桜と星と初こいと

茶野森かのこ

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桜と星と初こいと26

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チリチリと、地味に親指が痛い。針で刺しただけの小さな傷口が、やけに存在を主張してくる。

放課後に行われていた体育祭の準備や部活も終わり、教師も帰宅する時間だ。職員室で帰宅の準備を終えた頃、ポツポツと雨が降り出した。夜の暗がりの中だが、どんより重たい空を見上げれば、雨が止みそうもない事が分かる。空は一体何がそんなに悲しいのか、見ているとこっちが泣きたくなってくる。

「…どうするかな」

だが、学校で泣く訳にはいくまい。
天気予報で雨が降ると言っていただろうか、恋矢れんやは早めに帰ったから、恐らく雨に降られなかっただろう。
自転車もあるし、もういっそ濡れて帰るか、それとも誰かの忘れた傘を借りてしまおうか。そんな風にぼんやり考えながら昇降口にやって来ると、入り口付近に生徒が居るのが見えた。傘を持っているのに外には出ようとせず、ぼんやりと空を見上げている。その待ちぼうけの後ろ姿は見慣れたもので、まきは驚いて声を掛けた。

織人おりと?」
「あ、ようやく来たか」

声を掛ければ、振り返った生徒はやはり織人だった。槙は戸惑いを覚えつつ、織人に駆け寄った。もう転んだりはしない。

「なに、まだ残ってたのか?」
「違う、一回帰ってる」

そうなのか、制服姿だから紛らわしい。忘れ物でも取りに来たのだろうか。だが、安堵したのも束の間、織人から絵の具の匂いがする事に気付き、束の間の安堵は不安に塗り変わった。また、アトリエに居たのだろうかと想像して、想像すれば胸の中に嫌な感情が渦巻いて、槙はそんな思いを振り払うように言葉を探した。

「あー、えっと…どうしたんだ?忘れ物?」
「あんた傘持ってないだろうからって、カズが」
「…え?」

思わぬ方向からの言葉に、槙がきょとんとして顔を上げれば、織人は「やっぱり」と、どこかほっとしたような表情を浮かべていた。

「え、なんでカズが?」
「アトリエに来てたんだよ、そしたら、そう言うから」
「バイトは?」
「今日は休み」
「…そっか」
「…槙?」
「あ、ううん、わざわざ来てくれたのか、悪いな」
「帰るついでだから」

帰るついでに、あの坂道をわざわざ上ってきたのか。
ついでというには、回り道がすぎる。自分を迎えに来てくれたのかと思えば、嫌な感情の渦もすっかり遠ざかり、頬が緩まずにいられなかった。

「えっと、…傘は?」

いや、何を喜んでいるんだ、喜んでどうすると、槙は焦って視線を逸らしながら問いかけた。
ここは有り難く傘を受け取って、それからはいつも通りに帰路につくだけだ。そう気持ちを落ち着かせていたのだが、織人から「これ」と見せられた傘を見て、槙は思わず固まった。

「え、これ?…一緒に?」
「俺だって一本しか持ってないし、アトリエから借りようにも余分ないし、買ったら勿体ないだろ」

言い分は分かったが、それでも、二人で一つの傘に入るのは躊躇われた。少し前だったら、同じ躊躇いでも、その理由は違った。男二人で傘に入れば、頭は守られても肩は濡れるだろうし、雨に濡れたら風邪を引く、そんな風に思うだけだったのに、今はそればかりじゃない。
思いがけず緊張している、織人の事を変に意識してしまう。そんな感情、持たないと誓った筈なのに。

「えっと…それなら、いいよ。お前は早く帰んなさい、たまにはゆっくり休みな」

気持ちが零れて悟られる前にと、ぐいぐいと織人の背中を押しやれば、織人は不服そうに足を止め、槙の手を掴んだ。

「どうせ、あんたん家に行くから良いんだよ」
「え?」
「こんな時ばっか強情だよな。どうせろくなもん食ってないだろ?冷蔵庫も最近見てないし」

仕方なさそうにしながらも、ぶっきらぼうに織人は言う。
その表情に、言葉に、途端に胸の中がじんわりと温かくなって、槙は咄嗟に顔を俯けた。先程の泣きたい気分が、色を塗り替えて戻ってきたみたいだった。それは、槙が手に入れてはいけないもので、文人の元にしかない筈のもので。なのに、織人の手から伝わるのは、それすら許すような、のし掛かる灰色の空まで色づくような気配すらするのだから、槙は困って拒否する言葉の一つも浮かばない。

まずい、こんなんばっかだ、最近。

槙はきゅっと唇を噛みしめ、それでもその手を払えない自分を呪った。そんな自分を、織人はどんな顔して見ているのだろう、槙は怖くて顔を上げる事なんて出来なかった。

「…何それ、母ちゃんかお前は」

苦し紛れに呟けば、頭の上で穏やかに笑う気配がした。

「ほっとけないあんたが悪い」

行くよ、と手を引かれ、槙は織人と同じ傘の中に入ってしまった。入ってしまえば外には出られない、雨が責めるように降り注ぎ、逃げるように肩を竦めれば、織人が更に近づいて、触れそうなその温もりに、顔が少し熱を持った気がした。
顔を上げないで正解だと思った。心の変化を自分で認めないよう目を逸らし続けなければ、きっと自分は文人を裏切ってしまう。

自転車を押しながら、隣の織人をちらと盗み見る。
背はいつの間にか追い抜かれて、肩幅も織人の方が広くなった。見ると、織人の左肩には雨粒が当たっている。「濡れてるぞ」と、織人の方に傘を傾けようとするが、織人の腕は強情で、「大して濡れてない」と、跳ね返されてしまう。

いや、どう見たって濡れてるじゃん。とは、言い出せなかった。
靴先が雨粒を蹴飛ばして、鬱陶しい筈の雨が、どうしてか時折煌めいてすら見える。
狭い傘の中に迎え入れられて、それがどうしてか、守られているみたいで、包まれているみたいで、どうしてもほっとしてしまって。

帰り道は、やっぱり上手く喋れなかった。




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