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ようこそ、リトルウィッチ

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凛の住んでいる高層マンションは二〇階建てで、すべてのフロアがファミリータイプの分譲マンションである。町の駅から少し離れた郊外に立っていて、ほとんどの入居者が建設当初からの住人で入れ替わりはあまりない。凛の家は十二階であり、階数から見れば備えられたエレベーターで降りるのが普通だが凛は階段を使う。灰白色の階段をリズムよく降りていくとやがて階段の踊り場に人影が現れた。凛と同じ黒の制服を着て、右肩にスポーツバックをかけている。地面にしゃがみこんで視線を落として身体を揺らしている。イヤホンを耳に装着して音楽に聴きいっているのだ。ああまたやってるな、と凛は思った。何度教師に注意されても彼はウォークマンを片手に登校するのをやめない。つったったままの凛の気配に気づいたのか、彼はイヤホンをはずし顔を上げてニカッと笑った。

 「ッス、凛。今日ははええんじゃねえの。寝坊するかと思ったのに」
 「港こそサッカーの朝錬どうしたのさ。あとそれまたボッシュートされるよ」
 「俺のウォークマンは何度でもよみがえるぜ。今日は朝錬自主参加なんだよ」
 いくか、と促されて二人は喋りながら歩きだした。

 凛が港、と呼んだ相手は鈴原港といって、このマンションの八階に住む凛の幼馴染である。幼稚園からの付き合いで、家族ぐるみで交流があり、お互い何かあったらそれぞれの家に助けを求める事が当たり前になっている。こうして待ち合わせて登校するのは小学生から変わらない。
 「自主参加って言ったって、ほとんど強制みたいなもんだろ。港はどうしてそう三年が目くじら立てるような行動が好きなんだよ。よく思われてないんだろ」
 「自由参加だからやめただけだぜ。三年が騒ぐのはいつものことだよ。俺は古き悪しき年功序列制度に反旗を翻す革命の戦士なのさ。どだ、凛? 仲間になるか」
 「よくいうなあ……」
 港は評論家の父親の影響なのか、口がよくまわる。喧嘩も強いがそれ以上に弁が立つ。だからといって口だけの人間にならない。サッカー部ではレギュラーをつとめているし、テストの点も、くやしいが凛より上である。短く刈りあげた髪を凛と同じく薄く整髪剤で撫でつけてきめており、目元が涼しい。何より不思議な人望があった。要はイケメンである。凛と同じクラスだがだいたいクラスの中心にいるのは港だった。
 「ところでさー、いいもん手にしたぜ! 見るか!」
 「港がもってきそうなものはわかるよ」
 「じゃあ読み上げるな。“履歴書。五島凛、年齢十四歳。男性。市立光が丘中学校に通い天文部に籍を置く。備考。美少年。それから――”」
 「ちょっと待て!!」
 慌てて港が手にしていた白い紙をひったくる。A4サイズの履歴書である。丸っこい癖のある字で空欄が埋められていた。ただし顔写真を張る部分は空白のままだ。
 「なっなんだこれは!」
 「そのまんまだろ。女子の連中がなにかこそこそ書いてるから取り上げてみたらそれだったのさ。前もあったよな。某有名芸能人事務所に勝手に応募されそうになったの。もうあきらめたほうがいいんじゃね?」
 「うるさい!」
 履歴書をぐしゃぐしゃにしてポケットに突っ込む。朝から嫌なものを見てしまった。写真はどうするつもりだったのか。隠し撮りされていないか気になる。
 「もうこの際オーディションでも受けてさ、どっかの事務所で俳優目指せよ。でもってそれをこの将来有望な映画監督志望の俺が撮ってやんのよ」
 「うるさい港!」
 「な~、いいじゃん。男の俺が言うのもなんだけど、そこらの女子よりかわいく見えるぜーよっ、美少女凛ちゃん」
 「もういい」
 「あっやべっ、凛マジで怒ってる? なー機嫌直せよ冗談だよ」
 慌てる港を置き去りにして凛は早足で歩き始めた。

 凛にとっての最大のコンプレックスは、女顔である。ただでさえ背の低さも気にしているのに、背格好から見て、制服を着ていない時は女子に間違えられることが多い。もしくは「男性ですか?」と屈辱的な質問を受けることになる。別に髪の毛が長い訳でもなく普通のショートカットだが判別の対象にはならないらしい。
性別を感じさせない名前も原因の一つだ。この顔のせいで女子から騒がれたりすることが度々あるが、あまり嬉しい理由ではない。港は自慢に思えよというが、そもそも港にそんな事を言われるのも腹立たしい。
港は学年の女子達から熱い支持を受けている。女子人気の高いサッカー部に所属して期待のレギュラー、イケメンで文武両道だがちょっとしたワル、というふざけた経歴でなびかない女子は少ない。男子からすれば同性も魅了する人望が無ければすべてにおいて気に食わなさそうなタイプである。当然女子から騒がれるわけだが、この騒がれ方が凛と違う。港は「鈴原君カッコいい!」と言われ、凛は「五島君かわいい!」、なのだ。港に比べ、恋愛対象ではなくマスコット的扱いといっていい。凛と港は一緒にいる事が多いし、幼馴染なことも周りは知っているからいっそう比較が進むというものだ。港は親友だし怒ってもしょうがないが、この点について恨みがましく思わずにいられない。なお、港はもてるが異性に対しての興味は年頃の割に淡白である。以前に女子の一人からどんな子がタイプかウキウキと聞かれて、オードリー・ヘプバーンと答えていた。

 「なー凛、機嫌直せよ。給食のプリンやるから」
 「小学生か。でもまあもらっとく」
 「ところで母ちゃんがそろそろ雪じいの三周忌じゃないかって言ってたけど?」
 「今朝母さんと話したとこだよ。遺言どおりなにもしないよ」
 「そっか。あ、今日借りてた雪じいのコレクション持ってきたんだ。あとで返すよ」
 港の言っているコレクションとは雪之助の所有していた映画のビデオのことだ。港は凛と知り合ってから当然のように凛の傍にいた雪之助とも親しくなり、多くの影響を受けた。特に甚大だったのが雪之助の映画好きである。たくさんの映画フィルムを所有していた雪之助はよく二人に見せた。それに食い入るように夢中になったのが港だ。今では無声映画にも詳しくなるほどであり、夢は世界のクロサワらしい。
 「雪じいが死んじゃってからもう三年か……今もあの望遠鏡使ってるんだろ?」
 「うん。新しいのを買ってもあれは手放さないよ」
 映画の道を行く港とは別に、凛が強く魅かれた物がある。

 星だ。

 やはり港と同じく雪之助の影響である。
――雪之助は高齢であったが非常に元気だった。無口だったが行動的であった。幼い凛に舶来物の珍しい絵本を買ってきてあたえたり、大人向けの演劇にも連れて行った。ある時子供向けの望遠鏡をあたえられて凛は喜んで夜空を見上げたが、しかし空には三日月以外はっきりとした星が見えない。郊外に住んでいたが、周囲には様々な明かりが灯り、およそおもちゃの望遠鏡で星がよく見える環境ではなかったのだ。ぐずる凛に視線を合わすようしゃがんで雪之助が言った。
 「たくさん星が見られるところがある。凛、行くか」
 そこで初めて凛はプラネタリウムという物に出会った。満天の星空という宝石箱を初めて見たのだ。都会では到底見られない天の川や小さな星の瞬きが凛の胸を躍らせた。購買所で買ってもらった星座の本をすり減る程眺め、中でも一際青白く輝く星の写真が気に入った。雪之助に見せると「天狼星だな」といって、冬の星だ、と付け足した。以来夜空は凛にとっておもちゃ以上に魅力的なものになった。星座早見表や天文雑誌を集めて、おこづかいがたまればプラネタリウムに通う日々。そんな凛を見て雪之助は「中学に入ったら望遠鏡を買ってやろう」と言った。しかしその一年前に雪之助は逝った。だが中学の入学式の日、それは届いたのだ。屈折式の中学生が使うにはちょうどいい天体望遠鏡だった。雪之助はすでに品を予約していて入学式に届けるようにしてあったのだ。もう寿命を悟っていたのかもしれない。その日の夜、その望遠鏡にムーングラスをとりつけ、早速満月を観測した。思ったより綺麗で、大きくて、なんだか切なくなって凛は少し泣いた。それからずっとその望遠鏡を使っている。
 (そういえば……星といえば今朝の夢)
 妙だったなあ、と思う。まるで星が自身に宿ったかのような。心なしかまだ胸のあたりが熱く感じる。
 「おーい、おはよー」
 考えて歩いているうちにクラスの顔馴染みが何人か声をかけてきた。そろそろ学校が近い。凛達の通う市立光が丘中学校は今年で創立三十周年を迎える。
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