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A:居酒屋会談⑥

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 しかし、ベティはいち早く行動を起こしていた。予備動作もなくジャンプすると、グラタン皿を難なくかわし、同時に、両腕を勢いよく振り下ろした。いつのまにか両手に掴んでいた十数本の塗り箸が、電光のようにカノンへと殺到する。

 カカカカカッ!
 塗り箸が突き立ったのは、とっさにカノンが盾にした木製のイスだった。ベティがテーブルの上に着地し、カノンは両手でイスを床に叩きつける。瞬時に背もたれを支点にして、あん馬のように身体を旋回させる。

 カノンの渾身こんしんの蹴りがベティに炸裂。しかし、手応えはない。ベティが蹴りの方向に身体を流し、攻撃の威力をほとんど殺してしまったからだ。

 しかも、蹴りの勢いを借りて、後方のテーブル席へとジャンプして、カノンの追撃をまぬがれることに成功した。

 カノンが追いすがろうとすると、ベティはさらに後方に飛んだ。二人は一定の距離を保ちつつ、テーブルの上を飛びながら移動していく。

 料理や飲み物を引っ繰り返されて、あちこちのテーブルから悲鳴や怒号が上った。

 ベティは台風一過のような店内を見回して、
「カノン、あなた、場所を考えなさいよ」と、無責任な台詞を吐く。

 カノンは外国人のように、肩をすくめると、
「そっちが今すぐ、降伏してくれたらな」と、無意味な提案をする。

 二人はカウンターの上で向かい合い、しばらく睨みあっていた。

 居合わせたお客たちは、文句をつけようとしたが、彼女たちの殺気に気圧されて近寄ることができない。やがて、二人は無言で床に降り立つと、何事もなかったかのように、ドアをくぐりぬけて出ていった。

 狗藤はといえば、飛び散ったグラタンを顔や腕に浴びて、「あつあつあつぅ!」と大騒ぎしていた。カノンとベティが出て行ったことにも気づいていない。ようやく気づいたのは、店員にペコペコと頭を下げながら、床に飛散した料理や飲み物の後片付けを始めてからだ。

 客たちは皆、怒りながら店を出ていった。店内は静まりかえり、それまでの喧騒が嘘みたいだ。

 比企田教授は店長を呼び寄せて、金色のカードを手渡した。
「他のお客さんの料理や飲み物は、全部もたせてもらうよ」と、穏やかな口調で伝える。それ以外にも店が受けた損害は、全額弁償することを確約した。

 教授の衝撃の告白があり、目の前で繰り広げられた弁財天同士の戦い。狗藤は未だ、状況の急展開についていけずにいた。ただ、カノンの無事を確認できたことは本当によかったと思う。

「教授、カノンさんは生きていましたね」
「ああ、どうやら手違いがあったようだ」

 教授は意外と冷静だった。
「二人の勝負の結果がどうなろうと、勝者はここに戻ってくるだろう。それまでに、こっちの話を詰めておこうか」

「こっちの話といいますと?」
「もちろん、僕が君に頼みたい仕事についてだよ」
 教授は左手を掲げて、【弁天鍵】を出現させた。

「ほら、狗藤くん。君も【弁天鍵】を出してくれ」
 言われるままに、狗藤も【弁天鍵】を出す。
「あのう、教授の頼みたい仕事って、【弁天鍵】を使うことなんですか?」

「ああ、そうだよ。無から有を生み出す万能ツール。こいつが二つそろえば、この国の富を牛耳るには充分だからね」教授はにっこり笑う。「知っているかい? 慢性的な不況にも関わらず、日本の富裕層人口は世界第三位だそうだ。あるところには、まだまだあるのさ」

「でも、それって、他人の財布からおカネをとってくる、ってことですし、はっきり言って、犯罪ですよね」

 教授は小首を傾げる。
「そうかな。表に出ないものは犯罪とは呼ばないよ。僕たちのすることは誰にも知られない。知られたとしても、僕の構築した人脈を駆使すれば、警察や司法当局は手出しできない。ほら、全能の神にも気づかれなかった実績があるからね」

「はぁ、それはそうかもしれませんけど」
「いいかい、僕の計画は完璧なんだ。それぐらいは、狗藤くんにも理解できるよね」

 教授は少し苛立った表情を見せた。あ、怒らせたかな、と狗藤は少し慌てる。

「狗藤くんは意外と潔癖なんだね。それでは間違いなく、世間の荒波に飲まれるよ。若さなのか、青さというべきか。まさかとは思うが、『世の中には、カネより大事なものがあるはずです』なんて口にしないだろうね」

「!」
「おいおい、図星かい。本当にわかりやすい男だね、君は」

 教授は見るからに、下品な笑い方をした。大学では決して見せない醜い顔をしている。俗物という名前の獣が、それまで身にまとっていた聖人君子の衣をかなぐり捨てたのだ。

 狗藤は今、それを目の当たりにしていた。
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