瀬々市、宵ノ三番地

茶野森かのこ

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「では、家の中を拝見させて頂きます。時野ときのさんは私の側に。いや、見事な調度品が揃っていますね」

リビングに入ると、正一しょういちは敢えて明るくかえでの父親に話かけた。

「どの部屋にも、年代物の品が置かれてるんですか?」
「そうですね…一応、二階の角部屋に専用の部屋を設けていますが…もしや、それらが原因で…?」

途端に表情を青ざめさせた父親に、正一は「いやいや」と、おおらかに笑った。もし、自分が好きで集めたものが、人に危害を加えていたなんて事になれば、彼が青ざめるのも当然だろう。しかし、そうであっても、悪いのはこの父親ではない。

「そうとは言えませんよ、可能性はどんな物にもありますし、年代物にはつくも神がいます。つくも神なら対話がしやすいと思いましてね。物を大事に扱っているのは、飾られている姿を見ただけでも十分伝わってきます、あなたは何も悪くありませんよ、きっと、物にも何か理由があるのでしょう」

正一が楓の父親に話しているのを聞きながら、愛はぐるりと部屋の中を見渡した。
この頃の時野家のリビングは、現在のリビングと大分違っていた。品を醸し出すのはどれも高級感を持った家具ばかりで、年代を感じる調度品がいくつも目に止まった。同じ禍つものでも、つくも神が成り果てていたら厄介だ。だが、正一が言うように、どれも手入れが行き届いているし、化身が不満を抱きそうな扱いを受けているとは思えない。それと同時に、違和感もあった。
どの物にも、化身の気配が感じられなかったからだ。物に身を潜めているのか、それとも、禍つものに化身も襲われたのだろうか。人間を襲う禍つものなら、化身を襲ってもおかしくはない。

「他の部屋も見てきて宜しいでしょうか」
「はい、構いません」
「愛、頼んだよ」

楓の父親に了承を得ると、愛は正一に「はい」と頷き、頭を下げて部屋を出た。これだけ広い家だ、手分けして探った方が早い。それに、愛の行く場所は決まっている、二階の角部屋だ。
正一は、楓の父親には対話がしやすいからと言ったが、一番厄介なのは、つくも神が禍つものになることだ。愛は先ほどの会話から、その可能性を一番に潰せと、正一の指示を受け止めていた。

家の中は、とても静かだ。愛は一人になった今でも、眼鏡を掛けたままでいる。他の化身を怖がらせない為であるのだが、肝心の化身の姿はどこにもない。皆、禍つものを恐れて出てこないのか、楓の友人だという化身はどこにいるのだろう、何の化身か聞いてくるべきだったと、愛は溜め息を吐いた。楓の友人なら、話す事も出来たかもしれない。愛は、友達だという化身が禍つものになっているとは、どうしても思えなかった。


周囲に注意を払い、愛は廊下を行く。廊下にも、手入れの行き届いたアンティークの置物が飾られていた。どれも大事に扱われているのが分かる。この家の中で暮らしていて、化身はどうして人を襲うに至ったのだろう。それとも、楓の父親が集めた物の中に、元々、禍つものが潜んでいたのだろうか。

考えつつ階段を上がっていると、二階の奥の方から女性の悲鳴が聞こえた。

「楓…?」

悲鳴は二階の奥から聞こえた。この家には、自分達以外はいない、楓も家を離れた筈だ。だけど、聞こえた声は楓のものだ。愛は途端に胸騒ぎがして、急いで二階の角部屋へと向かった。

愛がその部屋に駆けつけると、倒れていたのは、やはり楓だった。どうして彼女が、そう思いはしたが、楓の姿を見たらそれどころではなかった。楓の体には黒い影が纏わりつき、禍つものが取り憑いているのは明らかだった。

「楓、しっかりしろ!心を奪われるな!」

愛は楓の体を抱き起こそうとするが、禍つものが体に入り込んでいるせいだろう、楓は言葉にならない声を上げ、愛の腕から逃れようと手足をばたつかせて抵抗する。その際、暴れた楓の手が愛の顔に当たり、眼鏡が床に落ちた。

「楓!大丈夫だ、今助けるから!」

愛の腕からすり抜けようとする体を掴み、愛はどうにか楓の体を床に押さえつけると、スーツの胸ポケットからパイプを取り出した。こんな時の為に、あらかじめ鎮静剤は仕込んである。
しかし、パイプを取り出した手は、楓の手により勢い良く払われてしまった。
それから目にした楓の様子に、愛は体が強張るのを感じた。

「…楓?」

楓は、怯えた瞳で愛を見上げていた。今、楓の体には禍つものが入り込んでいる、この怯えた様子は、愛の濁った翡翠の瞳を見ての、禍つものの反応だろう。
怯える化身とは何度も向き合ってきた愛だ、考えればすぐに分かること、いや、普段なら考えるまでもなかった。でも、この時の愛は、とても冷静ではいられなかった。心を許し信頼していた楓が、自分を怯えたように見ている、その事実に心が囚われてしまっていた。
今まで出会ってきた怯えた化身の姿が、気味が悪いと蔑む人々の視線が、どうしても今の楓と重なってしまう。
愛が呆然としたまま楓を見下ろしていると、楓は怯えたまま、床を這うように後退る。はっとして、愛がその体に手を伸ばそうとすれば、楓はやはり怯えたまま、愛の手を叩いた。

「来るな!恐ろしい瞳!私に近寄らないで!」

怯えきった瞳、震え上がる体。今まで受けた事のない、楓が自分を否定する姿に、愛は頭が真っ白になってしまった。ぐらりと傾く視界、楓の言葉が胸を抉るようで、動けなくなる。愛の体は、否定される恐怖に包まれ、どうして良いのか分からなくなる。呼吸が速くなり、この場から逃げ出してしまいたいのに体が動かない。そんな愛の脳裏には、黒い影の言葉が甦っていた。

お前は、誰も守れない、お前が人を傷つけるんだ。

高笑いする影の足元には、床に倒れ込む幼い凛人りんとの姿がある。愛が小学生の頃の記憶だ。化身に襲われる凛人を助けられなかった、その化身は、愛の瞳の力を奪う為に、敢えて力のない凛人を襲った。人質に取るつもりだったのか、愛の心を抉るつもりだったのか。その後、すぐに正一が駆けつけたお陰で、愛も凛人も助かったが、自分がいる事で、いたずらに大事な人が傷つけられてしまう現実に、愛は耐え切れなかった。

だから、大事な人達から離れた。もう二度と、誰かを自分のせいで傷つけてしまわないように。

そう、決めたのに。

愛は、立ち上がり逃げようとする楓には気づかないまま、床に手をついて自分を責めた。今回の件は、愛がきっかけで起きた訳ではない。それでも、自分が関わったから楓に恐怖を与えてしまった、楓を傷つけてしまった、自分が楓を大事に思ったばかりに。もう、その後悔と自分を責める事しか、愛の頭には浮かばなかった。




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