろうか。
光が入ると緑に見える、きれいな目だった。
切れ味のある輪郭。
でも冷たいわけじゃない。
むしろ、視線が穏やかで、まっすぐだ。
その緑の目が、講義室を一度だけ見渡す。
——そして、月那のところで止まった。
止まった時間は一瞬。
でも月那の身体は、その一瞬で先に反応した。
どくん、と胸が鳴る。
それは発情の熱じゃない。
下腹の疼きでもない。
汗も出ない。
ただ、胸の中心が、軽く跳ねた。
(……なに、これ)
怖くない。
苦しくない。
むしろ、息がしやすい。
本能が暴れる時の“熱”とは違う。
いつもは、身体が先に震えて、思考が遅れて追いかける。
でも今は、思考が先に動いた。
(綺麗な目)
そんなこと、今まで考えたことがない。
男の目を見て、綺麗だと思うなんて。
まして教授を見て。
自分の中で、何かが“人として”反応している。
スライドが切り替わる。
教授の声が響く。
落ち着いた声。
専門用語が、丁寧に編まれていく。
「RBSは、“共鳴”が固定化しすぎることで生じる症候群です。 本人の意思とは別に、身体が“番”だけを鍵としてしまう。 その結果、生活の自由度や精神の安定が、狭くなっていく。」
月那の喉が、わずかに鳴った。
(……本人の意思とは別に)
その言葉が胸に刺さる。
陽臣の近くでだけ、正しく呼吸ができる。
黒瀬の近くでは乱れた。
それを「運命」だと呼んで、幸福に変換して、薄氷を渡ってきた。
でも、この教授はそれを“症候群”の言葉で示した。
しかも、声が怖くない。
責めていない。 否定もしない。
ただ、説明している。
それが、月那には怖かった。
怖いのに、目が離せない。
教授がスライドを示しながら言う。
「治療研究の目的は、共鳴を“否定”することではありません。 本人が、自分の意思で選択できる余白を取り戻すこと。 ——それが、自由の基盤になります。」
余白。 取り戻す。
その言葉を聞いた瞬間、月那の胸がふわりとした。
いつか雨の傘の下で感じた“軽さ”に、どこか似ている。
でも、あれよりずっと静かで、透明だった。
(……余白)
欲しい、と思ってしまった。
欲しいなんて思ってはいけない。
今の安定がある。 今の幸福がある。 陽臣がいる。
なのに。 欲しい、と思った。
その瞬間、隣で陽臣の呼吸がほんの少しだけ変わった。
ほんのわずか。
誰も気づかない程度。
でも月那は、気づいてしまう。
自分の身体の微細な揺れに慣れすぎているから。
(……はるくん?)
横を見ると、陽臣はいつも通りだ。
表情も、姿勢も、視線も。
ただ、指先だけが膝の上で少し固い。
講義が終わる。
拍手は控えめ。
学生たちは静かに立ち上がり、流れるように出口へ向かう。
月那も立とうとして、足元が一瞬ふらついた。
ふらつきは、発作じゃない。
熱でもない。
ただ、心が揺れたときの、遅れてくる反動。
陽臣の手が、さっと月那の肘を支える。
慣れた手つき。
反射みたいに自然。
「大丈夫?」
いつもの言葉。
月那は頷く。
頷けば、安定に戻れる。
戻れるのに——戻りきれない部分が残った。
出口付近で、教授が学生に囲まれているのが見えた。
質問の列。 資料を受け取る手。 丁寧な応答。
月那はその輪の外で立ち止まる。
話しかけたいわけじゃない。 相談したいわけでもない。
ただ、もう一度だけ―― “あの目”を見たくなった。
その瞬間、教授の視線がふとこちらに向いた。
真正面から、ではない。
人の隙間越しに、たまたま重なっただけ。
それでも月那の胸が、また軽く跳ねた。
教授は小さく頷いた。
誰に向けたのか分からないほど自然な頷き。
でも月那の中で、それが“自分に向けられた”ものに変わってしまう。
(……やだ)
熱じゃない。 発情じゃない。
でも、怖い。
怖いのに、嬉しい。
月那は、咄嗟に視線を逸らした。
逸らしながら、心臓の音を数える。
帰り道。
研究棟の外に出ると、桜の匂いがやっと届いた。
陽臣が隣を歩く。
いつも通りの距離。 いつも通りの歩幅。
「どうだった?」
陽臣が問う。
声は穏やかだ。
だが、どこか“測っている”のが分かる。
月那は答えようとして、言葉が詰まった。
(ときめきがあった)
(余白が欲しいと思った)
(怖いのに嬉しかった)
そんなこと言えるわけがない。
言えば、均衡が崩れる。
整えられた世界に、ひびが入る。
月那は飲み込んで、いつもの答えを選ぶ。
「……勉強になった」
陽臣は頷く。
頷くけれど、目が少しだけ静かすぎる。
「そっか」
短い返事。
それ以上は聞かない。
聞かないことが、いつもの“蓋”だ。
月那は歩きながら、胸の奥を確かめる。
熱はない。 汗もない。 呼吸も乱れていない。
それなのに。
胸の中心だけが、まだ少し明るい。
光みたいなものが残っている。
(……光理)
名前を心の中で呼んだだけで、また少しだけ胸が跳ねた。
月那は自分で分かってしまう。
これが、 “本能でないときめき”なのだと。
そして、これが―― 薄氷の上を歩いてきた自分にとって、 いちばん危ない光だということも。
桜の下で、二人の影が伸びる。
重なり合っているのに、ほんの少しだけズレている。
そのズレに、月那はまだ名前をつけられない。
ただ、胸の奥の沈殿が、ほんのわずかに揺れた。
蓋の隙間から、光が差し込んだ。
春の始まりは、それだけで十分すぎるほど危険だった。
窓の外は桜が咲いているのに、白い廊下の空気は消毒の匂いで薄く乾いていて、季節の感触が遅れて届く。
医学部――生殖医学研究科。
ここでは春ですら、データの一部みたいに扱われる。
月那は白衣のポケットに指を入れて歩いた。
指先が少し冷えると、胸の奥の沈殿も一緒に冷える気がして、息が楽だった。
背後に、陽臣の足音がある。
同じ歩幅。 同じ速度。 同じ方向。
隣に並ぶのではなく、いつも少しだけ斜め後ろ。
視界の端に“必ずいる”位置。
その配置が、月那を落ち着かせる。
(今日も大丈夫)
そう思うだけで、胸の内側が静かになる。
それがもう、習慣になっていた。
研究棟の掲示板には、昨日より紙が増えていた。
学会情報。実習の注意。奨学金。研究室配属の説明会。
その中に、見覚えのある文字がある。
共鳴性番固定症候群(RBS)治療研究
——説明会:本日 15:00
——会場:第3講義室
——責任者:生殖医学研究科 教授 神谷 光理
月那の呼吸が、ほんの少し止まった。
苗字は硬いのに、名前だけが胸に残る。
“光理”。
ひかり、という音。
そこに“理”がついて、妙に真っ直ぐで、冷たいのにあたたかい。
(教授……)
会うこと自体は珍しくない。
けれど、この名前は、ただの肩書きより先に胸に触れてきた。
月那は視線を外した。
外したのに、文字が残る。
背後で、陽臣の気配が止まる。
「気になる?」
声はいつも通り低い。
穏やかで、揺れない。
なのに、月那の胸が少しだけ固くなる。
「……研究、だし」
答えながら、何が“気になる”のか自分でも分からない。
RBS。
医学の言葉にすぎないはずだ。
ただの病名。 ただの研究テーマ。
それなのに。
(……光)
その名前の前では、ただの研究じゃなくなる気がした。
「行ってみたい?」
陽臣は、月那の顔を覗き込まない。
覗き込まないまま問う。
逃げ道があるように見せる問い方。
月那は、迷った。
行けば、何かが変わるかもしれない。
変わることは怖い。
でも、“何も変わらない日常”の薄氷も、ずっと怖いままだった。
「……少しだけ」
小さな声。
それでも、口にした瞬間、胸の奥がざわついた。
陽臣は一拍置いて頷く。
「じゃあ、一緒に」
“当然”みたいに。
その当然が、今は少しだけ重い。
午後。
第3講義室は、いつもより明るく見えた。
照明のせいじゃない。
人の密度のせいでもない。
空気の張り方が違う。
前方の演台にはスライドが映っている。
RBS。共鳴。番固定。断裂。治療。
聞き慣れた単語が並ぶのに、どれも遠い。
月那は無意識に、陽臣の袖を探してしまう。
触れたくて、ではない。
“位置”を確認したくて。
陽臣は隣に座っている。
いつもより近い。
講義室では、距離が詰まる。
それだけで月那の呼吸は戻る。
胸の固さがほどける。
(……大丈夫)
そう思った瞬間。
扉が開いた。
足音がひとつ。
静かで、無駄がない。
白衣が揺れて、春の光がそこに絡む。
壇上に立った男は、若く見えた。
教授という言葉の重さより、目の透明さが先に来る。
外国にルーツがあるのだろうか。
光が入ると緑に見える、きれいな目だった。
切れ味のある輪郭。
でも冷たいわけじゃない。
むしろ、視線が穏やかで、まっすぐだ。
その緑の目が、講義室を一度だけ見渡す。
——そして、月那のところで止まった。
止まった時間は一瞬。
でも月那の身体は、その一瞬で先に反応した。
どくん、と胸が鳴る。
それは発情の熱じゃない。
下腹の疼きでもない。
汗も出ない。
ただ、胸の中心が、軽く跳ねた。
(……なに、これ)
怖くない。
苦しくない。
むしろ、息がしやすい。
本能が暴れる時の“熱”とは違う。
いつもは、身体が先に震えて、思考が遅れて追いかける。
でも今は、思考が先に動いた。
(綺麗な目)
そんなこと、今まで考えたことがない。
男の目を見て、綺麗だと思うなんて。
まして教授を見て。
自分の中で、何かが“人として”反応している。
スライドが切り替わる。
教授の声が響く。
落ち着いた声。
専門用語が、丁寧に編まれていく。
「RBSは、“共鳴”が固定化しすぎることで生じる症候群です。 本人の意思とは別に、身体が“番”だけを鍵としてしまう。 その結果、生活の自由度や精神の安定が、狭くなっていく。」
月那の喉が、わずかに鳴った。
(……本人の意思とは別に)
その言葉が胸に刺さる。
陽臣の近くでだけ、正しく呼吸ができる。
黒瀬の近くでは乱れた。
それを「運命」だと呼んで、幸福に変換して、薄氷を渡ってきた。
でも、この教授はそれを“症候群”の言葉で示した。
しかも、声が怖くない。
責めていない。 否定もしない。
ただ、説明している。
それが、月那には怖かった。
怖いのに、目が離せない。
教授がスライドを示しながら言う。
「治療研究の目的は、共鳴を“否定”することではありません。 本人が、自分の意思で選択できる余白を取り戻すこと。 ——それが、自由の基盤になります。」
余白。 取り戻す。
その言葉を聞いた瞬間、月那の胸がふわりとした。
いつか雨の傘の下で感じた“軽さ”に、どこか似ている。
でも、あれよりずっと静かで、透明だった。
(……余白)
欲しい、と思ってしまった。
欲しいなんて思ってはいけない。
今の安定がある。 今の幸福がある。 陽臣がいる。
なのに。 欲しい、と思った。
その瞬間、隣で陽臣の呼吸がほんの少しだけ変わった。
ほんのわずか。
誰も気づかない程度。
でも月那は、気づいてしまう。
自分の身体の微細な揺れに慣れすぎているから。
(……はるくん?)
横を見ると、陽臣はいつも通りだ。
表情も、姿勢も、視線も。
ただ、指先だけが膝の上で少し固い。
講義が終わる。
拍手は控えめ。
学生たちは静かに立ち上がり、流れるように出口へ向かう。
月那も立とうとして、足元が一瞬ふらついた。
ふらつきは、発作じゃない。
熱でもない。
ただ、心が揺れたときの、遅れてくる反動。
陽臣の手が、さっと月那の肘を支える。
慣れた手つき。
反射みたいに自然。
「大丈夫?」
いつもの言葉。
月那は頷く。
頷けば、安定に戻れる。
戻れるのに——戻りきれない部分が残った。
出口付近で、教授が学生に囲まれているのが見えた。
質問の列。 資料を受け取る手。 丁寧な応答。
月那はその輪の外で立ち止まる。
話しかけたいわけじゃない。 相談したいわけでもない。
ただ、もう一度だけ―― “あの目”を見たくなった。
その瞬間、教授の視線がふとこちらに向いた。
真正面から、ではない。
人の隙間越しに、たまたま重なっただけ。
それでも月那の胸が、また軽く跳ねた。
教授は小さく頷いた。
誰に向けたのか分からないほど自然な頷き。
でも月那の中で、それが“自分に向けられた”ものに変わってしまう。
(……やだ)
熱じゃない。 発情じゃない。
でも、怖い。
怖いのに、嬉しい。
月那は、咄嗟に視線を逸らした。
逸らしながら、心臓の音を数える。
帰り道。
研究棟の外に出ると、桜の匂いがやっと届いた。
陽臣が隣を歩く。
いつも通りの距離。 いつも通りの歩幅。
「どうだった?」
陽臣が問う。
声は穏やかだ。
だが、どこか“測っている”のが分かる。
月那は答えようとして、言葉が詰まった。
(ときめきがあった)
(余白が欲しいと思った)
(怖いのに嬉しかった)
そんなこと言えるわけがない。
言えば、均衡が崩れる。
整えられた世界に、ひびが入る。
月那は飲み込んで、いつもの答えを選ぶ。
「……勉強になった」
陽臣は頷く。
頷くけれど、目が少しだけ静かすぎる。
「そっか」
短い返事。
それ以上は聞かない。
聞かないことが、いつもの“蓋”だ。
月那は歩きながら、胸の奥を確かめる。
熱はない。 汗もない。 呼吸も乱れていない。
それなのに。
胸の中心だけが、まだ少し明るい。
光みたいなものが残っている。
(……光理)
名前を心の中で呼んだだけで、また少しだけ胸が跳ねた。
月那は自分で分かってしまう。
これが、 “本能でないときめき”なのだと。
そして、これが―― 薄氷の上を歩いてきた自分にとって、 いちばん危ない光だということも。
桜の下で、二人の影が伸びる。
重なり合っているのに、ほんの少しだけズレている。
そのズレに、月那はまだ名前をつけられない。
ただ、胸の奥の沈殿が、ほんのわずかに揺れた。
蓋の隙間から、光が差し込んだ。
春の始まりは、それだけで十分すぎるほど危険だった。
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