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ささやかな幸せ②
しおりを挟む交際が始まって一ヵ月が経過した。
夏の終わりに市民プールで遊んだ後、理市は初めて江美の部屋に招待された。手料理をごちそうしてくれた。サバの味噌煮と野菜サラダは、これまでに食べたどんな料理よりも美味しく感じた。
たわいない会話で笑い合い、ふと話題がとぎれた時、ごく自然に唇を交わした。手で触れて、優しく抱きしめ、互いの体温を確かめ合う。
こうして、二人は結ばれた。
理市は心の底から震えがきた。初体験ではないのだが、これまでのセックスとはまるで違っていた。快感だけを追い求める刹那的なそれとは、まったくの別次元である。
身も心も一つになった喜び。互いの愛情を確認し、何度も求め合った。泣き出したくなるような興奮と慈しみ。
ただ一言、最高のセックスだった。身体がとろけるような一体感。もし、遠い将来に生命が尽きる時に振り返る最高の瞬間は、間違いなくこのセックスだろう。理市は、そう思った。
「理市くん、明日も会えるかな?」
「もちろん大丈夫。何かあるの?」
「うん、君に、会ってほしいんだ」
「ひょっとすると……、御両親?」
「あ、今、重い女だって思った?」
「いや、そんなこともないけど」理市は江美の眼を真っ直ぐ見つめた。「俺、江美さんにことが好きだし、将来のことだって、真剣に考えているよ」
「ふふ、ありがとう」江美は理市の唇にキスをした。「君に会ってほしいのはね……」
江美にとっても、人生のターニングポイントであるらしい。理市と一緒に人生を歩むなら、どうしても話しておかなければならない、といった類の。
翌日、理市が対面したのは、幼い女の子だった。江美の後ろに隠れ、半分だけ顔を出して理市を見上げている。
「美結っていうの。今年で3歳。普段は叔母の元にいるんだけど……」江美は笑顔で言った。「わかるよね。私の娘なの」
まず感じたことは、小さいな、ということ。頭の位置が理市の腰よりも低い。理市は膝をついて、美結と目の高さを同じにした。
「こんにちは、美結ちゃん」
「こんにちは」と小さな声で応え、「パパ?」と訊いてきた。
「あのね」江美が言いかけるが、理市はそれを手で制した。少し考えてから、口を開く。
「うん、美結ちゃんのパパになれたら、うれしいな。みんなで一緒に暮らすなんて、楽しそうだよね」理市は慎重に言葉を選びながら、ゆっくりと話した。こんなことは後にも先にも初めてである。
「ねぇ、美結ちゃん、お兄ちゃんをパパにしてくれる?」直感的に出た言葉だった。驚いたのは江美だけでない。理市自身も、自分の言葉に驚いていた。
だが、それは理市の本心だった。訂正やごまかしはしない。理市は美結立ち合いの元、誠意をこめて、江美に向かってプロポーズをした。
翌月から、理市たちは一緒に暮らし始めた。理市のアパートの方が古いが少しだけ広かったので、江美と美結が移ってきた。引っ越しは会社のトラックを借りて手早く済ませた。
親子三人の生活がつつましく始まった。他人同士が一緒に暮らすのだから、小さなケンカや行き違いはある。どこの家族だって、それは同じだろう。ぶつかり合って、やがて角がとれていき、次第に落ち着くところに落ち着いていく。
美結の父親については気になっていたが、その件を江美に訊くことはなかった。幸せな暮らしに波風を立てたくないし、そのうち時がくれば話してくれるだろう、と思っていた。
理市は心が穏やかになり、誰にでも優しくできるようになった。電車ではお年寄りに座席を譲るし、足元にゴミが落ちていれば拾う。すべて、江美と美結のおかげだった。
一つ一つの経験が、理市の目には、とても新鮮に映った。他人の家族団らんを羨んだり憧れたりしたことはなかったが、理市の想像以上に、とても心地よいものだった。
それは〈ささやかな幸せ〉の縮図だった。
俺は〈ささやかな幸せ〉を守り続ける。それは犬飼理市自身の決意であり、将来への誓いでもあった。
しかし、それは残酷にも、あっけなく壊れてしまうことになる。
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