瀬々市、宵ノ三番地

茶野森かのこ

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愛がさとしの部屋を出た頃、リビングでは、多々羅たたら麗香れいかがゴミ袋片手に片付けをしていた。

「良い写真だな…なんか雑誌の表紙みたい」

そんな中、多々羅が目にしたのは、麗香と智がドレスとタキシードを着て、海辺で寄り添う写真だ。結婚式のものだろう。

「ね、幸せそうだよね…」

自分の事なのに、麗香は他人事のように言う。多々羅が麗香を振り返ると、麗香は寂しそうに写真を見つめていた。その表情からは、他人事のように思っているとは到底思えず、多々羅の胸は苦しくなる。麗香は、智の事を思い出したいのだと感じ、多々羅は躊躇いながら口を開いた。

「…あの、記憶の事、聞いても良いですか?」
「うん、気にしないで聞いて」

麗香は柔らかに表情を緩めた。きっと、多々羅が気にしないように気を遣ってくれたのだろう、だが、その表情は、どうしても無理をしているように見えてしまう。それでも、何か記憶を取り戻す力になりたくて、多々羅は顔を上げた。

「こういう…場所の記憶も、無いんですか?」

多々羅が示すのは、写真を撮った場所の事だ。麗香は写真を見つめ、寂しそうに笑った。

「場所は覚えてる。ドレスを着て、写真を撮って貰って、幸せだと思った事は覚えてるのに、ただ、誰と居たのかが分からないの。結婚した記憶もある、なのに智さんの顔だけが、靄がかかってるみたいに思い出せなくて。だから写真を見て、あぁ智さんと結婚したんだなって理解するの。でも、何だか別の人の記憶を覗いてるみたいで、私は本当に私なのかって、不安になるのよ。だから、智さんと会って話さなきゃとは思うんだけど」
「それが、怖い…?」

多々羅がそっと尋ねると、麗香は眉を下げて頷いた。

「うん。だって夫婦だったのに、私だけ記憶がなくて、私はその時の自分の気持ちすら分からない。写真を見て事実だと理解するだけで、実感が沸いてこない。それが、…怖い。こんな状態で会っても、私、智さんの前でどんな顔でどんな風に喋って、何を考えていたんだろうって、あの人の知ってる私を、私は知らないから」

言って、麗香ははっとして顔を上げた。

「ごめんね、暗い話ばっかりね」
「そんな事ないですよ!」

「麗香さんは、智さんに嫌われたくないんですね」

気づくと愛が側にやって来ていて、多々羅が見ていた写真を手にしながら、ぽつりと呟いた。

「大事な物ほど、向き合う事は怖いですよ。麗香さんが何も知らなくても、智さんは麗香さんの事を知ってますよ。智さんがきっと、麗香さんの知らない日々を取り戻してくれるんじゃないでしょうか」

その言葉に、多々羅は愛をまじまじと見つめていた。愛が視線に気づき、多々羅のぶしつけな視線に眉根を寄せると、多々羅ははっとした様子で笑顔を作り、麗香に向き直った。

「…そうですよね!そっか、そうかもしれない。勇気出さなきゃ、何も始まりませんよね。智さんも、きっと待ってますよ!」

だから、大丈夫。指輪も見つかるし、きっと智の事だって。
その背中を押すような二人の思いに触れ、麗香はそっと表情を緩めた。

「…ありがとう」





「…なんだ?人の顔見て」
「い、いえ!何でもないですよ」

マンションから出て、麗香を駅まで送った帰り道、多々羅は先程の愛の言葉を思い返して、また愛の事を、じーっと見つめていた。
愛に怪訝そうに見られ、多々羅は咄嗟に明後日の方を向いたが、心の中では、愛の事を考えていた。

愛も、同じなのだろうか。怖いから、家族と距離を取るのだろうか、家族が大事だから。

ぼんやりとする多々羅を見て、愛は溜め息を吐いた。

「仕事を頼む。智さんの指輪を持ってきてくれ」
「…は?」

唐突に仕事を振られ、多々羅はきょとんとして再び愛を見つめた。
智の指輪を持ってくる。一瞬どういう意味か分からずに、頭の中が混乱する。

「智さんとは仲良いんだろ?勿論、依頼の事は伏せてね」
「え、指輪を?どうやって?」

さすがに結婚指輪を借りる訳にはいかない。借りる理由も思いつかない多々羅に、愛は肩を竦めた。

「それは自分で考えてよ、ちょっと見せてとか何とか言ってさ。良かったな、ようやく道案内以外で、探し物屋として役立てる時がきたな」
「いやいや、無理ですって!バレますって!」
「見ず知らずの俺が行くよりましだろ」
「えー…あ!じゃあ、うちで飲み会開きましょう!」
「…うちで?」

愛は再び、怪訝そうに多々羅を見やった。





そういう訳で数日後、宵の店の二階で、男だらけの飲み会が開かれた。

麗香経由だと怪しまれると思い、多々羅は共通の友人に頼んで智に連絡して貰った。多々羅が久しぶりに会いたいと伝えると、智は快く誘いに乗ってくれた。
安い缶チューハイに、つまみを何品か用意したリビングで、多々羅と智は昔話に花を咲かせた。智は人見知りしないタイプだし、愛は外面だけは良い。話は、多々羅と智が在籍していたテニスサークルでの話で盛り上がった。


智は、初対面の愛にも、人の良さそうな印象を与えた。背が高く、笑顔が印象的な爽やかな好青年だ。だが、そのシャツは少しよれて、笑ってはいるが、どこか疲れた顔をしている。
最初はどうなる事かと思った愛だが、智は酒に弱く、一時間もすればすっかり夢の中だった。

多々羅が考えた作戦は、智が酒に酔った所で、指輪の化身に現れて貰うというシンプルなもの。それなら変に理由を作って指輪を借りなくていいし、もし話し声で智が起きたとしても、夢でも見ていたんだと、誤魔化せば良いと。

「本当に弱いんだな、まだ一本も飲んでないぞ」
「前はもうちょっと飲めてたけど…疲れてるのかな、ちょっと心配になりますね」
「奥さんが自分の記憶を失えば、そりゃな。本当に起きないよな」
「はい。智さん、いつもぐっすりコースですから」
「よし」

愛が左手の薬指に嵌められた指輪に語りかけてみると、煙を使わずとも化身が現れた。きっとこの指輪も、麗香のコンパクトミラーや智の万年筆と同じ思いなのかもしれない、彼らは持ち主の二人がまた幸せに笑ってくれる事を願っている。
愛が化身が現れたと合図をくれたので、多々羅もゴーグルとイヤホンを装着した。

姿を現した指輪の化身は、銀色のタキシードを着た、手のひらサイズの男性だった。そして、愛の瞳を見て跳び退いた。

「翡翠の瞳!?い、いや、この際誰でもいい、助けて下さい!」

飛び退いた小さな体が、愛の手に駆け寄ってくる。その姿に、愛はしっかり頷いた。

「勿論ですよ、智さんが起きない内に聞かせて下さい。麗香さんの指輪を隠したのは、智さんですよね?場所は分かりますか」
「僕の対は、小さな箱に入れられて土の中に…それは分かるんだけど、あの場所はどこだろう。花があったから、花壇ってものだと思うんだけど、僕が智の元に来てから初めての場所だったから」

化身の言葉に、多々羅は首を傾げた。

「化身になって表に出て来ない間、物には外の様子って見えてるんですか?」
「その時の状況にもよるだろうけど…眠っている場合もあるし、物としてひっそりと日々を過ごす物の方が多い。化身になって外の世界が見えても、彼らは何でも知っている訳じゃない。そこがどこかは人間達の会話で知ったり、物同士で情報交換をしているようだ。
長い間化身として外を見ていたり、つくも神までいけば、知識もついているんだろうけど、ほとんどの場合が、常に外に意識を向けている訳じゃない」

愛の説明に、そう言えばと、多々羅は記憶を巡らせた。多々羅は、宵の店の用心棒以外は、化身の姿を見た事がなかった。多々羅がゴーグルとイヤホンの訓練をしている時、アイリスやノカゼが棚の物達に声を掛けていた事があったが、化身の姿は見えなかったし、物からは声も聞こえなかった。その時は、物同士だから姿を現さないでも会話が出来るんだなと、ぼんやり思うくらいだったが、姿を現さないのは、それがやはり普通だからなのだろう。

指輪はショーケースの中で過ごす時間も長いだろうし、元から外の世界の知識がないのも仕方ないかもしれない。

愛と多々羅が話していると、化身の彼は、「自分が不甲斐ないです」と、頭を抱えて項垂れた。

「僕が、もっと周りを見ていれば良かったんです。片割れの指輪が箱に閉じ込められて、ずっと混乱していて、智に声なんか聞こえないのに、どうして、どうするのと聞くばかりで」

嘆く指輪の化身に、愛は指先でその背中をそっと撫でた。力を込めてしまわないように、優しく、怖がらせないように。

「あなたは何も悪くありません。無理もありませんよ、突然の事で、智さんも麗香さんの事はショックだったでしょう…でも、理由もなく指輪を閉じ込めたりはしない筈です。智さんは、とても優しい人でしょうから」
「…でも、人の心は分かりません…」
「そうですね、心は変わりますから。でも、優しい人だというのは、変わりません。あなたを見ていれば分かります」

それには、指輪の化身はきょとんとして顔を上げた。

「智さんの持ち物達は、皆さん主人思いです。智さんが物にも愛情を持って扱う人だから、あなた達は主人を思って悲しんでいる、指輪を理由もなく閉じ込める人じゃないと分かっているから、あなただって苦しいんじゃないですか?」

その寄り添うような愛の言葉に、声に、指輪の化身は瞳を揺らして愛を見つめた。

「何か、理由がある筈です。麗香さんもその理由を知りたがっています、何か他に気づいた事があれば教えてください」

その熱心な眼差しを受け、指輪の化身はきゅっと唇を引き結ぶと、ぐいと目元を袖で拭った。それから、気持ちを改めるように愛を見上げた。

「対の指輪が埋められた場所は、とても人が多くて広々とした場所でした。あと、智の知り合いにも会いました、色んな人に声を掛けられていましたから」
「…どこだ?心当たりあるか?」

化身の言葉を聞いて、愛が多々羅に尋ねるが、多々羅は再び首を傾げた。

「う~ん、その情報だけじゃなんとも…仕事場?会社に花壇あるのかな…」

「何、こそこそやってんだよー」

不意に寝ていた筈の智から声が聞こえ、愛と多々羅はびくりと肩を揺らした。化身は智に見える事はないが、慌てて指輪に戻っていく。多々羅も焦ってゴーグルとイヤホンを外した。
智は目を擦りながら、まだ眠そうに上体を起こした。



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