輪廻の誓いは、愛になる

帰り花

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第三部 番の檻

提案

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 妊娠したのが八月。発覚したのが九月。
 そこから季節を越えて、腹は春の重さになった。
 出産予定日は五月の半ば。
 “あと二週間”と言われたのは、四月の終わりだった。
 天城あまぎ家の部屋の窓から見える庭は、緑が濃い。
 風は柔らかいのに、月那るなの身体は重くて、軽い。
 重いのは腹で、軽いのは——呼吸だ。鍵が近くにいると、呼吸が深くなる。
 それが救いで、同時に恐怖であることを、月那はもう誤魔化さなかった。
 冬の日のあのやりとりから月那は、意識して“与える練習”を始めた。
 陽臣はるおみに何かを言わせてから叶えるのではなく、先に置く。
 水を机に置く。薬を見えやすい場所に並べる。
 陽臣が帰ってきたとき、服のしわを直す指先を、いつもよりゆっくりにする。
「大丈夫」を返す代わりに、「ありがとう」を先に言う。
 小さなことだ。
 でも、陽臣の目がほんの僅かに揺れる瞬間が増えた。
 何より変わったのは、腹の中の子に向ける陽臣の手だった。
「……今日も動いた?」
 陽臣が言う。
 月那が頷くと、陽臣は“確かめる”というより、“話しかける”ように腹へ掌を置く。
「聞こえるか」
 声は低いのに、刺さる感じがない。
 命令でも、管理でもない音になるときがある。
 月那は、その音を拾い上げたくて、息を整えた。
「ねえ、今日ね」
 月那は腹を撫でながら言う。
「外、あったかかったよ。葉っぱの匂いがした」
 陽臣が一拍だけ黙る。
 それから、同じように言葉を置いた。
「……そうか」
 短い。けれど、逃げない。
 月那は知っている。
 陽臣は、愛を“奪う形”で学んできた。
 だから、与える言葉が少ない。
 でも、与えられる準備をしていないわけじゃない。
 夜、月那が眠る前に腹へ語りかけるとき、陽臣が隣で黙って聞いている時間が増えた。
 その沈黙が、以前より柔らかい。
 それだけで月那は、胸の奥が少しだけ明るくなる。
(この人は変われる)
(変わっていいと思い始めてる)
 そして、変われるなら——
 月那は“切る”という言葉を、罪だけで持たなくていいかもしれないと思った。
 四月の終わり。検診の日。
 医師は淡々と告げた。
「順調です。予定日まで二週間前後。体調が急に変わることもあります。準備を」
 月那は頷く。
 陽臣の指先が、診察室の椅子の上で一度だけ固くなる。
 “準備”という言葉が、陽臣には「確定」に聞こえるのだと分かってしまう。
 帰りの車内。
 月那は窓を見ながら、言葉を組み立てた。
 今言わなければ、もう言えない。
 この二週間は、未来が決まる前の最後の余白だ。
 屋敷に戻ると、陽臣はいつも通り月那の部屋に入ってきた。
 グラスを置き、薬の時間を確認し、カーテンの隙間を整える。
 その整え方が、今日だけは“優しさ”に見える。
 見えたから、月那は言える気がした。
「はるくん」
 陽臣が振り向く。
 目が静かすぎる。いつでも逃がさない目だ。
「なに」
 月那は、腹の上で指を組んだ。
 自分が揺れないように。鍵に頼らずに話すために。
「……お願いがある」
 陽臣の呼吸が一拍浅くなる。
 “お願い”を、陽臣は警戒する。奪われる合図に聞こえるからだ。
 月那は続けた。
 一気に言わない。少しずつ置く。陽臣の心臓が壊れない速度で。
「もし、僕が——」
 喉が震える。
 でも逃げない。
「共鳴を、切ったら」
 陽臣の目が、はっきり冷える。
 声が出る前に、部屋の空気が固まる。
 月那は、もう一歩だけ踏み込んだ。
 曖昧にしない。曖昧にしたら、陽臣は“整えて終わらせる”から。
「共鳴断裂措置の話を、知った」
「番を解消して……僕は、はるくんを忘れる。共鳴も、なくなる」
 陽臣の指先が、月那の枕元で止まる。
 止まったまま動かない。壊れないように固めている。
 月那は、陽臣を壊さないための“先”を置く。
「でも、子どもは——」
 腹を撫でる。
「この子は、生きる。ここにいる」
 陽臣の視線が腹へ落ちる。
 落ちた瞬間、冷えが少しだけ揺らぐ。揺らいだところへ、月那は言葉を差し込む。
「この子は、はるくんに育ててほしい」
「僕を守ってくれたみたいに、守って。選ばせて。与えて」
 陽臣の瞳が揺れる。
 怒りではない。“理解してしまう”揺れだ。
 月那は、最後まで言い切った。
 それがいちばん残酷だと分かっていても、言い切らないと未来が変わらない。
「はるくんが本当に欲しかったのは、無償の愛なんだって、僕、分かった」
「この子なら——」
 月那は息を吸う。胸が痛い。痛いほど本気だ。
「この子に無償の愛を与えて」
「この子から無償の愛を返される」
「それが、はるくんの幸せになるって思う」
 沈黙が落ちた。

 陽臣は、すぐに否定しなかった。
 否定の前に、呼吸を整えた。
 その整え方が、今までと違った。
 怒りを押し込める整え方じゃない。
 崩壊を押し戻す整え方だ。

「月那」

 名前だけ。
 それだけで、月那の身体が反射で整いかける。
 月那は腹を撫でて、必死に踏みとどまった。

 陽臣の声が低くなる。

「それは、提案じゃない」
「……俺にとっては、処刑だ」

 月那の喉が詰まる。
 分かっている。だから言ったのに、言われると胸が裂ける。

 陽臣は続けた。
 声は荒れない。荒れないのが怖い。

「忘れる、って言ったな」
「共鳴がなくなる、って言ったな」
「月那がいない世界で、俺が生きられるって本気で思ってるのか」

 月那は言葉を探す。
 “子どもがいる”と言いたい。
 でも、それは陽臣にとって「代替」に聞こえてしまう。
 代替にしたくない。子どもは鎖じゃなく、命であってほしい。

 だから月那は、正直に言った。

「……分からない」
「でも、今のままでも、僕たちは壊れる」

 陽臣の目が、わずかに割れる。
 怒りではなく、恐怖だ。
 月那を失う恐怖。
 自分が空になる恐怖。

 陽臣は一歩近づいて、月那の手首を取った。
 優しく、でも確実に。
 いつもの固定。

 その触れ方だけで、月那の呼吸が深くなる。
 深くなってしまうことが、いまは痛い。

「やめろ」

 陽臣が言う。
 光理の名を出さないのに、そこへ届く言い方だ。

「切るとか、忘れるとか、言うな」
「俺は受け入れない」

 月那の胸の奥が、静かに沈む。
 “拒否”の形が、こんなに綺麗で静かなのが怖い。

「……はるくん」

 月那が呼ぶと、陽臣は答えない。
 答えないまま、腹へ掌を置いた。

「この子は、俺が守る」
 短い。
「……でも、月那も守る」

 守る。
 それは優しさの形をしている。
 けれど、月那には分かる。

 “守る”は、ここでは“離さない”と同義だ。

 月那は目を閉じた。
 二週間。
 あと二週間で、すべてが決定してしまう。

 陽臣は受け入れられない。
 受け入れられないのは、愛のせいでもある。
 でも同時に、恐怖のせいでもある。

 月那は理解する。

 ——提案は、今は届かない。
 ——届かないなら、別の順番が必要だ。

 まず、陽臣が“与える側”になれる証拠が要る。
 この子の反応。成長。出産。抱いた温度。
 それが陽臣の内側を変えるまで、月那は“切る”を刃として出せない。

 月那は、腹を撫でた。
 小さく蹴り返す感触があった。
 それが、希望にも、タイムリミットにもなる。

(お願い)
(間に合って)

 声には出さない。
 出したら、また整えられて終わるから。

 夜は静かで、息は深い。
 深い息の底で、月那は次の二週間のための決意を固めていく。

 陽臣を壊さないために。
 自分も壊れないために。
 そして、この子を鎖ではなく“救い”として迎えるために。
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