彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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 桃花褐の印象的な垂れ目が挑発的に極彩を眺めた。
「桜には会った?」
「無事だ。よかったよ、まだ気にしてくれてんだな」
「一応、客として来たから」
 帰ろうとしても高い体温によってそれは叶わなかった。放せとばかりに睨んだ。
すみれちゃんのところ、行かねェんですかい」
「どのツラ下げて会ってくれるの。営業妨害に等しいのに。貴方もよくわたしに会いに来られたこと」
 嫌味を言っても彼はへらへら笑うだけだった。叔父貴に似てんな、と呟かれる。
「俺ァ嬢ちゃんに危険な目、遭ってほしくねェんだわ。そのためならあんさんにぶん殴られても構わねェ」
「本気で言ってる?この前わたしの弟を騙したくせに。一児に父になりかけてるんでしょう。自覚を持ったら」
 桃花褐は動じない。垂れ目は同情するような眼差しを送る。
「どう受け取られっか分からねェけど…俺の子じゃない。間違いなく」
 どうして分かるの。その言葉を呑み込んだ。珍しい話ではない。極彩もまた当人だった。
「猫と犬の間に子は作れない。兎と鶏の間に子はできない。それと同じでさ」
 桃花褐は厚い唇を歪めた。紅玉るびぃちゃんは人間で俺ァ。言葉が止んだ。垂れ目は話し相手から側められた。悲鳴が夜空に轟く。身を竦めた極彩を桃花褐は庇うように構えた。何かが近付いている。兄貴。咄嗟に寸延短刀に手を掛けてしまったが物陰から現れたのは何かを引き摺る若者だった。極彩はその者と目が合った。視界を桃花褐の背中が塞ぐ。質量のあるものが叩きつけられる音がした。
「引き留めちまって悪かったな。急用ができたわ。急いで帰りなっせ」
 軽快だった桃花褐の声が低くなる。有無を言わせない感じがあった。
「分かった…でも桃花褐さん、やっぱり誰かに狙われてるの?この前も、その前も…」
「いや、あれは…最近流行ってるだろ、色街付近の切り裂き事件。あれの類だろ」
「…そう」
 この話題は桃花褐にとって好ましいものではないらしかった。広い背を向けたまま彼は極彩を振り向こうともしなかった。
「じゃあ、気を付けて」
「嬢ちゃんこそ気を付けろぃや。送ってやれなくて悪ィんね」
「いいえ、必要ない」
 極彩はゆっくりと急に態度を変えた桃花褐から離れた。屋敷に着くと天晴組に報告を求められ、何も進展がないことを伝えた。誰もいない居間で過去その存在しない選択を探そうと必死になって頭を抱えながら眠った。

 出勤前に道の途中の青果店でイチゴを買って若苗診療所に寄った。躊躇いながらも店で使っている名前で通り、受付の者に持ち込みの許可をもらい病室に進む。淡藤は寝台で上体を起こし、数珠飾りを作っていた。
「こんにちは、真珠ぱぁるさん」
 極彩は露骨に表情を歪めた。彼は不機嫌そうな元々の顔を緩める。
「イチゴを買ってきました。食べてもいいそうです」
「すみません。いただきます」
 淡藤は寝台に架けられた簡易卓に置かれた玻璃数珠の入物を片付けはじめる。
「差入れですか、それは」
「はい。棒針や縫い針は没収されてしまいまして。あと塗り絵も。尖り物は良くないと」
「そうですか」
 極彩は適当にイチゴを洗った。ついでに置き放しの花束を窓際に空いた花瓶に生けた。
「今から出勤ですか」
「そうです。そろそろ何か掴めるといいのですけれど」
「巻き込んでしまってすみません。姫様には穏やかに蟄居していただきたかったのですが」
 淡藤は水滴の照るイチゴを摘まんだ。
「暇過ぎて気が狂っていたので丁度良かったです」
「気が狂っていたんですか」
「城で暮らしていたら嫌でも気が狂います。淡藤殿はいかがです」 
 私は気は狂ってないですね。無愛想な面で彼は言った。
「これ、仕上がったら差し上げます。付けてくださいますか」
「似合えば付けますよ」
「似合わなくても気に入れば付けてください」
「…悪くないですか。その、ご家族とか」
 淡藤は薄い紫色の玻璃数珠が複雑に形を作る紐をぷらぷらと揺らしながら首を傾げた。
「まったく問題はありませんが」
「そうですか。では気が向いたら付けさせていただきます」
 極彩は時計を見上げた。そろそろ女豹倶楽部に向かう時間だった。
「夜も来てくださるんですか」
「いいえ。正気でいられますね?淡藤殿とひとりにしてもいいですね」
「少なくともこれは完成させますよ。まだ数日はかかります」
 また薄い紫色の珠がぷらぷらと揺れた。窓から入る光を床に散乱させている。
「それなら信じられますよ。遅くまでやらないことです。目が冴えて眠れなくなりますから」
「そうですね。集中の一歩手前くらいで」
「また明日会えますね」
 淡藤の切れの長い瞳を真っ直ぐ捉えた。怒っているのだか怒っていないのだか分からない渋い面構えが改めて極彩を見上げた。
「ええ、女豹倶楽部で何事もなければ」
 極彩は肩を竦めた。淡藤は顔立ちに似合わない笑みを浮かべている。
「楽しみにしていますからね、それ」
 病室の扉を閉める。窓の光に彼は黒ずんでいく。


 女豹倶楽部の控室に入った途端まるで託児所にでもなったように子供たちが佇んでいた。極彩は息を呑む。一斉に青白い子供たちは扉を開け放したまま立つ彼女を見上げた。誰かの隠し子か、そういう企画行事なのだろう。子供たちは騒ぐことも暴れることもなく室内で落ち着いていた。話声もない。表情もなかった。子供同士で互いに認識している様子もない。ただ疎らに散り、立ち竦んでいる。男性従業員が出勤し、極彩はいくらか安心した。男性従業員の中では一番下っ端で真面目な若者だった。彼は極彩に挨拶をする。青白い子供たちに目を配ることもなかった。彼は身支度を済ませると店長の話や紅玉るびぃの噂を極彩に振った。店のことを心配しているらしかった。真珠ぱぁるさんはそういうことないですよね。牽制のように彼は女性従業員の男性問題について語り始めた。前からそういうことは店側で禁じてもあったらしい。暗黙の了解として店員と客が結婚していたこともあったという。そうですね。極彩は彼の話をほとんど聞いていなかった。室内にの子供たちは動かないまま視線だけを彼女に向けていた。今日は何か特別な催し物でもあるんですか。几帳面に卓を拭く男性従業員に訊ねた。何も無いはずですが。青白い子供たちの目に耐えかね寝椅子に座ってもいられなかった。気候が変わったときのような頭痛が起こる。額をきつく縛り上げられるようなものか段々と頭皮を毛穴の分だけ形のない針で貫かれるような鋭い痛みへ変わっていく。呻きそうになった。重い痛みとともに脳裏に強烈な印象を叩き込まれる。まだ幼い肢体が投げ出され、布を蹴り上げ、抗う。男児も女児も関係なく衣を剥かれ、褥に留められる。頭の中が破裂しそうな感じがした。血管がはち切れそうだった。真珠ぱぁるさん。男性従業員が声をかけ、蹲る彼女を覗き込んだ。青白い子供たちは皆、店の表に通じる扉を小さな手で指した。尋常な光景ではなかった。吐き気がした。男性従業員は耐水性の袋を被せた屑籠を渡す。真珠ぱぁるさん、今日はお休みしますか。極彩は首を振った。開店にはまだ時間があったが、隣の部屋に行きたいのかと子供たちが指し示す扉を開いた。しかし子供たちはすでに隣の部屋に立ち、再び女性従業員の待機する個室のひとつへ指先を集めていた。男性従業員に呼び止められる。
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