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蜜花イけ贄(38話~) 不定期更新/和風/蛇姦/ケモ耳男/男喘ぎ/その他未定につき地雷注意
蜜花イけ贄 41
しおりを挟む『葵様
葵様との生活は考えられません。躑躅様のことも気がかりです。城に戻ります。
私が葵様を誑し、唆したのだとお伝えします。私が処され、葵様と御令妻の子が生まれる。一人減り、一人殖える。世の常、世の摂理でございます。
金子はお返しいたします。お世話になりました。
桔梗』
来たときは馬車に長いこと揺られていた。城下からは遠い場所なのだろう。果たして人の足で何日かかるのか。
葵の出掛けた町からの帰りらしい村人とすれ違う。荷車を引いていたが、荷台には砂埃があるだけだった。怪訝な眼差しを向けられる。粗末な身形の若い男だった。ふと、故人がそこに重なる。
誰も何も知らない場所で、あの者が生活し、そして葬られたところから遠く離れた土地。切り離されたもののように感じられた。すべて夢のようで、今このときが夢のようにも感じられる。あの者は存在していなかった。或いは存在しているが、まだ生きている。冤枉のために惨たらしく殺された人などいなかったのだ。そして暴虐の君のために羽虫のごとく死んでいった命も。
ただ、叔父のことだけは、夢ではないようだ。
歩き続けていると足が疲れた。今は晴れているが、空模様からして少しすれば雨が降るのだろう。嗅覚もまた塵と埃、砂の湿った匂いを訴えている。休んでいる暇はないようだ。隣の町で文を出すつもりでいた。宮殿に宛ては届かないだろう。叔父のいる囹圉へ。それとも家を借りている茜嬢か。
桔梗は道から外れ、大きな岩に腰掛ける。帰りたいとは思ったが、どこに帰りたいのかは分からなかった。本当に帰りたいのかも分からなかった。しかし恐ろしい狂人の傍にいるより、安穏というものがあるはずだ。
雨粒が頬に落ちた。濡れてしまえば諦めもつく。けれども気の所為と思えなくもない曖昧な雨だった。
まだ歩ける。
ぴぃ ぴぃ ぴゃぁ
高らかな声が聞こえた。猫だ。まだ幼い猫。
桔梗は声のほうへ引き寄せられていった。岩の陰を覗く。白地に灰色、虎模様の小さな猫が佇んでいた。身体は痩せ細り、頭と耳が大きく見えた。両目は閉じて体液を流していた。人の気配を感じたのだろう。鳴くのをやめ、歩きはじめる。後ろ足が縺れ、蹌踉としていた。丈の長い草が子猫に絡みつく。
桔梗は目で追っていた。子猫は倒れる。起き上がるのも一苦労のようだ。頻りに宙を蹴り、やっと身体を起こす。しかしそれでも風に煽られたように細い躯体を揺らす。
脆い命だった。弱っている。
彼女の胸は燃え上がった。子猫を追い、襟首を摘む。子猫は後ろ足を揃えて丸めた。四方八方、前後左右上下から眺めたが、怪我をしている様子はない。
周囲に他に猫はいなかった。桔梗は子猫を手巾に包み、懐に挟むと、来た道を戻っていった。
湯を沸かし、猫を洗う。よく拭き取って、手拭いに包み、添い寝した。目やにを取ったが炎症を起こしているらしく、子猫の両目は開ききっていなかった。小さな命は衰弱していたが、鳴き声はしっかりしていた。身体を反らせるように鳴きながら猫は手拭いのなかから這い出ようとする。
「ごはん?」
桔梗は蹣跚として進む子猫を目で追っていた。
「ごはん……」
近くの川に蜊蛄がいるかもしれない。釣り方と剥き方を教わったことがある。他にも川魚なら身を擂り潰せば食べそうだ。
考えを巡らせていると玄関戸が叩かれた。
「ごめんください」
玄関を開くと、中肉中背の男が立っていた。おそらく若い。目深に帽子を被り、俯き気味で、陰気な印象があった。声も低く、抑揚がない。
「先程、猫を拾ったのを見ましたので……もしよかったら……」
男は2尾、小さな魚をよこした。川魚だろう。丸い目が悍ましい。
「どちら様ですか……?」
「名乗るほどの者では……通りすがっただけで……私も猫は好きであります」
「……そうですか」
身長差によって下から顔が見えた。見覚えがあるといえば見覚えがある。だが誰とも判じられない。見覚えがないといえば見覚えもない。目が合う。桔梗は思わず後退った。煮え滾る湯のような瞳にたじろいだ。知り合いなのだろうか。牡が牝を膂力に任せ恣にするときの眼光でもなかった。しかし渇望は伝わるのである。
「ね、猫……見ていきますか?」
「いいえ……弱っているように見えました。猫の負担になりましょう」
揺らぎもせず、解消されもしない欲求の光。不安や忌避感は催さない。害意は感じられない。けれども桔梗は平然としていられなかった。訴えかけられている。だがその真意が分からない。猫を触りたかったわけではなかったらしい。
「あ、あの……わたくし、昨日こちらに移り住んできたばかりの、桔梗と申します……」
満たされない欲望が内側から滲み出ている男の反応は鈍い。話を聞いていないように思われた。1拍、2拍、3拍置いて意味深長な眼を動かした。
「おひとりで?」
桔梗は宙を見回した。
「……弟と……」
「弟御と……」
しんねりむっつりとした眼差しに気圧される。汚泥のような沈黙があった。相手はそれを無言の積み重ねとは思っていないようだった。むしろ忙しいようだった。煮えくり返った湯のごとき双眸に怯んだ。そしてその目を理解した。叔父との逃亡を密告した男と同じ目の色をしていた。悲哀に情欲を潜ませた目だ。己の器量を過小評価し、却ってそれが嫌味である、桔梗の厭悪していた眸子だ。
彼女は逃げた。鼻先を背けた。
「お魚、いただきます……」
「捌き方は」
「心得ています」
沈黙。
「何故?」
まだ叔父と暮らしていた頃、郷土史に書いてあった。地域によっては魚を捌けることは、被差別民を意味するらしい。女の身であるならば尚のこと。しかしこの地がそうであるのか、桔梗には分からない。
「よく見ると女人にもかかわらず御髪も短いようですね」
桔梗は応えずにいた。家の奥から猫の鳴き声が聞こえ、振り返る。
「お魚、ありがとうございました」
玄関戸を閉めた。今頃は熱視線も真冬の氷室に捨て置かれたがごとく霧消しているに違いない。
彼女はさっそく、魚の鱗を剥いだ。切れ込みを入れ、内臓を取り出す。骨を綺麗に抜き取って、透き通るような身を切り刻んだ。そして猫へと持っていく。猫は食べない。鼻先へ近付けるが、食べようとしない。
痩せぎすの身体と比較すると大きな頭を撫でた。それでも成猫と比べるとまだまだ成長の余地を残していた。
猫は魚を食べず、蹌踉として歩き続ける。しかし下半身から均衡を崩し、横から落ちていくのだった。撫で摩ると、鳴き叫ぶ。徐々に弱まっていく。
「食べなきゃ、ダメよ」
粒のような一切れを指で掬って、口元に塗りつける。砂利をまぶしたような舌先が舐め取った。指伝てに食べさせていく。
猫は弱っている。回復は見込めそうになかった。しかし桔梗はうっとりとしていた。猫の傍を離れなかった。軈て日が落ち、気の狂れた男が帰ってきた。暗殺を生業にしていたとは思えない足音が家中を駆け回る。だが桔梗は灯りも点けず、凝然と一点を追っていた。
「桔梗様!」
床を踏み抜きかねない勢いで、狂人がやって来る。息切れをしているのが分かった。
「はあ」
「なんです、これは」
紙の爆ぜる音があった。捨て忘れた書置きのことが彼女の脳裏を過る。
「葵様と暮らしたくありませんの」
猫が咳をする。嘔吐いているようにも聞こえた。掌に収まるほどの背を撫でる。小さく鳴いた。
「俺との子供ですか」
狂人の声が上擦る。
「もうすぐ死にますわ」
否定も肯定もしなかった。相手は気が狂れているのだ。互いに好き勝手喋ったところで、困惑する者はいない。
「私も看取ります」
「この辜のない畜生が死んでいくのに、わたしは生きていくのねぇ」
「桔梗様に一体何の辜があるのです」
灯りが点る。狂夫の姿が浮かび上がる。桔梗は喋るのが嫌になった。
「俺も抱きたいです……俺の子……」
狂人が丸まっている猫に近付いた。猫は悲鳴のような声を上げ、またぞろ歩き出す。目的もなさそうだった。やはり足取りは蹣跚としている。桔梗はこの弱った毛玉を抱き上げ、恐ろしい外敵に背を向けた。
「桔梗様…………――夕餉の支度をしてまいります」
「手伝います」
「桔梗様は休んでいてください。その子供のこともありますし……」
「毒を入れられてしまいますわ」
食材は買ってきたらしい。魚、根菜、米が玄関に置かれている。片腕が不自由であるにもかかわらず、ひとりでたいへんな量を買ってきたようだ。
夕餉を終え、湯浴みを済ませる。悪くない生活だ。布団も敷かれていた。まるで旅籠だ。しかし桔梗は葵が湯浴みを終えるのを待っていた。
葵が出てくる。粗末な浴衣は桔梗が自身のものを解き、縫い繕って仕立て直したものだ。彼は自分のものをひとつも持ってきていなかった。
「寝られませんか」
桔梗は見たくもない白い肌を一瞥する。彼は女物の浴衣の袖を捲り、銃創を曝している。縫い跡が赤く滲んでいる。これから布を当てるらしい。
「貴方、布団はどうなさるの」
昨晩、この狂人がどうしていたのか、桔梗は知らなかった。彼女は夕餉も食わず先に寝てしまった。
「私は床でも寝られますので……」
「でも貴方、私を養うために働くのでしょう。それで休めるのかしら! 貴方に市井の労働は無理なんじゃない?」
桔梗は掛布団を毟り取って投げつける。茘枝のような色味の面構えに怯えが走る。
「や……養います……! 俺は桔梗様を養います……! 寝る間も惜しんで働きます……!」
狂人は浴衣を脱ごうとした。
「休んでくださる? 一時働いたからって人一匹養えるわけないでしょう。葵様とは一緒に寝られません。おやすみなさい。さようなら! 夢でだけは貴方と離れていたいものですわね」
桔梗は敷布団だけ抱え、猫を入れた箱を持ち、部屋を替えた。
『開けて、桔梗ちゃん』
胸が苦しかった。息がしづらい。
『開けて、桔梗ちゃん』
首に縫い跡をつけた水呑み百姓が円かな目をしてこちらを向いていた。桔梗は戸惑った。真っ白な光を背に、その者は同じ言葉を繰り返す。
『開けて』
その者の指が差す方向を桔梗も向いた。戸がある。裏戸らしき粗末さだった。
「開けてあげる」
もう会うことのない相手だった。何でも叶えてやりたくなった。しかし要求されていることはあまりにも些細。
桔梗は戸を開いた。彼はただ桔梗を見詰めるばかりだった。目を伏せる姿は、彼女の知らない色気を醸し出す。
「ネムれないの?」
反応はなかった。その者は俯くあまり、縫い糸が緩んで首が落ちそうだった。
「ネムってよ」
短い睫毛を凝らす。彼は動かない。肉感の薄い頬に触れたかった。だが手が伸びない。伸ばせない。
「ネムってよ、アサガオさん。おやすみなさい……」
息が苦しかった。目元が濡れていた。外で虫が鳴いているのを聞く。
「眠れませんか」
彼女は肩を震わせた。暗闇に狂人が紛れている。
「居間で寝ているんじゃなかったの……」
「私たちの子が……こちらに来たものですから」
桔梗は何を言われているのか分からなかった。
「たいへん、弱っているようです」
猫のことだ。
「明日か明後日には死にますわ」
「死んでほしいのですか」
「だって、どうしようもありませんもの」
狂人の手の中にある脆い命を受け取った。掠れた悲鳴をあげている。身体の軋みを感じる。
猫を受け渡した狂人は空になった手を引き戻すことなく、桔梗の躯体へ伸ばしていった。背に腕が回る。体温が近付く。嗅ぎ慣れた匂いに包まれる。
「俺が貴女を幸せにします……」
「あなたがわたしの幸せを壊したのに?」
男体が強張った。
「叔父上は今でも囹圄のなかですわ」
抱擁の力が強くなっていく。慄えている。
「あなたが幸せにしてくれなくてもいいの。他にわたしを幸せにしてくれる人を探すから。そうでなくてもひとりでなります……叔父様には申し訳ないけれど……」
「嫌です……!」
胸に抱いた小さな命よろしく、狂夫もまた身体が裂けそうな軋りを伴っていた。
「だって、あなたが幸せにするべき御人はもういらっしゃるじゃない。わたしにはおりませんけれど……わたしには、もうおりませんけれど! あなたが守りたかった、善良なる無辜の民草に殺されてしまったけれど!」
「俺が、蕣殿になれば、愛してくださるのですか!」
「あなたはあの人にはなれません! 二度とおっしゃらないで!」
「なります! 蕣殿になりましょう! それが貴女様に対する忠誠ならば!」
「なれません! 貴方があの人になれるわけない!」
雷鳴。だが一撃だった。あまりにも突然だった。遠雷も聞こえなかった。
「ああ! ああ! 俺は……っ! 俺は……! うぅ……」
狂人は頭を抱え、身をのたうたせて去っていった。
桔梗はその姿を眺めていた。滑稽で哀れな男だった。
「ナァ、ナァ!」
猫が鳴く。
好い匂いで目が覚めた。身体を起こし、箱を覗く。弱った猫が隅に縮こまっている。残酷な安堵があった。桔梗はいじめられた蝸牛のごとく布団へ戻っていく。そして気付く。掛布団がある。
「桔梗ちゃん」
全身の毛が逆立った。その声は、そのようには話さないし、そのようには呼ばない。
「桔梗ちゃん、朝ごはん作ったよ」
首の骨を軋ませ、彼女は自分を呼ぶ者を見遣った。やはり狂人がそこにいる。顔立ちは間違いなくあの狂人であった。しかし顔つきはそうではない。白痴然としたあどけない顔で気の狂れた男が佇んでいる。
「桔梗ちゃん……?」
毛穴という毛穴が引き締まっていく。肌が粟立ち、気分が悪い。
「あなた、誰……?」
恐ろしい返答を求めてしまった。聞きたくなどなかったというのに訊ねてしまったのである。
「蕣」
気の狂れた男は笑う。何の後ろめたさもない。桔梗は怖くなった。中身から人が変わったようだった。まったく似通ったところはない。所詮は演技、或いは癲狂の気紛れだ。それがまざまざと見てとれたのが食事であった。気が狂れているといっても、気が狂れているからこそ、長い習慣までは意識的には捨てきれないのだろう。箸の持つ手は正気の水呑百姓より美しかった。その爪は磨かれ、土汚れもない。荒れも罅割れもない。筆胼胝も農民の手ではなかった。椀を持つ手も然り。
桔梗は居た堪れなくなった。
生まれは調薬、売薬の商人なのだろうけれども、十にもならないうちに算勘を買われ、宮に入ったと聞いている。庶民の生まれも、宮廷での育ちが長ければ消え失せるのだ。元に戻れないのだろう。美しく咲いたばかりの花を踏み躙ったような不快感がある。
それなりに美味かった飯が、突然空虚なものになった。味はある。だがそれだけなのだ。味覚に刺激を与え続けるだけの行為だった。
食事を終えると、狂人はすぐに食器を洗い、身支度を整えた。女物の着物を継ぎ接ぎして作った、生地こそ上等だが、粗末な衣を身に纏っていた。
「塾に行ってきます!」
溌剌とした顔を見せ、狂夫は出掛けていく。桔梗は見送りもしなかった。彼女は猫をみていた。快方に向かっている様子はない。
猫を眺めながら彼女は寝転んでいた。怠惰な日々。退屈である。過ぎた日のことも、これからのことも、考えることに迫られない。求めていたものだ。これが幸福なのだ。
玄関戸が叩かれる。桔梗は跳び起きて玄関に出た。
胡頽子と名乗った不審な男が立っている。昨日と同じ小さな魚を手にしていた。
「猫は……」
目深に被った帽子のつばをさらに深く沈めて男は訊ねた。
「相変わらず弱っています。あとは死を待つのみでしょう。でも、ひとりで死なせたくなくて……」
桔梗は俯いた。
「御用聞きは、この辺りにいらっしゃる?」
「少し離れた町にありますが」
「ごめんなさい、あなた。ただとは言いません。もしお手隙なら、お遣いに行ってくださらない?」
「いいでしょう。ですが駄賃は要りません。猫を見せてくだされば、それだけで」
余程、猫が好きらしい。
「でもそれじゃあ悪いわ。お昼食を摂っていって。作って待っています」
共に住むことになった気の狂れた男は算盤には優れているようだが、料理の算勘には疎いはようだ。材料が多く残っている。とても夕餉で消費できない。
胡頽子とかいう男は同意を示した。
「よかった。気を付けてくださいまし」
町に向かった男の背を見送って、桔梗は子猫の箱を覗いた。布切れで巣を作った。本能が閉鎖的な死に場所を探しているようなのだ。それから昼飯を作った。
狂人の口振りからして、算盤塾を開講したらしいのだ。とすれば、人と接するはずだ。女物の着物を継ぎ接ぎにした、粗末貧相な身形の男の指導を、誰がありがたがるだろう。
桔梗は男物の着物を買いに行きたかった。しかし子猫もまた、いつ死ぬか分からない状態なのだった。
稍あって胡頽子は戻ってきた。彼はもうひとり、ふざけた風采の男を連れていた。包帯で片目を隠し、女物の衣を羽織って着流し、手には煙管。頭に乗った毛氈の帽子は天端が凹み、つばは反り返っている。とても堅気の人間には思えなかった。
桔梗は玄関戸に隠れるように、その男を見遣った。男は桔梗の姿を認めると、晒された片目を丸くした。そして胡頽子を振り返った。だが胡頽子は素気無い態度をとった。
「こちらは、どういう……」
「萬屋の、薊マツカサです」
胡頽子の紹介で、その奇抜な見た目の男は小さく頭を下げた。そして前へと出てきた。
「どういった御用だ?」
客商売とは思えない、横柄な態度である。口元には軽薄な笑みが浮かんでいる。
「猫の、子守を……」
「はあはあ。猫……」
「死にかけなんです。治りそうになくって……」
「はあはあ。死にかけの……やつがれは猫が苦手でね。鼻水が止まらなくなるんですがね」
桔梗は胡頽子を見遣った。彼もまた桔梗を見ていた。
「では買い物に行ってくださるかしら。男物の衣を注文してきてほしいのです。とりあえず3着ほど……」
桔梗はこの奇特な服装の男を信じていいものか分からなかった。しかし今は、信じてみるほかなかった。所詮は狂人稼いだ金だ。
銀子を渡す。受け取ろうとした指輪だらけの手が引っ込む。目の色が変わった。表情も一気に和らいだ。眉尻と目尻を下げ、口角は滑らかに上がる。
「是非とも、是非とも、今後ともご贔屓にしてくださるとありがたいんですが……」
「はあ……」
「では質としてこちらを置いていきます」
銀子と引き換えに赤い石の嵌まった指輪を置いて、すぐさま町へ駆けていった。
「信用していいのかしら、あの人」
渡された指輪の価値も分からず、話を捻じ曲げ、盗人扱いされることもある。桔梗は市井の連中を信じていなかった。宮の人間も信じていなかった。誰のことも信じていなかった。
胡頽子は答えない。
「あら、ごめんなさい。あなたにお礼をしなくっちゃ」
楮紙に包んだ銅子を胡頽子に差し出した。しかし彼は顔を伏せて首を振る。
「こんな紙を、易々と見せてはなりません」
「紙がお気に召しませんでしたの?」
「素封家が近所に越してきたと聞けば、村には小さな悪意が芽吹きましょう。村社会は何かと結託するものであります」
桔梗は帽子のつばに隠れた目を見ようとした。だが阻まれる。
「またこうして、たびたび伺ってもよろしいか」
「え、ええ。昨日今日みたいに、あなたの来た時間なら弟もおりませんでしょうし……気が狂れているんです。だからあまり、ひとには会わせたくないのですわ」
またさらに帽子を目深にする。
「では、弟御のいないときに……」
「知り合いもいない土地ですから、そうしてくれるとわたしも嬉しいです」
つばの陰から強い視線を感じる。しかし桔梗がそのほうを向くと、執拗に帽子を深く被ろうとする。
「おしゃべりが過ぎました。お粗末なものですが、召し上がっていってください」
昼餉を乗せた膳を出す。酒でもあればよかったが、狂人は酒は買ってこなかった。気違い水など飲む必要がないのだろう。すでに気が違っているのだから。
「でも本当にいいのですか。せっかく急いで行ってもらったのですから、これはわたしの気持ちです。受け取ってくださいな」
楮紙を取り払い、膳の隅に積み重ねた銅子を置く。
「私は、こうして、温かい手料理を食べられるだけで、幸せであります。何ものにも代えがたいことでありますので……」
「でも、わたしの気が済まないわ。どうかもらってください」
茶碗を持ち、箸を握る手が慄えている。怯えているのか。
「……ごめんなさい。無理強いはしません」
銅子を下げる。
「私は本当に嬉しいのです。こんな美味しい料理をいただけて……終生の宝となるでしょう」
「日頃ろくなものを召し上がっていないのね」
胡頽子は具体的なことを答えなかった。
「でも、こんな料理で喜んでくれるのならよかった。作り甲斐があります」
胡頽子は飯を食い終え、萬屋が帰ってくるのを共に待った。静かな男だった。空気の染み入っていく庭石のような男だった。波紋のひとつもたてず水面を渡りそうな男だった。弱り果てて過敏になっている猫も、この男には構わない。
箱を覗いていた男が振り返る。桔梗は真後ろにいた。鼻先が触れ合いかける。つばに隠れた目元が垣間見える。額に左右から交差した傷が走っている。眉の一部を切り落とし、目蓋に掛かっていた。
胡頽子はぎょっと目を見開き、桔梗を突っ撥ねた。彼女の身体は艶塗りの床に転がる。
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