瀬々市、宵ノ三番地

茶野森かのこ

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***




愛とかえでが出会ったのは、四年前。二人が付き合い始めたのは、出会いから半年が過ぎた頃。二人は、半年間の恋人だった。


出会いは、バスの中だった。
夜も遅く、乗客もほとんど居ないバスの中で、愛は正一しょういちと共に、探し物の仕事を終えた帰りだった。仕事の疲れもあったのか、正一は窓際の席でぐっすりと眠りに落ちている。
この時の正一は、まだ瀬々市ぜぜいちグループの会長職についていたので、そちらの仕事の時は運転手付きの車で移動していたが、宵の仕事の時は運転手はつけていなかった。愛も免許は持っていないので、宵の仕事で出歩く時は、バスや電車移動がほとんどだ。にもかかわらず、切符の買い方を知らない愛は、やはり、恐るべし瀬々市の坊っちゃんである。


話はバスの中に戻り、愛はぼんやりと、正一越しに窓の外を眺めていた。

「あなた、見える人?」

そんな時、唐突に声を掛けられた。内緒話をするかのように潜められた声、驚いて通路側へと顔を向けると、通路を挟んだ向こうの席に楓が座っていた。

これが、愛と楓との出会いだった。

見える人。
そう尋ねられ、愛ははっとして自分の眼鏡を確認した。眼鏡をかけ忘れたかと思ったが、ちゃんと眼鏡は掛けていたようだ。その事にほっとした愛だが、ここで重要なのは、眼鏡を掛けているかどうかではない。
愛が物の化身が見えるかどうか、例え瞳の色が、濁った翡翠色のオッドアイだと知れても、普通、人はそんな事を聞きはしない。愛が化身を見る事が出来るかどうか、それが初対面でも分かるのは物の化身で、楓は化身の言葉を聞いた事になる。つまり、楓も見える人間、という事だ。

愛は、どうしようかと思いを巡らせつつ、楓に視線を向け、その目を瞬いた。楓は、愛の答えを瞳を輝かせて待っている。その様子に、愛は少々気圧されつつ視線を巡らせ、楓の耳に視線を止めた。

この当時、楓は黒髪を長く伸ばしていて、服装はカジュアルなパンツスタイルだった。そして、その耳にはミモザのイヤリングがあった。愛が持っていたイヤリングと同じもので、この時は傷もなく、バス内の灯りに照らされて、柔らかな光を放っていた。
そのイヤリングの化身が、楓の肩にいた。ミモザの花で出来たようなワンピースに、ふわふわと長い髪を宙に漂わせ、まるで妖精のような愛らしさだ。

きっと、彼女が楓に耳打ちしたのだろう。化身からは怖がっている様子は見られない、愛の瞳の色は眼鏡のレンズによって、しっかりと隠されているからだ。
今は仕事ではないし、きっとこの先も彼女達に出会うこともない。愛は、化身の前であればいつもは外す眼鏡をそのままに、正一の様子だけちらりと窺うと、それから楓の問いかけに小さく頷いた。それを受けた楓は、感激した様子だった。大きな声を出しそうになったのか、咄嗟に両手でその口を抑え、興奮した様子で身を乗り出した。

「いつから見えるの?初めて見た時どう思った?人前で過剰反応したことない?今までどんな化身と会ってきた?私はね、」

と、愛が答える隙も与えず質問を投げ掛けたかと思えば、間髪入れずに自身の事を語り始めた。どうやら楓は、化身が見える人間とは初めて会ったようで、家族以外と化身の事について話したのも初めてだという。それ故の興奮、それは愛にも少し理解出来る気がした。
楓は、化身と行動を共にしている位だ、化身との信頼関係が築かれ、それに家族の理解もある。それでも、大多数の人とは違う。愛だって、信之のぶゆきの病院に連れていかれなければ、正一と出会っていなければ、化身が見える人間と出会うことは早々なかったかもしれない。

愛は終始、楓の勢いに圧倒されていたが、そんな思いもあったからか、不思議とそれも嫌ではなく、愛にとってもこの出会いは新鮮なものとして捉えていた。


この頃は、愛も少しずつ自分を許せてきた頃で、愛の事を全く知らない楓だったから、愛も自然と心を開けたのかもしれない。
別れ際、「見える者同士、情報交換は大事でしょ?それに、あなたの話、全然聞けなかったし」と、楓は自身のお喋りを苦笑い、恥じながらスマホを取り出したので、愛は思わず笑ってしまった。
これをきっかけに、二人は連絡を取り合い会うようになった。


思い切って愛が眼鏡を外した時も、楓は愛の瞳の色を気味悪がる事もなく、「見える人間の証みたいでかっこいい」と、やはり興奮気味で見つめていた。それから、はっとした様子で「ごめん!失礼だったよね、気にしてるのに」と、申し訳なさそうに言うので、愛は何だか拍子抜けして、思わず笑ってしまった。その素直な反応に、安心出来る何かを感じたのかもしれない。
イヤリングの化身も、最初こそは愛に怯えていたが、主人がそんな具合だからか、その怯えも徐々に薄れていき、いつの間にか愛にも普通に接してくれるようになった。
こんな風に化身が接してくれたのは、用心棒達、仕事関係以外では初めてのことだった。


少し強引な楓に手を引かれ、気づけば素直な彼女に惹かれていた。だが愛は、これ以上踏み込んではいけないと一線を引こうとしていた。凛人りんとを傷つけた過去は消えない。瀬々市の家族のお陰でその思いも大分癒え、自分を受け入れ始めたばかりだ。

それでも、好きになってしまった。
踏み込んではいけない、自分は一人でいなければいけない、それなのに、彼女といると安心して、共に居たいと望んでしまう。一度その思いに触れてしまえば、もう引き戻せなかった。溢れる気持ちを言葉に乗せれば、彼女も同じ気持ちだと頷いてくれた。
プラトニックな恋愛ではあったけれど、彼女と過ごす時間はどれもかけがえのないもので、とても心が充実して安らいだ。この世界にいる意味を貰えたような、彼女のために生きていけるような、大切な存在。
愛にとって楓は、自分が生きる証明を与えてくれたような人だった。





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