彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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 折り曲げた膝に頭を埋めて彼は言った。下に向かって発せられた声は籠り、少年の空気に合わず陰気な感じがあった。
「迷惑でもないし、怒ってもない」
「じゃあなんで…こんな…」
「わたしがろくな人間じゃないから」
「そうは、思わないっす」
 食事を届けるための小さな格子窓を開ける。彼は見向きもしなかった。
「こんなつもりじゃなかったんす。こんなつもりじゃ…きっと桜ちんも…」
「わたしは一緒に暮らせて嬉しい」
 思ってもいない言葉が舌の上をさらりと転がり飛び出した。
「こんなことしなくたって義兄にいさんとの暮らし、邪魔しないっす。一緒に暮らしたいって思ってたっすけど、本当に、邪魔する気なんて…」
 ぼそぼそと彼は続けた。まだ彼の中には存在しない夫がいるらしかった。
義兄にいさんなんていない」
 彼は顔を上げた。まだ辛うじて浮かべている笑みから八重歯が隠れていく。
「残念だけど、もうあなたに義兄にいさんはいない」
 詳しくは話さなかった。銀灰は顔を背けてまた膝の間に顔を埋めた。
「ごめんなさいっす」
「この前ここで会った人のことはすっかり忘れて」
 理由を上手く作り変える自信がなかった。
「だから銀灰くんは邪魔するとかしないとか、そういう話ではなくて。傍にいてほしいだけ。それだけ」
 ぐるりと天井を見回してふさいでいる彼の姿を凝らした。近寄らせてはならないのなら、ここに居ればいい。ここならば不気味な男が判断をたがえてうっかり手を滑らせ、斬ることもないだろう。
「変っすよ。誰かにいじめられてるんすか…何かあったんすよね…さっき。急に態度変わったっすもん。髪もぐしゃってなってるし…口にも血、付いてるっすよ。こういうこと訊いてもいいのか分からないっすけど、オレっちバカだから、察するのとか出来ないし…」
「きちんとご飯食べてね。布団持って来るから」
 ぼそぼそ、ぼそぼそと彼らしくない気落ちした姿に背を向け居間へ戻る。洗いたての替敷妙しきたえで布団を覆い、寝具を座敷牢へと運んだ。格子扉を開け放しても彼は脱出を試みようとはせず、膝を抱いたまま俯いていた。
「親父がいないとお袋もこうするんす。なんでっすかね。お袋もオレっちと一緒に居たかったんすか…今の白梅ちゃんなら分かるっすか」
 彼は口元だけ笑って八重歯を晒す。
「出て行かないの」
 彼の話も聞かず極彩は布団を置きながら格子扉を振り返った。
「それで解決する話じゃないじゃないすか。ならここにいるっす。そのほうがいい気がするっすよ…」
 再び膝に鼻先を埋め黙り込んでしまう。
「鍵はここに置いておくから。誰か知り合いが迎えに来たら帰りなさい。さっきの人以外に。でもその時は二度と、ここには近寄らないで。顔も見せないこと。二度と」
 座敷牢の外にある机の抽斗ひきだしに鍵を入れ居間へ帰る。深夜帯に縁側の大窓の硝子を引っ掻くアッシュから菖蒲からの手紙を受け取った。特に必要性を感じていない群青の様子が半分を占め、それはそれは事細かく記され、それよりもさらに不必要な世間話と最後に菖蒲の近況と城の状態が記されていた。返信には諸々の感想と座敷牢に人を保護しているため自分に何かあった際には面倒を頼みたいという旨のことを綴った。アッシュと戯れてから送り出し、彼女の揺れる尾が夜に溶けていくのを眺めながら仄かな後悔の念が湧いた。

 5日経っても天晴組への報告に値する事柄は起きず、発見することもなかった。座敷牢で憂鬱に小さくなっている銀灰への土産に、彼を幽閉した翌日から通っている焼菓子店へ今日も寄るつもりでいた。その店が閉まる間際に女豹倶楽部も終わるため、急がねばならなかった。家まで送っていくと強く迫る店長を置いて極彩は焼菓子店へ向かった。不言通りの脇道と長春小通りの間にあるその店の近くは人通りは少なかったが明るかった。背後から足音も気配もなく走ってきた者にぶつかり、嗅いだことのある女性物の香子蘭ばにらの香りがした。存在していない夫から薫った物とおそらく銘柄も品も同じもののように思えた。流行の香水なのかもしれない。焼菓子店で苺が沢山盛り付けられた皿状焼菓子を買い、傾かないように抱いて帰る。悲鳴が聞こえ、驚きに肩が跳ねた。隠し持っていた時雨塗りの短刀に手が掛かる。短い間隔で並んだ街灯が曲がり角から現れ、走り抜けていく者を照らし出した。全体的に暗い色をした服装で中背の、おそらく男性に見えた。進行方向が同じだったためその地点まで辿り着くと、そこには血痕が落ちていた。香子蘭の匂いがそこに薄荷の匂いとともに留まっている。どこかわざとらしい足音が曲がり角の方から聞こえた。
「嬢ちゃん?」
 悲鳴の聞こえた方角に繋がる道から人影が揺れていた。街灯の光は届かなかったが相手から正体を明かしているも同然だった。普段より気怠げな様子で片手を挙げ、紫雷教の作法で挨拶をする。会いたくない人物だった。目を合せてしまったが、反応を示さず、帰りの道を行く。桃花褐は何度か女を呼び、後ろを追って来ていた。だが走ることもなかった。極彩は蟄居先への道を外し、不言通りに出た。人混みが男を引き離していく。予定よりも遅くなった貸家にはまだ副組長たちは到着していなかった。作り置きしておいた食事を温めている頃に彼等がやって来た。2人に遅めの夕餉を摂らせ、中身のない報告をする。遠慮がちな淡藤が少しずつ慣れた様子で雑談をし始める。それはほとんど手芸と美術の話で、施設の子供たちにぬいぐるみを作りたいが生地で迷っているのだとか、著名な作家の綴織を見たことがあるのだとか、巷で人気の生地や柄だとかそういう話ばかりだった。堅い表情が和らぎ、彼の薄い唇は緩やかな曲線を描く。彼等を帰した後に監禁している少年の元に向かった。彼は胡坐の上に昨日作り終えたばかりのネコのぬいぐるみを乗せ、窓の桟に肘をついて寝ていた。山積みになった雑誌が崩れかけている。
「銀灰くん」
 吊り目が軽やかに開き、眦を擦る。
「姉ちゃん、おかえり」
「遅れてごめんね。お菓子買って来たの。ご飯の後に食べよう」
 焼いた牛肉に、海老と長葱の塩炒め、わかめと茗荷の吸い物、山菜の塩茹の和え物、それから昆布と大豆の煮物は保存食品を開けたものだった。3食にさらに軽食を欠かさず食べさせているためいくらか肉付きのよくなった身体の対面で共に夕食を摂る。彼は美味そうに飯を食った。
「姉ちゃんのご飯美味しい」
 彼は焦げ目をつけた長葱を齧る。しょりしょりと小気味良い音がした。
「よかった。まだあるから、足りなかったら言ってね。でも皿状焼菓子たるともあるから食べ過ぎたらだめだよ。苺がいっぱい乗ってるんだから」
 へにゃりと目元を細め、彼は牛肉を口に運ぶ。箸の持ち方を最初は気にしていたが、すでに気に留めている様子はなかった。美味しい、美味しいと陽気に言って少し大盛にした白米を平らげていく。今日読んだ本のことや思い出話をしながら夕食を済ませ、皿状になった小麦餅びすけっと生地の上に宝石のような苺と糖蜜が飾られている焼菓子を切った。少年ははしゃいで爛々とした眼差しでそれを見ていた。
「嬉しいっす」
 隣に座ると彼からさらに身を寄せた。閉じ込めた日は暫く沈んでいたが、傍で一夜を明かすと態度が軟化し、朝には普段の爛漫なものへと戻った。ころころと機嫌の変わる仔猫のようだった。
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