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第三部 番の檻
守る手、削る手
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病院の廊下は、白すぎた。
白い壁も、白い床も、白い光も、全部が同じ温度で整えられている。
そこでは“事情”は匂いにならない。誰の家柄も、誰の支配も、ただのデータに変換される。
月那は診察室の前の椅子に座って、両手を膝に重ねていた。
腹はもう、ひとつの命を抱えている重さだ。
息を吸うたびに、肋の内側がわずかに引き伸ばされて、胸の奥に静かな疲れが溜まる。
陽臣は、その隣に立っていた。
座らない。立って、見張るように。
いつもの“安全管理”の姿勢。月那はもう、それを言葉にしなかった。
「血圧、少し高いですね」
医師の声は淡々としていた。
痛いほど丁寧で、余計な情を混ぜない。
淡々としているからこそ、言葉の刃がそのまま入ってくる。
「最近、眠れていますか。食事は」
月那は頷きかけて、止まった。
“眠れている”のか、“眠らされている”のか。
“食べられている”のか、“食べる順番を与えられている”のか。
曖昧にしか答えられない。
医師はカルテに目を落とし、続けた。
「子宮収縮も、やや増えています。ストレス反応が強いときに出やすいパターンです」
「共鳴の固定化が強いケースは、自律神経が崩れやすい。——妊娠中は特に」
月那の喉が鳴った。
RBS。共鳴固定。自律神経。
知っている言葉ばかりなのに、今日は全部が“自分の身体”に直結している。
医師の視線が、陽臣に移る。
「……天城さん」
「ひとつ、お願いがあります」
陽臣の表情は変わらない。
変えないのが陽臣の強さで、怖さでもある。
「患者さんの“管理”を、少し緩めてください」
その言葉は、柔らかいのにまっすぐだった。
責めていない。だが逃げ道を与えない。
「“守る”行為が強すぎると、それ自体がストレスになる場合があります」
「今の月那さんは、安定しているように見えて、身体が削れている」
削れている。
その単語が、胸の中心で重く落ちた。
陽臣の指先が、ほんの一瞬だけ動きを止める。
止めて、それから動かす。
壊れないための整え直し。
「……必要な管理だ」
声は静かだ。
でも医師は、怯まない。
「必要かどうかは、結果が決めます」
「このままだと、母体にも、お腹の子にも命の危険があります。早産リスクも上がります」
命の危険。
その言葉は、陽臣の世界では“奪われる”に近い音を持っている。
月那は視線を落とした。
腹の奥で、小さく動くものがいる。
それが今の自分の現実で、希望で、鎖でもある。
医師が続けた。
「今日はNST(胎児心拍)を少し長めに見ます。こちらへ」
別室の薄暗いベッドに横になり、腹にベルトが巻かれる。
機械が、規則的な音を拾い始める。
心拍。波。収縮。
数字が現実になる音。
月那は目を閉じた。
機械の音が、妙に安心で、妙に怖い。
整えられた世界は、いつもこうだ。
“正しい”音で、心を黙らせる。
陽臣は足元側に立っていた。
触れない。触れないまま、そこにいる。
月那の視界の端に必ずいる配置。
(鍵)
その言葉が浮かぶたび、息は深くなる。
深くなるほど、さっき医師が言った「削れている」が刺さる。
機械が、一度だけ音を変えた。
一定だったリズムが、わずかに乱れる。
心拍が落ちる。
画面の線が、ふっと沈む。
看護師の動きが早くなる。
医師がモニターを覗き込み、短く指示を出す。
「体位変えましょう」
「酸素、準備」
月那の手が、シーツを掴んだ。
痛みではない。恐怖でもない。
——祈りに近い焦り。
陽臣の呼吸が、初めてはっきり乱れた。
「……月那」
名前を呼ぶ声が、掠れている。
掠れているのに、叫ばない。
叫べば負けると知っている声だ。
月那は返事ができなかった。
返事をするより先に、腹の奥がぐっと重くなる。
息が浅くなる。
そのとき、月那は腹に手を当ててしまった。
陽臣に触れて整えるのではなく、子に触れて確かめるみたいに。
「……大丈夫」
誰に言ったのか自分でも分からない声。
看護師が言う。
「反応、見えました。——蹴った」
次の瞬間。
腹の内側から、確かに“返事”が来た。
小さな衝撃。薄い皮膚越しの意思。
月那の目に、熱が滲む。
生きている。
ここにいる。
モニターの線が、少しだけ戻る。
心拍が持ち直していく。
部屋の空気が一段だけ緩む。
陽臣の肩が、ほんの僅かに落ちた。
その落ち方が、崩壊寸前の人間の“ぎりぎり”の戻し方だった。
月那は、陽臣の方を見た。
陽臣の目が、腹に落ちている。
視線が、初めて“管理”の形じゃない。
触れたいのに触れられない人の目だった。
陽臣の手が、ゆっくり腹に伸びる。
伸びて、途中で止まる。
許可を取るように、月那を見る。
月那は、小さく頷いた。
頷いた瞬間、陽臣の掌が腹に触れる。
優しく、でも確かに。
固定ではなく、触れる。
「……聞こえるか」
声が低い。
けれど、押さえつけない音だ。
腹の中が、また小さく動く。
蹴る、というより、返事。
陽臣の喉が、小さく鳴った。
それは笑いではない。
安堵でもない。
——何かが芽を出す音だった。
医師が、静かに言う。
「いまの反応、いいですね」
「ただ、こういう波は今後も起きます。母体の負荷を下げることが大切です」
「“安定”のために締めるほど、母体は追い詰められます。これは運命の問題じゃなく、医療の話です」
月那は、息を吐いた。
吐きながら、頭の中でひとつだけ確信してしまう。
(この子は、陽臣を変える)
そして同時に、もっと残酷なことも思ってしまう。
(変わらなければ、自分が削れていく)
病院を出たころ、夕方の光が斜めだった。
空は高いのに、空気は重い。
天城家の車へ向かう途中、陽臣のスマホが震えた。
表示された名前に、陽臣の目が一瞬だけ冷える。
——父。
陽臣が通話に出る。
月那から少し距離を取って。
声の温度は変えない。
「……はい」
「……問題ありません」
「……必要な処置は終わりました」
“処置”。
その単語が、月那の胸を冷やした。
通話は短かった。
切ったあと、陽臣は黙って前を向く。
背中が硬い。
車内。
月那が水を一口飲んだとき、陽臣が突然言った。
「……父が、式を増やすと言った」
式。
祝福の段取り。
公的な儀礼。
子の誕生を名門の“成果”として固定するための行事。
月那は頷けなかった。
頷けば、また檻が増える音がするから。
陽臣は続けた。
「子どもを、早く“見せろ”って」
「……駒みたいに言う」
その言い方が、初めてだった。
陽臣が、天城家の言葉を“嫌悪”として口にする。
今までなら、飲み込んで整えたはずの言葉を。
月那は、息を止めた。
陽臣は窓の外を見ながら、低く言う。
「……俺は、ああ言われて育った」
「役に立つかどうかで見られて、必要かどうかで置かれて」
月那の胸の中心が痛む。
これまで共に過ごしてきて見えたものが、さらに輪郭を持つ。
陽臣は、ぽつりと続けた。
「でも今日」
一拍。
「……俺、怖かった」
その言葉が、胸の奥へ刺さった。
陽臣の口から「怖い」が出るのは珍しい。
それは弱さじゃない。
初めて触れた“奪えない領域”の告白だ。
月那は小さく言った。
「……僕も」
陽臣は答えない。
けれど、月那の腹にもう一度手を当てた。
さっきより、少し自然に。
「……こいつ」
陽臣は小さく言う。
「返事するんだな」
その声に、ほんの僅かに柔らかさが混じった。
月那は、その柔らかさを逃さないように、息を整えた。
整えるのは鍵のためじゃない。
この瞬間を保存するためだ。
夜。
天城家の書斎。
月那は部屋に戻され、陽臣だけが呼ばれた。
呼ばれた先には、父がいた。
そして、正妻も。
空気は上品で冷たい。
笑みは薄い。
言葉は正しい形で刃になる。
父が言う。
「妊娠も公表した。あとは“成果”を確実にするだけだ」
「孫は天城の次を固める。九条との結びも強まる」
正妻が、柔らかく続ける。
「あなたもようやく、役目が果たせたのね」
「——愛人の子としてではなく」
その言葉は、針みたいに細く刺さる。
陽臣の顔は変わらない。
変えない。だが、沈黙が一拍長い。
父が重ねる。
「月那を甘やかしすぎるな」
「不安定になるなら、締めろ。噛め。——確実に固定しろ」
固定しろ。
陽臣の胸の奥で、何かがきしむ。
今日、医師に言われた言葉が重なる。
“守る行為が強すぎると、それ自体がストレスになる”
“削れている”
陽臣は、初めて父の言葉をそのまま受け取れなかった。
その代わりに、今日のモニターの線を思い出す。
下がった心拍。戻った線。蹴り返した小さな意思。
奪えない。整えられない。
——でも、守りたい。
陽臣の声が、低く落ちた。
「……固定して、壊したら意味がない」
父の眉がわずかに動く。
「壊す?」
陽臣は、ゆっくり息を吸って吐いた。
崩壊を抑える呼吸ではない。
自分を選ぶ呼吸だ。
「月那が壊れたら、子も壊れる」
「……俺は、それは望まない」
正妻が薄く笑う。
「情が出たのね」
その笑いが、陽臣の中で何かを断ち切った。
情ではない。
これは——恐怖だ。
自分が“父と同じになる恐怖”。
陽臣は父を見た。
「俺は、違う」
「……あんたと同じにはならない」
静かな反抗。
声を荒げない反抗。
だからこそ、決定だった。
父は笑わなかった。
笑わない代わりに、空気の温度だけが下がる。
「……好きにしろ」
短い。
「ただし、天城のものを失うな」
失うな。
その言葉が、陽臣の背骨に残る。
深夜。
陽臣が部屋へ戻ると、月那は起きていた。
腹を撫でながら、暗い中で呼吸を数えている。
陽臣は近づき、そっとベッドの端に座った。
儀式を始めない。
うなじにも触れない。
ただ、腹の上に手を置く。
月那は、陽臣の呼吸のわずかな変化に気づく。
「……はるくん?」
陽臣は答えなかった。
答えないまま、腹に向かって小さく言う。
「……生きろ」
「選べるようにしてやる」
月那の胸が、痛いほど鳴った。
その言葉は、月那ではなく子へ向けられているのに。
だからこそ、救いに近い。
月那は理解する。
(陽臣は“与える側”へ行きかけてる)
そして、次の思考が、月那の中で自然に繋がってしまう。
(もし共鳴を切れば)
(陽臣は月那という“鍵”に依存しなくなる)
(代わりに、この子を守る父として生きられる)
(無償の愛を与えて、返される側になれる)
その可能性は、希望だ。
でも同時に、月那の喉を締める恐怖でもある。
共鳴が断裂したとき、陽臣は壊れないのか。
“鍵”を失って、空にならないのか。
月那は、腹の内側の小さな動きを確かめた。
蹴り返し。返事。生きている意思。
それを見て、月那は思う。
(救うって、奪うことじゃない)
(救うって、与えることだ)
月那は目を閉じた。
呼吸は深い。
深い呼吸の底で、共鳴断裂の封筒が静かに光る。
期待と心配が、同じ場所で揺れる。
そしてその揺れは、
出産という“決定”へ向かって、もう止まらずに進み始めていた。
白い壁も、白い床も、白い光も、全部が同じ温度で整えられている。
そこでは“事情”は匂いにならない。誰の家柄も、誰の支配も、ただのデータに変換される。
月那は診察室の前の椅子に座って、両手を膝に重ねていた。
腹はもう、ひとつの命を抱えている重さだ。
息を吸うたびに、肋の内側がわずかに引き伸ばされて、胸の奥に静かな疲れが溜まる。
陽臣は、その隣に立っていた。
座らない。立って、見張るように。
いつもの“安全管理”の姿勢。月那はもう、それを言葉にしなかった。
「血圧、少し高いですね」
医師の声は淡々としていた。
痛いほど丁寧で、余計な情を混ぜない。
淡々としているからこそ、言葉の刃がそのまま入ってくる。
「最近、眠れていますか。食事は」
月那は頷きかけて、止まった。
“眠れている”のか、“眠らされている”のか。
“食べられている”のか、“食べる順番を与えられている”のか。
曖昧にしか答えられない。
医師はカルテに目を落とし、続けた。
「子宮収縮も、やや増えています。ストレス反応が強いときに出やすいパターンです」
「共鳴の固定化が強いケースは、自律神経が崩れやすい。——妊娠中は特に」
月那の喉が鳴った。
RBS。共鳴固定。自律神経。
知っている言葉ばかりなのに、今日は全部が“自分の身体”に直結している。
医師の視線が、陽臣に移る。
「……天城さん」
「ひとつ、お願いがあります」
陽臣の表情は変わらない。
変えないのが陽臣の強さで、怖さでもある。
「患者さんの“管理”を、少し緩めてください」
その言葉は、柔らかいのにまっすぐだった。
責めていない。だが逃げ道を与えない。
「“守る”行為が強すぎると、それ自体がストレスになる場合があります」
「今の月那さんは、安定しているように見えて、身体が削れている」
削れている。
その単語が、胸の中心で重く落ちた。
陽臣の指先が、ほんの一瞬だけ動きを止める。
止めて、それから動かす。
壊れないための整え直し。
「……必要な管理だ」
声は静かだ。
でも医師は、怯まない。
「必要かどうかは、結果が決めます」
「このままだと、母体にも、お腹の子にも命の危険があります。早産リスクも上がります」
命の危険。
その言葉は、陽臣の世界では“奪われる”に近い音を持っている。
月那は視線を落とした。
腹の奥で、小さく動くものがいる。
それが今の自分の現実で、希望で、鎖でもある。
医師が続けた。
「今日はNST(胎児心拍)を少し長めに見ます。こちらへ」
別室の薄暗いベッドに横になり、腹にベルトが巻かれる。
機械が、規則的な音を拾い始める。
心拍。波。収縮。
数字が現実になる音。
月那は目を閉じた。
機械の音が、妙に安心で、妙に怖い。
整えられた世界は、いつもこうだ。
“正しい”音で、心を黙らせる。
陽臣は足元側に立っていた。
触れない。触れないまま、そこにいる。
月那の視界の端に必ずいる配置。
(鍵)
その言葉が浮かぶたび、息は深くなる。
深くなるほど、さっき医師が言った「削れている」が刺さる。
機械が、一度だけ音を変えた。
一定だったリズムが、わずかに乱れる。
心拍が落ちる。
画面の線が、ふっと沈む。
看護師の動きが早くなる。
医師がモニターを覗き込み、短く指示を出す。
「体位変えましょう」
「酸素、準備」
月那の手が、シーツを掴んだ。
痛みではない。恐怖でもない。
——祈りに近い焦り。
陽臣の呼吸が、初めてはっきり乱れた。
「……月那」
名前を呼ぶ声が、掠れている。
掠れているのに、叫ばない。
叫べば負けると知っている声だ。
月那は返事ができなかった。
返事をするより先に、腹の奥がぐっと重くなる。
息が浅くなる。
そのとき、月那は腹に手を当ててしまった。
陽臣に触れて整えるのではなく、子に触れて確かめるみたいに。
「……大丈夫」
誰に言ったのか自分でも分からない声。
看護師が言う。
「反応、見えました。——蹴った」
次の瞬間。
腹の内側から、確かに“返事”が来た。
小さな衝撃。薄い皮膚越しの意思。
月那の目に、熱が滲む。
生きている。
ここにいる。
モニターの線が、少しだけ戻る。
心拍が持ち直していく。
部屋の空気が一段だけ緩む。
陽臣の肩が、ほんの僅かに落ちた。
その落ち方が、崩壊寸前の人間の“ぎりぎり”の戻し方だった。
月那は、陽臣の方を見た。
陽臣の目が、腹に落ちている。
視線が、初めて“管理”の形じゃない。
触れたいのに触れられない人の目だった。
陽臣の手が、ゆっくり腹に伸びる。
伸びて、途中で止まる。
許可を取るように、月那を見る。
月那は、小さく頷いた。
頷いた瞬間、陽臣の掌が腹に触れる。
優しく、でも確かに。
固定ではなく、触れる。
「……聞こえるか」
声が低い。
けれど、押さえつけない音だ。
腹の中が、また小さく動く。
蹴る、というより、返事。
陽臣の喉が、小さく鳴った。
それは笑いではない。
安堵でもない。
——何かが芽を出す音だった。
医師が、静かに言う。
「いまの反応、いいですね」
「ただ、こういう波は今後も起きます。母体の負荷を下げることが大切です」
「“安定”のために締めるほど、母体は追い詰められます。これは運命の問題じゃなく、医療の話です」
月那は、息を吐いた。
吐きながら、頭の中でひとつだけ確信してしまう。
(この子は、陽臣を変える)
そして同時に、もっと残酷なことも思ってしまう。
(変わらなければ、自分が削れていく)
病院を出たころ、夕方の光が斜めだった。
空は高いのに、空気は重い。
天城家の車へ向かう途中、陽臣のスマホが震えた。
表示された名前に、陽臣の目が一瞬だけ冷える。
——父。
陽臣が通話に出る。
月那から少し距離を取って。
声の温度は変えない。
「……はい」
「……問題ありません」
「……必要な処置は終わりました」
“処置”。
その単語が、月那の胸を冷やした。
通話は短かった。
切ったあと、陽臣は黙って前を向く。
背中が硬い。
車内。
月那が水を一口飲んだとき、陽臣が突然言った。
「……父が、式を増やすと言った」
式。
祝福の段取り。
公的な儀礼。
子の誕生を名門の“成果”として固定するための行事。
月那は頷けなかった。
頷けば、また檻が増える音がするから。
陽臣は続けた。
「子どもを、早く“見せろ”って」
「……駒みたいに言う」
その言い方が、初めてだった。
陽臣が、天城家の言葉を“嫌悪”として口にする。
今までなら、飲み込んで整えたはずの言葉を。
月那は、息を止めた。
陽臣は窓の外を見ながら、低く言う。
「……俺は、ああ言われて育った」
「役に立つかどうかで見られて、必要かどうかで置かれて」
月那の胸の中心が痛む。
これまで共に過ごしてきて見えたものが、さらに輪郭を持つ。
陽臣は、ぽつりと続けた。
「でも今日」
一拍。
「……俺、怖かった」
その言葉が、胸の奥へ刺さった。
陽臣の口から「怖い」が出るのは珍しい。
それは弱さじゃない。
初めて触れた“奪えない領域”の告白だ。
月那は小さく言った。
「……僕も」
陽臣は答えない。
けれど、月那の腹にもう一度手を当てた。
さっきより、少し自然に。
「……こいつ」
陽臣は小さく言う。
「返事するんだな」
その声に、ほんの僅かに柔らかさが混じった。
月那は、その柔らかさを逃さないように、息を整えた。
整えるのは鍵のためじゃない。
この瞬間を保存するためだ。
夜。
天城家の書斎。
月那は部屋に戻され、陽臣だけが呼ばれた。
呼ばれた先には、父がいた。
そして、正妻も。
空気は上品で冷たい。
笑みは薄い。
言葉は正しい形で刃になる。
父が言う。
「妊娠も公表した。あとは“成果”を確実にするだけだ」
「孫は天城の次を固める。九条との結びも強まる」
正妻が、柔らかく続ける。
「あなたもようやく、役目が果たせたのね」
「——愛人の子としてではなく」
その言葉は、針みたいに細く刺さる。
陽臣の顔は変わらない。
変えない。だが、沈黙が一拍長い。
父が重ねる。
「月那を甘やかしすぎるな」
「不安定になるなら、締めろ。噛め。——確実に固定しろ」
固定しろ。
陽臣の胸の奥で、何かがきしむ。
今日、医師に言われた言葉が重なる。
“守る行為が強すぎると、それ自体がストレスになる”
“削れている”
陽臣は、初めて父の言葉をそのまま受け取れなかった。
その代わりに、今日のモニターの線を思い出す。
下がった心拍。戻った線。蹴り返した小さな意思。
奪えない。整えられない。
——でも、守りたい。
陽臣の声が、低く落ちた。
「……固定して、壊したら意味がない」
父の眉がわずかに動く。
「壊す?」
陽臣は、ゆっくり息を吸って吐いた。
崩壊を抑える呼吸ではない。
自分を選ぶ呼吸だ。
「月那が壊れたら、子も壊れる」
「……俺は、それは望まない」
正妻が薄く笑う。
「情が出たのね」
その笑いが、陽臣の中で何かを断ち切った。
情ではない。
これは——恐怖だ。
自分が“父と同じになる恐怖”。
陽臣は父を見た。
「俺は、違う」
「……あんたと同じにはならない」
静かな反抗。
声を荒げない反抗。
だからこそ、決定だった。
父は笑わなかった。
笑わない代わりに、空気の温度だけが下がる。
「……好きにしろ」
短い。
「ただし、天城のものを失うな」
失うな。
その言葉が、陽臣の背骨に残る。
深夜。
陽臣が部屋へ戻ると、月那は起きていた。
腹を撫でながら、暗い中で呼吸を数えている。
陽臣は近づき、そっとベッドの端に座った。
儀式を始めない。
うなじにも触れない。
ただ、腹の上に手を置く。
月那は、陽臣の呼吸のわずかな変化に気づく。
「……はるくん?」
陽臣は答えなかった。
答えないまま、腹に向かって小さく言う。
「……生きろ」
「選べるようにしてやる」
月那の胸が、痛いほど鳴った。
その言葉は、月那ではなく子へ向けられているのに。
だからこそ、救いに近い。
月那は理解する。
(陽臣は“与える側”へ行きかけてる)
そして、次の思考が、月那の中で自然に繋がってしまう。
(もし共鳴を切れば)
(陽臣は月那という“鍵”に依存しなくなる)
(代わりに、この子を守る父として生きられる)
(無償の愛を与えて、返される側になれる)
その可能性は、希望だ。
でも同時に、月那の喉を締める恐怖でもある。
共鳴が断裂したとき、陽臣は壊れないのか。
“鍵”を失って、空にならないのか。
月那は、腹の内側の小さな動きを確かめた。
蹴り返し。返事。生きている意思。
それを見て、月那は思う。
(救うって、奪うことじゃない)
(救うって、与えることだ)
月那は目を閉じた。
呼吸は深い。
深い呼吸の底で、共鳴断裂の封筒が静かに光る。
期待と心配が、同じ場所で揺れる。
そしてその揺れは、
出産という“決定”へ向かって、もう止まらずに進み始めていた。
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