踊り子と軍人 結託の夜

茶野森かのこ

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彼女は踊り子の仮面の下、もう一つの眼差しで、じっと彼を見やる。彼の表情からは焦りも迷いも見えず、こちらを見透かしてやろうという気概も見えない。ただ、まっすぐと、視線をこちらに向けている。穏やかに、時折悲しさをその瞳に霞ませながら。それはまるで、仮面の下に本当の彼女の心があると知っているかのようで、彼女は彼の瞳に、踊り子のマリア以外が映り込んでしまわないよう、一層気を引き締めた。

「今のあなたは踊り子のマリアですが、それが本当のあなたではない。仕事を与えられれば、どんな人物にもなる事が出来る。あなたは犯罪組織の一員ですよね」

穏やかな口調は崩さずに、それでも確信を持って彼は言う。
彼女は思わず狼狽えそうになったが、先程から漂う違和感の尾ひれに触れ、そちらに意識を向けた。
こんな風に彼女の正体を暴いておいて、捕らえるつもりがないとはどういう事なのか。もし、組織の一員である彼女に仕事の依頼をするつもりなら、この確認は必要ない。

「勝手なこと言わないで下さい!そんな、証拠でもあるんですか…!」

彼女は心外だとばかりに憤慨した、勿論踊り子としてだ。彼の目的が分からない以上、踊り子に徹するしかない。
今の彼女は踊り子のマリアで、役割がある以上、それに徹するのみだ。元から何者でもない自分には、常から誰かしらの仮面が必要で、彼の言う組織が必要だった。

だから、守らなければならない、自分の唯一の居場所を。本当の自分なんて考えなくてもいい、この居場所を。

彼女は踊り子の仮面の下で、内心、唇を噛んだ。
それにしても、どうしてバレたのだろう、変装も仕事も完璧だった。次の仕事だって決まっている、今はその為の情報収集をしている中だ。組織にとって、自分はまだ必要なはず。もし正体を知られた可能性があるなら、組織から何らかの知らせがくるだろうし、もし何も知らせずに切り捨てられるとしても、この店の店主と用心棒とは信頼関係を結んでいる、情報は耳に入る筈だった。
それが何もないということは、組織は何も知らないのだろうか。

彼女は再び写真に目を向けた。

写真の人物に共通するのは、身分の高い家柄に関わりがあるというだけで、顔も体格も纏う雰囲気も全く違う。この写真だけでは分からないが、仕草や歩き方、どこをとってもその人物に見えるよう徹底している。
顔は化粧で変え、不審がられない程度に顔周りのもので隠し、身長は、靴や服に細工を施して、変えられる範囲の人物を割り当てられている。声の高さはある程度変えられるが、喉の不調を訴えれば不審がられる事もなかった。それ以外が、完璧にその人だったからだ。

だから、彼女は今もこうして組織の中で生きているのだが、もし組織の知らないところで軍人に正体がバレたなんて知れたら、彼女は軍ではなく組織に命を奪われるだろう。

「何か言ったらどうですか、何もないんでしょう?聞いた事があります、軍の人達は何の罪もない人を罪人に仕立て上げてしまうって!」

彼女は踊り子に徹しながら憤慨し、恐怖に怯えて顔を背けた。涙を見せないように必死になって、震えそうな体を腕で抱える演技をした。俯けた視線、ドレスに入るスリットの隙間からは、太股に取りつけられた黒いベルトが見える。ナイフを仕込んだホルダーだ。それから、テーブルの上の様子を頭に思い浮かべる。
元は彼の腰に差してあったであろう刀や銃は、テーブルの上に置かれていた。
もしもの時を考えれば、彼の命を奪う必要がある。

そこまで考えはしたが、彼女は不意に視線を流した。

ここで、自分の命を守る事に、本当に意味はあるのだろうか。

彼女は、自分がどこの誰なのか、本当の名前すら知らない。生きる為に自分である事もやめた。ここで命を失っても、悲しむ人もいない。名も知れぬ女が、ただこの世から消えるだけだ。

自分を捨てたから、考えずに済んでいた現実を前に、彼女は自身の体を抱く手から力が抜けていくのを感じた。このまま正体を晒して、この命を差し出してしまおうか。子供の頃に組織に拾われ生きながらえたとはいえ、その先に待ち受けていたのは、いつ命を落とすか分からない罪を重ねるばかりの日常だ。
この組織に、元から恩なんて感じてもいない。そんな考えが頭を過ったが、彼女の腕を滑り落ちるその手を止めるように、彼が口を開いた。

「証拠はありません、ですが、僕は本当のあなたを知っています」
「…は?」

彼女は自分が踊り子のマリアであることも忘れ、思わずといった様子で声を漏らした。
一体、この男は何を言い出すのか、彼女が眉を寄せて顔を上げれば、彼のその瞳を見てはっとした。彼の眼差しは真剣そのもので、彼が本気で言っているのだと気づいたからだ。
だとしても、簡単に信じられる訳がない、何をもって彼は本当の自分だと言うのか。
彼女はその反発から、動揺する心を落ち着けた。危ない、思考が弱い方へ向かっていたから、この妙な話が真実味を持って聞こえてしまったんだ。

「…本当も何も、これが私ですから」

しっかり隙間もなく踊り子の仮面をつけ直し、彼女は訝しげな表情を作った。ここで正体を晒すなんて、バカな真似はやめよう、この店の店主と用心棒には何の恨みもないのに迷惑を掛ける事になるし、組織や軍に命を奪われるなんて、そんな終わり方は気に入らない。

「記憶を失う前の、あなたの事です」

しかし、気持ちを改めた彼女の思考を、彼が止めさせた。
信じられない思いで再び彼を見れば、僅かな緊張を伴う視線に動けなくなる。
本当に彼は、自分の過去を知っているのだろうか。信じられないと突っぱねた筈の考えが、再び巡ってくる。本当なのかと思わされてしまう、彼の瞳に彼女は恐怖を抱いた。見透かそうとする訳でもなく、時折悲しそうに見つめていたのは、知っていたからだろうか。自分すら知らない、自分の過去の事を。

戸惑う彼女に、彼はそっと表情を和らげた。

「僕の目的は、あなたをこの組織から連れ出す事です。僕と、一緒に来てくれませんか」
「……は?」

思わず何もかもを忘れ、心の底から声が出た。






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