彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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「ホント、大丈夫?」
 眼前を掌が往復した。首を傾げて愛らしく顔を覗き込まれる。そういうところは夫に似ていた。
「あなたは誰なの」
 空想が払われる。
「旦那さんのコト、忘れないでしょ?さすがにサ?あの新しい男に乗り換える気なんてないよネ?弟にだって紹介したんだヨ?」
 夫ではない。それは確かなことだったが、夫に通じている部分が可能性を掻き回す。
「警備の人にはなんて言ったの。玄関にいたでしょう。玄関でなくても、庭に…」
「倉庫にいるんじゃないの。寝てると思うヨ」
 胡坐をかいて、左右に揺れながら夫らしき若者に構うのをやめ、倉庫へ向かう。護衛の者は両手足を縛られ、気を失っていた。縄を解いている間に倉庫に入る光が弱まった。夫を名乗る男が出入口を塞いでいる。
「こういうことされると、困る」
「弱っちぃのが悪い」
 何の疑問もない、当然の摂理といったふうだった。
「あなたは本当に狐なのかも。化け狐。弱くても悪いなんてことなく生きられる。それが人の世…だと思ってたんだけれどな」
「…だいじょぶ?」
 護衛の者の腕を引っ張る。しかし気を失った人間を背負うのは困難だった。抱き上げるには筋力が足りない。群青が帰ってくる前に処理しなければ、城勤めが斬り捨てられかねない。
「助けて」
「もちろん。夫なんだから」
 予想に反し、彼は快諾した。倉庫が外の光を取戻し、自称夫は軽々と担いだ。華奢な体躯だったが形のいい筋肉が腕に浮かんだ。居間の奥の部屋へ運び、介抱する。夫を騙る男は脇で胡坐をかいて、忙しなく動く妻を顔ごと目で追っていた。一段落すると這いながら彼女の真横へ並ぶ。武装の剥がれた城勤めを2人で看ていた。盗み見る。気付かれる。闇競売で買った本人とは雰囲気がまるで違う。
「手伝ってくれてありがとう。群青殿に見つかる前に…帰って」
「嫌だよ。どうして?ぼくたち夫婦なのに?」
「あなたはわたしの夫ではないと思う。面倒なことになる前に」
「代わりができたらもうどうだっていいんだ?そんなにあのオトコがいい?弟も騙くらかして?夫のコトなんてカンタンに忘れられちゃうってワケ!」
 彼は声を荒げた。一瞬にして色を変えた表情が反論も、不本意な同意も許さない。
「あなたのこと何も知らないから。どこの生まれの誰なの。何の仕事をしているの。いつからわたしのことを知っていて…」
「そんなコト知ってどうするのサ?生まれ、名前、仕事、君をいつから知ってたか、そんなモノでぼくの何が分かるって、エ?」
 傍で眠る部外者へ意識を側める。
「静かにして」
「何か後ろめたさでもある?ぼくたちは夫婦めおとなのに?」
 狂人だ。憑りつかれている。
「旦那さん死んじゃったんだからサ…やることあるでしょ、奥さん」
「…死んで…ない…」
「ううん。死んだ。ぼく死んじゃったんだヨ。ぼくの後、追ってヨ。それが妻の務め…ちがう?」
 彼は震えながら刃物を突き出す。
「他のオトコに渡さないヨ…操を捧げて、ちゃんと」
 房飾りの揺れる懐剣だった。柄は美しい織物になっていた。
「こんな裏切りはないヨ…ほら、ネ?愛しの旦那さんが付いてるから、怖くないでしょ?」
「死ぬ気はない」
「どうして?じゃあ夫のコトはもう忘れるの?見放すの?自分だけ他のヒトとよろしくやるの?前のヒト踏み台にして…ううん、踏み台にすらならない…」
 虚ろになっていく愛らしい目元。指が女の肩に食い込む。
「自分で死なないなら、殺してやる」
―絶望だよね。悲しいよね。生きるのって本当に苦痛だよ。殺してあげようか。雄黄も報われるね。よろしく言っておいてよ。君の叔父上は、来世で君に仇を討てなくて、可哀想だけど。
 汗ばんだ手に腕を掴まれ、小さな刃物が手首を走った。鋭い痛みに声を上げる。畳に血が飛んだ。傷を押さえたが、男はそれを許さなかった。
「来いヨ。自分で死んだんじゃなきゃイミないんだから…夫のためにダヨ…!夫のために…!」
 台所へ引っ張られ、浴室に放り込まれる。
「あの兵士のタメに死んじゃうみたいだもんネ!そんなの許さないヨ。あんたは愛しい旦那さんのタメに自分で死ななきゃなんだヨ!」
 興奮に息を切らし、夫、旦那と繰り返す若い男は赤い迸りを触らせないように掴んだまま、引き攣った笑みを貼り付けながら浴槽へ湯を張っていく。痛みに呻きながら、浴槽の淵で身体を支える。音の響きやすい浴室に吐息が轟いている。執拗なまでの呼吸の間隔に極彩は自身の状況が意識から遠ざかった。彼は血に汚れた両手をみて震えている。
「ゆっくり息をして。呼吸はできているから」
 衣類は汚れ、湯気は2人を包む。
「一筆だけ遺しておいて。『護衛と群青殿に迷惑をかけて申し訳ない』とかそんなふうなことを」
 彼は酸素を必要以上に取り込むことに精一杯で聞いていないようだった。懐剣を毟り取り、浴槽に沈めた。水位は上昇していく。袖が触れるほど近くにいる男は吃逆のような息をして、なんでなんでと譫言を繰り返す。花の香りが鼻腔を擽る。少し熱い液面へ指先が届いた。伝い落ちた雫が赤い細紐となって、解れて消えていく。
「あんたが悪いんだ…」
 玄関のほうで物音がした。
「窓から逃げて。早く。城の人に見つかったら、殺される」
 湯の中に季節外れの赤い花が咲いては散り、浴槽を埋めていく。空いた腕を振り払うように、風呂場の大窓を指した。情緒不安定な円い目は、失血していく女と退路とを往復した。淵に頭を預け、朦朧とした意識の中で、夫の口へ行く蜚蠊ごきぶりの陰を思い出しているうちに、彼は消えていた。
―落ち込むことはありませんが。大事な蛋白源ですからね。
―食べられないんです。
いなごの佃煮でもあるまいし。
 鮮やかな赤の着物の強気な娘の姿が親しくもないくせ脳裏を占めていた。目を閉じても、意識は留まったままで溢れた湯が淵に凭れた顔に押し寄せる。惜しさに蛇口を捻った。湯気がゆっくり動いている。転寝うたたねにもならない時間だった。結局誰かが帰ってきた様子はない。卓袱台に置いたままの紙束を思い出し、いつまでもゆっくりしているわけにはいかなくなった。赤く染まった布が腕に纏わりつき、染汁を垂らす。点々と居間へ跡をつけていた。玄関は開け放たれ、野良猫2匹が中の様子を窺っていた。自身を夫だと思い込んでいる若者の靴を下駄箱に隠す。そして卓袱台に放置された厚い手紙をしまった。2人目の父も亡くした少年に不利なことが起こってしまうことだけは避けなければならなかった。手首の傷は疼き、地はすぐに止まらなかったが風呂場と床を掃除し、着替えとともに処置をした。近くからぐるぐると低い音が聞こえ、正体を探せば卓の下にもっさりとした猫が丸くなっていた。
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