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家畜に芳名を捧げる 年下攻/攻×攻/疑似家族/人格矯正

家畜に芳名を捧げる 4

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 世話になった人からの紹介ではどうしようもないと娘は説明した。父親が失業の憂目に遭っているのでは仕方がないと。
「それはまた大変…でスね」
 娘は緊張した様子だった。似合わない。あの医者が自身の前で緊張など。
「外歩かない…歩きまセン?辛気臭さが服に移る」
 娘は驚いた顔をしたがすぐに強気な顔に戻って頷き、慣れた様子でエントランスまで歩くと街も確かな足取りで進んでいった。
「昨日は、どうもっした」
 いいよ、別に。ここの人なの?
 クレイズは首を振る。すっかり昨日と同じ雰囲気に戻っていた。娘は水都に住んでいるらしかった。そしてこの街で働いていると話した。
 今日はお弁当届けに来る日だったんだけど、もうそれもないのかな。
 娘は暗い顔をしたがすぐに笑う。指には婚約の指輪が嵌っていた。ぎょっとした。あの医者にそのような人はいなかった。慌てて目を逸らす。
「大変すね」
 あたしは大変じゃないよ。ちょっと今日のは怖かったけど。お父さん、大丈夫かな。気の弱い人だから、職場の人にいじめられちゃったのかも。
「酷い人がいるもん…デ、すネ…」
 出来ることなら、あたしがぎゃふんと言わせたいけど。雇い主、あたしの恩人だからさ、迷惑かけられないよ。
 娘と街を散策する。何もかもが違って見えた。声も話し方も似ている。フィールカントに会わせればきっと目が覚める。指に嵌ったリングが邪魔だった。装飾品にしては地味だ。
「恋人いるん、デ、すか…」
 娘は驚いた顔をして目元をほんのり赤く染めた。
 軽蔑した?恋人いるのに、身売りとか…知ってるはずなのに…
「え…?、いや、訳ありなら、まぁ…仕方ないんじゃない、でスカ」
 目が泳ぐ。
 もうすぐ結婚するんだ、今は無理だけど…その時にお父さんに立派な服着せたいし、立派なドレス見せてあげたいから。
 父親。クレイズは黙った。街の入り口で話を合わせて彼女を帰す。抱いたことにしてしまえばいい。若い女を寄越せという旨は確かに言ったがあの娘は抱けない。抱く抱かないという概念を持つことさえ大きな誤りだ。先生…。手を伸ばす。遠くなっていく白い上着。白衣。はためくロングスカート。あの医者はペンシルスカートだった。実の母の幸せに、自身という存在そのものが、時折影を落とす幸福として貢献したつもりはある。だがあの母代わりには何も出来なかったところか、死の要因になってしまった。遠く視線の先で娘がバスに乗る。行ってしまう。置いて行かれたのか、置いて行ったのか分からず、ぽたぽたと白い砂が小さく跳ねた。


 娘と別れた後すぐに邸宅まで戻ろうとして長く緩やかな階段まで戻れず、結局邸内の使用人の半分が捜索に駆り出され、邸宅に帰れたのは夕方になっていた。エミスフィロは無駄にオブジェにこだわった知事本局にいるらしくフィールカントも不在らしかった。不要な報告を受けながら部屋へと戻る。フィールカントの部屋の前を通って、物音に足を止めた。喘ぎとも叫びとも悲鳴にも似た音がする。寝呆けていたと信じていたかった夜に聞いたものとは違う。フィールカントは不在だと言っていたはずだ。空き巣か。扉を開ける。音が…声がはっきりと耳を劈いた。
「…ぐっぅ、…あア、ぁ…っ」
 ベッドの上に銀髪の男が寝ていた。半裸だ。近寄った。身体にコードを繋がりスタンドに下げられた袋の中で透明な液体が雫を垂らしている。
「ぅ、ぐ…く…ぁア……が、ァ、」
 右目に濡れたタオルを掛けられ、ベッドサイドチェストの上の銀皿には眼球が転がっている。タオルに覆われた右目を見た。呻きは荒い息へと変わっていく。鼻腔から左右に分かれて流れていた二筋の血が量を増し、頬を伝い、耳の下を通って枕を汚す。汗に照る額。再び喉が擦り切れるような慟哭を上げ、機械が嘲るような静かさで断続的な音を立てている。口の端にパイプを咥え、叫ぶたびに唾液が滴った。何をしている?クレイズの呼吸が乱れた。視界に小さく、唾が飛ぶような軽快さで赤が噴いた。唇から顎が冷たくなる。鼻血だ。まるで伝染するかのように。見てはいけないものだった。おそらくあの夜の睦事よりも、ずっと。頭の中が真っ白だ。何をしている。鼻血を拭いながらふらふらと歩いた。クレイズを視にきて、不在だったために引き返してきたらしい使用人に、倒れそうな身体を支えられた。いかがなされました。腹減って立ち眩んだだけ。大至急食事をお持ちします。クレイズは首を振った。部屋の前に運ばれているすでに冷えているだろう昼食のワゴンが見えた。それで十分だった。代わりに邸専属の医者を呼ぶよう遣わした。そしてワゴンを室内に引き込んだ。腹は減ったが、フィールカントの姿が脳裏に焼き付いて食欲が湧かない。数分で慌ただしい音を立てて医者が到着した。クレイズをすぐさま診ようと急いている。
「オレじゃなくて、あの、フィルク…フィールカントのことなんですけど」
 医者は握っていた聴診器を落とす。助手らしき者を振り返って、開けっ放しだった扉を閉めさせる。何が訊きたい、と言った風な目をして、だが無駄なことは口にしないといった強固さも醸した。クレイズは手汗を握る。
「なんか重大な病気とか、ですか」
 鼓動がいつもと違う音がして、胸が痛んだ。発作だ。痛みに喘鳴する。医者の肥えた手が聴診器をまた掴んだ。助手に回り込まれ衣服を上げられた。胸が痙攣する。肋骨が軋む。内側から貫かれるような痛みが2度3度襲った。遠のきそうな意識の中で、懐かしいというほどではないが、長い間感じなかったゴムの感触に繋ぎ止められる。助手に支えられながらベッドに座らされ、横になった。
「フィールカントは大丈夫なんですか、あれは」
 医者は頷いた。大して考えた様子もなく簡単なその仕草は信じられなかった。あれは誰の犬だ。クレイズは医者を凝視する。エミスフィロの許しなく説明は出来ないと、医者は言った。あと少しで薬が出来ること、今の段階では何も処方出来ないこと、安静にすることを告げ、鼻血の処置をしてから医者たちは帰っていく。ベッドに座って真っ白になった頭のままエミスフィロの帰宅を待った。どういうことだ。何故。エミスフィロをこのまま信じていいのか。待てない。何時に帰ってくる!
 エントランスでエミスフィロを真っ先に待ち構える執事に、知事本局まで送るよう要求したが、エミスフィロに連絡を取ると言うだけだった。焦れた。今すぐに動かなければ気が済まなかった。知事本局に停まるバスがあったはずだ。エントランスを飛び出した。そのバス停がある道まで、あの娘と歩いたというのにすぐに辿り着けなかった。感じるがままに歩いた。低地にあり、海沿いだ。家々の脇を通って、海を探す。負犬のあの様はなんだ。右目はどうした。何故妙な機械に繋がれている。見えてこない道路。浮かんでは消えない疑問。膝が段々と意志を無くす。立ち止まった。何故誰も何も言わない。教えてくれはしない。知る必要のない人間だから。いずれ死ぬ人間の中でも、特に長くない人間だから。死ぬのだ。あの負犬のことを知ってどうする。この胸の様子なら、あの負犬がどれだけの大病でも先に死ぬのは。また溢れた鼻血がぼたぼたと砂利を固めた。頭がきりりと痛み、感覚でもうすぐ雨が降ると思った。足元に何か纏わりついて、スラックスに白い毛がついた。ヒヤァ、と白い猫が身体を擦り付けていた。薄まった墨汁を数滴飛ばしたような模様をしていた。死ぬ。死ぬんだ。触れようとすると逃げられた。地に撒かれた白い砂がクレイズの鼻血以外のものが滴って、肌を弱く打つ。雨だ。体温を下げると胸が痛む。どこか軒を見つけねばならなかった。もうすぐ死ぬのだと考えると雨に打たれることなど些末なことに思えた。風邪を引こうが贄になることに変わりはない。母のように風邪に体力を持っていかれるほどまだ弱ってはいない。だが母より何倍も進行が速いというのは口酸っぱく言われていたことだった。ベランダに干しっ放しだった洗濯物を取り込む婦人と目が合った。顔を逸らして歩く。何をするつもりだったのか忘れてしまった。段々と雨足が強まり、ある程度までの勢いを保つ。生温かい雨だった。進むにせよ戻るにせよ道はもう分からない。すぐ止むのではないかと思ったが、緩やかに長引くようだ。どうしてこうも分かりづらい地形なのか。服の色を変え、鼻血を洗われていく。歩き続け、広場まで出るとやっと舗装道路が見えた。バスの停留所に着いたバスへ乗り込む者たちを眺めて立ち尽くす。どこへ行くつもりだったのか。知事本局。何のために。何のためだっただろう。誰かを気にしていただろう。誰だったか。そうだ、負犬だ。だがもう必要ない。必要のない情報だ。要らない。もうすぐ死ぬ人間が知ることではない。だから言わないのだ。あれだけ近くにいながら。雨水を弾き、池ができているモニュメントの台座に掘られた腰掛けに座る。下着まで染み込んだが下着も濡れている。何を焦る必要があった。忙しく前髪や顎から水が滴り落ち、薄く血が混じる。咳込むと、鼻血が勢いを増した。衝撃が胸に伝わり、鋭い痛みに息を忘れる。母さん。先生。父さん。耳鳴りがする。深く息を吐く。先程とは反対方面へ向かうバス停留所にバスが到着する。重くなった身体で今度は舗装道路とは逆の高地を目指す。邸宅に帰る気になった。いつも通りでいい。何も知らなかった、何も見なかった。もうすぐ死ぬ。全てが無関係のものになる。この身を贄にしたところで何が救われるのだろう。あの負犬の妙な状態がどうにかなるのか。父の息子がいた事実は消せるのか。思ったよりも小さな命だ。道に迷いながら、雨水を拭う。
 陽が落ちるまで住宅地の外れの塀から伸びたレモンの葉の下にいた。少し疲れてしまった。傘を差して歩く住人たちの訝しんだ目を浴びながら、体温が雨に慣れきていた。水都に住む人間もこの街に住む人間もよく迷わないものだ。迷いながら帰宅しているのか。同じような建築物が並んでいる。
「何か用がおありだったようだが」
「ぅっわ!びっくりした」
 背後から足音もなく肩を掴まれ、クレイズの身体が跳ねた。それが契機となって咳込んだ。濡れた服越しに背中を硬い掌が摩る。
「やはり重度の方向音痴でいらっしゃるようだ」
「あの変な力使ったわけ」
 エミスフィロは無言だ。自身から離して傘にクレイズを入れたが、クレイズは突き返した。
「身を蝕むとかなんとかなんじゃないの。やめとけよ」
「ご心配をいただき感謝いたす」
「州知事に健康問題あるのさすがにヤバいよ。ホモで電波で不健康とか、さすがにヤバい」
 ふむ。エミスフィロは話を聞いているのかいないのか、傘を見上げてからクレイズを見た。
「これで問題はありませんな」
 失礼と断りを入れ、拒否を聞き入れる隙間なくエミスフィロはクレイズを抱き上げる。
「ちょっと!」
「クレイズ氏がおっしゃるところの"変な力"は使っていないのでご安心なされよ。今後とも、その分貴方を見つけるのが遅くなる。今日のように」
 カーブを描いたタイルの坂を上がっていく。外壁に沿う雨水の川に逆らった。
「あのさ、昼に来た女。あんた見る目ない」
 クレイズは痩せ型で小柄だったがそれでも人並みの体重はある。それを感じさせないほど軽快な足取りだった。
「ご所望通りにいたしたつもりだったが、至らず申し訳ない」
 ほぼ無意味な雨宿りをしていた好き放題伸びたレモンの樹が遠くなっていく。
「私は貴方とどのような別れ方をしても、貴方のことを1人の人間として知りたい、そして私を知っていただきたい」
「急に、何」
 エミスフィロに抱え直される。邸宅が見えてきた。敷地内は騒々しかった。メイドや使用人や執事たちが散らばっている。エミスフィロの帰宅に青褪めていたがその腕の中に安堵していた。エミスフィロは傘を預けてクレイズを抱えたまま大浴場へと向かった。抵抗を試みるが放される気配はない。湯気に包まれる。
「身体が冷えておいでだ。十分温まりなされ」
「いいんだよ、オレは」
 無表情が遠い目をして、忙しなく泳ぐ。戸惑っているらしかった。
「何故」
「あんたのほうが養生したほうがいいでしょ、公人なんだから」
 あどけない空色の瞳は虚空ばかり映すがそこに確かに感情はあった。
「では私もご一緒する」
「部屋でシャワー借りるからいいよ」
 自室の浴室を使うつもりで戻ろうとしたが、脱衣所の扉の前に立ち塞がられた。
「そのずぶ濡れの格好で寝てしまわれないか心配だ」
「あんたオレのことなんだと思ってんの」
 エミスフィロはじっとクレイズの双眸を捉えて離さない。
「いきなり体温上げると心臓痛くすんだよ、分かる?いきなり風呂場でぽっくり死んじまう老人と同じかそれ以上の地雷抱えてんのこっちは」
 胸を張って摩る。無表情の中に、穏やかさを漂わせエミスフィロはクレイズを抱き締める。
「よく言ってくださった。嬉しく思う」
 本当に薄気味悪い男だと思った。あの弱った身体はこういった頓珍漢とんちんかんな包容力に落ちていかねばならなかったのだろうか。思ったほどには利己的一直線な嫌な奴というわけではなさそうだ。ただソリが合わない。茶髪がクレイズの肩で揺れた。
「放せ。ホモと一緒に風呂入れるかよ」
 だが不思議とエミスフィロから危ないものは感じられなかった。濡れた衣類を脱いでいく。
「ご安心なされよ。クレイズ氏は大事な賓客。間違えてもそのような対象には含まれない。…むしろフィルクさんが特別なのだ」
 フィールカントの話をされると、どのような顔をしていいのか分からなくなった。知らない。何も見ていない。大浴場に足を踏み入れる。
「あ、そ」
「貴方の許しを得られないのが…心苦しい」
 エミスフィロは立ち尽くしていた。構わずクレイズは爪先にシャワーの湯を当てて少しずつ身体に温度を慣らしていく。
「ダメって言ったらオレの死んだ後によろしくやるわけ?」
 それとも今すぐ繋がりたい?エミスフィロはまた幼い眼差しでクレイズを覗き込む。繋がるとは何かを問うてきそうな、そういう拙さがある。そもそも許しとは何か。エミスフィロとフィールカントがどうなろうが勝手だ。突き放した。そこにあるのは2人の男の親密な関係で、クレイズの感情がそこに付随するだけだ。許しも何もない。関係を放り投げたばかりだ。
「貴方は寂しいお方だ」
「何とでも」
 うるせぇ、と思った。母や父、キュリンドラのことを否定された気がした。だが言ってどうする。この男にそういう主張はもう要らない。
 シャワーを少しずつ下半身に慣れさせてから上半身に当てた。エミスフィロは鍛えられて引き締まった肉体をしていたが、クレイズの横で落胆しているのか縮こまっているような、自信のなさそうな姿を呈していた。適当な流れ作業で浴槽には浸からず水気を払って、腰にタオルを巻き大浴場を出る。待ち構えていたメイドにバスローブを着せられた。部屋はこちらです、と案内付きだったので助かった。フィールカントの部屋の前は静かだった。メイドにこの部屋はうるさくないかと訊くとうるさくはないと答えた。メイドに問うたのは間違いだった。仮にうるさくてもうるさいですとは言わないだろう。何も見ていない。何も知らない。もう会えなくなっても、その時期が早まっただけだ。形を変えて。

 夕食が運ばれる頃に高熱が出た。少し無茶をした自覚はある。夕食のワゴンを室内に引き入れ、鍵とチェーンを付けベッドに潜った。父と釣りに行く夢。隣にいた父が消えて目が覚める。また空間が歪む眠気に囚われ、母に本を読んでもらう夢。母の声が聞こえなくなって目が覚める。ただの夢だった。だが思い出にある。父と釣りに行った。母からよく本を読んでもらった。また眠る。布団の外が騒がしかったが起きる気力が無かった。汗ばんだ寝間着の不快感も全て倦怠感とも睡魔ともいえない汚泥に丸ごと呑まれる。胃が軋んだ。胸が痛い。肋骨が圧迫されているようだった。測定器に乗る夢を見た。病衣に身を包んでるいつもと変わらない長くもないそれでも穏やかだった日常が一変するなど知らずに。湿気った布団がさらに湿気を帯びた。
 部屋の奥で物音がする。聞こえはしたが意識はしなかった。足音と金具の音。布団を触られて、やっと意識が浮上したが曖昧で朦朧としていた。冷たい手が額や首に触れる。身体を転がされて膝の裏に質量のあるものが通っていく。背を支える軟らかくも芯のあるもの。冷気に包まれて、控えめな話し声がした。クレイズは呻いた。うるさい、寒い、寝心地がいい悪い。少し揺さぶられてからまた柔らかなベッドに移された。湿気っていないシーツに湿気っていない布団で挟まれる。額に冷感ジェルシートを貼られ、寝返りをうつ。頭痛に眉を寄せた。寒さに身を捩りながら動くと腹に逞しい腕が回り、引き戻される。父さん?クレイズは腹に回った腕に触れた。父はあまり逞しい腕はしていなかった。腕が抜かれていく。行かないで。汗ばんだ掌で引き止める。
「クレイズ」
 耳鳴りと歪んだ聴覚の中で名を呼ばれる。行かないで。父さん、行かないで。抗議に呻く。母さんと先生がいるから、しっかり……ごめんな、帰りたいよな。病院で暮らさなければならないと決まった日に父は困った顔をした。残酷な喜びと、その残酷な喜びを否定したい父への罪悪感でよく分からなくなった。父が本心に気付き、口にしただけで十分だったというのに、その時は父を恨んだ。理屈で片付けられない感情と現実に。ごめん。わがまま言ってごめん。1人にしちゃってごめん。先に死んじゃうけどごめん。
あの日に詫びたいかったが黙っておかなければならなかったことが溢れる。目元を拭われて、少し落ち着いた。
『貴方も寝なければ』
 耳鳴りの奥で小さな会話が聞こえた。しかし歪んでいる。離れていった腕。また意識が沈んでいく。そうだよ、父さんも、寝なきゃ。塗り潰されていく。
『しかしクレイズの容態があまり良くない…』
『私が看ています』
 クレイズの隣のベッドに座るフィールカントへ、タオルや水の入った瓶を持ってきたエミスフィロが小声で話しかける。
『クレイズの面倒は俺が看る。貴方こそ忙しいだろう』
『フィルクさん、君の身が心配なのです』
 クレイズの眠るベッドのサイドチェストの上にタオルと冷水の入った瓶、替えの寝間着を置くとフィールカントの前に跪く。右目の眼帯を見上げて手の甲に唇を落とした。
『同情なさるな…!保護者失格だ…!』
『ならば、私が彼の保護者になります。それでも君は私の傍にいてくださりますか』
 左目がエミスフィロを頼る。
『君は弱っている、今。心身共に。この2つは意外にも繋がっている。どちらだろうね、君を弱らせているのは』
 噛み締めた唇を塞いで、抵抗する手をエミスフィロは掴み、掌を合わせて指を絡める。フィールカントの一瞬の隙に差し込まれた舌が口腔を荒らす。クレイズが寝返りをうった音にフィールカントの身体は強張った。
『…ぅ、ん…ッ』
 寝息と、深く濃いキスの絡まり混ざり合う水の音が部屋に響く。クレイズを看病するために新しく借りた部屋だった。部屋から呻き声が聞こえる、様子が変だ、鍵を外したがチェーンが外れないと報告を受け、窓を壊して連れて来た。
『ふ………ぅ、く…ァ、ァぁ…』
 ベッドにゆっくりと寝かせ、隅から隅までフィールカントの口内を味わう。銀髪を梳き、耳の裏を撫でると小さく身を震わせた。舌が縺れ合い、互いに思考が掠め取られる。
『ぅ…ッ、ン……は、…ぁっ』
『…ぅ、ッん、』
 保護対象のまえで、養子の前で何をしているのかと片隅で思いながら。フィールカントの喉仏がくっと動いて、それでも嚥下しきれない混ざり合った唾液が口角を滴る。
「と…さ……父さん…、お父さん…?」
 クレイズが目を擦りながら身を起こす。エミスフィロは突き飛ばされた。瞬発的に跳び起きたフィールカントは寝呆けているクレイズの前に立つ。冷水をグラスに注ぐ。水の音にクレイズの虚ろな瞳と困惑した表情がわずかに和らいだ。
「クレイズ、飲めるか」
 グラスを差し出すとクレイズは余程喉が渇いていたらしく勢いよくグラスを傾ける。顔を掌で覆って、その仕草は幼子同然だった。
「ふぃるく」
「腹減ったか」
 汗ばんだ生温い手がフィールカントに伸ばされ、応えて身を屈める。右目の眼帯を触られ、普段は不機嫌だけを湛えた端整な顔が己の失態に気付いたらしく、唖然とした。
「クレイズ氏、着替えてからお休みになられよ」
 クレイズを後ろから抱き竦めて抱え上げながらフィールカントを視界から外させる。寝間着の前を外し、乾いたタオルで肌を拭く。抗議の唸り声を上げられたがエミスフィロは構わず着替えさせる。
「あたま、いたい」
 温かくなった冷感ジェルシートを剥がしシーツに落とす。頭を押さえてクレイズはぼやいた。通常の頭痛薬は使えなかった。
「すぐに氷枕をお作りいたす」
 上半身を裸にしたままだったが新しく冷感ジェルシートを開けて、部屋の前に待機している使用人に氷枕を要求した。
「ふぃるく~、どこだ~ふぃるく~」
 緩いインナーを被りながらフィールカントを探してクレイズは頭を左右に回す。酔っ払っているようだった。
「ここだ」
 インナーを着るのを手伝いながら目の前に腰を下ろす。クレイズは頭痛に眉根を寄せながらフィールカントをじっと見つめる。
「ばかたれ、おまえ~」
 エミスフィロが戻ってきて、フィールカントと入れ替わる。
「クレイズ氏、何か召し上がるか」
「ううん、たべない」
 目を擦りながら首を振る。
「夕食も召し上がっていないご様子。りんごか、何か果物だけでも…」
「俺が取ってこよう」
 フィールカントがそう言って退室していく。入れ替わるように氷枕が届いた。
「彼のことをお訊きになりたかったそうだな」
「…もう話行ってんだ?」
 冷たい後頭部にほっと息を吐く。
「いずれは私の口からだけでもお話しせねばとは思っていた」
「そんなこと言って、オレが口無しになるの待ってたんじゃないの」
 冷感ジェルシートの上から額に腕を当てる。
「明日天下の州知事殿が風邪っぴきじゃ困るだろ。大したことじゃないし、さっさとあの負犬と同衾でもしてろよ」
 エミスフィロに顔を覗き込まれる。同衾とは何かを問われそうだった。そこに含まれるニュアンスを。
「州知事であるべきか、1人の男であるべきか時々迷う」
「州知事であるべきだろ、どう考えても」
「先の国の先導者たちは迷われたことだろうな」
 寝返りをうってつまらない男に背を向ける。
「自分らじゃ何も出来ない非力なバカ民衆を嘲笑って自分の行きたい道生きてもいいんじゃないの、どうしてもあの負犬とよろしくやりたいなら」
 エミスフィロは、おお、と恐縮した嘆声を上げる。
「州知事としてなら、私は貴方の命を頂戴したい。だが1人の男としてなら、」
「やめとけ、やめとけ。つまらない。うそ寒いし、胡散臭い。オレがいなくなったら、あれとはまた新しい関係築けばいいだろ」
「クレイズ氏」
「うるさい寝かせろ。口煩い馬鹿犬もさっさと抱き潰して寝かせとけ」
 エミスフィロは黙った。あどけない空色にクレイズを映す。苦手だ。虚空の淡いブルーは清澄な空気感を持っているがどこか後ろ暗い。
「おおせのままに」
 クレイズはふん、と鼻を鳴らした。フィールカントが皮の剥きおわったりんごを乗せた皿を持って戻ってきた。クレイズのベッドサイドチェストに置く。あれこれとまた言われるのが面倒になって寝たふりをする。
『やはりここで寝られるか』
『ああ。クレイズの傍にいる』
『なるほど。ではこちらで』
 クレイズは瞠目する。何をこちらでするのだ。
『うっ……ン、んん、…っふ、』
 くぐもった声が聞こえた。2人の仲を知ってしまった夜に聞いたものと同じだ。
『な…、知事殿…クレ…いず…が………ぁ、ぅ…』
『看病も君の身体も私にお委ねください。夢もみず悩みもせず眠りなさいませ』
 唇が吸い付く音が幾度かした。クレイズは布団を被る。体温が上がった。熱とは違う頭痛がする。
『ぁ…っ、あ、……っく、!』
『君はいつも声を我慢なさいますね』
 エミスフィロはフィールカントの髪を撫で、衣類を脱がしにかかる。抵抗されたがその手を掴んだ。
『君が寝ていないのではないかと彼が心配なさっていました』
『何も、こんな……ぁっ』
 露わになった素肌で色付く肉粒に触れると熱い息が漏れる。
『この前のように、ここだけで達しますか』
『ぃ……や…め、ァ、ん…』
 ベッドが軋み、シーッと無気音がした。スプリングと木材の小さな悲鳴が止む。
『何も考えてはいけない。眠ること、快感を享受することだけ考えなさいまし』
 胸を集中的に愛撫されフィールカントははだけた肌を引攣らせた。片方は直接舐められ、片方は布越しに指でくすぐられる。
『ぁ……ぅう…、ぐ…』
『君は素敵なお人だ。私にはとても眩しい』
 キスと胸への愛撫で反応している両脚の間をエミスフィロの手が優しく覆う。
『ふ、…ぅ、や…め……ろ、クレ………イズが……は、ぁ、ぁあっ…!』
『お忘れなさい、今は。彼のことも、私のことも、自分のことでさえ』
 摩るたび固くなるそこをさらに摩っていく。湿気を帯びはじめて、履いているものの前を寛げた。
『あ…、なに……やめ…、』
 目覚めた茎が震えて涙を光らせる。触らずにいてもひくひくと小さく小刻みに揺れる。真っ赤になった顔と潤んだ片目がエミスフィロを見た。眼帯の上に口付ける。
『魅入ってしまいました』
 耳元で言い残してから下半身へ辿っていく。薄い唇を舐めてから、口内へ受け入れいく。引き締まった細い腰が大きく波を打った。先端部の蜜を舐めとる。茶髪をフィールカントの手が押した。内腿が強張り弛緩しを繰り返す。喉奥まで迎え入れて頭を動かす。
『ひ……ぁ、』
 ぎらついたスカイブルーの瞳が泣きそうな声を上げるフィールカントを眺める。水音が響く。消えた寝息。唇を窄め、内膜と舌を使って扱く。喉奥までぐっと押し込む。隣のベッドから布が大きく擦れる音がした。茶髪を掴んでいた手に力が入り、さらに喉奥深くまで挿入される。銀の下生えが鼻先に当たった。喉仏までの皮膚が隆起し、吐気が込み上げる。エミスフィロの瞳に水の膜が張る。腹部を絞り、細く隙間から息を吐く。後頭部を掴む手が振動している。
『……ッ!』
『っ、』
 喉の奥で弾けた粘膜が落ちていく。嚥下できず溢れた唾液がシーツやフィールカントの股座を汚す。2人の呼吸が止まる。エミスフィロはあくまでフィールカントを慮った。確信的なのか否か、隣のベッドではクレイズが起き上がって背を向けたまま結露した瓶を呷っていた。そして跳ねた髪を掻いてすぐさま布団へ入る。わざとらしい寝息にエミスフィロはやっとかふかふ小さく咳に似た呼吸を急く。
『…すま、な…い…!』
 フィールカントが起き上がろうとするのは制して胸に抱き留め、再び寝かせる。歯型のついた指を撫でながら。
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