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しおりを挟むキースは胸を高鳴らせた。
自分よりはるかに高貴な家柄の令嬢、絶対に手が届かないと思っていた存在であるテルミナが、自分の妻になることに頷いたのだ。
書面では既に了解の返事を得ていたものの、こうして対面で頷いてくれたことが何よりたまらない。
これ以上ないほどの歓喜に震えながら、キースは貴公子の仮面を取り繕って、辛うじて彼女に優しく微笑むことができた。
しかし、彼女は慎ましやかな笑顔を返してくれたので、キースの理性はやにわに仮面をくくる紐を緩めそうになった。
婚約という名の契約はこれでつつがなく終わった。帰りの馬車の中で、彼女から贈られたハンカチを抱き締めてうずくまっている。
キースは己の家紋であるカラスの刺繍に、キスでもするように顔を近付けた。決して触れはしない。
テルミナの刺した刺繍だ。
彼女のひと刺しひと刺しが嬉しくてたまらなかった。
キースはいつでも彼女への気持ちを思い出すことができる。彼女のお手製の贈り物が手元にある今は、よほど正確に、匂いさえ思い出せるような気さえしていた。
テルミナはかわいらしい女性だ。
貴族子息が通う学園で、キースはテルミナと出会った。大きな図書室はあまり利用されなかったが、二人はいつも示し合わせたように出会い続ける。
少なくともテルミナは偶然だと思っているはず、とキースは信じていた。キースの目的がその蔵書より彼女に向くまで、その出会いはたしかに偶然だった。
彼女の容姿に特段目だったところはない。
ただ物静かな彼女の柔らかくくすんだ藁色の髪が、瞳が、日に照らされる度に淡くきらめいて、キースの心に鋼線のように絡み付くのだ。
また、彼女が読書中に思索に耽り、なにか良いことがあった時の安堵したような微笑みも、考えがうまくいかなかったような悲しげな表情も、キースにとって全てが可愛くてたまらなかった。
その感情が図書室だけでは足らなくなったのは、彼女が悲しげになる回数が増えてからだ。大人しい彼女がいじめられでもしているのかと、キースはいつも見守るようになった。
当時力のない子爵令息でしかなかったキースと侯爵令嬢であるテルミナとでは家格の差もあり、またテルミナに婚約者が出来てしまったこともあって、結婚ができるなどとは思っていない。
それでも手助けできることならなんだってしてあげたいのが、恋に落ちたキースのまぎれもない本心だ。
しかし見守れる分で彼女はいじめられるということはなく、むしろ分け隔てなく控えめな優しさを向ける彼女は、同じように穏やかな貴族子女と集まっているだけで見るからに穏当だった。
そのためテルミナと親しい友人と懇意にしたところ、理由はすぐに判明する。家族関係と、それに付随した婚約者との問題だったらしい。
テルミナの友人いわく、家族間で妹と自分で差のある対応を取られていたことを悩んでいた様子であり、婚約者の侯爵子息が妹とかなり親しくなったことが原因のようだった。
テルミナに襲い来る悲劇を聞いた時、キースは内心神に祈りを捧げた。
どうにかすれば、愛しいテルミナが手に入るかもしれなかったからだ。
…そこで一度、思考が途切れる。
自宅へ着いて馬車が止まった。
手に持っていたハンカチを綺麗に畳み、懐に大事にしまうと、上機嫌に我が家へ帰った。
侯爵家にも負けないほどの立派なタウンハウスは、キースにとってテルミナを迎えるための準備のひとつにすぎない。
子爵家だったルーウェル家だが、子爵位を継承してすぐ取り組んだ事業に端を発した様々な成功とその莫大な富を称えられ、数年前に王家から新たに伯爵位を授けられた。
ルーウェル伯爵…それがキースの現在の位階だ。
金を稼ぐ貴族はとかく嫌われやすいものの、キースは必死になったのだ。
全ては可哀想なテルミナのために。
数名の使用人に出迎えられ、荷物を預けて邸宅に入ると、キースはすぐに書斎へとこもった。
今も新たな事業に追われているが、帰ってすぐに書斎へ入らなければならない理由があった。
書斎の机上、左手側の一角にある一抱えほどの箱状の小棚。藁色の塗料に指定したその箱状の棚は、黒檀の机に置くと驚くほど違和感がある。
厳重な鍵の掛けられたその場所には、テルミナのゆかりの品を保存するためのスペースが用意されていた。
キースは頬を赤らめながら、懐から大切なハンカチを取り出すと、箱内の中央、両側に渡された棒部分に慎重に掛けた。
目立つ部分だ。可愛らしいカラスの刺繍がちゃんと見えるように。
色々と揃えてある。
使用済み食器は一揃え、彼女の使い終わった羽ペン、彼女の書き損じ、もちろん彼女の出した手紙はできる限り買収して、彼女が特に愛読していた本は図書室から新品と交換という形で貰い受けてきた。
彼女の寝巻きや下着はどうしても手に入れられなかったが、共に暮らすなら何枚でもこの場所に納めることができるだろう。
キースは感動のあまり、涙さえ出そうだった。
「テルミナ、もうしばらくの我慢だよ」
キースはゆっくり語りかけるように呟いてから、すぐに思考を切り替えた。
仕事を山盛りつめこんでいる。
それもこれも全て、結婚後の甘い生活のためだ。
*
そして、まんまとテルミナを手に入れたキースだったが、現実は予想より冷酷だった。
結婚して数ヵ月。
怯えた目をしてこちらを見上げるテルミナに、頭の中が真っ白になる。せりあがるような焦りと怒りと激しい愛情が視界を明滅させた。
「君は僕のものなんだよ、わかっているのかい」
理性が、必死に貴公子の仮面を取り繕う。
テルミナに優しくしよう。そう思って微笑んでも、テルミナはガタガタと震えるばかりで、あの柔らかい控えめな笑みを返しはしない。
「ねえ、あの男と何を喋っていたんだ?ええ?僕を捨ててここを去る相談でもしていたのか?」
「そんな事してません…。話もしてない…!」
おどおどと言葉を呟くテルミナの肩を強く揺さぶる。キースは信じていなかった。
「きゃあ!」
「本当のことを言えっ!あいつが好きになったんだろう!僕のどこが気に入らないんだ、テルミナ!?」
「好きじゃないっ…!あの人の名前だって知りませんっ!」
強くつぶったテルミナの目端からじわりと盛り上がった涙が、ぼろりとこぼれる。
キースは尚も信じない。
「嘘だ!なぜ、嘘ばかりつく!」
キースの脳裏にはテルミナの笑顔がこびりついている。
キースにとっての事実は久々に見たテルミナの笑顔が、他人の男に見せたものだったということだけだ。
その男が監視用に警護させている騎士である事実も、キースの頭からはすっかり失せていた。重要なのは自分以外の男に笑みを浮かべたことだけだ。
テルミナは揺さぶられ、怒声をはかれ、怒りに目をつり上げながら笑もうとして口を歪ませたキースに、いよいよ恐慌を来して口を閉ざした。
恐ろしさの余り全てが硬直してしまったという方が適当かもしれない。
キースは余りの激情にふぅふぅと荒い息を立てながら、固まったテルミナを抱き締めた。
「…テルミナ…。僕を嫌ったってダメだよ。僕から逃げようなんて、考えたって無駄だ。君の作戦なんて全て握りつぶしてやる…」
彼女を抱き締め、背に回した手で頭を撫でる。テルミナがいつしか力を抜いて大人しくなるまで、キースはそうしてテルミナにすがりついた。
このキースの異常な行動は結婚してすぐに始まった。
客、使用人、庭師、テルミナが目を合わせ言葉を交わす毎に、キースは段々と余裕を失くしていく。
テルミナもそれに気付いて男と話さないように、目も合わせないようにがんばったものの、キースの厳しい判断基準をクリアすることはかなわず、ついに厳重な監視のもと、こうして監禁されてしまった。
*
ポールビー侯爵家に生まれたテルミナのこれまでは、ひどく惨めなものだった。
生まれてすぐ、テルミナの髪と目を見た母が、まずテルミナを嫌った。
その藁色が父方の祖母、つまり母親にしてみれば姑譲りの色であり、ひどくいじめてきた姑と同じ色のテルミナを毛嫌いしたのだ。
父は憐憫の情を傾けこそするが、それは決して愛情ではなかった。
乳母を与えられたテルミナは、離れに用意された一室で育った。乳母は優しかったが、実の父母から家族らしい扱いなど一度もうけたことはない。
それでもテルミナはまだ耐えられた。
誰にでもそういう扱いをするのなら、優しい乳母さえいれば父母なんて必要なかったからだ。
しかし、やがて生まれた妹によって、テルミナは深く傷つくことになる。
父譲りの若緑の目に母譲りのはちみつのような髪をした、天使のような容貌の妹、ジャスミン。
ひどく悲しいことがおきた。彼女がうまれてすぐ、同時期に出産したテルミナの乳母がジャスミンの乳母に選ばれたのだ。
テルミナの側から唯一の家族がいなくなる。
無力なテルミナにはその決定はどうすることもできず、それから毎日泣いて暮らすようになった。
ジャスミンは当然のように離れに移されることもなく、父母と共にそばにいて、スクスクと伸びやかに暮らしている。あまりにも明確な差だ。テルミナが泣き暮らし、己の立場を認識したのは三歳の頃だった。
ジャスミンが歩くようになると、父母は乳母と幼い彼女を連れて馬車に乗り、外へよく買い物にいきはじめた。そしてそれを離れの窓から眺めるのが、テルミナのくせになった。
それだけが乳母を見る機会だったからだ。
善良そうに優しげな笑みの父母。ジャスミンと手を繋ぎ付き添う乳母。一度も外へ出たことのないテルミナは、ついにストレスから倒れてしまった。それは六歳の頃だった。
倒れてようやく存在を思い出したように、テルミナは父母と共に暮らすことを許された。
母親は「ごめんね」と謝った。髪色も目の色も、今思えばどうでもよかったのに。と涙を浮かべて言った。父親は「これからは家族四人で仲良く暮らそう」と安堵した笑みを浮かべていた。
彼らの態度はひたすら白々しかった。どうでもよいことのために自分を隔離して、どうでもよかったから、今まで自分を忘れたのかと言いたかった。
何故今さらやってきて仲良く暮らせると思うのか。
テルミナは、もはや彼らへの思慕は一切ない。怒りしかなかった。
一番の怒りは、自分の唯一の家族を取り上げたことだったのだ。
テルミナは乳母のように柔和な笑みを顔に張り付けた。
「お父様、お母様。わたくしの妹はどこですか?わたくし、お姉さまになったと知ってからずうっと会いたかったの」
父母は、思いがけない良い子な返答に驚いたような顔をした。本当にずっと会いたかった。それはもちろん、自分の乳母に。
それからずっと、テルミナは彼らの事を信じることが出来ないままだ。
父母は妹の面倒をよく見る真面目で穏和なテルミナに、遅れを取り戻すように山程の愛を押し付けた。
湖畔のほとりにある別荘地を、宝石の目をしたぬいぐるみを、ドレスを。
そして極めつけに婚約者を贈った。
ハインツビー侯爵家、要するにポールビー侯爵家の従兄弟にあたる家の末子を。
16歳の頃だ。テルミナはポールビー家の長子として彼を婿に迎え、家を継ぐように差し向けられた。
テルミナは、本当にそれが嫌だった。
妹は別として、少なくともこの父母と家族であり続ける人生を正気で送れる気がしない。
そのために立てた策が、婚約者と妹とを引き合わせる行為だったのだ。
…テルミナが救世主とも呼べるキースの事を嫌うはずがなければ、むしろ乳母を除けば今までの誰よりも愛してさえいた。
だからこそ、今回の監禁騒ぎはテルミナにとってみれば非常に不服なことだった。
*
キースは今日の仕事を終わらせてすぐ、寝室へと向かう。テルミナを閉じ込めることに罪悪感はあるものの、なにより自分の手の中に彼女がいる事実の方がよっぽど重要だった。
一秒たりとも離れていたくないほどに、恋しくてたまらない。
腕にテルミナへの花束を抱えて、寝室に入る。
ベッドの上でおとなしくしているテルミナを見て、キースはすぐに驚いた。
「テルミナ?…なにしているんだい?」
「あら。おかえりなさい、キース」
テルミナは白く長い布で目隠しをしているのだ。
「何故目隠しを…?」
彼女にかけよると、テルミナはふらふらとなにか探すように手を掲げるので、すぐに手をとる。
テルミナはにこにこと微笑んだ。
まるで図書室での彼女の微笑みと同じような、ちいさないたずらが成功したようなあどけない微笑みだった。胸がうち震える。
「あなたが言ったのよ?私が他の人を見るのが嫌だって。だから私、もうなんにも見ないことにしたの」
「て、テルミナ…!」
キースの全身が歓喜でいっぱいになる。
何も見ないとまで言って、目隠しまでして待っていたのだ。他でもない、キースのために。
たまらず抱き締めたら、彼女の手が背中に回される。
「私の言葉が疑わしいなら何回だって言います。私はあなたが好きよ。私にはあなたしかいないの」
「テルミナ…。僕もだ…僕にも君しかいないよ」
キースはテルミナの目隠しをずらすと、中から出てきた目元に口づけた。
すぐに目隠しをすべて外してやる。
なにも見ないと決意したことを知っただけで、驚くほど独占欲は満たされたのだ。
窓から入る柔らかな夕陽がその藁色を赤く照らすので、テルミナを自分の影に入るように覆い被さる。
キースはただ、しなやかに天を向く麦穂のような彼女を、そのままの姿を目に焼き付けていたかった。
テルミナの頬に手を添え、優しく触れるようにキスを落とした。
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