彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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 暑気中しょきあたりだね」
 桜に問うたつもりだったが縹が答える。桜は首や脇に氷嚢を当てられ、赤い顔で極彩を見上げる。白く濁った透明感のある液体が注がれた湯呑に細長い筒を挿し、縹は桜の口元へ先端を近付ける。意識はしっかりしているようでその細長い筒から湯呑の中の液体を吸った。
「桜…」
「怒らないで。花瓶の花を摘みに行ってくれていたんだから」
 湯呑を離され、桜の喉がこくりと上下する。意識はあるが熱っぽい瞳がとろんと縹を見て、また極彩に戻る。頬を手の甲でぺちっと軽くはたく。
「まぁまぁ。庭師のご老人が体調を崩したのを助けてくれたんだよ」
「その庭師は」
「少し休ませて自宅に帰らせたよ」
 桜を煽ぎながら縹の使っている寝台の傍の空いた花瓶を確認する。白地に薄い青の扇子が描かれている。
「花ならわたしが摘んできます」
 桜が跳び起きる。タオルが落ちて胸や腹が露わになった。腹部を真横に走った大きな傷と縫った痕が目に入ったが、幻覚だったのかも知れない。桜は気にした風もなかった。ふらりとまた後ろへ倒れて極彩を見上げゆるゆると首を振った。
「だめ、です…僕がやり、ますから…」
「―だそうだから。また彼が元気になったら、その時に頼むよ」
 桜を見つめながら縹は痣だらけの腕を撫でた。部屋は涼しい。寒いのだろうか。それとも痣が痛むのか。見ていられない。
「縹さん」
 呼ばれた縹は静かに目を伏せる。その姿は逆光した部屋の窓に溶けそうだった。言葉が続かず、桜は重そうな瞼で2人を見ていた。
「前にも言ったと思うけれど…君の好きにするといい。ボクのことは放っておいて大丈夫なんだから。それとも叱ってほしいのかい」
「いいえ…いえ、出来れば。たまには」
「妙なこと言うようになったね。それなら…自分で自分を傷付けようとするのはやめてほしいかな」
 笑ってから小さい咳が始まり、段々と勢いを増していく。喉を抉る空咳に耳を塞ぎたくなった。桜がふたたび起き上がろうとしたため団扇で制する。赤らんだままの焦った顔が不満に変わる。
「桜、戻ろうか」
「安静にね」
 咳の合間に嗄れた気遣い。桜は泣きそうな顔をして傍に置かれた衣服を着る。異性の裸に驚いて極彩は咄嗟に背を向けた。
 外通路で「御主人」と呼ばれ、具合でも悪いのかと問えば首を振る。躊躇いがちな様子に何か訊きたいことか言いたいことがあるのだろうということは分かったが桜は黙ってしまう。立ち止まったままの桜を置いて離れ家に先に上がった。紫暗は城の敷地内にある、下回りたちが集団生活する屋敷で寝泊まりしていることが多かった。個人の世話係をそこへ住まわせることも出来たが桜は事情を汲んで離れ家で寝泊まりさせていた。室内に増えた布団を敷き、遅れてやってきた桜が小さく謝る。冷房と呼ばれた室内の温度を下げる機械の使い方が分からず、触れなくても操縦できる付属品を桜へ投げる。
「御主人…」
「言うかやめるか、はっきりしたら」
 他人に言うなら簡単だった。縹を前にすると言うつもりだったこと、訊くつもりだったことに焦りを感じ、焦りを感じたことが不安へと変わり、気が急いて躊躇い、何も言えなくなってしまう。
「す、すみ、すみません…」
「叔父上のこと?」
 互いに目を離さず、桜は頷いた。話を促せばおそらく話すだろう。分かっていて切った。意表を突かれたようだが聞きたくはなかった。
「知ろうと思わなければ知れないことは沢山あるな。数えたらきりがないほどに」
「知ろうと思わないのものを知ろうとする必要はございません」
「それで済めば…いい」
 天井の機械が低い音を出して冷風が吹きつける。肌荒れの下から赤かった顔は少しずつ良くなってきている。
「飲み物持ってくるから」
 小さな頷きを確認して外通路へ出ると先程までは感じられなかった熱気に包まれる。日に日に熱くなっていく。竹林に入っていく珊瑚の背中。山吹は実は兄と言っていたが公的には義兄になるはずの珊瑚が義弟になるのか。決まったわけではない。だが杉染台のことを考えるのなら頼れるのは天藍しかいない。溜息を吐いて厨房へと向かう。砂糖と塩が飲みやすく粉末にされたものを水で溶き、氷を浮かべる。廊下では官吏や下回りたちが騒がしかった。ぶつかりそうになりながら離れ家に戻り、数秒足らずで身体が冷える。横になった桜の傍に座り飲み物を渡せば呆ける。
「今日はもう寝なさいね」
「も、申し訳、あり…ません」
 桜は身を起こし、飲み物を口に含む。半分ほど飲んで、また横になった。人工的な冷たい風に直撃しているため掛け布の代わりにタオルを投げると背を丸くして抱き込んだ。極彩は涼みながら壁に背を預け、腰を下ろす。天藍の話を拒む理由はない。むしろ利があった。仇の国と縁を結んでも果たさなければならないことがあるのだと、元は三公子の側室どころかめかけになる覚悟も持っていた。それが山吹に移っても。縹と城の楔として。
 気付けば蝉が鳴いている。

 首が大きく傾き、目が覚める。胸から落ちた布の音。下級の官吏が羽織る黒衿に渋い色をしたローブだ。冷えた空気に喉が痛む。鼻の奥が沁みた。ローブを拾い上げる。桜の姿がない。立場上、桜は城を勝手に出歩けない。室外との温度差に不快感を催しながら城内へ入る。外通路で竹林が目に入ったが、この暑い日にそこに好き好んで足を踏み入れるのは珊瑚か山吹くらいだろう。そう思ってから次点で自身を付け加える。厨房、大浴場男湯前、洗濯場を見回るが姿はない。帰る場所へ帰ったか。城内にいないのであればそれはそれでよかった。藤黄のような意固地な者に見つからなければ、それで。
「ごくさい!」
 呼ばれ、反応する前に背中に乗る重量感に転びそうになり、踏み止まる。桜を諦め、離れ家へ戻ろうとする時だった。山吹の容赦ない体重。冷えた衣類。
「山吹様…おひとりですか」
「俺もいる」
 振り向くことは出来ないが珊瑚も一緒に後方にいるらしい。山吹に圧し掛かられたまま首だけ後ろへ回すが視界には山吹の一部と見慣れた廊下しか入らなかった。
「あんたの飼い猫、縹のところにいたけど。探してる?」
 訂正しようとした矢先に山吹に乱暴に腕を引かれる。珊瑚は同行する気が無いらしく、相変わらずの不機嫌な面の脇を通り抜けたままだった。裏庭に向かっているらしく人通りの少ない廊下を引き摺られる。裏庭の軒先に繋がる曲がり角で突然口を塞がれ、背後から抱き竦められながら立ち止まる。
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