彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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 老人の黄ばんだ眼球が泳いだ。納得したものと決めつけて目的地へ歩く。置いていかれた老人は駆け寄ってきた。
「紙と筆を買うのに使わせてもらいますじゃ」
「もうわたしの金ではないので」
 加虐娘・女豹倶楽部は色街の戸口にあり、性接待や営業時間外の同行勤務はなかった。案内冊子と同じ発泡性葡萄酒に似た色味の建物と目に痛いほどの桃色で店名が書かれていた。裏口から入り、出てきた従業員に事情を伝える。副組長はこういった店について疎いようだったが、彼と打ち合わせた設定と説明で今すぐ働きたい旨を熱意を込めて語った。顔面の傷について苦言を呈され、不合格の感じがあった。石黄はその可能性も想定しているのだろうか。従業員たちは苦々しく気拙い顔を見合わせて極彩を品定めしていた。後日に合否の確認に来てほしいと告げられ、思っていたよりも早く面接は終わった。頬が鈍く弱く痛んだ。愛庭館で習った笑顔は役立ったが疲れるものだった。蟄居先に帰ろうとした途端、動かした爪先の寸前に手裏剣3枚が刺さった。黒地や赤地に白い花や鶴の雅やかな絵と金箔が散らばった紙製の手裏剣で、投げられてきた前方へ顔を上げる。だが誰もいなかった。
加虐娘いじめっコ・女豹倶楽部、ね。ここは一体何してくれんだ?」
 背後から少し甘ったるい質感のある声が耳元に降りかかる。しかしその声音からは少し怒っていることが窺えた。逃げ切ったはずの男が真後ろにいる。体温が背中一面に届いている。
「知りたい?」
 彼らしくない意地の悪い笑みが鼻から漏れる。耳元に息吹が掠れ、身が竦む。
「字面で察しまさ。ってことは、これで嬢ちゃんを合法的に口説けるわけかい」
 低い声が鼓膜を弄ぶ。温厚な平生へいぜいより挑発的な響きを持っていた。
「もしかしたら落ちるかも。傷が、好ましくないみたい」
 振り返って、傷をなぞるように顔の前で指を払った。垂れ目は視界に入れたほんの一瞬はおどけて緩んだ表情をしていたが、傷のことを出した途端に不機嫌そうになった。軽口のつもりだったが、彼には重大な話題らしかった。
「俺は気にしねェよ」
「わたしも気にしてない。でも選ぶのはお店の人だから」
 小難しい表情で彼は太めの指を伸ばし極彩の傷に触れようとするが、接する前に落ちていった。
「どこ行くんだ?」
 極彩は足元に刺さった折紙の手裏剣を拾い、土を払う。
「帰るところ」
「なんでさっき逃げた?」
 桃花褐はついてくるらしかった。
「クマに遭ったら戦うなって、昔言われた」
 俺はクマってわけかい、と桃花褐はぼやく。大型犬のような熊のような男が同行することも構わず、蟄居先へと歩を進める。
「なぁ」
「何」
「小麦くんと最近会った?」
 小麦くんが何者か分からなかったが、珊瑚の偽名である琥珀のことだと思い出す。
「会ってない」
「なら大事でさ。行きましょうや」
 言葉に反して物言いは悠長だった。
「どこに」
「若苗診療所。姉ちゃんに知らせてねぇたぁね…」 
 三公子が瀕死のまま運ばれていった光景がふと蘇る。赤々と燃える繁華街と瓦礫と焼けた死体。
「いいえ…わたしは…」
「行くぞ」
 火傷しそうなほどの熱を振り払う。避けたい現実をみろというのか。夢では済ませてくれないのか。
「小麦くんも、あんさんに会いたがってる」
「会ったの?」
 桃花褐は片眉を上げただけだった。隣に誰かいるのなら、変な気は起こさないはずだ。引き摺られるように弁柄地区と長春小通りの中間にあるまだ建てられたばかりの診療所へ連れられる。ぴかぴかの床と綺麗な垂幕、天井で回る羽根の大きな扇風機は長閑な印象を与えたが、どの病室も満員で生々しい爆撃の痕が垣間見えた。三公子は個室に入れられていた。木板の引戸が開くと機械の継続的な高音がする。様々な機械が違う拍子で違う質の物音をたてているくせ室内は静かだった。少年は寝台の上で日光を浴びながら眠っている。管が挿され、口元には透明な器具が嵌められている。話せるような状態でないことは確かだった。
「わたしに会いたがっているようには見えないけれど」
「俺が会わせたかった」
『生き血、飲みたくなっちゃうから?』
 ああ、あんさんもだろ?
 桃花褐を見る。彼は肩を竦めて、壁際に立てかけられた折り畳み式の椅子を広げて極彩に促した。礼を言って腰を下ろす。動かず眠り続ける少年を見つめた。両の掌には繊維の粗い綿紗めんしゃが貼られていた。口元を覆う透明な器具は、管で繋がれた機械が轟くたびに白く曇る。汗ばんだ白く細い首が病衣から覗け、掌が疼いた。しかしそれは第三者の存在のせいかひどく弱いものだった。
「ねぇ、桃花褐さん」
「なん?」
「言ってなかったことがあって」
「うん?」
 桃花褐は特に興味を示しはしなかった。目の前で横たわる少年の病衣がゆっくりゆっくり上下する。
「この人は、弟じゃない」
「知ってまさ」
 機械が唸る。あの赤毛の子もだろ。機械が一度静まる。
「だからここに来る理由もない」
「ンでも姉ちゃん代わりだったはずだ」
「やめて。気色悪い」
 寒気がした。考えたくもない。この少年の姉代わりになるということが、姉呼ばわりされることが、嫌でも忌々しい日々と直結してしまう。腹の底が痛む。それは花の香りとともに治ってはくれない。
「別に義弟おとうとがいるもんな」
「いない」
「何を意地になってる?」
 見透かしたような物言いに乱れた心地が過敏に反応した。
「なってない」
「叔父貴を焼いちまったことか」
 男に焦点を合わせられなかった。声音は優しいが後ろめたさが言外の意図を好き勝手に加味してしまう。
「わたしは、後悔してない」
「俺ぁ責めたいわけじゃねェや。あれだけ慕ってた叔父貴の遺言を破るくらいだ。特別な事情があったんだろ。おっと、そのことについて問い詰める気もねェ」
 三公子の呼吸から目が離せなくなる。透明な器具が白く曇り、引いていく。今にもその連続が途絶えるのではないかと。止める気でいたくせに。
「菫チャンに泣きつかれでもした?」
「…まぁな。あんまりうら若き青少年をいじめるなよ」
 冗談のつもりが言い当ててしまい、唇を噛む。
「桜ちゃん?茜ちゃんだっけ?―も、あれで色々悩んで、火葬にしないことを約束したんだからよ。自分の不甲斐なさみたいなのが、あんさんに向いちまったんだと俺ぁ踏んでる」
「わたしは八つ当たりされたとは思ってない。でも分かり合えないことっていっぱいあるから、仕方ない。この件に関しては別に分かり合いたいとも思ってない」
 溜息が聞こえる。病室の扉が開いて直後に閉まった、弱々しい死に損ないと2人きりになる。極彩は椅子から立ち、少年の肉体を見下ろし病衣を剥ぐ。日に焼けてない肌に貼られた当て布も全て剥がす。爛れ、瘢痕はんこん蟹足腫かいそくしゅになっていたりした。それからモグラが掘った穴によく似た小さくもはっきりした傷。指先を挿し入れてみるが少年は無反応のまま眠っていた。機械によって呼吸を繰り返し、それ以外はまるで死体だった。共謀者だった青年が寝たきりになった時は、生きていることをもっと感じられていた。極彩は自身の袖を捲り、時雨塗りが印象的な短刀を鞘から抜いた。鯖の皮のような模様の皆焼ひたつら刃が美しい。女の肉を鏡のような白刃が切り裂いた。
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