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雨と無知と蜜と罰と 弟双子/気紛れ弟/クール弟
雨と無知と蜜と罰と 42
しおりを挟む『いいんですか?もう』
眼鏡の男の車に乗り込む。
『解約しようと思ったんですけれど……なんでかな、なかなか手放せなくて。思い出の場所ですから』
『なるほど。それがいいです』
『迷惑しか、かけませんでした』
シートベルトを締め、膝の上で置いた両手に3つめの手が横から伸びて重なった。慰めようとしているのは伝わった。
『もうどうでもいいことですけれど』
どうでもいいことだと嘯き、虚栄を張ったことを本当にどうでもいいことにしに行く。
『誰しもが迷惑は必ずかけることを前提として、貴方が迷惑しかかけなかったということはありませんよ。少し車を走らせたら、忘れます。忘れましょう?』
彼の冷たい手が元気付けるように重なった両手を軽く叩く。
繁華街を抜け町に入り、駅前を通った時に華やかな店が目に入った。
『あ、お花屋さん』
『寄りますか、花屋さん』
運転手が自分の膝を軽く叩いた。
『ああ……いいえ。ガーベラの花が、見えたものですから』
『ガーベラですか……』
ウィンカーがかちかち鳴った。車は花屋の前で停まる。
『一輪買っていきましょう』
彼は車を降りて、店の外に出ているオレンジ色のガーベラを一輪選び取ると店内に消えていった。それから間もなく戻ってくる。
『どうぞ。美味しそうですね。オレンジという色は』
『あの子みたいでしょう?本当はヒマワリにしたかったんですけれど』
手渡された一輪の花を眺めた。何か非常に大切なものを持っている心地になる。
『ヒマワリにするのは難しかったみたいで。あの子、みかんゼリーとかオレンジジュースとか。黄桃の缶詰とか好きだったし、まぁいいかなって。でも今思うとガーベラでよかったです。あの子の顔色、すごく悪かったから。寒かっただろうし……温かい色にしてよかった。花って不思議ですね。すぐ枯れちゃうのに』
『高校の卒業式でもらったのがその花でした。昨年の卒業式も、一人ひとりガーベラを贈りました。そういえば……だからおれには卒業式のイメージが強いです。かなり早いですが、それはアイツに……おれからの卒業証書ということで』
クレープより細く包まれたガーベラを抱き締め、やがてダッシュボードに寝かせた。明日にはまた、彼を暗い水の底に沈めてしまうのだ。
ふいと、顔を上げるとソファーでうたた寝をしていたらしかった。木製のダークブラウンの横縞模様の奥には真っ昼間の眩しさが控えている。ベッドを離れたはいいが二度寝をしてしまったらしい。起きると自分のではない上着が掛けられていた。裏起毛のフード付きのモスグリーンのジップアップだ。足も異様にもこもことした素材の靴下が、履かせられていたというよりも被せられている。サイズは大きい。舞夏のものだろう。しかし白と紫色が持主の割りにファンシーな感じがした。
借りた上着を畳むとき、ふわりと舞夏の家の匂いが洗濯洗剤や柔軟剤の香りに混じって鼻元に漂った。真正面から嗅いでしまうと気拙くなった。決して悪臭ではない。この場合、鼻の粘膜を包み込み、脳に柔らかく朧げに留まるから厄介だった。身体の奥まで染み渡っていってしまうのだ。夢の中の優しい人物に感じた肌目の合う快さではなく、欠けた部分がすとんと合わさってしまうような良さだった。彼女はそれを認めたくなかった。認められない。認めない。
舞夏の仕事部屋をノックする。彼はドア越しに応答すると奥まったデスクからわざわざ顔を出しにやってくる。
「ごめんね、仕事中に。服、ありがとう。洗っちゃっていいかな?」
畳んだモスグリーンの上着を見せる。
「ああ、いいよ。だいじょぶ。そのまま着るから…………………い、いや、やっぱ洗ったほうがいいよな。ごめん」
朗らかに笑っていた顔がぴしりと凍り、反対のことを言い出しはじめる。
「え……?」
「オ、オレは別にいいんだけどさ、加霞さん、イヤかと思って……自分が使った後、そのままオレが使うの……」
一瞬、他者が使った後に嫌がるのは持主だろうという発想が彼女に降りかかったが、舞夏の妙に焦った表情を見るとまた別の考えが閃いた。それは火照りを伴う。露骨なニュアンスをそこに感じてしまった。だが彼女から見て、この男は軟派で軽率、浅慮そうな外観に反して意外にも奥ゆかしさがある。突然卑猥な行為を匂わせたりはしないだろう。それはおそらく言葉どおりの意味合いだった。このモスグリーンのジップアップほども薫ってなどいないかった。
「べ、つに……いいんじゃない?舞夏ちゃんのなんだし……………でも、洗っちゃうね。靴下も。ありがとう」
「役に立ったならよかったし、洗い立ての出したばっかだから今日1日使っててもいいし……ああ、いや、やっぱり洗ってもらおっか。言うことコロコロ変わってごめん」
互いに顔を赤らめ、さっと目を逸らした。この匂いに1日中包まれているのは、何か恐ろしい。懐かしさもあり、穏やかな心地にもなり、長閑だった日々の一部でもある。それを今現在は簡単に受け入れられないのだ。法律も倫理も介在しない。ただの一個人的な意地によって。
「ううん。ちょうど洗濯機回すところだったから。他に洗うものある?」
「ないよ。全部脱衣所に持ってった。助かるよ、加霞さん。ありがと―っていうか、加霞さん休んでてもいいんだし……オレやるけど」
「動いてないと落ち着かないから。じゃあ、お仕事邪魔してごめんね」
内側がもこもことしたジップアップと全体的にもこついたファンシーな靴下を脱衣所へと運んだ。胸に抱いた舞夏の服が妖異に匂い立つ。桜や梅、金木犀が薫るのとは違い、人工的なものではあるが、それは艶やかに加霞を惑わす。臍の奥で教わった快楽が燻っている。教えた男と違う人物に対して。しかしその者を目蓋に映すと肉体を上回る忌避感が湧いた。それは拒否に近くとも嫌悪ではなかった。ただただ強迫観念に似た躊躇と当惑、ある種の羞恥心だった。
恐ろしい衣類を洗濯機に放る。彼女は家事に専念した。舞夏のこの自宅にはベランダがないためにサンルームに干した物を集め、リビングで畳んでいく。ぷつりと途絶えた官能に溢れた日々に彼女の肉体は不満を訴えている。欲求を打ち捨てようと試みるがもどかしく粘こく滞り渦巻いて、はっきりとした輪郭もない。微熱のように留まっている。彼女の弱いところが痒みにもならない痒みで疼きはじめた。優しく甚振られ、残酷に愛撫された小さな箇所に節くれだった指の幻影をみる。加霞の目はとろんと微睡みの気配を纏う。胸の膨らみの一点、左右の合わせて二点が張り詰めていく。彼女は切なさに自身を抱いた。逆撫でされているようなぞわぞわとした悪寒にも似た希求が走り抜けていく。
「加霞さん」
仕事部屋のドアが不意に開き、加霞はびくりと肩を跳ねさせた。
「びっくりした……」
「ああ、ビックリした?ごめんな」
「どうしたの舞夏ちゃん」
舞夏は仕事部屋に下半身を食われているみたいに上半身だけ突き出している。用件もすぐには言わず、彼の目は加霞を捉えた。
「熱、ある?」
「ないよ」
「なんか顔、熱っぽい。体温計どこだっけかな」
彼は仕事部屋の口から逃れるとリビングにある棚を漁った。
「ないよ、本当に。どこもおかしくないもの」
「じゃあカゼのひきはじめかもな。ストレス多かったろ?無理するなよ」
あった、と彼は体温計を引き抜いた。バッテリーを確認してから渡される。しかし測定の結果、本人の言うとおり病熱はなかった。
「寝とこ。ここまでやってくれてありがとうな」
ローテーブルに積まれた洗濯物のタワーを彼は叩いた。ほんのりと甘いフルーツの匂いも入っているグリーンフローラルの香りがぶわ、と広がった。
「大丈夫……わたし…………」
「安静にして。健康は資本。寝ましょ、寝ましょ」
渋る加霞はほぼほぼ強制的に寝室へ送られた。
「晩ごはんの支度とか……お風呂掃除もあるし……」
まだ日は高く、少しの間寝るだけの余裕はあるが、加霞は舞夏の隙を突こうとしていた。
「おいおい、これでも7、8年間一人暮らしやってるんだぜ。晩ごはんは適当に美味そうなの買ってくるし、加霞さん何食べたい?あと今日はシャワーだけにしとけよ」
ベッドに寝もせず座りもせずにいるうちに、舞夏はてきぱきと寝間着を出してきた。大きなことになってしまった。
「スポドリ買ってくるから待っててな」
「ま、舞夏ちゃん……大袈裟。大丈夫だよ、本当に」
そう言う彼女は弟が生きていた頃、彼が顔を赤くしているだけですぐに学校を休ませたりしたものだった。
「……ほんとに?顔、触ってもい?」
「う……うん」
火照りはないつもりだった。彼の手の甲が頬と接する。突然ではなかったはずで宣言もされていたが、肌と肌が摩擦した途端にまた彼女は不意に大声を出されたみたいに身体を跳ねさせた。
「どした?」
「びっくりしちゃって……」
「やっぱり様子変だ。仕事切り上げてくるから、着替えて待ってて」
胸の先端が張る。そこを刺激する感覚を想像して、彼女の眼は泥濘んだように光る。舞夏が部屋を出ていく。仕事を切り上げるというのは照明を消してくるのと同じような要領なのだろうか。加霞は服の上からブラジャーを両手で覆った。舞夏が戻ってくるまで。舞夏が戻ってくるまで。舞夏が戻ってくるまで。
虚ろな目をして彼女は自身の胸を揉みしだく。舞夏が適当に注文して届いたブラジャーにはワイヤーがないため、少し小さい感じがしたが痛みはなかった。装飾もない。衣料量販店のものらしかったが素材も作りも良い。快感という快感はないけれど、快楽の記憶と結びついた感覚に安堵する。女の肌を知らないと言った男はぎこちなく慎重に、しかし好奇心を滲ませながら揉んでいた。気分が紛らわされていく。
「加霞さん、」
寝室のドアがノックされた。弾かれたように胸から手が離れる。
「はい」
「入るよ?」
諾とすると彼が入ってくる。
「舞夏ちゃん……」
「加霞さん……?」
特に用はないというのに掠れた声で呼んでしまった。舞夏は覗くように彼女の眠そうな目を見下ろす。時間が止まったようで、インテリアついでに飾られている壁掛け時計はちくりたくりと時を刻んでいる。マシュマロとキャラメルを包んだチョコレートにはちみつをかけてパウダーシュガーを振りかけカスタードクリーム塗れにした菓子が気化したものを浴びたみたいな尋常でない雰囲気が起こる。
「わたし、大丈夫……冷蔵庫見て、買い出ししてもらわないと……今日、カレーにしようかな?お肉は豚肉にする?牛肉がいいかな?鶏肉に……」
訊ねた瞬間に舞夏はすいと背中を向けて屈み込んでしまった。
「舞夏ちゃん……?」
「えっと………いや、ちょっと……」
べち、と自身の両頬を叩いて彼は立ち上がる。
「豚肉がいい」
「そう。じゃあそうお伝えしないと」
「か、か、か、加霞さん」
リビングに出ようとした彼女の手を熱い指が捕まえる。それでいて捕まえた本人が魂消えていた。沸騰したやかんに触ったが如く、否、銃社会でよく見る仕草と同じように両腕を上げた。
「ごめん、ごめんな、ごめん……」
「何か用があったの?」
「なんにも、ない……!」
哀れなほど顔を真っ赤にする舞夏のほうが熱病患者を思わせる。
「舞夏ちゃんのほうが風邪っぴきみたいだよ。熱、測ってみたら?」
「オ、レ、も……へーき。ほんと、体調悪かったらマジで休んで。リビングにいるし、加霞さんも……しんどかったら、ちゃんと…………休もう」
不自然な笑みを貼りつけて彼は角張った歩き方で寝室を出て行った。
舞夏はぼぅっとして掛布団に下半身を入れ、座っていた。加霞はその隣で乾かした髪を片側に纏めて湿布を貼るために寝間着を開させる。髪がまだドライヤーの熱気を保ち、首回りは微かに蒸れている。
「加霞さん、先に……寝てる?」
振り返った。寝間着の下に着ているタンクトップの胸元にぷつ、と落ちた極く小さな影が健全で強壮な若い男の鼻柱を殴ったに違いない。
「あ……っ、」
舞夏はただでさえ人より大きくな印象を与える猫目をさらに大きくした。肉体の猛烈な天啓を受けたらしい彼は布団に虫でも入っていたみたいに飛び出てきた。
「あ、あ、加霞さん……オレ、ちょっと、やること思い出したから、先に…………寝てて」
「うん……?うん」
彼女は己のその日常的な、しかし舞夏にとっては媚態になってしまう胸元の無防備さには気付かなかった。家主に対する不親切な信用、連夜の同衾が大雑把に肌を晒すことを鈍感にさせている。弟が生きていた頃の彼女ならば舞夏の前で寝間着のボタンを外すことさえ嫌がっただろう。
「お、や……すみ。電気消しちゃって、だいじょぶだから」
「うん。おやすみ」
寝間着を直し、布団に入る。視界が翳った。"やること"に戻ると思われた舞夏がまたベッドに乗り、横たわる加霞の顔を覗く。逆光しているが、その表情が見えないわけではなかった。眉間に皺を寄せながらも下がった眉尻、への字に引き結ばれた口元、悩ましげな猫目。何か文句でも言いたそうな切ない顔をしている。洗濯物の畳み方が違う、飯が不味い、掃除が雑、寝相が悪い。そういう要求をしようか、しまいか、迷っているような。
「どうしたの、舞夏ちゃん。悩み事?」
「加霞さん……」
「なに…………?」
「いんや、なんでもない。じゃ、おやすみ。電気、オレが消すよ」
枕元にあるリモコンを奪い取るようにして、加霞のタイミングも聞かぬまま彼は消灯してしまった。立ち去る音がする。静寂だ。優しい人とホテルに泊まった時に聞いた、建物真後ろの道路を車が走っていく音もしない。自身の呼吸と鼓動、微かな衣擦ればかりだ。それでいてブラインドの暗い横縞の奥には夜景が広がっている。まだ日付は変わらない。この家は通勤者はいないのに随分と早寝だと思っていたが、自分に合わせていたのだと加霞は改めて知った。
目を閉じて寝に入ろうとした。胸の膨らみの左右一点ずつがやはり張る。疼いている。寝るなと訴えている。機嫌を窺い、逡巡しながら小さな布2枚の押し上げに指先が届く。息が詰まった。生温かい湯がそこに滲む様を思わせる快感が生まれた。寝間着の上から何度か擦る。下着類は質の良さで知られる有名なローブランドを与えられたが、パジャマはそうではなかった。加霞の価値観ではパジャマ1着に出すには馬鹿らしい額のハイブランドである。弟と暮らしていた頃の1ヶ月分の食費相当する。そういう布を部分的に摩擦することにも躊躇い、また暗闇の中から掘り起こされていく人物にも狼狽している。空調設備のこぽこぽ、ごぽごぽとうるさいホテルで抱き合った者ではなかった。それが怖い。しかしながら、一度遠慮がちに味わった待ち焦がれた甘さを簡単に諦めることはできない。舞夏が戻ってくるまで……
彼女は布を隔て暫く燻りを煽っていたが、やがて大胆に淫らな腫れを抓った。
「ぁ……っ、」
声が漏れかけたのを抑え込む。ずん、と下腹部の奥がくすぐったくなる。踵がシーツを蹴る。頭の中に浮かぶ人物は濃い影を纏い、卑猥な手付きで婀娜な乳頭を繰る。脳が溶けていくようだ。
夢想に媚びた。雲に隠された月のような相手の顔が描かれていく。加霞の意識の中のくせ、そこに加霞の意思は働いていたのか否か、両胸をいやらしく嬲るのは、この家の主人だった。
「ぃ、ゃ……ァ、………んっ……」
考えてはいけないことに考えてはいけない相手を連れ出してしまった。にもかかわらず、彼女の指は何かが憑依したように止まらない。繊細な指先は粗野になって、彼女の弱く敏感なところを的確に攻める。腰が揺れ、臍の裏側が熱く潤っていく。
「ま、な………ちゃん、」
胸の頂を扱き、撚り、擂り潰す。悦楽とも眠気ともいえない安らぎに引き摺り込まれそうだった。
「まな、ちゃ………、ぁっ……」
それは背徳感だったのかも知れない。生理的な拒否感や嫌悪感は最初からなかったどころか、むしろ容貌にも人柄にも惹かれてさえいた人物だった。ただ理性の点に於いて忌避したのだ。封じたのだ。蓋をした。遠ざけることを当然とした。しかし直感には抗えなかった。
「だ………め………っ、ぁあ……!」
腹奥の欲望は、とりあえずのところ溜飲を下げたかの如く鎮まった。膨らみの痴部二点で絶頂する。布団の下で戦慄いた。そういう意図を持って触られなくなった箇所が空しく収斂する。何故だか苦しさのある余韻に浸りながら、加霞は眠りに落ちようと務める。そのときにドアが開いた。彼女は寝たふりをする。足音は近付いて何事もなくベッドに乗った。慎重に掛布団が捲られる。座りはしたようだが、なかなか横たわらない。ごわごわとした繊維の音が小雨を彷彿とさせる。
「好き……加霞さん………好き」
呟きが聞こえる。話しかけられていると思うほどの声量ではなかった。近い距離でなければ聞こえない空気の音に等しく、かといって耳元にいるわけでもない。舞夏がどういう表情をしているのかも分からなければ、そこに含まれた感情の色も分からない。彼からの好意を打ち明けられるのは初めてではなかったが、加霞はここにきて胸の中心部を殴られる心地だった。
「オレの夢……みて」
鼓動が速まっている。狸寝入りが知れてしまいそうだった。
「………好き」
悲痛な面持ちをしているような気がした。
「舞夏ちゃん」
「あっ!えっ、っ、か、加霞さ………っ」
声を出すと舞夏は同情の念を禁じ得ないほど驚いて、後ろへ翻筋斗うってしまいそうだったが、どうにかベッドの上に持ち直している。
「舞夏ちゃん、わたし……」
「あ、えっと、ごめんな!返事もらおうとか、困らそうとか思ってないし、ほんと、ごめん、おかしなこと言って。怖いよな。そういうんじゃないんだ。ちゃんと、加霞さんがちゃんと治ったら、おうち帰すし……こんなヤツと、同じベッド、やっぱり怖いもんな。寝袋あるからあっちで寝るわ!結構いい寝袋でさ、理想的に布団みたいだからヘーキ!じゃっ!」
返事をしてやることも哀れなほど慌てているが、不自然に自然体を装って彼は出ていってしまった。加霞はぼんやりとしまったドアを見つめる。目の前にいて言葉を交わしたのは舞夏であったはずだが、今彼女の脳裏一面を占めているのは青白い顔に眼鏡の男だった。まるでそこそこ暗い広すぎる寝室のドアをスクリーンみたいにして、亡弟の担任の教師の姿が思い浮かぶのだった。思い浮かぶ―浮沈の問題ではない。張り付いている。映写機が延々と回り続けている。この夜に限っては。
朝の穏やかに眩しくなる時間に目が覚めた。光を空に吸い取られ、寝静まったように見える小さな質感と化した建物群がほんのりと靄のかかった淡いブルーを帯びている。自宅マンションならば早朝の声が聞こえたかも知れないが、ここは随分と地上からは切り離されていた。コーヒーを淹れてテレビを点けた。2人の男性アイドルが画面に並んでいた。雫漣を欠いたLove la Dollだ。新発売される音楽CDの宣伝と出演している本人不在で雫漣主演の映画のプロモーションをしている。crown Berrysのライブ映像も流れた。
夢のように安定していた。虚無だったのかも知れない。惰性とも言えた。住み慣れないタワーマンションに適応している。雫漣という存在に芸能人に対するのと同じ遠さを覚え、可愛い弟が死んだ事実に荒めなくなっている。意識に固着してしまった。もうこの世で会うことはない、声も聞けず言葉も交わせないことに合意をしている感じだった。
舞夏の仕事部屋の扉が開き、彼女はソファーから腰を浮かせる。
「おはよう、舞夏ちゃん」
居候が先に起きていたのは彼にも予想外だったらしい。ぎょっとして後退りかけている。
「あ……おはよ、加霞………さ、ん」「朝ごはん、もう食べられそう?今作るけれど」
「う、うん。食べられる。でも、そ、その前に、加霞さん。話があって」
ローテーブルを挟んで対面のソファーに舞夏は腰を下ろした。加霞は首を捻って話を待つ。
「明日あたり、帰ろうか、おうち。こ、これは昨晩のことがあっ、あった、カラ………じゃ、なくて」
舞夏の顔がぼっと焦りはじめて染まる。加霞もそこで昨晩の出来事を思い出した。
「もう、そのつもりだった。加霞さんの様子も落ち着いてきたし……まだちょっと心配だから、たまには顔出させてほしいけど……顔見るだけだし…………その、ヘンナイミ、じゃなくて」
「うん、分かった。ありがとう、ずっと泊めてくれてて」
「いや、そんな……オレが引き留めてたんだし。ただ……大丈夫かなって。双子のこと………」
加霞の目が泳いだ。ただ大丈夫だと思えたのは、他に知られて拙い人間がもういないということだった。警察を呼ぶにも躊躇うことはない。妙な噂があろうとも、地元ではない。多少人間関係がぎくしゃくしたところで困らない。出たり入ったりの土地は少し人に冷たいくらいが心地良いこともある。
「平気。色々と迷惑かけてごめん。明日から、一人暮らしだね」
一人で夜を過ごすこともあったけれど、本当の一人暮らしが再開する。大学生ぶりだろう。その頃の生活をもう思い出せないけれど、またすぐに慣れてしまうのだろう。それがほんのりとどこか、彼女には寂しく感じられた。
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