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しおりを挟む「では、この店の店主に挨拶をしてきましょう。それから、用心棒の人にも。彼らは、あなたを守ってきた人でしょう?」
その言葉に、彼女は目を丸くした。彼らは組織の人間で、組織からきた仕事を彼女に渡す事が店主の役割で、彼女が逃げ出さないように見張るのが用心棒の役割でもある。でもそれは表向きで、彼女にとっては、二人には見守られてきたという感覚の方が強かった。だから二人の事を信用しているのだが、まさかその関係性までセナに知られているとは思わなかった。
これも、クエドが教えたのだろうか。一体、クエドはどこまでこの男に話しているのかと、彼女は少しばかり恐怖を覚えた。
そんな彼女の思いにはきっと気づかないまま、セナはテーブルの上のものを片付け、刀や拳銃を身につけると、「さぁ、行きましょう」と、意気揚々と部屋を出ようとする。彼女も席を立ちそれに続こうとしたが、彼は扉を前に不意に足を止めた。
「そうだ…あなたの証明、見せてもらう事は出来ますか?」
証明と聞かれて、彼女は何のことか分からずに首を傾げたが、セナが右腕を指差すのを見て、アザの事だと気がついた。
「…いいけど」
今更、証明も何も無い気がするが。彼女は指先を舐め、その濡れた指先で右腕の内側を擦った。すると、化粧が剥がれ、少女の写真同様のアザが浮かび上がった。
「気味悪いでしょう?悪魔の翼みたいで」
「いえ、僕にとっては幸運の翼ですよ。あなたを見つける事が出来ましたから」
その眼差しの柔らかさに、彼女は不思議そうにセナを見上げた。
「…私達、小さい頃そんなに仲が良かったの?」
「えぇ、婚約した仲ですから」
ふーん、と頷いた彼女に、セナは苦笑った。
「信じていませんね」
「そりゃあね、簡単に何もかも信じられる程、私は素直には生きられないから」
「あなたは、ですか」
含みを持った言葉に、彼女はややあって、その意味に気がついた。そして、幾分肩の力を抜いて笑った。
「そう、私は。」
踊り子でもどこかの誰かでもない、セナの言う柳路陰シュリエにはなれないかもしれないけど、名前のない自分が、今の自分だ。この自分のまま、生きていく。そして願わくば、クエドと夢見た未来を、この道の先でこの手に出来たら。
その為に、彼女はセナを見上げる。
この扉を開けたら、彼女は再び踊り子のマリアだ。
「それでは、参りましょうか」
セナの言葉に頷き、彼女はそっと纏う雰囲気を和らげる。それでも踏み出した先には、未来があると信じて。
扉を開けて、セナは先に彼女を部屋の外へ送り出した。目の前を通る彼女は、もう踊り子のマリアの顔をしている。その横顔を見て、決して涙を見せなかった彼女の顔を思い浮かべる。あの時、クエドに胸の内で声を掛けた。君が言っていた通りだと。
彼女は泣かない、泣き方をいつの間にか忘れてしまったようだと、クエドは言っていた。笑い方は、クエドがしつこく笑わせにかかって、無理にでも引き出したと言っていたが、泣き方は教えてやれなかったから、いつか泣き方を教えてやってと頼まれていた。
「どうして?君を信頼しているんだ、君が教えてあげなよ」
「俺は、多分無理だなー」
クエドはそう言って、軽やかに笑うだけで、いくら聞いてもその理由は教えてくれなかった。まぁ、またいつか聞けるだろうと、その日もいつものように町外れの酒場で別れたのだ。いつもと変わらない夜だったから、まさか思いもしない、その日がクエドと会う最後の夜になるなんて。
もしかしたらクエドは、危険な仕事を回されていたのかもしれない。自分はここまでかもしれないと予感があったのだろうか、だからそんな事まで自分に託したのだろうか。泣き方まで教えてしまったら、自分がいなくなった後、彼女は誰を頼って泣けば良いのか。そんな事を考えていたのだろうか。
そんな事を考えるくらいなら、生きていてくれたら良かったのに。彼女は今も、君を思って泣けないんだから。
「…どうかしましたか?」
彼女の声に、セナははっとして顔を上げると、「何でもありませんよ」と言葉を返し、彼女の元へ向かった。
幼い頃の彼女の姿が、不意に今の彼女と重なる。あの頃の彼女も躍りが得意だった、ドレスを翻し華麗にくるりと回って。セナは今も、幼い頃に覚えた初恋を、彼女の影に追い求めている。けれど、その思いは、胸の奥深くにしまいこんだ。
扉を開けたのだ、これから新たな日々を迎えに行くのに、個人的な思いは邪魔になる。
今は友との約束を果たすため、彼女が何者でもない、今の自分を生きるため。
セナは彼女の背中に手を添えた。
「行きましょうか」
「…はい」
頷く彼女と共に、歩き出す。この日までの全てを引き連れて、未来を生きるために。
了
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