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劇場の紫陽花 5
しおりを挟む「…やっぱり幻聴?」
「幻聴ではない」
はっきりと言われた言葉が、黒猫の口とリンクする。佳世は暫し呆然とした後、ぎょっとして目を見開き、今度は黒猫と目線を合わせるように、上体を伏せて猫を見つめた。
「え、今の、君?君が喋ったの?」
「あぁ」
猫の小さな口が動き、同時にその口から凛々しい声が聞こえ、佳世は再び大きく目を見開き、次いで大きく口を開けた。
「き、」
そのあり得ない光景に、ようやく佳世の思考は回り出し、直面した現実は瞬時に恐怖へと変わった。その思いのまま叫び声を上げようとした佳世だが、寸での所で猫の前足に口を押さえられ、佳世は文字通りその場でひっくり返ってしまった。
「イタッ!」
派手に転んで頭を打った。鈍い痛みが頭に走り、佳世が後頭部を押さえて蹲ると、今度はトッと鳩尾に重みがかかり、佳世は「うぇ、」と蛙の潰れたような声を出した。重みの主を確認すれば、それは喋る黒猫で。そのまま黒猫が顔を覗き込んできたので、佳世は今度こそ悲鳴を上げようとしたが、今回もそれは叶わなかった。
「叫ぶな!近所迷惑だろう。ほら、戸を閉めてくれ」
目の前で叱られ、佳世はぽかんとして固まった。それから「まったく…」と、また溜め息まじりに佳世の上から退くと、黒猫は部屋の奥へと入っていく。
真っ当ではないものに真っ当な事を言われ、佳世は呆然てしたまま猫の揺れる尻尾を見つめるばかりだ。そんな佳世には構わず、黒猫はまたお喋りを再開させた。
「用件ついでに君の話を聞いてあげようとしてるんだ、ほら、とにかくベランダの戸を閉めて。それから僕はお客様だからね、温かいミルクでも貰おうかな」
そう喋りながら台所へ向かうので、佳世は困惑しつつもどうにか起き上がり、ベランダの戸を閉めた。
「なんなのコレ、夢でも見てるの…」
だが、夢なら頭をぶつけても痛みは感じないのではないか。とはいえ、これが現実の筈がない、だって猫は喋らない。
混乱するばかりの頭では思考が回らず、ただ黒猫を見つめていると、黒猫は冷蔵庫に前足を伸ばした。だが、あの前足では冷蔵庫の扉が開けられる筈もない。
「まったく、面倒だな」
黒猫がそう呟くと、ポンと音がした。たちまち黒猫の体は煙に巻かれ、その煙の中から今度は人間が現れた。
「…え?」
それは、裸の巽だった。
「ギャー!何してるんですか!ふ、服、服着て下さい!」
これは、さすがに叫ばずにはいられない。佳世は顔を背け、とにかく視界に巽の姿が入らないよう床に踞る。衝撃的に刺激の強すぎる状況に、理解するどころではない、とにかく壊れそうな心臓を落ち着ける事が先決だ。
「あ…服がない」
しかし、一人でてんやわんやな佳世の耳に、衝撃は再びやって来た。
「な、なんで、服がないってどういう事なの…」
「ねぇ、」
巽がこちらに来そうな気配がして、佳世は大慌てで、「待って!そこで待ってて下さい!」と、顔を背けながら精一杯手を伸ばして巽を制し、慌ただしくクローゼットへと向かった。どうして服がないのか、その事を理解するよりも、今の佳世は巽の肌を隠す方が先決だ。しかし、恋人もいない女の一人暮らし、巽が着れそうな服はどこを探してもない。
「ねぇ、ちょっと」
「ちょっと待って!今、どうにかするので!」
そう焦って視線を巡らせた先には、カーテンがあった。
服が無ければ布だと、とりあえず目についたカーテンを外そうとするが、焦って手元が覚束ない。カーテンで良いのなら、適当にベッドを覆うカバーでも何でも良さそうなものだが、混乱している佳世には、カーテン以外の物が目に入らないようだ。
「君、この人間と知り合いだろ?君に合わせてるのに、何をそんなに焦ってるの?」
「は?だって、そんな格好、焦るでしょ!そんな、だって私達はそういう関係じゃないし!」
「そうなの?まぁ、それなら君の言う通りにするけど…でも、僕は大体裸だから、化ける時はつい失念してしまうんだよ」
大体、裸。
その言葉だけが佳世の脳内に止まり、え、と、佳世は思わず振り返った。そして、巽の引き締まった裸体を目撃してしまい、佳世は顔を真っ赤に染め上げると、カーテンにしがみついて顔を埋めた。
「う、嘘でしょ…!」
「まぁ、猫だからね」
その一言に、佳世ははっとしてカーテンから顔を上げた。
猫?
混乱するばかりの騒がしい頭の中が突然凪いで、佳世はゆっくりと巽を振り返る。その顔は、どこからどう見ても巽だが、よく考えれば、いや、考えなくても分かる事だ、猫が何故喋るのかは分からなくても、巽が裸でこの部屋に居る理由はない。居る筈がない、巽とは一度だってそういう関係を持った事がないし、自分が勝手に憧れているだけで、その気持ちを伝えた事もない。
そもそも、この部屋には誰もいなかったのだ、入って来たのは、あの黒猫だけ。
「…あなた、さっきの猫…なの?」
佳世は、神妙に尋ねた。自分で言葉にしておきながら、それが全くピンとこないでいる。猫が人間に化けるなんて、それこそ夢でなければ何なのだろう。
「そうだよ。君が部屋に招いてくれたろ?」
勝手に入って来たの間違いだが、今はひとまずそれはどうでも良い。先程の喋る黒猫が、まさか巽だというのか。
「じゃあ、先輩は人間じゃなかったの…?」
とても重要な事だ。佳世が恐る恐る尋ねれば、巽はきょとんとして、それから困ったような笑い顔で肩を竦めた。
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