Lifriend

結局は俗物( ◠‿◠ )

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Lifriend flower 未完結6話(2017年)

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大きな犬がいる。犬のはずがない。野良猫はいても野良犬が都会にいたら、騒ぎになる。大雨に打たれて座り込んでいる。ぎらぎらとした瞳は何も見てはいなかったけれど、確かに何かを見ていた。行き交う人々を視界に入れながら見ているものはおそらくそれらではない。セットされていたのであろう髪は形を崩し、額に貼りついている。暗い空と明るい街並み。水溜りが照明のようだ。明るみに晒されることを拒否するように、大きな野犬は膝に顔を埋め歩道の脇、花壇と花壇の間に座り込んでいる。
 何故そうしたのかも分からない。傘を渡す。渡したつもりで、けれど相手はこちらを見ていない。雨に打たれる感覚が消えたことに気付いたのか野犬は顔を上げた。野犬は傘を渡そうとする人間の顔を見て、驚くこともなく仲間にするような、見知った相手を向けるようなカオをした。
 泥まみれの犬がシャワーを浴びて、清潔感のあるバスローブを身に纏いベッドに座っている。状況が状況だけにそのバスローブは清潔ではあるだろうがある種の不潔さを漂わせている。短い髪をダメージも気にせずタオルで乱雑に拭く腕は筋肉が美しく、たくましい。体格は良いが引き締まった腰は細いせいか華奢に見える。真っ白いタオルを頭に被り、洗われた大型犬は黙っている。シャワーが空いた、という一言もない。見ず知らずの今日会ったばかりの名前も素性も知らない犬と同じ部屋にいる。ひとつのベッドだけが占拠している空間に。目に痛い照明を切り替えて、健全ではない空間に健全な色を取り戻す。そもそもは、むしろある意味ではその方が不自然であり、不健全ともいえるだろう。
 無言の犬を一瞥してシャワー室に向かう。あの犬はその間に再び野良に戻るつもりだろうか。一時的でも飼おうとしたことが奇異だった。何も宿さない目の中に自分が映っただけの話で普段は絶対にしないと誓えた、ホテルに誘い込むなどという今までなら軽蔑に値したことを平然とやってのけてしまった。
 視界からあの大型犬が消えるぎりぎりまで、まだ居るのかそれとももう帰るのかと確認してしまう。立ち去る様子はなかった。ずっとタオルを頭から下げ、俯いたまま。
 黒地に黄や赤、青の花が茶の線画で描かれた模様のワンピースを脱ぎながら女・佐伯は閉め切られた擦り硝子の奥を見つめる。酷い喪失感を覚えていたことだけは記憶にあったが細かなことはあの犬を見た瞬間に忘れてしまった。背中のホックを外してすとんと足元までワンピースが落ちる。サテン生地のワンピースが光っている。いつ買ったワンピースだかも忘れてしまった。趣味ではない。では誰が選んだのか。犬が先に濡らしたバスマットの上に落ちたワンピースを拾い上げる。
 シャワーから上がってもあの犬はまだベッドの上に座っていた。テレビも点けず、俯いたまま。声を掛けようか迷って、けれどかける言葉もない。犬は一度だけ佐伯の方を向いたが、すぐにまた顔を戻す。
「あの、さ」
 久し振りに声を出したような気がして佐伯の声は掠れて言葉になったかも曖昧だ。犬は佐伯へ目を向けた。アーモンド型のぎらぎらとした双眸が向く。繊細さのない顔。雄々しい顔立ち。ただ見つめられているだけなのに睨まれているような。佐伯は怯んだが意を決する。
「名前、教えてよ」
 ドーベルマン、シェパード、シベリアんハスキー、佐伯の知っているいかつそうな外見の犬種を頭に浮かべる。プードルやダックスフンド、ポメラニアンやチワワの系統ではない。佐伯の目の前の犬は視線を泳がせて、それから口を開く。言われた名前が上手く聞き取れず、否、聞き取れはしたが疑ってしまい、訊き返してしまう。
「ハルナ、ナナ」
 2人の名前を出され、フルネームを訊ねているということ、もう1人の名前は誰のものかという問いを投げ返そうか迷っているうちにタイミングを逃す。
「アンタは」
 絞り出すような低い声。緊張しているのか声が震えている。
「私はりの・・・佐伯りの」
 犬は佐伯を見ようとしてだが見るに至らず黒目は床に戻っていく。
「何て呼べばいいかな。ハルナ?ナナ?どっちが名前?」
 名乗らせても犬はフルネームを教えない。2人分の名を教えられたところで佐伯は困ってしまう。
「ハルナが苗字でナナが名前・・・ス」
 変質者を見ているような怪訝な視線を向けられる。
「どっちが名前て?」
 機嫌を損ねたのか犬は佐伯から顔ごと逸らす。
「どうする?」
 生命力に溢れている、若々しい雰囲気を醸し出すこの犬にこの後の展開を委ねてみようか。佐伯は促す。第一印象を覆すほどにこの犬が小さい存在に見えた。ホテルに着いてすぐ、もしくはシャワーを浴びてすぐにでもこの男に貪られ、喰らい付かれると佐伯は考えていた。
「どうする、って、何が、スか」
「ここどこだか分かってる?分かってて着いてきたわよね?」
「ラブホテルッスけど・・・」
 ぼそりぼそりと犬は答える。
「何で着いてきたの?」
 まるで詰問だ。責めるつもりは全くなかったが、何故か口調が厳しくなってしまう。犬は答えなかった。
「どうして誘ったんスか・・・」
 返されたなった質問が質問で返ってくる。佐伯は暫く黙っていたくせに。
「予感」
 この男の問いに応えるため、この男を初めて見た時の印象を思い出す。真面目に答えたつもりだったが、男はただ何も言わず眉間に皺を寄せた。
「どういうことスか・・・」
 ワンテンポ遅れて反応がくる。佐伯のリズムが狂う。
「野良犬みたいだったから」
予感というのは後付けだったかもしれない。ただ放っておけなかった。そしてまさか、ラブホテルに連れ込むとは思わなかった。
「・・・誰とも・・・こういうこ―」
 男が言い切る前に否定する。おそらく誰でもラブホテルに連れ込むのか、ということ。
「しないよ。今日だけ。ラブホテル自体初めて」
 ばつの悪そうなカオで男は「そうスか」と返す。
「オレも、スよ。だからこれはノーカンでいいッス。お互い忘れましょう」
 男が言い終えて室内は静寂に包まれる。この男がそれでいいというのならそれがいい。佐伯も半分後悔していた。軽率だったと。
「帰るんスか」
 荷物を纏め、ハンガーに掛かったワンピースに手を掛けると男が佐伯の背に問う。何もせずラブホテルについさっきまで名前も知らなかった男と2人きり。気不味さ以外に何があるのだろう。口が達者とも思えない。
「外、暗いスよ」
 窓を見ずとも分かる。このラブホテルに来たのが22時過ぎなのだから。だが他にどうしろというのか。
「今日はもう泊まるしか・・・」
 男はベッドから腰を上げる。佐伯が振り返ると男が座っていた程度の跡が残っているシーツへ、どうぞ、と言わんばかりに手で促す。
「割り勘なのに私だけベッドで寝るの?」
 男は佐伯の言葉を聞いているのかいないのか、ソファへと移る。佐伯は「ねぇ」と咎めるような声を上げれば、「聞こえてっスよ」と呆れた声が返される。
「オレは構わないっスけど、アンタはどうなんスか。同衾どうきんできるんスか。好きでもない、ましてや知らない男と」
 頭を掻きながら男は問う。野性的な男だと思っていたが、佐伯が思っていたよりは知性と理性を持っている。
「じゃあ私が全部払う。これでいい?」
「・・・変に律儀っスね。オレもここ泊まるの、変わらないっスよ」
「ベッドで寝るのとソファで寝るのじゃ大違いでしょ。・・・もう喋らないでくれる?」
 貴方理想と違うから。続きそうになった言葉を呑む。それは佐伯が勝手に抱いたものだから。
 すぐに寝息が聞こえた。目を開いてもあの男が視界から外れるように反対側を向いていたが、上体を起こして男の寝姿を見つめる。ラブラドールレトリバー、ゴールデンレトリバー、雰囲気はセントバーナードにも似ている。或いは柴犬。いかつかった印象が、変わっていく。タフそうで雄々しく端麗な男が一体何をしていたのだろう。捨て犬のような眼で。捨てられたというよりはすでに何かを諦めたような、むしろ自ら捨てられることを選んだような。男の首が傾く。咄嗟に佐伯は顔を逸らすが、まだ起きていないと分かるともう一度見つめる。長く濃い睫毛が影を落とす。眉根に寄せられた皺を伸ばしてみたくて佐伯はベッドから手を伸ばす。指が男へ届くことはなかった。触れてはいけない、と途端に脳が判断した。熱された鉄に自ら触れるような感覚に近い。火傷をすると瞬時に思った。ソファで寝ているせいか時折苦しそうにより深く眉間に皺が寄る。子どものような、やはり犬のような無防備な寝顔。空中で輪郭をなぞる。何をしていたのだろう。この男は。そして自分は。佐伯は男の寝顔の輪郭を空中でなぞった手を、そのままシーツに投げ出した。
「寝られない、スか」
 ばちりと音がしそうな目が開く。犬だけれど、目だけは猫のように鋭い。
「やっぱり一緒に寝る?」
 はぐらかして訊き返す。断りの言葉は返されなかったが男は佐伯に身体から背けて再び寝はじめる。寝息がすぐに聞こえ、佐伯は天井を見つめる。あまり動くとまた起こしてしまいそうだ。迷路代わりに天井の目を辿る。そのうちいつか眠りに落ちるはずだ。

 いつの間にか妙な部屋にいた。真っ白い部屋に襞を丸めたような真っ白い小さな花が生えている。床から生えている。白と僅かな緑で構築された空間。光が差し込む窓と、レースカーテンがはためくそよ風。その前に立つ少年、いや、青年、それかもっと上。小柄なのか、発育途上なのか。年齢不詳のこの男へ繋ぐ道を作るように白い花が咲き乱れている。レースカーテンがはためいて、この年齢不詳の男を隠してしまいそうだった。
 疲れたかい。年齢不詳の男が問う。緩慢に口が開いた。垢抜けた頭髪の色が茶金という点を抜いては全てが白い格好をしている。冴えない顔立ちだが艶っぽさがあり、あっさりとした目鼻立ちをしている。奥二重なのか一重瞼なのかも分からない。鼻梁は通っているが高くはない。唇は形はよく、薄めで淡泊な印象を受ける。
 疲れたかい。もう一度同じ問い。声が出ているという認識はしているのに、どのような声か。高いのか低いのかも分からず、声に出してはいないのかもしれない。佐伯の脳にテレパシーで語りかけている。
 誰?と訊ねる佐伯の声は声にならない。年齢不詳の茶金髪の男はスロウモーションで目を開け、顔を上げる。無音のスロウ機能が利いた映像、まさにそのもの。
 レースカーテンが大きく大きく揺らめき、佐伯は年齢不詳の男の元へ駆け寄ろうとする。床が水浸しだ。佐伯の踝まで水が張ってある。水音もしない。ただ感覚と、水浸しであるという認識。窓から差し込む光とレースカーテンに攫われる、連れて行かれてしまう、茶金髪の男が。
「誰!?」
「何が!・・・スか」
 ベッドに乗り上げて佐伯の頬を手の甲でぺちぺちと軽く叩いてる捨て犬。天井があるはず目の前に迫っている。深い安堵感に汗ばんでいることに気付き、身体が弛緩し、大きく息を吐く。
「・・・何スか」
 形がある。物理的に存在している。佐伯は捨て犬の顔に触れた。熱い鉄のように思ったことも嘘のように。
「白い小さな花知ってる?シワくちゃなんだけど」
 知らないだろう。高を括った通り、訊ねて暫くしても返事はない。むしろ知っていると思って佐伯は訊ねていない。難しいカオをして捨て犬はベッドから佐伯の手を避けるように身を引いた。
「シワくちゃな白い花スか?」
 コイツ何言ってんだ?と言わんばかりに捨て犬は顰めたカオを隠そうともしない。
「見覚えはあるんだケド。珍しい種類とかじゃなくて・・・」
 捨て犬は無言のまま。聞こえるようになのか、佐伯とは違う意味で溜息を吐く。
「この後、暇?」
 ベッドサイドのデジタル時計を確認する。昼の少し前。
「だったら何スか」
 佐伯に背を向けてここに来た時にまで身に着けていた、スーツにしては少し崩し気味の派手なスーツをハンガーから外している。ホストクラブか、或いはとある自由業の下っ端か。
「花屋行こうよ」
「何しにっスか」
 汚れたままのスーツを着始める捨て犬を佐伯はじっと見つめる。ベッドの上から遠慮もなしに注がれる視線にスラックスを履こうとする犬の手が止まり、佐伯を上目遣いか睨み上げているのか微妙な目線を送る。
「いいよ、続けて」
「いいよ続けて、じゃないっス。やりづらい」
 佐伯は手で「どうぞ」の合図をする。ベッドを譲った時のこの犬のように。だが犬は渋いカオをしてスラックスを履いて、ファスナーを上げてからホックを留める。
「なんだっけ?ハルナだっけ?ナツナだっけ?」
「・・・ハルナ、ナナ」
「どういうことなのよ、ミドルネームとか?名前2つあるの?」
 露わになっている上半身を見つめながら訊ねる。引き締まった身体とバランスのいい筋肉。理性も知性も捨てたような風貌で、出る言葉はまだ理性も知性もある。
「フルネームっスけど」
「フルネームで?ハルナナナなの?」
「七夕(たなばた)って書いて七夕(なな)って読むんスよ。七夕生まれじゃないけど」
 犬は盛大に溜息を吐く。
「なるほどね、ハルナは苗字ね!」
「昨夜はそういう話したと思ったんスけど・・・」
 犬の、榛名の上半身がシャツに覆われていく。佐伯は再び見入ってしまった。カーテンに攫われていった、あの茶金髪の男を思わせる。「友達には何て呼ばれてんの」
「フツーに」
「そのフツーが何かって訊いてるの。じゃあ、なっちゃんでいい?」
 榛名は露骨に嫌と言いたそうに顔を顰めてから、「それでいいス」と答えた。
「なっちゃんはホストやってるの?」
 シャツをスラックスにしまい、スラックスと同じストライプの入ったグレーのジャケットを羽織る。胸ポケットには紅色のハンカチーフ。セットが崩れて寝癖がわずかについた髪は綺麗に茶色に染められている。
「仕事のことは・・・触れないでほしいス」
「ふぅん」
 まぁ興味ないけど、と呟くとまた顰めた顔を向けられる。
「花屋行かない?」
「1人で行ったらいいスよ」
 シャツのボタンを閉め、襟元を正していく。スーツや頭髪からして、ホストだろうか、と佐伯はぼんやり考えた。それにしては口が達者ではない。仕事ではないからか。この男を拾った場所はそういった繁華街に近かった。
「そっか、残念」
「・・・昨日と全然違いますね。よく喋るというか」
 ジャケットのボタンも留め、ポケットに入っていた腕時計を巻いている。
「なっちゃんもでしょ」
 佐伯も立ち上がり、クローゼットへ向かう。サテンのワンピースが掛かったハンガーを手に取ると榛名は佐伯のワンピースを凝視していた。ひらりと誘うように翻る。佐伯のシュミではない柄、形、色、素材。
「それ」
 榛名が口を開いて、だが意識はワンピースに向いたまま。
「何か変だよね。ちょっとシュミじゃないや」
 榛名は佐伯の持つワンピースと佐伯を交互に見ると黙ってしまう。佐伯の意見と同じだったということだろうか。佐伯のシュミではないけれど今はこれを着るしかない。榛名は突然バスローブを脱ぎ始めた佐伯に面食らい、縮こまるように背を向けた。その様子が可愛く思え、佐伯は笑う。
「じゃあ、また会うことがあったらよろしく」
 無難な挨拶をして、それから鍵を持つ。部屋を出ていこうと榛名の脇を通り抜ける佐伯の腕が素早く掴まれ、引き止められる。
「りぼん、よれてる」
 腰部の後ろ側にある紐をボディラインを引き立てられるように結べるのだが、佐伯は背でリボンを結ぶのが苦手だった。佐伯は榛名に困ったカオをして、背を流れる黒髪を胸へ回す。榛名の手がワンピースに伸ばされる。僅かに感じる榛名の体温。一度解かれる、ワンピースと同じ柄をしたリボン。衣擦れの音。それから榛名の声。
「花、分かるといいスね」
 ワンピースが身体にフィットし、抱き締められている気分になった。
「ありがと。・・・そうだね」
 見覚えはある形だ。だが夢の中の物など信用はできない。架空の花である可能性は十分にある。佐伯は少し考えてから、また無難な返事で済ませた。

 水浸しの真っ白い部屋で、あの茶金髪の男が佐伯を見ている。日光かそれとも照明器具か、男の奥の窓は眩しい。カーテンが揺らめき、けれど男の茶金の髪は一本もそよがない。佐伯を見つめ続け、動いてすらいないのではと思うほど。だがゆっくりと瞬き、また開く涼しげな目元。真っ白く小さな、フリルを丸めたような花はカーテンと同じで風に身を任せ、床を浸す水面は波紋を描く。
 誰。同じ問い。佐伯の着ているワンピースの裾が大きく風に煽られた。男はゆっくりと目を瞑りながら口角を上げていく。微笑んでいる。窓から差し込んでいる光が男を抱きながら。別れの時間、佐伯はそう悟って立ち尽くす。茶金髪の男が消えていく。
 誰。消えていくのは男ではなく、部屋ごとで。
「大丈夫スか」
 轟音がいくらかおさまったような音量の中でクリアに聞こえ、揺れ動く暗い空間独特の生温い明るさ。電車に乗っている。座っている。肩を掴まれて、揺れている空間で揺らされている。
「ごめん、寝てた。ごめんごめん」
 席は空いているが、佐伯が座るシートの前の吊皮に掴まって、榛名は佐伯を見下ろした。ホテルを一緒に出た後帰路に着いたが方向がたまたま一緒だった。
「別に、いいスけど」
 目が合うと榛名はすぐに逸らした。
「照れなくていいのに」
「照れてないス」
 夢の男のことなど忘れ、榛名に笑いかける。榛名は怪訝な目を一度寄越すだけだった。
「そんな見ないで」
 気付けば榛名は佐伯を見ている。佐伯というよりは佐伯の着ている黒地に花柄のワンピースを。サテンの生地が独特の光沢を放ち、まるで皺と皺の間に誘い込むようだ。佐伯に言われて榛名は慌てて車窓へ目を移す。トンネルの内壁しか見えないだろう。冗談のつもりだったが真に受けたらしい。従順な犬のようで愛らしい。
「ねぇ」
 話しかけられ、窺うように視線を佐伯に向ける。
「何スか。またくだらないことスか」
 またからかわれるのでは。と警戒を隠せていない表情も愛らしかった。くだらないことなのか佐伯には分からないけれど。
「もう解決できた?」
「何がスか」
 佐伯が真面目な顔つきに変わり、榛名は別の意味で警戒の色を強める。
「あんな捨て犬みたいなカオして!」
 犬の両頬を撫でるような手付きで榛名の首回りを空中で撫で回す。顔に出てしまうタイプなのか、あえて顔に出しているのか、榛名は眉間に皺を寄せながら「大丈夫ス」と言う。大丈夫という顔はしていなかったが、これ以上訊くなと雰囲気が言っている。
「アンタこそ、大丈夫なんスか。吹っ切れた?」
「・・・う~ん、覚えてない!酔ってたのかも」
 屈託のない笑顔を見せる佐伯に榛名は顎を引いて怯む。
「覚えてないんスか」
「あれ?心配してくれてたの?」
 榛名は項垂れる。
「してないスよ。まじで昨夜何してんだろ、オレ」
 呆れと後悔を滲ませている。お互いに気が変で、お互いに沈黙の中
意気投合してラブホテルに行って、その気になることもなく、同じ帰路に着いている。
「まぁ、一夜の過ちってことで」
 榛名が慌てて佐伯の口を塞ぐが遅かった。周りを見回す。誰も榛名も佐伯のことも気にしていない。
「オレ何もしてないスよね、アンタに」
 佐伯は榛名の返事に苦笑する。佐伯にとってラブホテルに恋人でもない者と入ること自体がすでにひとつの過ちだ。
「何もしてない。あ~あ、お腹空いた」
 佐伯は空腹に手を当てて嘆く。榛名がスラックスのポケットに手を入れて掻き回す。ビニールの音がする。音に反応して佐伯の目は春なの手元へ行く。綺麗にラッピングされたお洒落なクッキーが3つほど入っていたが、ポケットにあっただけに少しぼろぼろになっている。
「食うスか」
 小麦色のハート型や円形、猫型のクッキーにパステルカラーのピンクやパープル、ブルーに彩られ、デコレーションされている。白でレースのように細かい部分までアイシングクリームが塗られ、食べ物というよりもファンシーな小物という印象が強い。
「え」
「食わないスか」
 榛名が一瞬だけ困った笑みを浮かべ、下げようとするのを佐伯は止める。まるで本物のクッキーを模した作り物のように思えたが本物らしく、ぽろぽろとクッキーの欠片がラッピングされた袋の端に転がっている。
「いいの?」
「別にいいスけど」
「でも貰い物とかじゃないの?」
 簡素に巻き付けられたゴールドのカラータイが解放を待ち望むように光っている。
「貰い物じゃないスけど」
「じゃ、じゃあ誰かに渡すつもりだったとか?」
 よく出来ているアイシングクッキーだ。誰かへのプレゼントか、誰かからのプレゼントかと、榛名と、榛名とは縁の遠そうなクッキーを見比べた。
「だからアンタに食うかって訊いたじゃないスか」
「・・・ホント?じゃあもらう」
 差し出した手に榛名がラッピングされた袋を落とすように置く。ゴールドのカラータイを丁寧に外していく。作品の一部を取り扱うような心持になりながら胃は逸る。いただきます、と言ってから袋の中に指を入れる。
「もしかしたら少ししょっぱいかもしれないス」
 榛名がぽつりと溢す。ハート型のクッキーを土台にパステルピンクと白にほぼ近い薄紅色で市松模様が描かれ、その上から細字の筆記体で「Beautiful Day」と書かれている。そのクッキーを佐伯は口へ運んだ。
「甘さ控えめだけどクッキーの味しっかりしてて美味しい」
 さく、っという歯が綺麗に入っていく音が小気味よい。小麦の香りとバターの風味が鼻をくぐる。アイシングクリームの味ははっきりとしなかったが、クッキーを強化しているのか僅かに固く感じた。
「少し硬いか・・・」
 榛名は佐伯が食べているクッキーをじっと見つめてまたぼそりと呟いた。口に運ばれていくクッキーを見送るように。
「やっぱ返そうか?」
 榛名に最後のひとつが入った袋を返せば榛名は首を振る。
 猫が座っている形のクッキーにはパステルのパープルのアイシングクリームの上にピンクの花柄が細かく描かれ、アラザン―銀にコーティングされた粒子状の製菓材料―でクッキーの猫型に沿うよう内側を縁取っている佐伯が取ろうとすると猫の首の部分にヒビが入っていたらしく割れてしまった。佐伯はしょんぼりと「割れちゃった」と肩を落とした。腹を満たす目的というだけで作られたわけではないというのが精巧さ、丁寧さで分かった。そのクッキーを愛でながら食べたいと思うだけの余裕はまだ佐伯にもあった。
「ポケットに入れてたスから。味は変わらないと思うんで」
 榛名は肩を落とす佐伯に言う。欠けてしまったクッキーも食べ終える。色は違うが味は同じだ。
「美味しかった!ありがとう」
「別にいいスよ」
 榛名は僅かに口角を上げる。何故クッキーを持っていたのか、佐伯は気にはなったが踏み込むべきでないと訊かないことにした。

 地下から上がると日光が佐伯の着ているサテンのワンピースを照らした。花柄はホテルで見た時よりも鮮やかな色味をしている。隣で歩幅を合せる榛名は暫く佐伯のワンピースに目を眇め、それから俯いた。
「ここでお別れかな」
 榛名が流れのままに進もうとした方角は佐伯の行く方角とは違っていた。榛名が立ち止まり振り返る。日光が眩しいのか、腕を目元に翳しながら。
「悪かったっス、色々と」
 佐伯がホテル代を全額出したことだろうか。だが榛名は大きくはないソファで寝、クッキーをくれた。
「何謝ってんの!じゃあね、またどこかで会ったら!忘れないでよね、なっちゃん」
 ぶっきらぼうな顔面に微妙に困った笑みを浮かべる榛名。その眩さ佐伯も目を眇める。サテンが反射する日光よりも。背を向け去っていく大きな影が小さくなっていく。向日葵のような陽気さはないが鮮やかではないが気丈な花。無骨で強面な美丈夫。佐伯は佐伯の進む道を歩き出す。覚えのないサテンの黒地に花柄のワンピースが視界の端ではためく。佐伯の住んでいるアパート近くの商店街の外れにある花屋へと足が向く。帰省本能に身を委ね、思考停止しているといつの間にかここに寄っていた。何を探していたわけでもない。夢にしては鮮明だった、茶金髪の男が脳裏にちらついた。そう認識しているだけなのかも知れない。派手さはない目鼻立ち、冴えないとまではいかないが端整でもない。鼻梁は通っているが高くはない。唇は形がよく薄い。ただ涼しげな目元が彼の地味さを醸していた。初対面な気がするが間近で見たような記憶も少しずつ現れはじめている。そしてまたいずれ会うのだろう。花屋の中に並ぶショーケースを指でなぞりながらフリルを巻いたような花を探す。珍しい形ではなかった。むしろ種類としてはありふれているような気さえした。
「カーネーション」
 ピンク色に透けた赤い花。色は違うが、佐伯の脳裏に残ったままの真っ白い部屋に咲いていた白い花と同じ形。小ぶりながら装飾的な外見をしている。何かお探しですか。店員が佐伯に声を掛け、佐伯は首を振って店を出る。あの夢の中の男によく似た花。小ぶりで控えめ、地味な印象だがどこか主張の強い。赤にばかり馴染みがあるせいか気付かなかった、白のカーネーション。誰かに伝えたい、佐伯はそう思った。この花の名前、あの花の種類。けれど誰に。宛ても分からない衝動。言える相手など限られている。あの犬だ。だが実在していない誰かが思考を絡め取っていく。
 誰なの。真っ白い部屋を覗く視点が脳裏に広がる。覗かれていることに気付いているらしい、茶金髪の男が佐伯へ微笑みかけている。入っておいで、と言わんばかりの。行かない、行かない。佐伯の視点であるのに、佐伯は自分が首を振ったのだと分かった。微笑みが僅かに揺らいで茶金髪の男は切なく眉を下げた。質素であどけない男は妙に落ち着いた雰囲気で艶を帯びている。
 誰なの。同じ問いは何度目か。男は教えるどころか喋ろうともしない。
 誰、誰、誰。浮かぶ疑問と連動するように雫が佐伯の頬を伝いはじめ、速度を増していく。昨夜は雨で、今朝は晴れていた。季節の変わり目の不安定な空。日光はあるが、佐伯の頬を雨粒が滴っていく。

 真っ白い世界。緑と茶金髪以外は白だけ。影も境界も照りつけ柔く落ちている。女性にしては背が高い佐伯と同じくらいの目線でその男は佐伯を見つめる。白のカーネーションが佐伯と茶金髪の男を祝福するように両脇に咲き誇り、花道を作っている。土のない真っ白な床から生えている。佐伯の踝まで届くほど水浸しになっているのも変わらない。同じ夢ではないが同じ場所。
 誰なの。応えてはくれない。分かっていても訊かずにはいられない。知らない男のはずだが、全く知らないという気にはならなかった。よくある特徴のない顔立ちだからか。茶金髪の男は目を伏せ、ゆっくりと首を振る。だめだよ。男は口を開かなかった。しかし佐伯の脳はその4文字を認識した。
 ダメって何が?誰なの?ここで何してるの?ここはどこ?どれから答えてほしいのかも分からないまま問わずにはいられない。すぐに消えてしまうから。佐伯は気持ちが急いた。
 待って、行かないで、傍に居て。男の前髪が揺れる。顰められたカオは痛みに耐えているようにも思えた。佐伯の意に反して佐伯は手を伸ばす。触れられるのか、という疑問が浮かぶと同時に男の背後の大きな窓から差し込む光が強くなり、網膜を焼き尽くす。

 髪を撫でるような音で目を覚ます。ベッドの上。カーテンの狭間から漏れる光は活気がない。
「誰なの」
 夢の中の男はもういない。冷めた現実に先に戻っていくようだった。だがいない。夢の中で控えめに笑うだけ。また会いたい、そう思った。
 外に出る支度をして佐伯は花屋へと向かう。カットオフデニムに紅色に近いくすんだ赤のカットソー。雨天だがヒールサンダルを選んだ。
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