Lifriend

結局は俗物( ◠‿◠ )

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Lifriend flower 未完結6話(2017年)

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「何、してんスか」
 どれくらいの時間が経ったのか。膝を抱えるように佐伯は公園の入り口付近で蹲っていた。入ってくる者がいたら邪魔な位置だが誰もこの公園を訪れることはなかった。影が落ちる。人の形をしている。榛名の声。地面を見つめていた頭で天を仰ぐ。
「指輪、探してるの」
 榛名の大きく歪んだ眉間。佐伯の目の前に屈み、目線を合わせてから両肩を掴まれる。
「どこまで、」
 榛名が言いかけて、躊躇って、止まる。何を訊ねられているのか分からなかった。指輪の飛距離か。
「どこまで知ってんスか」
 喉にへばりつく物を嚥下したときのように言いきらなかった問いをまた投げる。
「知ってるって、何を」
 求められている答えが分からない。合致する情報がない。視線を泳がせる佐伯の肩を榛名は乱暴に放した。窺うように見れば、榛名は取り乱しているようだった。話に置いていかれたまま首を傾げる。
「ここで、指輪探してただけ、だけど・・・?」
「誰の」
 私の、と口が自然に動き、だが声は出なかった。無意識の返答だったのだろうか、すぐに我に返る。
「さぁ、誰のかな」
「なんで誰のか分からない指輪探してんスか」
 純粋な疑問ではないことは態度で読めた。明確な特定の人物を挙げることを求められている気がした。夢の中の男の指輪。そう答えたらこの男は何と言うのだろう。冗談でないものが冗談になってしまう。佐伯は俯いた。答えの札を持っていない。
「りの」
 そういう風に呼ぶんだ。榛名の声が紡ぐ自身の名。佐伯は背筋をなぞられているのかと錯覚する。呪文。甘い。言わなきゃ、言わなきゃ、と急かされる。
「友達の。古びてるし錆びてるし歪んでたけど、多分大事なんだと思う」
 夢の中の男の指輪だとは、やはり言えなかった。榛名が佐伯の肩にもう一度触れる。もう片方の手が佐伯の頬に触れた。榛名の掌は固い。生温かい手だった。言葉を発すれば離れていってしまいそうで佐伯は榛名の手の上から手を重ねる。瞬間、稲妻が走る。脳裏を両断してインディゴの世界が広がる。インディゴブルーで統一された部屋。インディゴブルーを帯びた薄い色のシーツ。インディゴブルーを帯びた夢の中の男。点けられた照明がインディゴブルーを跳ね除け影を落とす。浅い目鼻立ちは真っ白の服しか身に纏わないあの男で間違いない。手と足と首から上しか露出しないあの男はシーツを巻いて上半身は裸だ。
「友達・・・だと思う」
 夢の中の男。友達。嘘ではないし、嘘かもしれない。少なくとも裸で同衾する間柄を友達の2文字でまとめたことはない。
「いい。何も考えなくて、いいっス」
 佐伯の手を重ねられたまま、榛名が優しく輪郭を辿る。
「大事なモノなんスよね?」
 嘘だ、違う、なんで。喉に貼りついた疑心をそのまま吐き出してしまいそうで佐伯は頷くことしかできなかった。
「大事なモノなら見つけましょう、一緒に」
 榛名の無骨な手が心地良く、離れてしまうのが惜しかった。同時に湧き起こる後ろめたさに何度も何度も頷いて、直後に訪れる空虚感を覚悟した。

 佐伯の投げた場所と見当違いな方向へ飛んだのか、指輪は暗くなるまで探しても結局見つからなかった。すでに地面に落ちる小さな金属を見つけるのは難しい暗さだ。小さく縮まり背を丸める榛名の姿を見つめた。
「ありがとう、なっちゃん、もういいよ」
 飼い主に呼ばれた犬。すぐに反応して首を佐伯の方へ曲げる。愛犬のようで、胸が甘く痺れた。
「でも、まだ」
「もう暗いし。ありがとう、ごめんね。付き合わせちゃって」
 榛名は落ち込んでいるように見えた。佐伯は力なく笑う。親身になってくれている、それが嬉しいと思った。
「オレは、別に・・・」
「なっちゃん」
 ばつが悪そうに俯いて目を泳がせる榛名を呼べば律儀に顔を上げる。
「ありがとう」
 既視感に眩暈がした。暗い中、面と向かって誰かとこうして話した。だがおそらく相手は榛名ではないのだろう。そして放った言葉もおそらく感謝とは違う。叩きつけられて舞う花弁の中で俯き眉間に皺を寄せる男。端整さや端麗さはないけれど色気はある男。白や薄紅の花弁の中で肩を落とす姿。視界の端に映る像を模した滑り台とブランコの囲い。全て一瞬で作られた記憶なのかもしれないけれど。
「大丈夫スか」
 機嫌を窺う犬とほぼ同じ仕草。榛名は上目遣いで佐伯を見て訊ねた。
「大丈夫、本当にありがとう。指輪投げたの、私なのに」
「でも大事なモノ、だったんスよね?」
「本人は捨ててって言ってたけど、大事なモノだと思うんだ。自業自得なんだけど・・・」
 怒るだろうか。それなら何故捨てたのかと。榛名の呆れた声を待つつもりもなく待つけれど、思った言葉も声音も降ってこない。
「気にしないでいいスよ。結局大事なモノなら」
 声音は柔らかい。だが険しい表情をしていた。正反対の男が重なり佐伯は固唾を飲む。探さないで、捨てて、全て忘れて。カラカラとした高めな声。榛名の声ではない。困ったような縋るような気持ちを隠しきれない笑みで覆う、榛名とは似つかない姿が立っている気がした。
 無理だよ、思い出せもしないけど、忘れられないよ。


 いつもの真っ白い部屋。何も変わりはない。まだ数度目だが自宅と似た気分で真っ白い部屋を見渡す。両脇の白のカーネーション。窓の外を見つめる茶金髪の男が佐伯を振り返った。微かな笑みを浮かべて大きく揺れるレースカーテンが茶金髪の男を隠そうとする。
 また来ちゃった。佐伯の意思ではないけれど。風を感じないがレースカーテンはうるさいくさいに茶金髪の男の周りを踊る。大きくはない目をさらに細めて茶金髪の男は緩やかに手を差し出す。何かを見せている。子どものような手。だが男性的な手。生命線が短く、頭脳線が長い。テレビで見た浅い知識。掌に乗せられた金色の小さな輪。指輪だ。きらきらと黄金に輝いている。捻って捩った波線に沿うように埋め込まれた澄んだ石。
 綺麗だね。心臓がキリリ、と痛む。茶金髪の男は微笑みを浮かべながらもう片方の手も差し出した。鼓動の度に胸が締め付けられる。胸元を押さえはじめる佐伯に茶金髪の男の笑みが消え、曇っていく。心配しないで、という思いは届いていないようだ。差し出された掌の中の物をもう少し見ていたくて引っ込められる前に手首ごと掴もうとする。触れた瞬間に何も映さない白さが撹拌する。待って、嫌だ、行かないで。茶金髪の男が消える。薄らいでいく。
 自室だ。天井に腕を上げて、飾り気のない室内で目が覚める。寝ている間に脱いだのか、下着姿だ。寝相が悪かったのか。起き上がりながら雑に掛かっているジャージに着替え、リビングのテーブルに乱雑に置かれた書類を手に取ろうとすると目に入る自身の薬指。昨日探し回って結局見つからなかった、汚い指輪。夢の中の男に見せられた指輪と同じ形状だが。ダイヤモンドもなければ埋め込まれていた形跡もない。歪んでいるせいで指に刺さる。サイズが大きいため歪んで指自体に軽く減り込むことで上手い具合に引っ掛かっている。夢ではなかったというのか。佐伯は指輪を見つめた。そして覚えのない大量の書類を手に取る。自分宛てではなかった。転送届が出されずに前住民の郵便物が届くことがあるという話は聞いたことがある。ここに住んでからはこれが初めてだけれど。
「中村、疾・・・様・・・」
 宛先の字面を目にした途端、後頭部を内部から殴られるような気分がした。読めないと思っていた漢字を自然と口が読む。疾病、疾患、疾風。多く使われる漢字ではあるけれど、佐伯のよく知る読みではないはずだ。
「てっちゃん・・・?」
 連想される呼び方。だが誰に向けていたのか。錆びた指輪が光るのを視界が捉える。光沢を持つ部分はないはずだ。
「てっちゃん?」
 指輪を外す。おそらく男性物で、内側を覗き込む。錆びすぎて歪みもあり字は読みづらいが確かに刻まれている。「H&K」とある。書類の一束を手に取る。捲っていくとフリガナで「ナカムラ ハヤテ 様」と印字された封が入っている。

 好きだよ。
 カラカラとした少し高い声。最近聞いた声か、それとも。
 一緒に将来を歩みたいんだ。
 脳裏で男が笑う。八重歯を見せて。

 繋がりはしないが断片的な光景と記憶。この男の目の前に立っているのは誰なのか。頭を抱えてテーブルに手を着き、滑り落ちて床を這う。この指輪は「中村疾」のもので、夢の中の男は「中村疾」なのか。そしてその「中村疾」に求婚染みたことを言われているのは誰なのか。不本意にもパズルのピースが埋まっていく。だが佐伯にはその記憶がない。
「てっちゃん、てっちゃん、・・・てっちゃん」
 口に馴染み、耳に違和感なく響いていく。指輪は静かに佐伯の掌の中で佇むだけ。夢の中の男が何を示していたのか分からないまま。特別な関係だったということだけ匂うまま、その実感がまるでない。
 ピンポーンという耳触りな心臓に優しくない高い音が室内に響き渡る。何の根拠もなかった。だが佐伯は玄関へ急ぐ。“てっちゃん”が帰ってきたのだ。そう思った。
「“はやて”」
 ドアを勢いよく開ける。ドアの前に人が立っていることなど忘れて。取り憑かれたように。満面の笑みと上擦った声で。“てっちゃん”が誰で、どういう関係かも分からないのに。訪問者は思っていた人物ではなかった。勢いよく開くドアに驚きながら一歩下がる、背の高い男。榛名だ。途端に頭が冴えはじめる。昨日どう帰宅した?下着姿で寝たか?脱いだ寝間着は?どうして榛名がここを知っている?浮かび始める疑問と頭部に纏わりつくような重み。それから妙な衝動が駆け上がり、やりすごせば視界がチカチカと点滅しはじめる。一気に頭が軽くなり、浮遊感にバランスがとれなくなりそうだ。玄関の壁に手をついて爪を立てる。佐伯が突然立ち眩みを起こしたのかと榛名は顔を曇らせている。鼻腔を擽る清涼感のあるスパイシーさを帯びたわずかな甘さを残す香りが内側から佐伯を殴りつける。漠然とした何かを身体が求めている。それが何か佐伯にも分からない。壁に爪を立て、五指に力が篭っていく。
「大、丈夫スか」
 榛名の手が伸ばされて、節くれだった指と骨と血管の浮かぶ手の甲が目に入る。噛み付きたい、という明確な欲求を自覚するのはほんの一瞬。衝動が理性を塗り潰していく。榛名へ制止の言葉を掛けようとする理性も例外なく。ぱたん、という榛名が閉めた玄関のドアの音が衝動が勝った短すぎるファンファーレ。
「痛ッ」
 目の前に成った果実に齧りつくことと大差がなかった。相手が人と映らずに佐伯は榛名の首筋へ迷いなく歯を突き立てる。そういった性癖や習慣はなかった。何の考えも企みもない、初めての衝動。ごく自然に榛名の皮膚を破る。背が高いことが幼少期からの佐伯のコンプレックスだった。だが玄関の段差を借り、さらには流れのまま膝を僅かに折った体勢の榛名には丁度良い高さで歯が届く。抗うこともせず榛名は倒れていく。佐伯を押し倒すかたちで。榛名の背に腕を回す。お互いの鼓動が分かりそうなくらいに密着した。温度のある固い胸板に自身の胸を当てていくと、安堵感に包まれた。布越しに筋肉が押し返してくるようだった。
「りっちゃん」
 背骨を緩く電流が走るような感覚がした。もうすぐで空になるパックのストローを吸い上げていくのに似た音が玄関に響く。榛名の背に爪を立ててしがみつく。榛名は佐伯の脇に肘をつき、身体は硬直していた。左手の薬指に嵌めたままのサイズの合わない指輪が圧迫して疼く。

 ふざけないでよ、どういうつもり!?
 夜の公園で叫んだ。持っていた、否、持たされていた花束を面と向かう男に振りかぶる。
 やましいことなんてないだろ?
 嫌味たっぷりに笑みを浮かべる男は花束をぶつけられ花弁の雨の中にいる。
 いつもそうやって知った気になって!
 何度も何度も花束は男へぶつかっていく。外灯が頼りなく照らすだけの公園だった。
 少しの間。少しの間だけだから。
 弱ったなぁというカオをして、ふざけた調子がわずかに揺らぐ。
 帰ってきた時、捨ててやる。
 困ったカオが何より好きだと思った。次はどれくらいの酷い言葉を吐こうかと思案して、それから男は僅かに口角を上げる。少し悲しさを露わにして。
 いいよ、それでも。

 じゃあもう行くから、戸締りは気を付けて。熱い男の腕の中で佐伯は我に返る。清涼感のある香りが鼻を通り抜けた。佐伯の身体に榛名が覆い被さっているが榛名の背に手を回して上体を浮かせているのは佐伯の方で。床に背をつけ榛名を見ると目が合い、お互いに顔から火が吹く。2人でラブホテルに入った時には全くといっていいほどなかった羞恥心。榛名は跳ねるように起き上がって顔を押さえる。
「“てっちゃん”に悪い」
 
 乱暴に開かれた玄関扉が大きな音を立てて閉じられる。榛名が出ていった、そう気付くのに時間がかかった。次から次へと湧く疑問は積もるばかりで解消されはしない。

 くだらねぇコトしてねーで、明るくいこうぜ。
 黒髪の男が笑う。髪色こそ違うが薄く形の良い唇から窺える八重歯や涼しげな目元は夢の中に現れる男と瓜二つ。
 他の女に惚れるようなヤツなんてお前から捨ててやれ。
 自身に満ちた粗末な男。何をしても小柄なせいで決まらない残念な男。
 いじめなんてカッコ悪ぃって。
 陰湿さがない、だが少し嫌味っぽい喋り方。幼さが残ってしまう笑顔で全て繕われて。
 だから、おれと付き合わない?
 暫くヒールは履けないな、などと他人事のように思って。
 ははっマジでフッたんだ。
 あまり驚く様子はなかった。夕暮れに照らされた特に端麗さもない横顔。通ってはいるが高くはない鼻梁が橙に染まり、浅い目元にも僅かながらに陰が落ちている。
 じゃあ付き合っちゃうか。
 平凡な、よくいる特徴のない顔。口を開けばよく見える八重歯だけがチャームポイント。どこにでもいる男。男子A。同級生B。それだけの存在。日常に何の加味されない。
 なんつって。おれ夢あるから、今はそれで精一杯。
 いつもふざけて軽口を叩いて、それでも人を集める。輝いた存在。

 映画のDVDの再生ボタンを押して一時停止にする、そのように佐伯の中の光景も途切れた。夢に現れる男とは真逆の雰囲気で同じ顔が、佐伯に語りかけていた。榛名が立っていた玄関を呆然と見つめ、意識は全く違うところにある。
高校時代だ。だが高校生活は思い出せるが夢の中の男のことが思い出せない。左手の薬指に嵌まめた指輪が再び疼いた。早く追えよ、あの男の声が耳の奥で響いた気がした。


「ここにいたの」
 アパートの花壇に大きな図体のいじけた子どもが座っている。項垂れながら気不味そうに佐伯を一瞥した。隣に座ろうとしてやめる。
「あそこは“てっちゃん”の家ス」
 項垂れたままの榛名の首には赤い点があり、シャツの襟も寄れている。
「うん」
「そこにアンタがいる意味、分かるスか」
 力の無い声。生命力溢れる豪胆な外見の男が出す声とは思えなかった。
「送ってくれたんでしょ、重かったね、ごめんね」
「そういうことじゃ、なくて」
「同居してたんだ、私」
 榛名が小さく頷いた。
「本当は許されないスよ、こんなコト。でも仕方ないんス」
 榛名の無骨な指が繊細な動きで佐伯がつけた2点の赤をなぞる。
「何も訊かないで。全部、仕方ないんス」
 まるで他人がやったものとして佐伯は榛名の指先を凝視していた。自分が刻んだものだという実感がなかった。
「忘れてください。お互いなかったことにしましょう」
 苦しそうに言う榛名に佐伯は努めて優しく名を呼んだ。だが頭を振ったまま顔を上げない。
「私は“てっちゃん”のこと、覚えてない」
 聞きたくない。言うな。耳を塞いで、さらに強く榛名は首を振る。
「だからやましいことなんてない」
 やっと上げた榛名の目は悲痛なものが込められていた。だが佐伯の意思は揺らがない。
「りっちゃん」
 榛名が呼ぶと、胸が弾む。呼ばれ方のせいか、優しい声音。でがそれは牽制を含んでいる。
「“てっちゃん”はオレの恩人なんス。裏切れない。でも、仕方ないんス」
 強い眼差しと強い口調。佐伯の理想がそこにいる。
「だから傍にいる。アンタの傍に」
 唾を飲むことしか出来なかった。逸らすことを許しているが、させるつもりのない茶に光る双眸にそのまま灼かれていくようだった。
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