瀬々市、宵ノ三番地

茶野森かのこ

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「様子がおかしいと思ったら、俺に催眠術でも掛けて、何か聞き出そうって魂胆かー?」

ふわふわとしながらさとしが言う、まだ酔いは残っているようだが、意識ははっきりとしているようだ。

「何?何か、シラフじゃ聞けない事?」

眠そうに目を擦りながら尋ねる智に、多々羅たたらは視線を彷徨わせた。まさか、指輪の化身に話を聞いていたなんて言える訳もなく、どう誤魔化したら良いんだろうと考えている内に、その視線は智の指輪に止まった。智は、麗香れいかの指輪を隠しても、自分はその指輪をつけたままだ。麗香を思っている、指輪を隠したのだって、きっと麗香を思っての事だ。

「いえ、」
「待ってください」

何か言葉を発しようとした愛を、多々羅が止めた。
この場を誤魔化そうとしてくれたのだろうが、多々羅はそれが分かっていながら、嘘をつく事が出来なかった。智は、いつだってまっすぐに自分と向き合ってくれた、気持ちを聞いてくれた。そんな智だから、ちゃんと自分も素直に向き合いたいと思った。回りくどい事はやめて、ちゃんと話をすれば智は聞いてくれるし、答えてくれる人だ。多々羅はそう決心し、姿勢を正すと、まっすぐに智を見つめた。


「…実は、麗香さんの指輪の事なんです」
「おい!」

愛は思わず声を上げた。だが多々羅は、愛を制しつつ、愛をまっすぐと見つめる。大丈夫と言っているような揺らがない視線に、愛は溜め息をつき、腰を下ろした。

「俺、探し物屋に勤めてるって言いましたよね。麗香さん、俺達に指輪探しの依頼をしてるんです。それだけ、あの指輪が大事なんです。智さん、知ってるんでしょ?指輪のある場所」

真っ直ぐ見つめる多々羅に、智は気まずそうに視線を彷徨わせた。

「麗香さん、本当に知りたがっていて、それに思い出したいって言ってました。智さんの事、今だって大切なんですよ」

そのまま、この話から目を逸らして欲しくなくて、多々羅が懸命に訴えれば、智は困ったように眉を下げて自分の指輪に触れた。その時、指輪の化身が再び姿を現した。多々羅はゴーグルをしていないので、今、化身が見えるのは愛だけだ。指輪の化身は智の手に縋るように抱きつき、不安そうに智を見上げていた。
智は指輪を見つめたまま、そっと笑んだ。諦めを滲ませたその表情に、化身の顔が悲しそうに歪んでいく。

「…麗香が目を覚まして、俺を覚えてないって分かった時、俺はこのまま麗香の前から消えた方が良いって思ったんだ。だから、麗香が眠っている時に、指輪を取った」
「どうしてそんな事。麗香さん、余計に不安になってますよ?」
「俺だってこんな事したくないよ。出来るなら、どっしり構えて、麗香の不安を丸ごと受け止められるような、格好いい男になりたいよ」

でも、と智はソファーに寄りかかる。指先は、指輪を撫で、化身は肩を落としながらも、智の手の甲を撫で擦っていて、智の心に寄り添っているようだった。化身にとっても、対の指輪が麗香の指から外された今、自分もいつ智の指から外されるか分からない。自由のない場所で、ひとりぼっちの日々を送ることになるのかもしれない、そう思えば辛いにだろうに、それでも持ち主に寄り添う姿に、愛はなんとも言えない気持ちになりながら、智の話を聞いていた。

「…俺、ずっと自信なくてさ、どうして麗香みたいな子が俺なんかを好きになってくれたのかなって」
「それは、智さんが格好いい人だからですよ、俺の憧れですから」

むきになる多々羅に、智は気の抜けた様子で笑った。

「はは、多々羅くらいだよ、そんな事言ってくれるのは。俺だって、劣等感の塊みたいな所があって、変わろうって思えたのも、麗香に会ってからだ。あいつ、まっすぐで融通効かない所あってさ、でも、それが格好良くて。なかなか言えないだろ、駄目なものを駄目とか。俺は情けないけど、そんな麗香を見てたから、後輩の前で強くいられたんだ。多々羅には魅力があるのに、俺みたくならないで欲しいってのもあるけどさ」

笑って智は、一つ息を吐いた。

「…だから、こんな俺を麗香はもう一度好きになってくれるのかなって。俺達が付き合ったのは、偶然っていうか…もう一度出会いから始めたら、今じゃ環境も違うし、それこそ麗香にとって新たな出会いもあるかもしれない。もっと良い男と出会えるかもしれない、そう思ったらさ、俺は枷にしかならないだろ」

多々羅は、智の思いを聞き唇を噛み締めた。
智が麗香の枷になる筈がない、多々羅は弱気な智の発言に腹を立てていた。多々羅にとって、智も麗香も憧れの人なのだ。智が居たから、多々羅は大学生の間は、穂守ほがみへの劣等感が少し薄れたし、気持ちが楽になれた。
だから、そんな風に、智には自身を否定してほしくなかった。

「…麗香さんの気持ちはどうなるんですか」

苛立ちと悔しさを抑え、絞り出すように多々羅が言えば、智は躊躇うように視線を揺らした。「…それは」と、その先の言葉が続かない智を見て、多々羅は智の顔を上げさせるように腕を掴んだ。多々羅の方へ顔を向けた智だが、その時の反動で左腕が揺れ、指輪の化身が驚いて尻餅をつきそうになったのを、愛が咄嗟に手のひらで受け止めた。指輪の化身は愛を見上げるも、最初は思わず怯えた表情を見せたが、愛の手のひらに視線を落とすと、安心したように「ありがとう」と、愛を見上げた。愛はさすがに言葉を返せないので、そっと口元に笑みを乗せるに止めた。

多々羅と智は、愛の様子には気づいていないようで、多々羅は尚も訴えるようにその腕を軽く揺すっている。

「もう一度、ちゃんと話し合った方が良いですよ。麗香さん、智さんに嫌われてるんじゃないかって、怖がってるんですよ」
「…それは、俺達が夫婦だって知ったからだろ。あいつは真面目だから、俺の事気にしてるだけだ。誰にだって優しいのは、多々羅だって知ってるだろ」

頑なな智の言い分に、多々羅は智の腕から手を放すと、膝の上で、ぎゅっと拳を握った。
多々羅の頭の中では、繰り返し麗香の悲しそうな、寂しそうな笑顔が浮かんでは消えていく。思い合う気持ちは確かにある筈なのに、どうして麗香の思いを受け止めてくれないのか、信じてくれないのか、多々羅はそれがとても悔しくて悲しかった。
多々羅だって、麗香は強い人といった印象が強い。でも、今の麗香は不安で心が苦しくて、それでも前を向こうと勇気を出して愛を訪ねてきた。智の気持ちが分からないなら、きっと指輪を探してほしいと依頼するのも怖かった筈だ。無事に指輪が見つかっても、智はもういないかもしれない、強い麗香が不安で心細くなるのは、相手が智だからで、大事な人だからだ。そんな麗香を、智だけは受け止めてきたのではないか。智は、麗香の外には出せない弱い部分をきっと知っている、それなのに、どうしてと、多々羅はやるせなさでいっぱいだった。

「麗香さんだって、強くないですよ。頭の中では分からなくても、心は嘘をつけないんですよ。智さんとの時間が、麗香さんの中にあるんです。俺、智さんが大事な人を放っておいて、こんな、こんな情けない事言うとは思いませんでした!」

立ち上がる多々羅に、愛が「多々羅」と腕を掴んだが、多々羅はそれを振り払った。

「あなたがそんな気持ちでいるなら、お、俺が麗香さんの恋人に立候補しますよ!?」


その宣戦布告に、智は呆然と多々羅を見上げた。

智の瞳に、ある男の腕を掴んだ瞬間が甦る。振り返った麗香が、こちらを見ている。



「ほ、本気ですよ!お、俺だって、」
「駄目だ!」

智は、慌てて立ち上がり、多々羅の腕を掴んだ。智が誰かと重ねた腕、その掴まれた腕を見て、多々羅は目を瞬き、それから安心して肩を落とした。

「…なら、ちゃんと話さないと。大丈夫ですよ、きっと乗り込えられます」
「…多々羅は、麗香のこと」
「俺は昔の憧れってだけです。麗香さんは学園のマドンナでしたし、それに」

今は他に好きな人がいる。そう口にしかけて、多々羅は愛を見て、慌てて押し止めた。

「俺には智さんを越えられません。記憶を失っても、ちゃんと麗香さんは、智さんを想ってますよ」

多々羅の言葉に、智は眉を下げて俯いた。

「…格好悪いよな、俺、どうしたって、こういう奴なんだ…情けない」

そうして、くしゃくしゃと頭を掻く智に、多々羅は「何を言ってるんですか」と笑った。

「学園のマドンナを振り向かせたのは、智さんですよ!麗香さんに格好いいと思われている智さんは、格好良いに決まってるじゃないですか!」

多々羅はそう笑って、「そうと決まれば、決起集会に変更です!」と張り切って、智を励ますように、酒をすすめ、つまみをすすめ、思いを伝える為の作戦を立てようと励んだりと忙しい。

落ち込む智を励まし続ける多々羅を見て、指輪の化身は希望に表情を明るく染め、愛を見上げた。愛もそれに応えるように軽く肩を竦めれば、化身は安心した様子で指輪の中へと戻っていく。愛はそれを見届けると、再び盛り上がりを見せている多々羅と智を、微笑ましく見つめていたが、その視線はどこか頼りなく、残った酒を煽ることで誤魔化しているみたいだった。






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