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彼女には、記憶がなかった。

その記憶の始まりは、恐らく六、七才の頃。ガタゴトと揺れを感じる中で目覚めた彼女は、自分が誰であるか、何故こんな場所に居るのか、何も分からない状態だった。
薄暗く揺れるその場所には、十名程の少年少女が身を縮こませながら座っていた。彼らは怯えて泣くばかりで、それを見て彼女も怖くなったのを覚えている。
そして、ここが車の荷台の中で、親に売られた子供や人浚いにあった子供達を乗せた車だと知った。
彼女に記憶はなかったが、分からないのは自身に関わる事のみで、それまでに得た知識等は頭にあった。共にいた子供の話を聞いて、自分はどちらなのだろうかと、彼女は思った。せめて、悪人に拐われた側であってほしい、両親の顔も名前も分からないが、これ以上の傷は負いたくない。絶望を知りたくなかった、誰かが助けてくれると信じたかった、自分にも、探してくれる親がいると信じたかった。

ぐすぐすとした泣き声と、ガタガタと揺れる荷台、外は夜だろうか、この車はどこまで走るのか。励ましあう声なんてどこにもない、嘘でも良いから「大丈夫だよ」、なんて声を掛ける子供もいなかった。
この先は、どこかに売られていくのだ、そうしたら、奴隷のような生活が待っているのだろうか。
彼女は不安と恐怖に駆られる体を両腕で抱きしめた。その時、焦げた煤の匂いがするのに気がついた。彼女は辺りを窺ったが火の手はなく、やがてその匂いが自分の服から香るものだと気づくと、暗闇に目を凝らしながら自身の服を確かめた。滑らかな肌触りのワンピースは、所々が砂や土で汚れ、スカートの裾には、焼けて千切れたような跡がある。
一体、この車に乗せられるまでの間、自分に何があったのだろう。もしかして、何かから逃れてきたのだろうか、それはまさか、自分の家だったりするのだろうか。

そう考えが行き着くと、恐怖で体がぶるりと震えた。そんな筈はないと頭を振っても、何も覚えていないので、不安は募るばかりだ。不安が募れば、それはより一層の恐怖へと変わる。彼女がどうにも出来ない恐怖に身を強ばらせていると、静かな荷台の中、勇敢に声を上げる少年がいた。

「ここで泣いていても始まらない、逃げ出そう!」、彼は震える拳を握りしめながらそう言った。

皆がそんなの無理だと怯える中、少年も怖いだろうに、しかしその瞳は揺れる事なく力強く輝き、彼女はその瞳に導かれるように、少年の提案に頷いていた。震えながらも発した彼の言葉は、その眼差しは、彼女にとって唯一の希望のように感じられたからだ。
幸いにも体を縛られていた訳ではない、他の子供達とも協力し、車が止まって荷台の扉が開いた瞬間に、皆で一斉に扉ごと体当たりして外へ飛び出した。そこからはとにかく走るのみで、運良く逃げ出せたのは、彼女と少年だけだった。

それからは盗みの繰り返しだった。大人達は誰も助けてはくれない、軍服の男には、再び人身売買の集団に連れていかれそうになった。軍人を信用しないと誓ったのは、それからだ。

そんな日陰での日々を過ごしている内に、今の組織と知り合った。人攫いから逃れ、盗みだけで生きている子供に興味が沸いたのかもしれない。衣食住用意するから組織の為に働けと言われ、彼女達は様々な悪事を学びながら仕事をこなした。盗みや騙しの方法、ドアの施錠解錠方法に、薬物の見分け方、売り方、護身術に銃を含めた武器の扱い、人体について、商売について、この世界について、その裏側について。
知れば知るほど、自分の寿命が縮まっていくのを感じた、危険が常に隣り合わせの仕事が増えたからだ。

ずっと共にいた少年は、クエドという。彼は昨年、仕事の途中で命を落とした。

「いつか好きに生きられる時が来る、金を貯めて、また一緒に逃げれば良い」

クエドはそう言って、よくパンを半分分けてくれた。もう、空腹で倒れる事はなくなっても、クエドはいつもそうやって、彼女に生きる指針を示してくれた。

そんな彼との細やかな願いも断たれ、彼女にはついに何もなくなってしまった。自分が何者か分からなくても生きてこれたのは、彼がいたからだ。この世界と自分を繋ぎ止めてくれた、そんな唯一の存在を失ってしまった。
心はやがて体の奥深くに沈められ、彼女は常に誰かでいる事を選んだ。自分ではない誰かでいれば、自分の事を考えなくてもいい、そのまま望みも何も全て消えてしまっても構わない。そうでなければ、生きる気力も湧かない。


だが、目の前の軍人は、自分が誰か知っているという。その真意は怪しいものだが、それでも、本気でここから自分を連れ出そうとしているのは伝わってくる。

彼女の捨てた筈の心が存在を主張してくる、何を期待しているのか、きっと何らかの企みがある筈だ、そう振り払おうとしても、彼女の気持ちが揺れているのは事実だった。



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