桜と星と初こいと

茶野森かのこ

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桜と星と初こいと36

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背中に感じるまきの体温に、織人おりとの胸は自然と高鳴ってしまう。槙にこの心臓の音が聞こえやしないかと、体中に緊張を走らせた織人だが、槙はそんな織人の様子に気づいていないのか、背中におでこをつけたまま動く気配はない。
不意打ちの接触に、どうしようかと、思考をぐるぐる巡らせていた織人おりとだが、まきが「…どうして」と、小さく口を開いたので、慌ただしい思考の波を一旦落ち着けた。

「…どうして、そんな風に言ってくれんだよ。俺、お前の好意に甘えてる…織人を利用してるだけかもしれないよ?」

背中越しだから顔は見れないが、押しつけるような額の熱を感じれば、織人の脳裏に、いつかの槙の姿が浮かんだ。
まだ幼かった織人から見れば、槙の背中はいつだって大きかった。そんな槙の背中が小さく丸まって、涙を止められずに泣きじゃくるその姿に、織人はショックよりも大きな使命感が働いたのを覚えている。
大好きな槙が、こんなに悲しんでいる。槙を泣かせる悪い奴が許せない、槙が泣かなくて良いように、自分が槙を守るんだと、そんな風に心に誓いを立てたこと。
成長しても、その誓いは消える事はなく、より確かな思いとなって、織人の心を占めた。

それなのに、槙はまだ、あの日から動けずにいる。槙を悲しみから守ると誓ったのに、その誓いを果たせずにいる自分が悔しくて、織人はぎゅっと拳を握った。

それでも、まだ槙は、手の届く場所にいてくれる。まだ、終わった訳じゃない。弱気を見せた心を叱咤して、織人は顔を上げた。

「…ネモフィラって、悲しい話もあるみたいだけど、花言葉があってさ、“清々しい心”とか、“荘厳”とか、“私はあなたを許す”とか。良いよ、利用してくれて。それであんたの心が少しでも軽くなるなら、俺はいくらでも利用されていい、あんたが自分を傷つけて泣かないでいてくれんなら、嘘つかれてもいい。俺は許すよ、あんたの過去に何があったって。あんたに傷つけられたって、何されたって、俺はあんたを嫌いにならないから」

言葉がするすると口をついて出ていく。でも、どれもこれも嘘ではない。織人には確信があった、自分はどうしたって槙が好きだし、何があったって、多分、それだけは変わらない。槙の逃げ場所になれるなら、いくらでもその思いを受け止める。その先で、例え槙が振り向いてくれなくても、自分が槙を突き放す事は、きっとないと。

「…なんでそこまで言いきれるんだよ」
「何度も諦めようとしたけど、今だって好きだからだよ」

年の差に悩んで、子供すぎる自分に絶望して、それでも槙の方に心は向かっていく。恋を手放そうとして、何度も忘れようとした。会わない時間を積み重ねていけば、いつか時間が解決してくれると思っていた。
けれど、高校の入学式、桜を見上げる槙の横顔に、捨てた筈の感情はいとも簡単に戻ってきてしまった。

悔しかった、まだそこで足踏みしてる槙を見るのが。連れ出したかった、もう泣き顔を見たくなかった。
織人は振り返らず、床についた槙の手を握った。

「答えなくていいから、ただ俺を槙の側にいさせてほしい」
「…なんだよ、それ」

震える声に、織人はその手を強く握りしめ、背中に槙の涙を感じながら、咲良さくらの描いたネモフィラの絵を見つめた。

不意に、咲良さくらの言葉が頭を過った。


***


「絵なら枯れないだろ、槙ちゃんの胸にずっと桜はあるけど、目を開けて飛び込んでくるのは、織人の絵だよ」

アトリエで最後の絵を描き上げた時、咲良は織人にそう言った。

「絵は確かに下手だけど、頑張ったよ」
「……」
「この絵からは愛情が感じられる。きっと誰もが感じるよ、なんて愛されてるんだろうって、味方がいるって、愛してる人がいるんだって、槙ちゃんにも伝わるよ」
「…伝わったってさ、」
「伝え続けるのが大事だよ、過去に引き戻される度、こっちだよって手を引いてあげられる。織人なら出来るだろ?」

咲良は兄のような顔をして笑って、織人の背中を押してくれた。


***



織人の背中に額を預けたまま、槙は黙って背中を貸してくれている織人の指を握り返した。大きくなった手は、指先に小さな傷があった。今日の体育祭で出来たのか、それとも料理中に出来た傷なのかは分からないが、大事な手なのにと、その手が愛しくて、可愛くて仕方なくなる。
ぽた、と止まらない涙が床に染みを作り、あの時、文人の死から立ち直れなかった時も、こんな風に涙が止まらなかったなと思い出す。

その時からだ、いつだって、この手が慰めてくれた。

立ち止まるこの手を引いて、明日なんて必要無いと閉じた扉を、織人がこじ開けた。
こんな俺にお前は勿体ない、頭では分かっているのに、自分が幸せになんてなっちゃいけないのに、この背中に、この手に望んでしまっている。
明日への幸せを、望んでしまっている。

しっかりと握られた手が苦しくて、それでも槙はその手を離せないまま、ただ独りよがりに織人の背中に寄りかかるばかりだった。






その夜は、皆が用意してくれたケーキを二人で分け、織人が作ってくれたポトフを温め直して食べ、いつも通り眠りについた。
隣りの部屋は相変わらず静かで、槙はこっそりベッドを抜け出すと、織人が片付けてしまった絵を取り出し眺めた。カーテンを開け、月明かりではぼんやりとしか見えなかったけど、青く歪で愛嬌のあるこの花が、不出来な自分ごと受け止めてくれているような気がして、何だかとても安心する。

許されるのは怖い、でも選択しなければ、時は前へ進まない。

「…ネモフィラか」

触れれば青いインクが指の腹に微かに移り、槙はその指を擦り合わせると、ただ、キャンバスを抱きしめた。どこにも吐き出せない思いを、そこに閉じ込めるように。





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