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雨と無知と蜜と罰と 弟双子/気紛れ弟/クール弟
雨と無知と蜜と罰と 39 ※水難描写
しおりを挟む弘明寺愛恵の嘆息が聞こえた。
「わたしの叔父さんに……会ったの………?」
加霞の声が震えた。弟の出自を愛恵が知る由はない。この問いによって彼は眉をぴくりと動かした。
「では、加霞ちゃんの叔父御もご存知だったんですか」
それは敢えて知らぬふりをして相手から聞き出そうとしているようにも思えたが、本当に思いもよらないことを知ったふうにも見えた。
加霞はその質問には答えなかった。
「調査済みって、何を調査したの?DNA鑑定でもしてくれたの?何でしてくれたの?あーくんのお骨で?赤の他人の依頼で、そんなことできるわけないでしょ!」
「そうです。だから確定的なことは得られませんでした。ただ……僕は一時期、劇団にいました。その時の情報で……旧姓でいうところの八神さん、加霞ちゃんの義理のお母様と、付き人をしていた或る若手劇団員の噂をひょんなことから耳にしたんです。ほんの偶然から……」
「調べたの?それで?それだけで?人の家の事情を、調べたの?」
加霞はヒステリックに喋った。生天目の左手首の重みで、目の前の阿漕な人物に飛び掛からず済んでいる。
「絶対に他言しないつもりで調べました。八神さんの経歴と、相手の男……小山 風優彦さんの経歴を。墓まで持っていくつもりで。ただ、血液型についてもあり得ない組み合わせではなかったんです。だからその点についても断定に欠ける」
「あの双子には、貴方から、何か言った?」
因業な商売人は悵然として首を左右に振った。
「怪文書や悪戯電話の件につきましても、マナから聞いています。何故あのお二人がこの件を知っているのか……」
「わたしの叔父がそれとなく話を振ったからみたいです。そうではなく、どうして貴方の名前が怪文書に出てきたのかってことです。貴方とあの双子に繋がりがあったことは知っていますから、疑わざるを得ません」
職業に貴賎なしと言えど軽蔑してしまう嫌な仕事人は小さく頭を傾けた。
「マナが僕に依頼を寄越した理由はそれです。僕は一度、霙恋さんに或るはったりを利かせました。実際ははったりなどではありませんでしたし、言うつもりもありませんでしたが。……もうその頃には強い疑惑として頭の中にありました。加霞ちゃんもその場にいたのですが、覚えていますでしょうか。霙恋さんは、僕があの時に出しかけた……実際にそれを見せる気は一切合切なかったのですけれど、その手札を看破したのかも知れません」
加霞は唇を噛んだ。もにもにと柔らかいものを食むように。
「貴方は、またそうやって二度もわたしを苦しめる……」
「謝っても謝っても、足りないくらいです」
「ただのゲスじゃない!」
彼女は叫んだ。すると歪んだシルバーのワゴン車の助手席のリクライニングが起こされて、人影が見えた。
「メグは悪くないんだ。全部オレが頼んだ。オレが言っても逆効果だろ」
舞夏が姿を現した。彼を見た時の加霞の慷慨、悲憤、憎悪、忿懣、怨嗟、赫怒といえば、感情の容量を越え、彼女の人生のあらゆる怒りを掻き集めて固めたような形相をしていた。それは身体の制御をも超越していた。暴力。これでしか決着できない。しかし仇のように憎たらしい男に歩み寄ろうとした時、右手だけがついてこなかった。リボンが皮膚に食い込む。振り返った。生天目がぼんやりと、しかし隠然として海を臨み突っ立っているのが見えた。
「久城さん……」
「生天目先生……」
みるみるうちに瞋恚の炎に燃え滾っていた眼はそれを鎮火せんとばかりに潤んでいく。見放されるのを恐れた子供みたいに教師に縋り付いた。いつものように節くれだった指は髪を梳かない。頭を撫でない。
「おれには、貴方に応える資格が、もうありません」
そう言って彼がポケットから取り出したのは折り畳み式のナイフだった。固く縛ったリボンを裁つ。
「ごめんなさい、久城さん。おれから誘っておいて」
彼女は激しく首を横に振る。
「わたしから誘った……!」
「いいえ。久城さん」
リボンは呆気なく質感の粗いアスファルトに横たわった。彼女はそれを瞠目して凝らす。
「生天目先生がいなきゃ、わたし、仕合わせになれません……!」
加霞は口元に両手を当てて、屈み込み、2人を繋いでいたワインレッドの残骸を見下ろした。
「幸せくらい自分で探せ!加霞さんはマトモな姉貴だったろ。あんたの中の嵐恋くんがこんなの望んでないことくらい分かれ!オレの中の嵐恋くんは、あんたにもう少しセコく生きて欲しいって思ってるよ。あの子はそんなことで失望するか!あんたが消えたら、オレの知らない嵐恋くんまで消えちまう。やめてくれ……止めた責任、取る。あんたの傍にいる。あんたの中の嵐恋くんが暴走して、あんたがまた頭おかしなことやり出したら、オレが止める……幸せくらい、自分で考えてくれ……オレも一緒に、考える。嵐恋くんのいた生活を足枷にすんなよ!悲劇にするな!その人に何でもかんでも放り出して背負わせるなよ…………」
途中から舞夏の声は淡くビブラートをかけたように震えだした。
「……その人の言うとおりです、久城さん。おれは貴方とは逝けない。越えてはならない一線を越えました。貴方は望まないかも知れない仕合わせを蜂須賀さんはくれるかも知れません。仕合わせは罰です。一度味わったら手放せなくなる。けれど、蜂須賀さんと往くことです。今おれがおれの満足としてでもできるのは、蜂須賀さんのほうへ貴方の背中を押すことだけです」
青白い骨張った手を握ろうとした。しかし生天目はそれを拒む。
「生天目先生……」
「あの人は眩しいですね。あの人は、すごく眩しい」
淡々としていた。呆気なく別れを告げられている。ドラマなどで観たことのある、浮気男が女と関係を終わらせるシーンよりも乾いていた。湿気た匂いもない。塩映さも苦みもない。無味無臭だ。ただちょっとした耳鳴りがある。外には潮騒と微妙な潮の香りが。
「それではさようなら。ありがとうございました。鞭打ちがあるかも知れないので、今は痛くなくても、病院に行ってください。おれはレッカー車を呼びます」
彼は呑気や語り口で、くるりと背を向けた。
「生天目先生……」
追おうとしてしまう。いつの間にか真後ろに立っていた舞夏に阻まれた。
「放して……っ!」
それでいて背後には構っていられなかった。離れていく生天目の背中を眼球が乾くのも厭わずに凝然と眺める。
そして彼はぴたと止まった。
「おれの中の久城は…………本当を言うと、怒っていました。こんなことをして教師のつもりかと」
「生天目先生……月、綺麗じゃなくてもいいですからね!先生……、月、欠けてても、罅入ってても……!」
彼女は叫んだ。届いていないかも知れない。生天目には反応がなかった。後部が潰れている車に乗り込むのを、愛恵がぎょっとして追いかける。しかしそれが教師と元生徒の姉を取り持つためのものでないことは分かっていた。
加霞は放心した。膝から崩れ落ちるのを支えられる。
「放して!放れなさいよ!放れろ!アンタの所為だ!あんたの所為だからな!」
「そうだ。この破局はオレの所為だ」
酸素を得たマッチ棒の火の如く、彼女は爆発的に燃えたかと思いきや、瞬く間に燃焼し終えてしまった。舞夏の熱い腕が逃げ出せない程度に緩むと、加霞はアスファルトに尻餅をつく。
「立て」
強い語気で命じられるが彼女は項垂れてばかりだった。
「責任なんか取れるわけないじゃない!無責任野郎!殺してやる!あんたを殺してわたしも死ぬ!」
隙を突いたように彼女は舞夏を見上げると掴みかかった。
「死なれたら困るんだよ。なら殺されるわけにはいかないだろ」
暴力的な面を露わにした気違いの女を舞夏は軽々と持ち上げてしまった。肩の減り込むほど真横にある胸板を押す。膝裏を通った腕を叩く。歩き出される。駐車場を出る坂を登り、公道に出るつもりらしい。
「放しなさいよ!殺してやる!」
びくともしないことを悟ると、その逞しい首に両手をかけた。乱れ狂い荒れた感情は、そこに力を集中させはしなかった。ただ爪が健やかで瑞々しいその皮膚を引っ掻いて、浅過ぎる傷を創るのみ。
「よせよ。帰るぞ。どこに帰る?加霞さんの家?オレの家?」
「あの海の底に!還るの!」
「だめだ。加霞はまだ海には還らせない。あんたは人魚姫じゃない。あそこはあんたの還る場所じゃないし、あそこに行っても逢いたい人には逢えない。逢えるような気がするだけで、逢えた気にもなりはしないぜ」
やがて彼女は生命力に富んだ男の薄皮を削り取るのをやめ、その両手で顔を覆った。電動ノコギリが軋めくが如く泣き出した。
「泣かないでくれ」
「あんたといると泣いてばっかり……あんたはあたしを苦しめるんだ!」
うっうっと咽ぶも憎しみ人に当たるのは忘れない。
「あんたの感情が見えるのが、せめてもの救いだよ。今まで、貌のある野箆坊みたいで怖かった。怖かったっていうか、不安になった。心配した。独りで抱え込んじまうし、急にオレから距離置くし……でも嫌われてもないのかなって都合良く思ったりもして………加霞しか見えなくなる」
抱き上げる力が強まった。加霞にはもう何も返すと気も起こらなくなっていた。感情を涙によって発散しなければ、本当に頭がおかしくなりそうだった。
「あの人が壊れそうな加霞を繋いでくれたことには感謝してんだ、これでも。あの人がどんな為人かは知らないけど、それはそれとしてこのことは尊敬するよ。加霞の中にあの人がいることは否定しない…………嫉妬は、あるけど」
熱い揺り籠に蒸されそうだ。居心地も悪い。寒くはないくせにぶるぶる震えた。
◇
『アレンはおれが送っていきます』
生天目が後部座席のドアを開け、そこに弟が入っていく。
『行ってらっしゃい、あーくん、あなた……』
ブロック塀の上から敷地外にまで伸びた桜の木が揺れて、花弁が舞い散る。
『行ってくるね!姉ちゃんっ!』
生天目の運転する車を見送った。消えるまで。加霞に降り注いでいた薄紅色の花弁が徐々に黒く濁り、やがてどす黒く、桜木もまた朽ちていく。腐り、溶けて、ヘドロと化していく。
極めて小さくなっていた車の後姿が、途中ぶつりと切れた道路から飛び、落下していく。
場面が忽如として切り替わった。車を外から見送っていたはずが、今度は車内にいる。シートベルトが肉に食い込む。
『怖いよ、怖いよ、姉ちゃん!怖いぃ!』
隣に座る弟が暴れた。シートベルトの外し方も思い至らないようだった。
『あーくん、あーくん!』
名前を呼ぶことしかできなかった。浮遊感と衝撃。サイドガラスの下部は濁った色に染まっている。水面下と水面と水上があらゆるブルーの地層みたいになっている。
『助けて!、苦しいよ……』
弟の胸元にまで汚水が迫っていた。シートベルトを外そうとする。
『あーくん……』
『息ができな―』
一瞬のうちに車内は水に満たされた。すぐ隣にいるはずの弟は汚濁に消された。ただ、ごぽぉ、と空気の漏れる音がする。加霞は肋骨ごと胸の中心部を刺されたのかと思うほどの痛みに苦しむ。かろうじて息はできる。何より水の中にいながら蒸し暑かった。
弟を見失った濁水に手を伸ばす。すでにシートベルトの縛めからは放たれていた。小さな気配があった。水中に沈んでおきながら、滂沱の涙が溢れ落ちる。
『お前が殺したんだぞ!お前が殺した!お前が殺したんだ!』
絶叫があった。蝋人形みたいに青白い弟が、耳まで裂けた口から牙を剥き出しにして噛みつきにかかる。目はよく煮付けた魚みたいに白かった。
―ごめんなさい
飛び起きる。心臓がどっど、どっどと早鐘を打つ。そのために胸部が痛んだ。即座に冷えていく背中は涼しさを通り越してしまった。化学繊維の擦れた音に一縷の安堵を得たのは、ここが水中でないことを示したからか。彼女は喘息の発作を起こしたような息遣いを暗い部屋に響かせた。暗いと言ってもブラインドの下がった大窓からは夜景が見える。高級ホテルと見紛うそこは蜂須賀舞夏が彼の親から譲り受けた自宅マンションだった。50階には至らないが40階を半ば越えたこの部屋で寝るには気圧が合わないのかも知れない。エレベーターの乗り降りにすら難儀し、多少なりとも耳に違和感を残す。
「加霞」
加霞が掛布団を捲ると共有している隣の人物も掛布団を剥がされることになる。剥がされるとまではいかずとも隙間ができ、そこから温まらなかった空気が入るか、或いは温められた空気が逃げる。
その布団の共有相手も身体を起こした。
「だいじょぶ?怖い夢みたのか……?」
じっとりと汗に濡れ、瞬間的に冷やされ、また熱い腕が肩や背に回される。慣れた体温ではない。ほぼ無意識に同衾していた男を突き撥ねた。
「水を持ってくる」
「要らない」
「汗がすごい。飲んでくれよ。持ってくるからさ」
舞夏はベッドから降りていった。柔らかさはあるが高さが異様に低いベッドで、土台はあるがマットレスを直置きしたような高さで、なかなか慣れなかった。さらには背を向ける形でも大窓がある。ブラインドは下がっているが、誰も見ていないことは分かっていても見られているような心地がして落ち着かない。この国はとにかく大小問わず地震が多い。ここに来てから一度そう大きくない揺れを味わったが、不安を煽る。
水が運ばれてきた。加霞はグラスを受け取らない。さらに近付けられても顔さえ上げなかった。この男さえいなければ、悪夢に苛まれる夜、喪失の朝、虚無の昼、悲愁の夕暮れから解放されたはずなのだ。
「口移しでいいのか」
渋々と受け取った。この男はそれを実際にやりかねない。ここに連れてこられた日に実行されたのだ。グラスを両手で掴む。
彼は自分の寝ているほうには戻らず、加霞の寝ているほうに来て腰を掛ける。飲むまでそこに居座るつもりなのかも知れない。
「一気に飲むなよ。身体冷やすだろ」
彼女にしても喉が渇いていないわけではなかった。胃に不快感があるわけでもない。飲みたい欲はあり、飲めない理由があるわけでもない。ただ水面を見つめる。
「仕事行かせて……」
「まだ仕事行ける状況じゃないだろ。こんな夜中に目も覚めちまって。ちゃんと寝ない子は送り出せない」
「おうち帰りたい……」
「今の加霞を一人にできないよ。オレと一緒じゃないならダメだ」
監禁されているのだ。端末も望めば返されるが、使用中は監視されている。惨めさと恐怖に加霞はうっうっと歔欷してしまう。
「加霞……」
「触らないで……あんたのこと、まだ許してないんだから………!」
触れようとする腕を払う。同時に、許す許さないの権限がないことも彼女の脳裏にちらついた。これは償いなのだ。彼の恋心と優しい気質を利用し、鬼畜双子の代わりとして"不義の子"を押し付けた贖罪なのだ。
「……ごめんな。オレのことは許さなくていい。でもちゃんと、水は飲んでくれ。汗かいたんだろ。風邪ひく前に着替えるか?」
加霞は答えない。手にあったグラスを奪われる。時間切れだった。舞夏はグラスの中の水を口に含むと、彼女の両頬を押さえた。グラスが肌に近付き片側からは冷気を感じる。
「んぅ………っ、」
唇は唇によって蓋をされ、液体が流し込まれた。二度三度、注がれる。加霞は相手の寝間着を摘まむだけだった。怒りを迎え撃つ罪悪感が彼を拒めない。親鳥と雛鳥もやることだ。そこまで急を要してはいないが人工呼吸と構造は変わらない。だが、彼の舌が口腔を舐めていった時ばかりは彼を突き離した。
「舞夏ちゃんとはそういうこと、しない…………」
「そうだな。ごめんな。悪かった。もうしない」
このベッドは同衾しなければならないことを知り、逃げ惑い、捕まったときも同じようなことを言った。リビングのソファーで寝る、床で寝る、と言い争いにまで至っていた。
彼はグラスを返しに寝室を出ていった。この寝室だけで、加霞の借りているマンションの部屋1つ分ありそうである。その開放感もよく眠れない原因として書き連ねられるかも知れない。
ただグラスを置きにいったはずの家主はすぐに戻ってこなかった。それはそれでまたこの情緒不安定を極めている女を不安にする。酷いことを言われたために自殺してしまったのかも知れない。ぎく、とその可能性に気が付くと彼女はベッドから降りた。薄荷の匂いがほんのりと漂うのは首と肩に湿布が貼ってある。蹣跚とした足取りで隣のリビングに通じるドアを開けた。リビングに明かりは点いていなかった。カウンターキッチンから光が漏れているでもない。自分のではない荒々しい息遣いが止まる。
「どした?トイレ?」
こちらに背を向ける配置のソファーで人型の影絵が動く。その奥ではテレビが壁に掛かり、両端はフィクス窓にブラインドが降り夜景を透かしていた。
「なんでも……ない」
生きているのは分かった。飛び降りてはいない。首を吊っている様子はない。煉炭を燃やしている様子も首を掻っ切ったり様子もまたなかった。しかし薬物の過剰摂取は見て分からなかった。
「腹減った?まともに飯食ってなかったろ。冷蔵庫にプリンとかゼリーとかフルーツあるぜ。カットされてるからそのまま食えるし」
「要らない……」
「ああ、そう?じゃあ先寝ててくれ。おやすみ」
舞夏の表情は振り向いたとしても夜に塗り潰されて見えなかっただろう。ただ擦り切れたような質感を残す声だった。病熱とは異なる熱に喉を灼かれた声だ。加霞はまだそこにぽつんと立っていた。
「……加霞サン?」
視覚は夜目が利いてもあまり役に立たないために聴覚が冴え、小さく息苦しそうな呼吸が際立って聞こえた。
「……なんでもない」
「北条くんからライブDVD届いてるから、あとで観ような」
返事もしないでベッドに戻った。彼女が寝付くまで隣は空いたままだった。
『どうして死なせてくれなかったの!どうして死なせてくれなかったの!どうして!あんたにあたしの気持ちが分かるか!』
舞夏を引っ叩く。引っ叩いて引っ叩いて殴りつけた。彼は頭を抱えて転がる。その上にさらに跨り、さらに引っ叩いた。
『殺してやる!殺してやる!あんたを殺してから死んでやるからな!』
手を伸ばし、凶器を掴んだ。壺や花瓶かも知れない、ら小さな銅像かも知れなかった。蹲り、腕に守られた頭に振り下ろす。びくびくと痙攣を起こし、彼はくたりとして動かなくなってしまった。
『あんたなんかにあたしの気持ちが分かるか!』
頭蓋骨をかち割られた男の身体は弛緩していく。それを見下ろす。寝転がる様が弟に似ていた。彼が弟の実の兄であればよかった。そうしたらこの兄弟と離ればなれになることがあっても快く見送る。あらゆる祝福をする。祈り、拝み、望んだことだろう。
『あんたなんかにあたしの気持ちが……』
人を殺してしまった。大切だった人を殺してしまった。
―あんたの気持ち分かったら、きっと見殺しにしてたさ。
実際はそうではない。加霞の癇癪は簡単に往なされた。圧倒的な力量を前に負かされ、情緒はまた怒りから悲哀に傾き、憎たらしい男の存在も忘れて泣き喚く。迫り来る悪夢を恐れ、幸せから突き落とされた孤独を嘆き、終わらせることをさせない極悪非道の男を詰責する。
「ごめんな。許してくれ。加霞さんと離れてる生活、考えられないわけじゃないけど、嵐恋くんも死んじゃって、加霞さんの居なくなった生活は、もう考えられないんだ」
目元を撫でられる。ほぼ毎日毎晩 流涕しているために痛痒くなっている皮膚を触られると不快感で目が覚めてしまった。
「悪い。起こした」
開目一番は憤激さえ催させる男だ。肉体同様寝静まっていた怒りが沸きかけたが、朝日に照るその表情が萎びていることに気付くと埋火は瞬く間に二度寝してしまった。
「触らないでよ」
「うん、ごめん。朝メシできてるから。加霞さんほど上手くできないけど……」
「別に、要らない……」
「不健康な痩せ方してる。嫌なら出前とっていいから」
彼は悄気た顔をがらりと爽やかに塗り替えた。
「今度から……ごはんくらいわたしが作る……変なもの食べさせられて、お腹壊したくないし」
「おお、そうか?でもまだ刃物持たせられないな。でもオレも料理に自信ないからさ。オレが見ててもいいなら、いいけど」
「いつだって見てるでしょ……何かしてたほうが、あんたのこと忘れられてちょうどいいし……」
「そうか。じゃあ必要なもの言ってくれな。そうしたら買ってくるし、調子よかったら一緒に買いに行こう」
ブラインドを隔てても彼の顔は眩しい。
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