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雨と無知と蜜と罰と 弟双子/気紛れ弟/クール弟
雨と無知と蜜と罰と 40
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◇
舞夏の自宅マンションの部屋はリビングを挟んで寝室の反対側が彼の仕事場らしかった。中に入ったことはない。
加霞はフローリングに円盤型の掃除ロボットが這うのを眺めながら飯を作る。気紛れに点けたテレビの、N-PHKのキッズチャンネルは当たり障りがなくささくれ立った彼女の傷を撫でたり引っ掻いたり刺したりすることもない。否、幼い弟が観ていた番組がはじまるとどうにも堪えきれなくなってしまった。既に番組司会の男女のペアもマスコットキャラクターも代を変えている。
キッチンを離れ、テレビを消す。それと同時に舞夏が出てきた。
「いい匂いがするな」
「ナスのドリアを作っています。それからトマト煮込みのチキンとオニオンスープを」
「おお、美味そう」
「そろそろ出来上がります。お風呂の準備もできています」
彼女は20代の一人暮らしの男に全国支給されているのかと思うほどよくみるガラスのローテーブルにリモコンを置いた。ぴし、と真っ直ぐ整える。
「あ、ああ……めちゃくちゃありがたいんだけどさ……加霞さん?敬語やめてくんね?あとオレ別に、加霞さんを家政婦扱いしたいわけじゃないんだけど……」
加霞は家主をきっ……と睨んだが何も返さなかった。
「ご、ごめん、ごめんて。ごはんにしよ。お腹減ったし」
加霞は4人掛けのダイニングテーブルセットの椅子を引いて着席を促す。家主は苦笑してそこに突っ立ったままだ。
「オレも配膳くらい手伝える」
「座っていてください。わたしのペースが乱れますので」
ぴしゃりと言うと舞夏はまだ微苦笑をやめず席に着く。かかかかっと夕飯は彼の前に並んだ。加霞はぼうっと明かりを消したカウンターキッチンの陰に紛れて突っ立っている。
「そろそろ一緒に飯食って欲しいんだけど……一緒に顔突き合わせて食うの、ダメかな?嫌……?」
彼女はやはり答えない。
「ごめんな。嫌なものは嫌だよな。強制はしないから、不安に思ったりはしないでくれ。加霞さんの家事能力にめちゃめちゃ甘えてるけど、オレが加霞さんをここに引き留めてるのは、そんな、加霞さんコキ使いたいためじゃないから。いや、めちゃくちゃありがたいんだけどさ」
「ドリアが熱くなっていますから、火傷にお気を付けてください」
彼女はまたぴしゃりと言った。舞夏はやっと黙る。
風呂場も一緒だった。彼は浴室の隣の脱衣所で雑誌を読んでいる。時々話しかけられ、答えずにいると開けられるため、仕方なく会話が成立していた。剃刀で手首や首を切る可能性を恐れているそうだった。初日は殺すの死ぬのと大騒ぎだったがすでに従順になっていた。そうすると今度は待たせるのが気掛かりになって満足に入浴もできなかった。
リビングで髪を乾かし寝室に入る。舞夏は先にベッドにいた。よっ!と彼は片腕を上げた。
「先に寝ていてください」
「家政婦さんみたいなのやめてくれ。そろそろ……ツラい」
彼女は無言になってベッドに座る。
『湿布、貼ったのか』
『これから貼ります。電気を消していただいた後で』
『上手く貼れないだろ。オレが貼る」
「いいです。そういうことなら貼りません』
『オレがやるよ。オレの責任なんだからさ』
―というような会話が毎晩のように交わされ、それよりも前の晩などは死ぬの殺すの許さないだのと物騒な騒ぎが起こっていた。
「湿布は?」
「今貼ります」
「貸して。これくらい」
この男と言葉を交わさない方法をもう知っていた。感情も揺さぶられずに済む。潔く彼女は袋を渡した。寝間着の前のボタンを外し、肩を晒す。舞夏は力尽くで女を犯したりはしない。たとえ自分を強姦した癲狂病みの女に対しても。それだけはいくら憎んでいても分かる。
湿布が貼り終わる。ほわ、と独特な匂いがした。布団に片足ずつ突っ込んでいく。
「ベッド、新しいの買うか。こっちの大きいのと、新しく買う小さいの、どっちがいい?」
「どうしてベッドがもうひとつ要るんですか」
まさか同棲相手が居るのではないか。この関係は不倫や浮気ではないが、この家主の同棲相手がこの生活をどう思うかは分からない。
「なんでって……嫌だろ、ムカつく男と一緒に寝るのは」
「すぐ出て行きます」
「そうだな。そうしてくれると……助かる。でもまだダメそうだ。焦らず、ゆっくりな。電気、消すぞ」
横になって頷くと宣言どおりに消灯される。
「ジレンマがある。加霞さんとまだこうしてたいよ、ホントはな。でも加霞さんのこと考えたら、さっさと出て行く方向に祈らなきゃならないよなって」
家主の隣の女は即眠ったのかも知れない。何の反応もなかった。
「ごめんな、色々気、遣わせて。疲れたよな。おやすみ」
それから数分間、隣からは寝息のひとつも聞こえなかった。遠慮がちな衣擦れがあり、ベッドがわずかに沈んでから浮いた。真横にあった気配が遠ざかる。
加霞はまだ寝付いていなかった。寝たふりをしたわけでもない。緩やかな監視から放たれ、異様な重苦しさが訪れた。その正体を確実にしなければそれは治まらない気がした。温くなった布団から出る。リビングに通じるドアを開ける。暗い大部屋に息切れが潜んでいたのが、ふと消えた。
「……加霞さん?どした?トイレかい?喉渇いた?」
掠れた声が聞こえた。そこにこもる艶めいた響きにおそらく本人は気付いていない。背凭れに預けているらしき頭が動く。
「居なくなったから」
「探しにきてくれたの。ありがとな」
「……別に」
彼女は回転扉よろしくまた寝室に戻ってしまった。理屈で否定しても次々ともぐら叩きゲームに似た義務感が顔を出し、首を伸ばし、叩き潰し粉砕しても追い付かない。
一度暴いた彼の肉体を思い描く。だがそれは強姦によって得た情報で、何よりも思い出せないのだ。彼を無理矢理に辱めたことしか覚えていない。具体的な理由も対象も覚束ない悍ましさに全身が粟立った。雷や幽霊を恐れたみたいに布団に潜り込む。小さくなった。
その朝は加霞のほうが先に目が覚めた。腕を上げて寝る姿が弟と重なると、朝っぱらから眉を顰める思いをする。彼女はとうとう本当に気が違ってしまったのかも知れない。寝ている舞夏の上で腕立て伏せをする気のようだった。しかし両腕を立てるだけで伏せはしない。尻も彼に乗るか乗らないかというところで浮かせて座っている。光の翳り方、空気の流れを敏く感じるものなのか、舞夏は目覚めるとまではいかずとも寝苦しそうな様子を見せた。彼は眉間に皺を寄せ、額を拭ったかと思うと加霞の腰を掴んだ。まるですでに目が覚めているかのような的確さである。そしてそのままベッドの外に転がりはじめる。共にそこまで高さのないところから落ちた。舞夏という男は異性との同衾、それも自分を蛇蝎の如く嫌悪している壊れかけの女に意識がいくあまり、彼の寝ている範囲といえばシングルベッドよりも狭かった。
落ちていく瞬間に彼の目が覚めたのが加霞の目にも分かった。咄嗟に彼女の後頭部と床の間には手が入ったが、それ以外は下敷きになる。起床早々の出来事にこの家主は哀れなほどの狼狽をその顔面に示した。閉じていないブラインドから入る朝の光が彼の健康的な肌を白塗りにする。
「あ……えっと、あ、ああ、ごめっ………!」
2人の間に反物質が爆誕したのかと紛うほどに舞夏は後ろに飛び退いた。加霞はごつ、と床に後頭部を打つ。彼女はむくりと起き上がった。
「おはようございます」
「お………、はよう」
「朝ごはんを用意します」
「あ、……うん。焦らなくていいからね。別に君は家政婦じゃないんだし、もう少し、寝てても……」
彼は明らかに動揺している。
「舞夏さん」
「な、なに………」
「わたしが乗ったんです。身体の癒しになればと思って。その義務を感じました」
舞夏本人はその言葉の意味をその場ですぐに理解したわけではないようだった。疑問符だらけの顔をしている。彼女はそういう家主を放って朝飯を作りに行く。
野菜を適当に薄く切ってコンソメを溶かしたスープを温めていると舞夏が監視に来た。加霞はカウンターキッチンからダイニングテーブルに回り椅子を引いた。家主は沈んだ顔をして棒立ちになっている。
「さっきはホント……ごめんな。頭打ったろ?」
「舞夏さんの気にすることではありません。お座りください。ヨーグルトがお先にできていますが召し上がりますか」
彼はやはり微苦笑を浮かべ、重い足取りで引かれた椅子に座る。
「さっきの、本当に……本当に、あのさ、」
「舞夏さんの所為ではありません。まったく怒っておりませんし、わたしが怒る道理もありません」
卵を1つ溶かす。かちゃかちゃと小気味の良い音と水音がした。オーブントースターがそろそろ加熱終了を告げる。
ピザトーストとヨーグルトにバナナを浮かせたもの、半分にした玉子焼き、簡素な野菜スープを舞夏に食わせ、彼女は例の如くキッチンに突っ立っていた。
「美味しいよ、加霞さん。美味しいけど、やっぱ夜はさ、一緒に食べたい。オレ食べるのそれなりに早いつもりだけど、待たせるの悪いし……顔突き合わせるのヤだったら、オレ、そっちで食うよ」
舞夏はちらとソファーのほうを見た。
「オレのワガママなの分かってるけど、前みたいに戻りたい」
「無理な要求です。あの子はもうおりませんから」
「そういうことじゃ、なくてさ……」
「……舞夏さんにしたことは、許されないことです。一生かけて償います」
彼はピザトーストを齧りながら、苦すぎるものでも口にしたような顔をした。ピーマンは薄切りにしたが、確かに多かったのかも知れない。
「誰かに依存して生きるのやめてくれ」
パンのスプリングフェスタで貰ったらしき白い皿にピザトーストの赤みが映えた。加霞は黙っている。
「許してるって言ったろ。許しんたんだ。許したくなくたって、許しちまうよ。許したこと、許されてないつもりになるなよ。オレは許した。仕方なく許したんじゃない。許したくないと思っても許してる。許さないつもりで加霞さん繋ぎ止めておきたかったのに許しちゃうんだ、前のあんたがどんな人かを知ってるから。あれが正気じゃなかったことも酔っ払ってたことも知ってる。頭おかしくて酔っ払いなら何してもいいわけじゃないけど、オレは許してる。何よりオレは裁判官じゃない。あんたに惚れて、まだ惚れてる時点で裁判官なんかできっこない」
「でも……」
「加霞さんの中のオレが許してなくても、実物のオレは目の前にいて、本音晒して許してるって言ってんだよ。許せないこと許すのは難しいけど、許せちゃうこと許さないでいるのも難しいんだ。あんたを憎めない。憎めないから苦しめてるのかもな。ごめんな、憎めなくて。憎めないから苦しめて、結局憎んでるのと一緒だな」
それをブラインドの縞模様の陰が映るフローリングを見つめて聞いていた。
「ごめんな。ほんと、ごめん。加霞さんに生きてて欲しいのはオレのエゴだ。加霞さんの孤独は癒せないの、分かってるよ。ただオレは許してる。怒っても悲しんでもない。ただ驚いた。あんなになるまで放って置いて、それで尻尾巻いて逃げた自分に失望した。それだけ。オレは加霞さんにそのこと、気にして欲しくないけど、加霞さんが気にするならそれは加霞さんの中の問題だ。むしろ、オレでよかったと思ってる……」
「舞夏ちゃんだけじゃないかも知れないでしょ、ああいうことしたの」
弟を恋しく思うあまり、彼の教師にも手を出している。それをこの男は知っているはずで、目にしたはずで、首を突っ込んだはずだ。
「してないだろ。そんな気がする。そういうことにしておく」
「まだわたしが、何も知らない純真無垢な人間だと思っているんだしょ!」
「むしろここで一緒に暮らしているうちに、そう思うようになってきた。セコく生きられない、自分の罪が許せない、自暴自棄にもなれない……綺麗だよ、あんたは。オレが会ってきた誰よりも、綺麗だ」
彼はぱりり……とピザトーストを鳴らした。
「もう汚れてるの!」
「洗えばいい。あんたが自分で泥被った分は洗える汚れだ。オレも洗う」
「綺麗事はやめて。理想論は」
舞夏はの頬が咀嚼で動いていた。
「この際だから言っておくけれど、あんたが最初にわたしと生天目先生を疑ってくれたときの、相手、あれ、雫恋ちゃんだからね。雫恋ちゃんとセックスしていたの。あーくんが家にいるときにね。あんたが北条くんと家に来たときも、あたし電話しながら雫恋ちゃんのおちんちん舐めての!あんたがあたしに指切ったんじゃないかなんて過保護に心配してくれたときなんか、あんたは気付いてなかったみたいだけど、霙恋ちゃんがキッチンにいて、あたしのお股舐めてたんだからね。あんたが帰れなくなったあーくんの面倒看てきてくれたときも、その電話中も!あたし、雫恋ちゃんとセックスしてたの!セックスして、若いカラダに溺れていたんですからね!」
相手は食事中で、時間は日が昇ったばかりである。舞夏の咀嚼は速度を落とし、やがて止まった。
「ですがこれだけは言わせてください。わたしは弟と平気でセックスをするゴミクズのどうしようもないろくでなしですけれど、嵐恋とは何にもありませんでしたからね。あの子は潔白ですよ。あたしと血の繋がりがあるのか無いのかはっきりしませんでしたけれど、あの子は本当の弟ですからね。それだけは、あの子の名誉のためにも、言わせてくださいな。股の緩い淫乱な女にも、あの子のいた十数年間分の同情というものはありますから」
舞夏は脱殻になったみたいに薄切り野菜の浮かんだスープをしゃくしゃくと食った。
「知ってたよ。知ってたよ、なんて言えないな。後から、知った。グミから聞いたんだ。グミも全部は教えちゃくれなかったけど、今、全部繋がった。タチの悪いストーカーのせいで鍵替えなきゃいけなくなってたこととか、雫恋くんたちが加霞さんと嵐恋くんに"執拗な嫌がらせ"してたから、怪文書はそれのせいかも知れないとか……加霞さんの言ってたことも気にかかって……でも、それまで何にも知らなかった。グミから聞くまで、何にも……オレって本当に、頼りないんだな」
「そう。舞夏ちゃんは頼りない。頼りないから頼らなかったのに、頼れって、なんなの。あたしの頭よりおかしい!おかしくないの?」
「そうだな。へへ、好きな女に言われると結構きっついぞ」
「だったら早く放り出しなさいよ。ここに留めておいたって、わたし、あんたのことなんか好きになんてならないんだから!」
彼女はぱっぱとエプロンを脱ぎ捨てる。顔は熱いが身体は冷えていく感じだった。
「好きになって欲しいんじゃない。見返りは要らない。言ったろ、あんたの中のあの人のことは尊重する。オレのはただの片想いでいい。あんたが壊れなきゃ、それで」
「嫌いになりなさいよ!」
「嫌いになりたいよ。なれたらオレだって楽だったさ。叶わない恋なんてつらいだけだ。好きな女に嫌われて憎まれてるのも、なかなかクるんだぜ。こんな美味い飯、毎日食わしてもらってんのにな。文句ばかりのとんだ薄情者で、ごめんな?」
苦笑を朗らかに浮かべているのが気に入らなかった。加霞の貌にはきぃ、とヒステリックな翳りが浮かぶ。そしてハウスキーパーの務めも投げ捨てて寝室に戻った。広いベッドに寝転んで顔を覆う。涙は涸れている。連日連夜泣き喚き、怒鳴り散らし、悲嘆している。喉も痛んだ。横になって怠惰に過ごす。あの男といるのは疲れる。疲れさせる。疲れさせたことにまた疲れる。隣に人の気配のないベッドは心地良かった。目を瞑る。息が出来る。
『姉ちゃん。ホントの家族が呼んでるん。行ってくるね』
弟が自宅の玄関を開けていく。小さく手を振っていた。
『あーくん、行かないで』
『ホントのパパとママがいいから……』
玄関ホールで這う。真っ白な光に、弟は包まれていく。
『行かないで、あーくん。行かないで、お姉ちゃんを独りにしないで……』
弟はもう振り向きもしない。見たことのない軽やかな笑みで、消えていく。焼かれていく。焦げて塵となり、目玉のある骸骨が赤の他人の、姉を気取った女をぎょろりと一瞥した。
『姉ちゃん……誰―?』
白い光が消えていく。弟は双子の兄たちに縋り付いていた。
『監禁されてたのか、可哀想に』
『怖い女がいたもんだよ。こんな子供を閉じ込めちゃってさ』
『いじめられたんじゃないか。可哀想に。こんな傷だらけになって』
『うわ、気が違ってるだろ。虐待とかサイテーだな』
『やめて、連れてかないで!あーくんを返して、返して!お願いいぃぃぃぃぃ!』
玄関からは濁流が迫ってきた。目の前の骸骨を呑む。そして自身をも巻き込む。もがいた。何かに捕まろうともがいた。そして手に触れたものを鷲掴む。
『姉ちゃ………な………んで………』
玄関ホールに流入した汚水などはなかった。しかしその手には弟の首が掴まれている。触れた箇所だけが骨となり、襤褸布みたいな皮膚がひらめいている。姉を慕うその目は不信と恐怖に満ちている。
『殺さないで……殺さないで、姉ちゃん………タスケテェ………………』
はっ、と吐かれた自身の息で、一気に目蓋が開いた。眼球を落としかねない。普段ならば家主の寝ている広いベッドが伸びている。一個人の自宅のくせ、寝室のまだまだ有り余ったスペースはラウンジのようになっている。観葉植物と華奢なハイテーブルとセットと思しきカウンターチェアが2つある。ベッド周りをそうすべきところを、そのラウンドともロビーともいえないスペースは遮光カーテンが掛かり暗かった。
視界は荒い呼吸によって漣に身を委ねたみたいに浮沈する。朝日は凪いでいる。弟のいない地球を照らしている。弟が居なくとも、営まれている。粉塵みたいな存在だったのだ。この地球にとって、太陽にとって、宇宙にとって、弟はいても居なくても変わらない存在だった。また昼が来て、日が暮れ、夜になる。弟はいないというのに平然と行われる。そういう世界に生きてしまった。弟を生かしておきながら自然は平然と彼を死に至らしめた。そういう世界に生きていくのだ。彼女はむくりと起き、そこに座ってぼう、と項垂れていた。怒りの点火装置は過加熱されて炭化してしまった。もう作動することはない。
「舞夏ちゃん……」
舞夏の様子はおかしかったが、それは彼が様子のおかしいものを見ているからだ。気の違った女は掌を返したように家主に媚びた。寝間着の前を開き、胸元を晒す。彼女はずいと背筋を撓らせて舞夏に胸部を寄せた。
「してください」
ぎょっとしている舞夏のベッドについた腕を引き、胸に当てる。
「したいです」
「加霞さん……?」
「したいです」
彼の顔は一瞬にしてかっと染まった。
「加霞さん…………するって…………」
「セックス、してください」
「し、しない……よ。加霞さん………?」
「したいです」
加霞は寝ようとしている舞夏へ子犬みたいに這い寄った。引き締まった肉体を辿る。
「してください」
「しないってば……!」
しっかりとした手が好色的な女の肩に触れた。彼女は情事を拒否する男を覗き込む。
「しない」
少し語気の強まった拒絶だった。彼女は特に傷付いた様子はなかったが、表情にどこか尋常ではない虚無を携えてそのまま俯いてしまった。
「……分かりました。ごめんなさい」
蛇みたいにしゅるしゅると女は自分の寝るスペースに戻っていった。布団に潜り蹲る。舞夏がドラッグストアで適当に選んできた女物のシャンプーとリンス、ボディーソープに身体に塗ったハンドクリーム、そして薄荷の匂いが男の鼻先に纏わりついたのだろう。彼は幻影でもみたかのようだった。粘こい光がその濡れた瞳に差している。
「加霞さん……あの、」
「雫恋ちゃんか霙恋ちゃんに会わせてください。もう舞夏ちゃんには頼まないから……お願いして、迷惑かけないから……」
「あの弟たちには絶対に会わせない」
彼の語気はまた強い。まるでその2人を庇い、突然翻意し媚びた態度をとる女を激しく誹るような感じさえある。
「あーくん産んであげなきゃいけないんです。苦しんでるから。あーくん、天国に行くはずが、わたしが地獄に堕としちゃって、毎晩毎晩苦しがってるから、わたしが産んであげなきゃ。今度は殺しません。今度は死なせません………助けてください、助けてください……」
嗚呼哀哉―彼女はまた舞夏をレイプしたときに戻ってしまった。酒を入れたか入れてないかの違いである。
「加霞さん……じゃあ、オレと結婚前提に付き合える?幸せにするから……それならいいよ。オレは加霞さんの赤ちゃんのパパになりたい。親としてじゃなくて、家族としてのパパに。パパとしても夫としても受け入れられないなら、できない相談だ」
布団に潜った加霞はぐっと目を瞑った。この左手の薬指に輪を掛けた人のことが急に頭を過ってしまった。
舞夏の自宅マンションの部屋はリビングを挟んで寝室の反対側が彼の仕事場らしかった。中に入ったことはない。
加霞はフローリングに円盤型の掃除ロボットが這うのを眺めながら飯を作る。気紛れに点けたテレビの、N-PHKのキッズチャンネルは当たり障りがなくささくれ立った彼女の傷を撫でたり引っ掻いたり刺したりすることもない。否、幼い弟が観ていた番組がはじまるとどうにも堪えきれなくなってしまった。既に番組司会の男女のペアもマスコットキャラクターも代を変えている。
キッチンを離れ、テレビを消す。それと同時に舞夏が出てきた。
「いい匂いがするな」
「ナスのドリアを作っています。それからトマト煮込みのチキンとオニオンスープを」
「おお、美味そう」
「そろそろ出来上がります。お風呂の準備もできています」
彼女は20代の一人暮らしの男に全国支給されているのかと思うほどよくみるガラスのローテーブルにリモコンを置いた。ぴし、と真っ直ぐ整える。
「あ、ああ……めちゃくちゃありがたいんだけどさ……加霞さん?敬語やめてくんね?あとオレ別に、加霞さんを家政婦扱いしたいわけじゃないんだけど……」
加霞は家主をきっ……と睨んだが何も返さなかった。
「ご、ごめん、ごめんて。ごはんにしよ。お腹減ったし」
加霞は4人掛けのダイニングテーブルセットの椅子を引いて着席を促す。家主は苦笑してそこに突っ立ったままだ。
「オレも配膳くらい手伝える」
「座っていてください。わたしのペースが乱れますので」
ぴしゃりと言うと舞夏はまだ微苦笑をやめず席に着く。かかかかっと夕飯は彼の前に並んだ。加霞はぼうっと明かりを消したカウンターキッチンの陰に紛れて突っ立っている。
「そろそろ一緒に飯食って欲しいんだけど……一緒に顔突き合わせて食うの、ダメかな?嫌……?」
彼女はやはり答えない。
「ごめんな。嫌なものは嫌だよな。強制はしないから、不安に思ったりはしないでくれ。加霞さんの家事能力にめちゃめちゃ甘えてるけど、オレが加霞さんをここに引き留めてるのは、そんな、加霞さんコキ使いたいためじゃないから。いや、めちゃくちゃありがたいんだけどさ」
「ドリアが熱くなっていますから、火傷にお気を付けてください」
彼女はまたぴしゃりと言った。舞夏はやっと黙る。
風呂場も一緒だった。彼は浴室の隣の脱衣所で雑誌を読んでいる。時々話しかけられ、答えずにいると開けられるため、仕方なく会話が成立していた。剃刀で手首や首を切る可能性を恐れているそうだった。初日は殺すの死ぬのと大騒ぎだったがすでに従順になっていた。そうすると今度は待たせるのが気掛かりになって満足に入浴もできなかった。
リビングで髪を乾かし寝室に入る。舞夏は先にベッドにいた。よっ!と彼は片腕を上げた。
「先に寝ていてください」
「家政婦さんみたいなのやめてくれ。そろそろ……ツラい」
彼女は無言になってベッドに座る。
『湿布、貼ったのか』
『これから貼ります。電気を消していただいた後で』
『上手く貼れないだろ。オレが貼る」
「いいです。そういうことなら貼りません』
『オレがやるよ。オレの責任なんだからさ』
―というような会話が毎晩のように交わされ、それよりも前の晩などは死ぬの殺すの許さないだのと物騒な騒ぎが起こっていた。
「湿布は?」
「今貼ります」
「貸して。これくらい」
この男と言葉を交わさない方法をもう知っていた。感情も揺さぶられずに済む。潔く彼女は袋を渡した。寝間着の前のボタンを外し、肩を晒す。舞夏は力尽くで女を犯したりはしない。たとえ自分を強姦した癲狂病みの女に対しても。それだけはいくら憎んでいても分かる。
湿布が貼り終わる。ほわ、と独特な匂いがした。布団に片足ずつ突っ込んでいく。
「ベッド、新しいの買うか。こっちの大きいのと、新しく買う小さいの、どっちがいい?」
「どうしてベッドがもうひとつ要るんですか」
まさか同棲相手が居るのではないか。この関係は不倫や浮気ではないが、この家主の同棲相手がこの生活をどう思うかは分からない。
「なんでって……嫌だろ、ムカつく男と一緒に寝るのは」
「すぐ出て行きます」
「そうだな。そうしてくれると……助かる。でもまだダメそうだ。焦らず、ゆっくりな。電気、消すぞ」
横になって頷くと宣言どおりに消灯される。
「ジレンマがある。加霞さんとまだこうしてたいよ、ホントはな。でも加霞さんのこと考えたら、さっさと出て行く方向に祈らなきゃならないよなって」
家主の隣の女は即眠ったのかも知れない。何の反応もなかった。
「ごめんな、色々気、遣わせて。疲れたよな。おやすみ」
それから数分間、隣からは寝息のひとつも聞こえなかった。遠慮がちな衣擦れがあり、ベッドがわずかに沈んでから浮いた。真横にあった気配が遠ざかる。
加霞はまだ寝付いていなかった。寝たふりをしたわけでもない。緩やかな監視から放たれ、異様な重苦しさが訪れた。その正体を確実にしなければそれは治まらない気がした。温くなった布団から出る。リビングに通じるドアを開ける。暗い大部屋に息切れが潜んでいたのが、ふと消えた。
「……加霞さん?どした?トイレかい?喉渇いた?」
掠れた声が聞こえた。そこにこもる艶めいた響きにおそらく本人は気付いていない。背凭れに預けているらしき頭が動く。
「居なくなったから」
「探しにきてくれたの。ありがとな」
「……別に」
彼女は回転扉よろしくまた寝室に戻ってしまった。理屈で否定しても次々ともぐら叩きゲームに似た義務感が顔を出し、首を伸ばし、叩き潰し粉砕しても追い付かない。
一度暴いた彼の肉体を思い描く。だがそれは強姦によって得た情報で、何よりも思い出せないのだ。彼を無理矢理に辱めたことしか覚えていない。具体的な理由も対象も覚束ない悍ましさに全身が粟立った。雷や幽霊を恐れたみたいに布団に潜り込む。小さくなった。
その朝は加霞のほうが先に目が覚めた。腕を上げて寝る姿が弟と重なると、朝っぱらから眉を顰める思いをする。彼女はとうとう本当に気が違ってしまったのかも知れない。寝ている舞夏の上で腕立て伏せをする気のようだった。しかし両腕を立てるだけで伏せはしない。尻も彼に乗るか乗らないかというところで浮かせて座っている。光の翳り方、空気の流れを敏く感じるものなのか、舞夏は目覚めるとまではいかずとも寝苦しそうな様子を見せた。彼は眉間に皺を寄せ、額を拭ったかと思うと加霞の腰を掴んだ。まるですでに目が覚めているかのような的確さである。そしてそのままベッドの外に転がりはじめる。共にそこまで高さのないところから落ちた。舞夏という男は異性との同衾、それも自分を蛇蝎の如く嫌悪している壊れかけの女に意識がいくあまり、彼の寝ている範囲といえばシングルベッドよりも狭かった。
落ちていく瞬間に彼の目が覚めたのが加霞の目にも分かった。咄嗟に彼女の後頭部と床の間には手が入ったが、それ以外は下敷きになる。起床早々の出来事にこの家主は哀れなほどの狼狽をその顔面に示した。閉じていないブラインドから入る朝の光が彼の健康的な肌を白塗りにする。
「あ……えっと、あ、ああ、ごめっ………!」
2人の間に反物質が爆誕したのかと紛うほどに舞夏は後ろに飛び退いた。加霞はごつ、と床に後頭部を打つ。彼女はむくりと起き上がった。
「おはようございます」
「お………、はよう」
「朝ごはんを用意します」
「あ、……うん。焦らなくていいからね。別に君は家政婦じゃないんだし、もう少し、寝てても……」
彼は明らかに動揺している。
「舞夏さん」
「な、なに………」
「わたしが乗ったんです。身体の癒しになればと思って。その義務を感じました」
舞夏本人はその言葉の意味をその場ですぐに理解したわけではないようだった。疑問符だらけの顔をしている。彼女はそういう家主を放って朝飯を作りに行く。
野菜を適当に薄く切ってコンソメを溶かしたスープを温めていると舞夏が監視に来た。加霞はカウンターキッチンからダイニングテーブルに回り椅子を引いた。家主は沈んだ顔をして棒立ちになっている。
「さっきはホント……ごめんな。頭打ったろ?」
「舞夏さんの気にすることではありません。お座りください。ヨーグルトがお先にできていますが召し上がりますか」
彼はやはり微苦笑を浮かべ、重い足取りで引かれた椅子に座る。
「さっきの、本当に……本当に、あのさ、」
「舞夏さんの所為ではありません。まったく怒っておりませんし、わたしが怒る道理もありません」
卵を1つ溶かす。かちゃかちゃと小気味の良い音と水音がした。オーブントースターがそろそろ加熱終了を告げる。
ピザトーストとヨーグルトにバナナを浮かせたもの、半分にした玉子焼き、簡素な野菜スープを舞夏に食わせ、彼女は例の如くキッチンに突っ立っていた。
「美味しいよ、加霞さん。美味しいけど、やっぱ夜はさ、一緒に食べたい。オレ食べるのそれなりに早いつもりだけど、待たせるの悪いし……顔突き合わせるのヤだったら、オレ、そっちで食うよ」
舞夏はちらとソファーのほうを見た。
「オレのワガママなの分かってるけど、前みたいに戻りたい」
「無理な要求です。あの子はもうおりませんから」
「そういうことじゃ、なくてさ……」
「……舞夏さんにしたことは、許されないことです。一生かけて償います」
彼はピザトーストを齧りながら、苦すぎるものでも口にしたような顔をした。ピーマンは薄切りにしたが、確かに多かったのかも知れない。
「誰かに依存して生きるのやめてくれ」
パンのスプリングフェスタで貰ったらしき白い皿にピザトーストの赤みが映えた。加霞は黙っている。
「許してるって言ったろ。許しんたんだ。許したくなくたって、許しちまうよ。許したこと、許されてないつもりになるなよ。オレは許した。仕方なく許したんじゃない。許したくないと思っても許してる。許さないつもりで加霞さん繋ぎ止めておきたかったのに許しちゃうんだ、前のあんたがどんな人かを知ってるから。あれが正気じゃなかったことも酔っ払ってたことも知ってる。頭おかしくて酔っ払いなら何してもいいわけじゃないけど、オレは許してる。何よりオレは裁判官じゃない。あんたに惚れて、まだ惚れてる時点で裁判官なんかできっこない」
「でも……」
「加霞さんの中のオレが許してなくても、実物のオレは目の前にいて、本音晒して許してるって言ってんだよ。許せないこと許すのは難しいけど、許せちゃうこと許さないでいるのも難しいんだ。あんたを憎めない。憎めないから苦しめてるのかもな。ごめんな、憎めなくて。憎めないから苦しめて、結局憎んでるのと一緒だな」
それをブラインドの縞模様の陰が映るフローリングを見つめて聞いていた。
「ごめんな。ほんと、ごめん。加霞さんに生きてて欲しいのはオレのエゴだ。加霞さんの孤独は癒せないの、分かってるよ。ただオレは許してる。怒っても悲しんでもない。ただ驚いた。あんなになるまで放って置いて、それで尻尾巻いて逃げた自分に失望した。それだけ。オレは加霞さんにそのこと、気にして欲しくないけど、加霞さんが気にするならそれは加霞さんの中の問題だ。むしろ、オレでよかったと思ってる……」
「舞夏ちゃんだけじゃないかも知れないでしょ、ああいうことしたの」
弟を恋しく思うあまり、彼の教師にも手を出している。それをこの男は知っているはずで、目にしたはずで、首を突っ込んだはずだ。
「してないだろ。そんな気がする。そういうことにしておく」
「まだわたしが、何も知らない純真無垢な人間だと思っているんだしょ!」
「むしろここで一緒に暮らしているうちに、そう思うようになってきた。セコく生きられない、自分の罪が許せない、自暴自棄にもなれない……綺麗だよ、あんたは。オレが会ってきた誰よりも、綺麗だ」
彼はぱりり……とピザトーストを鳴らした。
「もう汚れてるの!」
「洗えばいい。あんたが自分で泥被った分は洗える汚れだ。オレも洗う」
「綺麗事はやめて。理想論は」
舞夏はの頬が咀嚼で動いていた。
「この際だから言っておくけれど、あんたが最初にわたしと生天目先生を疑ってくれたときの、相手、あれ、雫恋ちゃんだからね。雫恋ちゃんとセックスしていたの。あーくんが家にいるときにね。あんたが北条くんと家に来たときも、あたし電話しながら雫恋ちゃんのおちんちん舐めての!あんたがあたしに指切ったんじゃないかなんて過保護に心配してくれたときなんか、あんたは気付いてなかったみたいだけど、霙恋ちゃんがキッチンにいて、あたしのお股舐めてたんだからね。あんたが帰れなくなったあーくんの面倒看てきてくれたときも、その電話中も!あたし、雫恋ちゃんとセックスしてたの!セックスして、若いカラダに溺れていたんですからね!」
相手は食事中で、時間は日が昇ったばかりである。舞夏の咀嚼は速度を落とし、やがて止まった。
「ですがこれだけは言わせてください。わたしは弟と平気でセックスをするゴミクズのどうしようもないろくでなしですけれど、嵐恋とは何にもありませんでしたからね。あの子は潔白ですよ。あたしと血の繋がりがあるのか無いのかはっきりしませんでしたけれど、あの子は本当の弟ですからね。それだけは、あの子の名誉のためにも、言わせてくださいな。股の緩い淫乱な女にも、あの子のいた十数年間分の同情というものはありますから」
舞夏は脱殻になったみたいに薄切り野菜の浮かんだスープをしゃくしゃくと食った。
「知ってたよ。知ってたよ、なんて言えないな。後から、知った。グミから聞いたんだ。グミも全部は教えちゃくれなかったけど、今、全部繋がった。タチの悪いストーカーのせいで鍵替えなきゃいけなくなってたこととか、雫恋くんたちが加霞さんと嵐恋くんに"執拗な嫌がらせ"してたから、怪文書はそれのせいかも知れないとか……加霞さんの言ってたことも気にかかって……でも、それまで何にも知らなかった。グミから聞くまで、何にも……オレって本当に、頼りないんだな」
「そう。舞夏ちゃんは頼りない。頼りないから頼らなかったのに、頼れって、なんなの。あたしの頭よりおかしい!おかしくないの?」
「そうだな。へへ、好きな女に言われると結構きっついぞ」
「だったら早く放り出しなさいよ。ここに留めておいたって、わたし、あんたのことなんか好きになんてならないんだから!」
彼女はぱっぱとエプロンを脱ぎ捨てる。顔は熱いが身体は冷えていく感じだった。
「好きになって欲しいんじゃない。見返りは要らない。言ったろ、あんたの中のあの人のことは尊重する。オレのはただの片想いでいい。あんたが壊れなきゃ、それで」
「嫌いになりなさいよ!」
「嫌いになりたいよ。なれたらオレだって楽だったさ。叶わない恋なんてつらいだけだ。好きな女に嫌われて憎まれてるのも、なかなかクるんだぜ。こんな美味い飯、毎日食わしてもらってんのにな。文句ばかりのとんだ薄情者で、ごめんな?」
苦笑を朗らかに浮かべているのが気に入らなかった。加霞の貌にはきぃ、とヒステリックな翳りが浮かぶ。そしてハウスキーパーの務めも投げ捨てて寝室に戻った。広いベッドに寝転んで顔を覆う。涙は涸れている。連日連夜泣き喚き、怒鳴り散らし、悲嘆している。喉も痛んだ。横になって怠惰に過ごす。あの男といるのは疲れる。疲れさせる。疲れさせたことにまた疲れる。隣に人の気配のないベッドは心地良かった。目を瞑る。息が出来る。
『姉ちゃん。ホントの家族が呼んでるん。行ってくるね』
弟が自宅の玄関を開けていく。小さく手を振っていた。
『あーくん、行かないで』
『ホントのパパとママがいいから……』
玄関ホールで這う。真っ白な光に、弟は包まれていく。
『行かないで、あーくん。行かないで、お姉ちゃんを独りにしないで……』
弟はもう振り向きもしない。見たことのない軽やかな笑みで、消えていく。焼かれていく。焦げて塵となり、目玉のある骸骨が赤の他人の、姉を気取った女をぎょろりと一瞥した。
『姉ちゃん……誰―?』
白い光が消えていく。弟は双子の兄たちに縋り付いていた。
『監禁されてたのか、可哀想に』
『怖い女がいたもんだよ。こんな子供を閉じ込めちゃってさ』
『いじめられたんじゃないか。可哀想に。こんな傷だらけになって』
『うわ、気が違ってるだろ。虐待とかサイテーだな』
『やめて、連れてかないで!あーくんを返して、返して!お願いいぃぃぃぃぃ!』
玄関からは濁流が迫ってきた。目の前の骸骨を呑む。そして自身をも巻き込む。もがいた。何かに捕まろうともがいた。そして手に触れたものを鷲掴む。
『姉ちゃ………な………んで………』
玄関ホールに流入した汚水などはなかった。しかしその手には弟の首が掴まれている。触れた箇所だけが骨となり、襤褸布みたいな皮膚がひらめいている。姉を慕うその目は不信と恐怖に満ちている。
『殺さないで……殺さないで、姉ちゃん………タスケテェ………………』
はっ、と吐かれた自身の息で、一気に目蓋が開いた。眼球を落としかねない。普段ならば家主の寝ている広いベッドが伸びている。一個人の自宅のくせ、寝室のまだまだ有り余ったスペースはラウンジのようになっている。観葉植物と華奢なハイテーブルとセットと思しきカウンターチェアが2つある。ベッド周りをそうすべきところを、そのラウンドともロビーともいえないスペースは遮光カーテンが掛かり暗かった。
視界は荒い呼吸によって漣に身を委ねたみたいに浮沈する。朝日は凪いでいる。弟のいない地球を照らしている。弟が居なくとも、営まれている。粉塵みたいな存在だったのだ。この地球にとって、太陽にとって、宇宙にとって、弟はいても居なくても変わらない存在だった。また昼が来て、日が暮れ、夜になる。弟はいないというのに平然と行われる。そういう世界に生きてしまった。弟を生かしておきながら自然は平然と彼を死に至らしめた。そういう世界に生きていくのだ。彼女はむくりと起き、そこに座ってぼう、と項垂れていた。怒りの点火装置は過加熱されて炭化してしまった。もう作動することはない。
「舞夏ちゃん……」
舞夏の様子はおかしかったが、それは彼が様子のおかしいものを見ているからだ。気の違った女は掌を返したように家主に媚びた。寝間着の前を開き、胸元を晒す。彼女はずいと背筋を撓らせて舞夏に胸部を寄せた。
「してください」
ぎょっとしている舞夏のベッドについた腕を引き、胸に当てる。
「したいです」
「加霞さん……?」
「したいです」
彼の顔は一瞬にしてかっと染まった。
「加霞さん…………するって…………」
「セックス、してください」
「し、しない……よ。加霞さん………?」
「したいです」
加霞は寝ようとしている舞夏へ子犬みたいに這い寄った。引き締まった肉体を辿る。
「してください」
「しないってば……!」
しっかりとした手が好色的な女の肩に触れた。彼女は情事を拒否する男を覗き込む。
「しない」
少し語気の強まった拒絶だった。彼女は特に傷付いた様子はなかったが、表情にどこか尋常ではない虚無を携えてそのまま俯いてしまった。
「……分かりました。ごめんなさい」
蛇みたいにしゅるしゅると女は自分の寝るスペースに戻っていった。布団に潜り蹲る。舞夏がドラッグストアで適当に選んできた女物のシャンプーとリンス、ボディーソープに身体に塗ったハンドクリーム、そして薄荷の匂いが男の鼻先に纏わりついたのだろう。彼は幻影でもみたかのようだった。粘こい光がその濡れた瞳に差している。
「加霞さん……あの、」
「雫恋ちゃんか霙恋ちゃんに会わせてください。もう舞夏ちゃんには頼まないから……お願いして、迷惑かけないから……」
「あの弟たちには絶対に会わせない」
彼の語気はまた強い。まるでその2人を庇い、突然翻意し媚びた態度をとる女を激しく誹るような感じさえある。
「あーくん産んであげなきゃいけないんです。苦しんでるから。あーくん、天国に行くはずが、わたしが地獄に堕としちゃって、毎晩毎晩苦しがってるから、わたしが産んであげなきゃ。今度は殺しません。今度は死なせません………助けてください、助けてください……」
嗚呼哀哉―彼女はまた舞夏をレイプしたときに戻ってしまった。酒を入れたか入れてないかの違いである。
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