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雨と無知と蜜と罰と 弟双子/気紛れ弟/クール弟
雨と無知と蜜と罰と 41
しおりを挟むそこには相手の自制心を試す、舞夏の自虐を含んだ意図があったのかも知れない。しかし肝心のその相手というのが、それに勘付けるような状況ではなかった。もし相手側に大きな傷ができ、さらに劇薬を塗りたくられるようなことがなかったならば、或いは彼女の平生の性質から、むしろ考え過ぎなほどにそれと気付いたかも知れなかった。
胸が張った。消灯前に脳裏にちらついた人物がまだ居座っている。安らかな日常と快感を齎した存在が夢と現ともいえない狭間にいるのだ。節くれだった細く長く角張った、乾燥して冷たい指に愛撫された心地を思い出す。その者と過ごす短い期間で、加霞の素肌は塗り替えられた。顔を合わせれば身体を重ねていた。ほぼ毎日、互いの幽香を交わしていたのがぷつりと途切れたのだから、もしかすると彼女の瑞々しい肉体の感性が甘やかな潤いを求めてしまうのは仕方がない。それを与え続けていた男の見守るような表情と、しかし保護欲だけではなく被虐心を煽られる程度の攻撃的な色を併せ持った眼差しに弱かった。
加霞は寝間着の中に手を入れた。寝る時にはブラジャーをしないため、彼女はタンクトップを着ている。―弟にも着せていた。寝汗で風邪をひかぬよう。そして完治しなかった火傷痕を傷めぬよう―自分で自分の肌をなぞる。しかし自身の指でありながら、その仕草は誰かを真似ていた。意識していた。彼女は何者かをその目蓋の裏に描像していた。覚えのある軌跡は感触こそが違ったけれども、まったく別物というわけでもなかった。渇望が妥協している。
胸の膨らみが疼く。すでにその頂点にあるものは凝り固まってインナーも寝間着の布も押し上げていた。そこに触れたときのことを想像して彼女は深く長い呼吸を漏らす。まだ物理的な刺激をその敏感なところでは受けていないくせ、彼女の腰には艶めいた痺れが生じた。
記憶の中の薄い手は、鳩尾までは素肌を辿ったが、胸を揉むときはまず布の上からだった。それがもどかしく、堪らなくなって、何度か素肌に触れることをねだり、求め、乞うたことがある。そうすると相手の男は生唾を呑んで、教職者とは思えない色情をその静かな眼に湛えるのだった。胸の頂に降る快楽だけでなく、彼の興奮をその身で受ける悦びも、期待していた。その頃は。そう遠くない日々のはずだ。しかし胸の双蕾は寂しがり、蜜路も疼いている。
指は布越しの山を登る。焦らし、焦らし、焦らし、そして触れた。まずは爪を立てずに掻くだけだった。
「ぁ……っ、」
久々の感覚だった。途端に全身は色血いた潤いを取り戻す。彼女は自身の胸の双つある小さな痼りをその指先で揉みしだき、繰り、摘んだ。擦り合わせると、揺れていた腰が浮いてしまう。
「あ……んっ、ぁあ………」
吐息に蕩けた声が混じる。真上に覆い被さっているはずの男の幻にこの痴態を見せたくなる。彼はおそらく唇に噛みつき、そして手を握り、自分がやるとばかりにこの淫らな胸遊びをやめさせるだろう。大胆になった。抑えなければならないはずの声、物音、挙動を何故抑えなければならないのか、何故抑えているのかも分からなくなってしまった。
「あっ……ん、せんせ、………っ、ぁっ………」
胸を抓られるのも好きだった。あの青白い指は、決して痛くしない。その加減を心得ていた。捻り取り手折ろうとはしない、繊細で優しい力で快感を与えていた。
「せんせ………、きも、ち………ぅんっ………」
両手で繰り続ける。軽く撚ると、鋭く甘い痺れが突き抜けた。絶頂に向かっている。膨らみの突起だけで果てると、彼は静かに滾っていた。顔にも口にも出さないが、目とそしてその直後に繋がる場所とその動きが、正直に告げていた。肉体や顔色や雰囲気にはそぐわない強靭ぶりを、特にそれを感じた箇所に馳せた。滲む。
「ぅ、ん………あ、…………ぁ、っ………ぁ………ッ!」
閃いたエクスタシーはあれど、腹で受ける迸りはない。ただ彼女の得た官能と共に脳天まで駆け抜けた気がした。身体から力が抜けていく。とりあえずのところ満たされた。物理的刺激としては、とりあえずのところ。目蓋が重くなる。そしてぴたりと閉じた。―数秒したのかも知れない。もしかしたら十数秒、或いは数十秒した。まだ加霞も完全に寝付いてはいなかった。上と下の睫毛も眠気によって団結していない頃だ。かなり気を遣われた所作で掛布団が動き、微かにベッドが浮き沈みした。落胆か将又 呆れかも分からない嘆息が夜更けの静寂に消えていった。隣から気配が遠のく。そしてまたもやかなり気を遣った所作でドアが閉まっていった。
誰かいたのだ。彼女は眠りに入っていく意識でそのようなことを呑気に考えた。
朝の光によって自然に目が覚めた気でいたが、実際のところはそうではなかったのかも知れない。何の気もなく向いたところに、先に目覚めたらしい舞夏が上体を起こしてこちらに強い視線をくれていた。それでいて、本人はそのことに気付いていないようだった。
「おはようございます、舞夏ちゃん」
反応はない。それを気にするでもなく彼女も身体を起こした。そこでやっと我に帰ったらしい。
「おはよ、加霞さん……」
これは ぼっと顔を赤くする。
「今朝ごはんを作りますから」
「お、おう……あ、ああ、加霞さん」
「なんですか?」
ベッドから離れようとしたところを呼び止められ、手招きをされた。舞夏の寝ているほうに回る。
「熱測っていいか」
「どうぞ」
体温計を出されるものと思っていた。腋に挿すため、ぷつ、と寝間着のボタンをひとつ外した瞬間に光の如く伸びてきた手が彼女の襟元を合わせた。
「ごめんな。ちょっと触る」
彼は両手同士で拭うような素振りを見せると手の甲で彼女の頬にまず触れた。そして額と首に接触する。
「ない。余計な手間取らせたな、呼び止めて悪かった……」
一度も目を合わせようとはせず、猫目の中で瞳が泳ぐ。すいすいと逃げ惑う。喋り方も硬い。
「いいえ。朝ごはんはどうされますか。どちらで召し上がります」
「仕事部屋にするよ。テーブルに置いておいてくれたら勝手に持っていくから」
「承知しました」
ひょいと頭を下げて部屋を出る。彼女は一種異様な雰囲気を纏っていた。
ブラインドの横縞模様が緋橙に染まるのを見ていた。野菜を切る手が止まり、長いこと外の赤みを見ていた。早く支度をしないと弟が帰ってくる。しかし見慣れないインテリアは我が家ではなかった。そして待たせる子供はもういない事実があとからやってくる。
あの子がいじめられないようにいい姉にならなければならない。
あの子が腹を空かせないように多少は無理をしなければならない。
あの子が怖がらないように怒ったり悲しむのはいけない。
あの子が……帰って来なくなってしまった。迎えに行かねばならないだろう。エプロンを外す。外してから薄ぼんやりと弟はすでに灰のこびりついた骨となっていることを思い出す。何故忘れていたのだろう。薄い掌に夢中だった気がする。固く細い指に。平坦な胸と、ちくちくと頬を刺すニットベストの繊毛に。眼鏡を掛けた優しい仏頂面が弟が死んだ証だった。
加霞の虚ろな顔がはっとすると、突然彼女は走り出す。
「舞夏ちゃん、舞夏ちゃん……」
相手の都合も考えずにドアを叩いた。大声で呼んだ。リモート会議や電話中かも知れなかった。しかし彼女は舞夏が出てくるまで呼び続ける。その姿は大人の女の声を真似て待ち伏せをする不気味な妖怪を思わせた。この様を一見しただけでも、加霞を初めてみた者は、彼女が世間基準で一人生きていくのなら支援や援助、ケアの必要な立ち位置にいることを悟ったかも知れない。
「加霞さん……?」
仕事部屋の扉が開いた。舞夏が顔を出す。
「どした?」
「赤ちゃん、欲しいんです。赤ちゃん、欲しい……」
用を聞いたらすぐ中に戻るつもりだったようだが、舞夏はぎょくりと驚いてリビングへ出てきた。おそるおそる彼女の肩に触れ、そしてソファーへ促した。ガラスのローテーブルを挟み、彼も対面のソファーに腰を下ろす。
「じゃあ、オレと結婚前提で、付き合える話は、決まったのか?加霞さん……子供ってのは、妊娠して産むまでだって大変なんだろ?育てるのにも体力がいるはずだ。今の加霞さんが、シングルマザーでそれをこなせるとは到底思えない。本当にその気があるのなら、オレが必要だ。国公認でオレを雁字搦めに縛り付けておいてくれ。オレがパパになるなら費用のことも心配しなくていいし……加霞さん。加霞さんの願いならなんだって叶えたい。加霞さんが自分の子供を無下に扱うとは思ってないけど……オレも、赤ちゃんのこと幸せにする。いいパパになる。いい夫に……だから、オレと結婚前提に付き合ってください」
加霞はあどけない目で舞夏を見ていた。彼女の頭の中には、この男を夫に嬰児を抱き上げる光景が浮かんでいた。同時に、若い眼鏡の教師と2人きり手を繋いでひっそりと夜を歩く光景が掻き消えた。それが恐ろしくなってしまった。怖くなった。弟が怒っている。何故もう一度生まれさせてはくれないのか、愛していないのか、地獄から救い出してはくれないのか、と。自分のことが大切なんだろう!と、可愛いはずの弟が怒鳴り散らしている。
加霞は身体に電流マッサージ器でも当てられたようにびりりと戦慄くと、ソファーからすっと立ち上がった。舞夏は片眉を跳ねさせてその突飛な行動を見上げる。
―生まれてこなきゃよかったんだなって思ってさ
『今度はどこかの馬の骨にしてよ。マナツ兄ちゃんをパパにしてよ!』
―姉ちゃんの幸せ、きっとダメにしちゃうから
『助けてよ!地獄に突き堕としたのはアンタだろうがぁあああ!』
加霞はすたすたとカウンターに回り、俎板に転がっていた果物ナイフを手に取った。そのあまり研がれてはいない煌めきで首を掻っ切ろうとしたが、手は炎に包まれていた。火傷をするほど熱い。それでいて陽炎うこともなくしっかりした肉感に焼け爛れそうな肌を掴まれている。
「加霞さん。やめようぜ、こんなこと……」
またもや阻止されたのだ。しかし怒りの装置を焦がして破壊した彼女は一度目のときのような感情を露わにすることもない。男の力に争い、その鋒は勢いを失えども脈を刺すという目的のために皮膚に近寄る。
「加霞さん」
「あーくんのために生きられない……」
「いい、それで」
手首を握り潰すほど強く掴まれ、その体温の高さに怯んだ。首を狙うだけの力が抜けた瞬間に、男の手が離れ、まるで自身の熱を覚ますかのように刃物を握った。首と歯に肉のクッションを置かれてしまった。彼を傷付けたいわけではなかった。彼の皮膚を切りつけ、裂きたいわけでは。
「生きられないの」
引くことも逝くこともできずに彼女はぽつりと漏らした。特に悲嘆の色もない。ほんのりと落胆の揺らめく現状報告のようだ。
「ごめんな。オレのエゴで生かして、ごめん。あんたは死にたかったんだもんな、あの人と。悪かった……でも死なせてやれない。あんたが好きならあんたのために死なせてやるのが情なのかも知れないけど、ほんとにすまん……生きてくれ。死なないで欲しい」
刃物を握る反対の腕が加霞を後ろから抱いた。
「あんたが考えを改めてくれると思ったんだ。あんな要求はもうしない。こんな形式で結ばれても嬉しくない。悪かった。だから思い悩まないでくれ」
彼は泣き出してしまった。年少の友人の葬式でも、どうにか落涙を堪えていたのが、ついに決壊した。
「宝生くんに頼まれた。アイドルだから加霞さんのこと、どれだけ好きでも傍に居られない、優先することもできない、だから加霞さんの傍にいてやってくれ、加霞さんが待ってるからって……それがこのザマだ」
髪に舞夏の顔が埋まった。震える息を感じる。
「でも、オレは止めるから。加霞さんの傍にいる。独りにしない。オレのこと、憎んでいい。感情の捌け口にしていいから、死なせないし、怖がらないで欲しい。宝生くんとの約束なんだ」
抱擁が強まっていく。
「あの人からあんたを奪っちまった。あの人は最初からあんたを死なせる気なんかなかったのに……」
刃物を握り込む手に力が入っていくのをみて加霞は今度は、彼に傷が付くことを恐れた。彼女の手はナイフの柄を放してしまった。
「オレはめちゃくちゃヤキモチ焼きだけど、ヤキモチ焼く資格なんかない。なんにもできない。ごめんな。ただここに泊まらせて、家事やらせるしかできない。ごめんな」
舞夏はその凶器となり得る物を没収したのかと思いきや、突然、自身の手首を切った。情緒不安定が、精神的退廃が、虚無への願望が、眩しいまでに明るく前向きで浅薄さすら窺わせる青年へ伝播してしまったに違いない。彼女の精神的不安定はこの監禁者に対して感染症だったのだ。
小麦色に焼けた肌の内側に赤い筋が浮かび上がる。ほんのりと盛り上がると周辺も赤みのあるピンク色を帯びはじめた。
「痛いよ、舞夏ちゃん……」
加霞はびっくりして切り傷を創られた腕を奪い取る。
「どうしてこういうことするの」
彼女は自分が少し前にやろうとしていたことも忘れているようだった。思い出そうとすらしない。濡れていく傷口を熱心に見つめた。
「オレ、めちゃくちゃバカだから、加霞さんの痛み、こうでもしなきゃ、分かった気にもなれないんだ」
からからと仕方なしに笑う様がその場に似合わず痛々しい。出血の量からしてそう深くはなかった。しかし蚯蚓腫れを起こし、血は垂れてきている。
「手当てしなきゃ」
肘から床に赤い筋が滴り落ちるのを彼女の指が掬いながら拭った。肌理が赤く浮かび上がる。
「汚いだろ、他人の血なんか」
叱られた心地がして加霞はしゅんとしたが、腕を引いて傷を洗った。
「救急箱どこ」
舞夏の示した場所から薬だの包帯だののプラスチックケースを見つける。入った外で遊ぶのが好きなため怪我をしやすく、また怪我を負わされやすかった弟の手当てで彼女はこういうことに慣れていた。舞夏をソファーに座らせる。加霞自身はそのソファーとローテーブルとの間、床に直接腰を下ろして傷の手当てをする。彼もまた傷ばかり見つめて黙ってしまった。弟も、自分の身体から出てきているというのに直視するのを怖がっていたが、この男も20代半ばで180cmの図体を持ちながら、この2週間ほどすれば瘡蓋も剥がれきりそうな傷が怖いのだろうか。
「傷に塗れるクリームとか、あるといいんだけれど、あるかな?」
「ないと思う」
「じゃあ、ちょっと待っててね」
彼女は舞夏から買い与えられた白色ワセリンを寝室から持ってきた。唇の乾きを指摘され渡されたのだ。未使用の部分から多めに抉り取った。やがて彼の手首にはガーゼを挟み、スポーツ用サポーターやテーピングのようにして包帯が巻かれていく。
「きつくないかな。手首、曲げられそう?」
「うん、平気。曲がるし、きつくない」
口数が減り、舞夏は悄らしくなってしまった。互いに目も合わせなくなっている。
「お風呂、滲みちゃうかも。ラップ巻いてあげるから、お風呂入るときに言ってね」
「うん……ありがと」
「舞夏ちゃん……」
加霞はぼそりと彼を呼ぶが、頭を上げる気配をなかった。
「ほんと、ごめんな。自分でこんなことして、自分で自分のケツも拭えないの……」
あまりにも静寂だった。造りのいいタワーマンションは上の階の足音も聞こえない。微かに水道の音はしたかも知れなかった。46階ともなるとカラスの声すらも聞こえない。
加霞は彼に旋毛を晒したまま首を左右に振る。
「その……わたしのほうこそ、ごめんなさい。ひどいこと、言ったから……気持ち分かってくれない、ってこと…………理解しようとしてくれてたのに。ごめんなさい」
「そんなこと……そんなこと、気にするなよ。顔、上げてくれ。でも、嬉しい。バカなマネしてやっと届いても仕方ないけど、でも………分かるとか分かりたいとかより、分かったら呑まれと思ってたし、別に無視したいわけじゃなかったんだ。それが伝わってくれたなら嬉しいよ。もうしない」
まだ気遣わしそうに躊躇しながらも、舞夏の手が肩を落とす加霞に触れた。
「顔、上げてくれよ。加霞さんは何も悪くない」
―あーくんは何も悪くないんだよ。
「わたしに悪いところ、ちゃんとあったよ。ちゃんと反省できる。ちゃんと反省する……」
反応のない舞夏を彼女もおそるおそる、阿るような仕草で見上げた。
「あんましひとりで考えて思い悩まないでくれな。殴りかかってきてもオレは平気だから。気の利いたことも言えないし、加霞さんのこと追い詰めてばかりなんだ、それくらいのことはやれるさ。ほら、オレ、そこそこ身体大きいし?」
「しないよ。舞夏ちゃんキズ付けること、わたしも、もうしない」
舞夏と目が合わさると加霞はすいと顔ごと逸らしてしまった。
「キズ付けて、いい。世話になって、すごく楽しかったから。加霞さんがどこにもやり場のない気持ちになるくらいなら、耐える。耐えられないなんてことないように、今ここで約束する……」
伸ばされてきた小指は軽く曲げられ、フック状になっている。彼女はまた強く首を振ってその手を柔らかく押し返す。
「ごはん作る」
「加霞さん」
立ち上がりかけたところを呼び止められる。
「どういう意味でも加霞さんが好きだから。女の人としても、長い友人としても、一人の人間としても」
「う……うん」
「でも、オレ男だから……加霞さんが怖がるようなこと、しない。女の人として好きってこと、加霞さんの前では、一旦忘れる……………あの人のこと、尊重するから。オレも、加霞さんの心守ってたあの人のこと、尊敬してるんだ、これでも……」
斯く言う彼の表情はどこか痛みを持っていた。手首の傷が痛むのだろう。縫合するほどではないのは素人目でも分かるが、切り傷は切り傷である。薄く塗った消毒液が剥き出しの皮膚を噛むのかも知れない。
「舞夏ちゃん……」
「不甲斐ないところ見せてごめん。さ、ごはんの支度してくれるんだろ。引き留めて悪かった」
彼はソファーに腰を下ろしたきり、仕事場に戻る気配がなかった。野菜を切るには刃物を使う。それを心配しているのかも知れない。あらゆる刃物、ペンでさえ隠されている。買い物のためのメモですら液晶タブレットだった。
ヒトの肉を切った、明らかに肉切り包丁ではない果物ナイフを流水に通す。俎上の根菜はすでに切り口を硬くしていた。
「なんだかよく気が合ったんだ、あの人と。しっかりしてるのに子供みたいなところがあって、放って置けなくて……」
何か思い悩んだように俯いて、刃物を持たせると暴走しかねない女の監視も放棄していた家主が顔を上げた。
「最初は、親でもないくせに出しゃばってくる過保護な姉だと思ってるんだろうなって、思ってたんだけれど……わたしの被害妄想だった。わたし自身に負い目があったから。いいお姉ちゃんじゃないといけないなって。あーくんに惨めな思いさせたらいけない。優しくて賢いお母さんも、頼れるかっこいいお父さんも自宅(いえ)にはいないし、祖父母のおうちからも離れてる……あの子の兄たちは…………言ってなかったかも知れないけれど、小さい頃からあの子に酷いことをしたの」
「聞いた。グミから。あのとき」
弟の背中に広がる瘢痕も、プールや温泉に出掛けていた舞夏は目にしていることだろう。校則違反だと学校から連絡のきたツーブロックの中に隠された小銭大に毛根を失った頭皮も。
「何も気付かなくて悪かった……呑気過ぎた。兄ちゃんたちに土産はいいのか、なんて訊いちまったこともあるよ」
「舞夏ちゃんの謝ることじゃないよ。家庭の事情だもの。そんなこと話されたって、舞夏ちゃん気を遣うでしょう?そうしたらあの子だって戸惑うと思ったから。でも、そんなことはいいの。とにかく、弟たちは頼れないから、わたしがいいお姉ちゃんにならなきゃって思った。美味しい料理が作れて、毎日笑っていて、賢さはないけど、一緒に暮らすには困らせないような愛情たっぷりの優しいお姉ちゃんに……」
楽しくなっちゃったの。あの子いないのに、ちゃんとごはんも食べないで一緒にお酒飲んで、お風呂も入らないでお昼過ぎまで2人で寝て、夜に空見上げてごはん前にアイス食べたりするみたいな生活。
根菜を切っていく。"あの人"の話に戻った瞬間、ニンジンを大きめに切っていた手の甲へぽとりと一滴、涙が落ちた。ポトフを作るつもりだった。この後にはまだ挽肉をキャベツで包む作業と、きのこのソテーを作る予定がある。目の前にやることを置いて行く人だった。暗い洞穴をただあてもなく歩いていく不安を知っている人だった。
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