瀬々市、宵ノ三番地

茶野森かのこ

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***


そんなある日の事、多々羅たたらと愛が共に買い物に出かけた帰り、喫茶“時”の前で、舞子まいこに呼び止められた。何やら愛に相談がある様子だったので、多々羅は先に店に帰る事にした。

店に帰ると買い物袋を持って二階に上がり、冷蔵庫に食材を仕舞うと、再び店に下りた。夕飯にはまだ早いので、愛が帰るまで店番をしておこうと思ったからだ。しかし、手持ち無沙汰だ。掃除もやってしまったし、多々羅に出来る仕事はない。こんな時は訓練かなと、エプロンのポケットに入れたままのゴーグルとイヤホンを取り出した。それらを装着し、多々羅は気合い十分に用心棒が潜む物の前に立った。

「皆さん、付き合って貰って良いですか?」

そう声を掛けてみるが、いつもならすぐに姿を現してくれる彼らは、一向に姿を現さない。

「…あれ、ノカゼさん?」

皆の名前を呼んでも反応がない。こんな事は初めてだ。
ゴーグルが故障したのか、それとも気づかない内に彼らに嫌われるような事をしてしまったのか、内心焦りながら呼び掛けを続けたり、角度を変えてゴーグルを見ていたりしていると、バン!と勢いよく応接室へ続くドアが開いた。驚いて振り返れば、応接室の向こう、倉庫部屋のドアまで開いている事に気づく。

「…え、」

だが、どうして、と思う余裕は多々羅にはなかった。
ドアの開く音と同時に、ドアの向こうから無数の黒い何かが、塊となって勢いよく飛んできたからだ。

「な、」

それは、黒い腕や翼へと姿を変え、多々羅の体に巻き付き、その目や口を塞いでしまう。そして、多々羅は抵抗する間も無く、ドアの向こうに引きずり込まれてしまった。

パタン、とドアが閉まる。店内には、ゴーグルとイヤホンだけが転がり落ちていた。




***



「ただいま」

少しして、愛が店に帰ってきた。愛は店内を一度見回すと、二階へと続く扉を開けた。そこが家と店の境になっているので、靴の脱ぎ履きはそこで行うようにしているのだが、多々羅の靴がなかった。家に居れば靴がある筈だ、店にも姿はなかったし、どこかへ出掛けたのだろうか。
愛は首を傾げたが、とりあえずはそのまま二階へ向かった。
薄暗いリビングの電気をつけ、部屋を見渡しただが、やはり人の気配はない。それからテーブルの上を見渡したが、書き置き等もなかった。

「……」

愛は再び首を傾げた。店を留守にするなら、店に鍵も掛けずに出て行くだろうか。いくら用心棒がいるからと、誰も来ないからといっても、戸締まりはしなきゃダメだと、愛は多々羅に怒られた事がある。それ以外にも、出掛ける時はどこに行くか伝えるようにとも言っていた。これに関しては、愛の迷子対策でもあるように思うが、それが端から見れば子供に注意をしている親のように見えても、愛はそうだとは思わず、他人との同居生活とはこういうものかと、多々羅の注意を受け止めていた。

人には口煩く言っておいて、自分は何も守らないじゃないか。

そうむくれそうになった愛だが、やはり何か引っ掛かる。本当に多々羅は出掛けたのだろうか。

「多々羅君?」

愛は念のため多々羅の部屋に向かい、ドアをノックする。返事が無いので開けてみれば、もぬけの殻だ。
やっぱり出掛けているのか、そう思い店に戻った所で、はたと気づく。

「…ノカゼ?」

シンと静まり返る店内に、いつもは感じる気配がない。愛は慌てた様子で店内をぐるりと見渡した。

「ノカゼ!アイリス!ユメ、トワ!」

声を掛けても反応がない、愛は舌打ち、すぐに応接室、その先の倉庫部屋へ向かった。

「多々羅!居るのか!」

鍵を差し込むが、鍵が軽い。だが、ドアノブを捻ってもドアが開かない。愛は、ドンドンとドアを叩きながら、多々羅の名前を呼ぶが、何の反応もない。

「くそ!なんでこんなっ」

何度か体当たりを試みるが、ドアはびくともしない。木製の古いドアだ、こんなに頑丈だったろうか、だが、どうにかしてこじ開けるしかない。
そうしてドアと格闘していると、カラン、とドアベルが鳴った。

「愛ー、スマホ忘れて行ったよー…って、どうしたの!」

何やら必死な顔をしてる愛を遠目に見て、応接室に駆け込んで来たのは、舞子だ。

「多々羅が中に居るんだ、中からドアが開かないようにされてて!」
「分かった、どいてな」

舞子は愛を下がらせると、足を開いて立ち、一つ深呼吸をする。それから気合いの掛け声を放つと、体を素早く回転させ、ドアを蹴り飛ばした。その回し蹴りの威力は凄まじく、愛が体当たりしてもびくともしなかったドアは、真ん中に穴を空け、大きな音を立てて壁から外れた。

「…さすが…」
「元日本チャンピオンは、伊達じゃないでしょ」

その細い体と美しい顔立ちからは想像つかないが、これでも彼女は、キックボクシングの元日本チャンピオンだった。
と、感心してる場合じゃない。愛が部屋の中へ入ろうとすると、その中から多々羅が飛び出して来た。その体に、無数の黒い翼や腕を生やして。

「多々羅、!」

ど、と体を床に仰向けに押さえつけられ、愛の顔が苦痛に歪む。多々羅は唸り声を上げながら愛の体に跨がると、その襟首を両手で掴んできた。
舞子には、多々羅の顔が見えているのだろうか、愛の目には、多々羅の顔が真っ黒に染まって見えた。

「ちょっと、何やってんのよ!」
「待って!」

すかさず足を出そうとする舞子を、愛は焦って手で制した。

「舞子さん、先生呼んできて!早く!多々羅は禍つものにやられてる!」
「わ、分かったよ!」

舞子は躊躇いつつも出しかけた足を引っ込め、愛を心配そうに見つめながらも、店の外に駆け出した。

「多々羅じゃないな、お前誰だ!」

多々羅の襟を掴み叫べば、愛の襟元を掴んでいた多々羅の手が愛の首に回され、ぐ、と手に力を入れられる。

「お前は知ってるぞ、翡翠の片眼!ここには禍つものも紛れてくる筈だ!出せ!居るんだろう!私の片割れを!」
「くそ、知るか…!お前誰だよ、多々羅から離れろ、」
「私がやるんだ!主の望みを叶えなければ!あの方の想いを!」
「ある、じ…?」

愛は多々羅の腕を掴み、首を絞められながらも、考えを巡らせようと必死だ。
一体、何が取り憑いているのか、主の想いを背負うコレは何者なのか検討もつかないが、今、愛に出来る事は一つだけだ。
愛は震える手を伸ばし、表情の見えない多々羅の頬に触れた。

「た、たら…聞こえる、か?多々羅…ねむ、眠るな、これは、君の、体だ、君にいかれちゃ、困る…」

それから、息も絶え絶えに、愛は頬から手を滑らせ、多々羅の服の襟首に指を引っ掛ける。それから、震える指に力を込め、体中の力を振り絞って首に力を込めると、思い切りその襟首を掴み引き寄せた。その拍子に僅かに首を締める手が緩み、愛は僅かな隙間で息を吸い、多々羅を眼前で睨みつけた。

「目を覚ませ、多々羅!よそ者に心を許すな!お前は、御木立みきたて多々羅だ!」

愛のまっすぐな叫びに、首を掴む多々羅の手からは、次第に力が抜けていく。多々羅の顔に貼り付いた黒い影が僅かに薄くなり、愛は緩んだ首もとから大きく息を吸い込んで、咳き込みながらも、多々羅の襟を掴む手は緩めずに、ゆっくりと上体を起こしていく。

「お前は、瀬々市愛ぜぜいちあいの手を引いて回った、お節介な、俺の、友人の、御木立多々羅だ、他の物の、意思に心を奪われるな、多々羅!」

上体を起こし、二人で向き合う体勢の中、愛は多々羅の両肩を掴み、僅かに見えた瞳に訴え叫ぶ。まだ、顔の所々に黒い影が貼り付いているが、黒く濁る瞳は、微かに揺れ動いているのが見える。




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