たくみくんと夏

茶野森かのこ

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匠海たくみの腕は幸い骨に異常はなく、打撲との診断を受けた。頭も殴られていたが、こちらも切り傷だけで済んだようで、貴子たかこはホッと安堵の息を吐いた。
だが、暫くは安静だ。店の状況もあるし、匠海にとって何年振りかの纏まった休みとなった訳だが、本人はすっかり落ち込んでしまっていた。

静かな家に帰ってきて、晩御飯を食べていない事に気づき、買っていたお弁当を温め共に食事をする。利き手じゃなくて良かったね、なんて話しても、匠海は申し訳なさそうに頷くだけだ。

「…ねぇ、さっきの事、聞いても良い?その、あの人達の友達だとか」

迷ったが、この微妙な空気のまま過ごすくらいなら聞いてしまえと、思いきって尋ねると、匠海は箸を置いて姿勢を正すので、貴子も倣って慌てて姿勢を正した。

「…すみません、初めに言わなくちゃならなかったのに」
「う、ううん。私も突然来たから」
「…町でキヨエさんの鞄をあいつらがひったくった事があって」
「え、」

まさかキヨエの鞄だったとは。驚きに手にしたコップを落としそうになった。

「本当にごめんなさい!」

勢い良く頭を下げた彼に、貴子は慌て首を振った。

「やめてよ、匠海君はやってないんでしょ?」
「…あいつらとつるんでたのは本当です。あいつらと一緒に喧嘩とかして、色々騒ぎを起こしました。辞めたくても仲間だから抜け出せなくて。でももうこれ以上は駄目だと思って、キヨエさんの鞄取り返したら、ぼこぼこにされて」

それを見ていた周りの人が警察に通報したお陰で、匠海は暴力から解放されたらしい。その手には、しっかりとキヨエの鞄を抱えていた。キヨエも転んでしまったが、大した怪我はなく、駆けつけた警察にはキヨエが誤解がないよう説明してくれたお陰で、匠海は捕まる事なく、後日、あの三人組は捕まったらしい。
その後、ご馳走させてと、キヨエは匠海を自分の店に呼んだという。

「皆には味が落ちたって言われてたみたいだけど、あの時はこんなに美味しいもの食べた事ないって、感動して」 

それから、働かせてほしい、弟子にしてくれとキヨエに頼み込み、今に至るという。
それが十八才の時、今から五年前だ。その時の恩から、匠海はキヨエから給料を貰おうとせず、更に店を繁盛させてしまうという蕎麦打ちの上達振りも見せた。
夜に働きに行っているアルバイト先も、キヨエの紹介だという。キヨエは、自分では蕎麦作りを教えられないからと、蕎麦屋を紹介し、日々修行させて貰っているという。その蕎麦屋の店主も邦夫の蕎麦に感銘を受けた一人なので、キヨエの頼みを放っておけなかったのだろう。

キヨエが、彼の人生を変えたのだ。

「…俺、こんなんだから、親からも鬱陶しがられてて、キヨエさんが初めてだったんです、あんなに親切にしてくれたの」

見た目で判断せず、しっかり自分を見て、愛情を持って接してくれた、守ってくれた。
その話を聞いて、貴子は温かい気持ちになった。

「匠海君が守ってくれたからだよ。おばあちゃんは身を呈して守ってくれた事、本当嬉しかったと思うよ。鞄って、オレンジ色のちょっとくたびれたやつでしょ?今も使ってる」
「はい」
「あれはおじいちゃんが買ってくれた唯一の鞄だから、何十年も使ってるの。それに今もそう、おじいちゃんが残してくれた大事なお店を、匠海君が守ってくれてるんだもん」
「…俺なんて全然ですよ」
「そんなことない!匠海君が来てくれておばあちゃん凄い楽しそうだし、お蕎麦は美味しいし、あの店には勿体ないくらい」
「やめて下さい、あの店なんて!俺は救われたんです、キヨエさんと邦夫さんが残したあの店に…!」

そう言ってから、匠海ははっとして顔を俯けた。「すみません、大声出して」としゅんとする青年に、貴子は何だか抱きしめたい衝動に駆られた。彼が愛しく思えたのだ、こんなに家族の事を大切に思ってくれる、その気持ちが嬉しい。もし弟がいたら、こんな気持ちなのだろうか。

「ううん、ありがとう、大事に思ってくれて」
「…いえ、俺の方こそ、ありがとうございます」
「ん?」
「…大事な家族って言ってくれて、あいつら相手に啖呵切ってかっこ良かったです」
「やめてよ、心臓壊れるかと思ったんだから!」
「…はは」

初めて見た匠海の笑顔は、思ったより幼かった。

「…俺、この店に来れて良かった」
「私も匠海君に会えて良かったよ」
「…恥ずかしいです」
「あはは、照れないでよ」

笑って食事をする頃には、一輝いつきがスイカを持って現れ、それから芋蔓式に人が集まり、賑やかな夜が始まった。匠海はずっと笑っていて、それが貴子には嬉しかった。





数日後、皆に別れを告げ、貴子は匠海に駅まで送って貰った。
キヨエはまだ足を引きずっていたが、店が壊されたと聞いてショックを受け落ち込むどころか、今まで以上に元気な姿を見せていた。
今は匠海も居る、一輝も店を見回ってくれているし、何より店の再開を望んでくれる人がいる。くよくよしてる暇は無いのだ。

「ごめんね、色々ありがとう」
「いえ、こっちこそ」
「腕が治ったら連絡して?また食べに来るから」
「はい」
「おばあちゃんの事よろしくね」

またね、と駅に向かう貴子に、匠海が「あの」と声を掛ける。

「…腕が治る前でも、連絡して良いですか」

赤くなった頬を俯ける匠海に、貴子は擽ったさが胸に溢れて、思わず笑みを零した。

「勿論、いつでも連絡して!私からも連絡するから」
「は、はい!」

嬉しそうに顔を上げた青年に、貴子は笑顔で手を振った。


この気持ちの行き着く先は果たしてどこだろう。
新たな家族が出来て嬉しいのか、はたまた別の感情が芽生え始めているのか。
どこか浮き足立つ思いを抱えながら、駅の向こう、空を見上げる。降り注ぐ青空に空気を目いっぱい吸い込んで、かけがえのない夏が過ぎていく。











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