彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

文字の大きさ
267 / 339

267

しおりを挟む
すみません。極彩はもう一度謝った。女は病的にどこかを見つめて息を切らしている。もうどこで会っても話しかけないでちょうだい。彼女は険を帯びて叫んだ。悲鳴に近かった。すみません。ただ謝ることしかできなかった。もし夫に会っても関わらないでちょうだい。極彩は合意した。知らないフリをしてちょうだい。また承諾する。女は顔を青白くして汗をかいていた。大丈夫かと訊ねる。放っておいてちょうだい!と女は逃げ出した。また路地から顔を出す青白い子供が遠くなっていく女を見つめていた。極彩も青白くぼやぼやとしている子供の後姿を見ていた。ここは危ないですよ、もう夜です。早く帰りましょう。極彩は女の消えた曲がり角をまだ見ている小さな背中に言った。面倒を看るつもりはなかった。あっちが明るいので、そこを通って帰ることですよ。そう言って子供に勧めたのとは反対の道を極彩は選んだ。
 屋敷に帰る前にそこから一番近い診療所に寄って手首を切った淡藤という患者はいないかと確認した。受付の者は極彩の名を求めた。店で使っている名前を躊躇いながら知らせると妙な表情をされながらも病室を告げられ、奥へ通ることを許された。そこは端から2つ目の個室だった。引戸を開ける。真っ暗な空間に窓が月に光っている。入院患者は寝台の上で起きていた。
「こんにちは、姫様…こんばんは、ですね。真珠ぱぁるさん。私が色街通いだと思われてしまったではありませんか」
「拙いんですか」
「好ましくもないですが特に拙くもないです」
 極彩は照明も点けずそのまま寝台の脇に椅子を出して座った。姿勢を正そうとする入院患者を手で制する。
「容態はどうです」
「悪くないです」
「すみませんでしたね、助けてしまって。目の前で死なれるのも嫌だったものですから」
「いいえ。助かってよかったです」
 真珠ぱぁるさんも来てくださいましたから。淡藤の表情は暗闇に塗り潰されている。
「初めてではないそうですが」
「ふと…たまにそういう気を起こすことがあるんです」
「たとえば、どういう時に?」
「そうですね…綺麗に晴れた日とか、野良犬に懐かれた日とか、作品の構想を得た日とか、飯が美味かった日とか…」
 極彩は「病人ですね」と軽く断じた。
「天晴組は病休とれないんですか」
 淡藤はそういうのを作ってみても良さそうですね、と答えた。
「花束も持ってこられずすみませんでした。気紛れに寄る気になっただけだったので」
「お気になさらず。花束を見舞っていただけるような怪我ではなありません」
 彼の声は少し弾んでいた。
「今日は…客をひとり、診療所送りにしてしまいました」
「落ち込んでいるんですね」
「違います」
「落ち込んでるんですよ。声で分かります」
 極彩は唇を尖らせた。淡藤はおそらく暗さに隠れ、似合わない笑みを浮かべている。
「報告をしに来たんですよ。それとも帰ったら代理が?新しい副組長殿に挨拶をしないと」
「随分と迷惑をかけたものです。姫様にも。すみません」
「もうやりませんね?でないと謝罪に意味なんてありませんよ」
「分かりません。自分のことが、誰より何より信用ならんのです。数分後のことさえ。夏の天気のほうがまだ信じられるくらいなのです」
 静けさに包まれ、加湿器らしきものが水を流す音がした。
「病人です。然るべき機関に適切な治療を求めるべきです」
「それ、私が姫様に言ったことですよ」
「ならば改めてわたしが言うことでもなかったですね」
「いいえ、言ってください。口煩いくらい言ってください。うんざりするくらい言ってほしいです」
 いやですよ。極彩は柔らかく拒否した。
「また診療所送りは勘弁です…否、淡藤殿はまた例外ですけれど」
「そんなに派手にやらかしたんですか。鞭で?叩かれたのですか」
「…いいえ。ごめんなさい、甘えたことを言って。慰めてもらいに来たわけではないんです」
 暗い中に浮かぶさらに濃い淡藤の陰が動いた。
「私は慰められに来ていただきたいです。半ばその任も請け負っているつもりなので」
「入院患者に気休めは求められませんよ」
「私は天晴組の組員より先に入院患者ですか」
「うっかりわたしが淡藤殿を追い詰めてしまったものだと思ったものですから。そうなれば組長よりも先に入院患者ですよ、わたしが入院患者にさせてしまっていたのなら」
 彼は違いますよ、と言った。そして姫様はまったく関係ありません、と続く。「…なんて口では何とでも言えますからね。でも本当に姫様は関係ないんです」とさらに添えた声はどこか虚ろだった。
「姫様は亡霊を信じますか」
「信じ…」
「―ても信じていなくても結構です。これは私の自論に過ぎないのですが…人は弱った時、新しい…といっても、ただ今まで感じられなかった、今現在私が生きている世に覆い被さるような形で存在する、もうひとつの世が視えはじめて、生きている場所は同じだというのに個々の中で重なりはじめるのではないかと。それでそこには、死者もいて、2つの世が視えてくる…」
 極彩は陰から微かに見える淡藤の形のよい額に手を伸ばした。
「宗教家になったらいかがです。名は何教にするつもりで?」
 熱を測る掌を剥がされ丁寧に返される。彼は黙った。冷やかすのは拙かったかと極彩は反省を始める。暗闇に溶けたらしき若者が揺れた。
「すぐには名を決められないものですね」
「案はあるんですか」
「とりあえず3案。わたし教、俗間ぞっかん教、真珠教」
「…何かこう、語感に魅力が得られません。亡霊共存学会とか、化生けしょう後世会とか」
 互いに腕を組み、首を傾げた。診療所の者が面会時間の終わりを告げに来た。扉が開き、照明が点く。目の前の患者と同時に目元を覆った。視線がぶつかる。淡藤は不機嫌な面をして極彩も眉根を寄せていた。
「そろそろ帰ります。長居しました」
「いいえ、またいらしてください。とはいえ明日には退院できると思います」
 何の話をしていたのかも忘れ、極彩は淡藤の病室から出た。進行方向をまだ爪先が定めてもいないうちに横から腕を引っ張られる。手首を締める高い体温と肌に馴染む肉感は知らない相手ではなかった。何者なのか認識が追い付くと極彩はその手を払った。しかしまだその掌は手首に繋がっている。
「放して」
「どうしてああいうことするんで?」
 向かい合わされ極彩は相手から顔を逸らした。
「桜を連れて来たの、貴方?」
「あんさんのことだ、簡単に会っちゃくれねェだろ?」
 威圧的な態度にも臆せず桃花褐は普段の豪放な空気感を纏っている。
「裏口だだめなら正面もってこと」
「店のこと言ってなかったらからな。槿むくげちゃんには悪ィことをした」
「わたしの邪魔をしないで」
 もう一度腕を払うが桃花褐は彼女を放さなかった。
「あの店は危ねェって何回か言ってるよな?」
「何回か聞いたかも知れない」
 手首を巻く指の圧が強まった。
「ンなら辞めろ」
「どう“危ねェ”のか聞いていない」
 彼は鼻を鳴らした。言ったら利くのか?桃花褐は問う。極彩は答えなかった。女豹倶楽部には彼のいう危うさが感じられないため、まだ辞めずに続けているのだった。
「床下…言えるのはそれだけだ。まぁ、気になったら掘り起こしてみるこったな」
「床下?」
「薬もそうだが、そのまんま生臭ェ。嬢ちゃんが止めるまで、俺ァ手、引かねェぞ」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

本物の夫は愛人に夢中なので、影武者とだけ愛し合います

こじまき
恋愛
幼い頃から許嫁だった王太子ヴァレリアンと結婚した公爵令嬢ディアーヌ。しかしヴァレリアンは身分の低い男爵令嬢に夢中で、初夜をすっぽかしてしまう。代わりに寝室にいたのは、彼そっくりの影武者…生まれたときに存在を消された双子の弟ルイだった。 ※「小説家になろう」にも投稿しています

王様の恥かきっ娘

青の雀
恋愛
恥かきっ子とは、親が年老いてから子供ができること。 本当は、元気でおめでたいことだけど、照れ隠しで、その年齢まで夫婦の営みがあったことを物語り世間様に向けての恥をいう。 孫と同い年の王女殿下が生まれたことで巻き起こる騒動を書きます 物語は、卒業記念パーティで婚約者から婚約破棄されたところから始まります これもショートショートで書く予定です。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

五年後、元夫の後悔が遅すぎる。~娘が「パパ」と呼びそうで困ってます~

放浪人
恋愛
「君との婚姻は無効だ。実家へ帰るがいい」 大聖堂の冷たい石畳の上で、辺境伯ロルフから突然「婚姻は最初から無かった」と宣告された子爵家次女のエリシア。実家にも見放され、身重の体で王都の旧市街へ追放された彼女は、絶望のどん底で愛娘クララを出産する。 生き抜くために針と糸を握ったエリシアは、持ち前の技術で不思議な力を持つ「祝布(しゅくふ)」を織り上げる職人として立ち上がる。施しではなく「仕事」として正当な対価を払い、決して土足で踏み込んでこない救恤院の監督官リュシアンの温かい優しさに触れエリシアは少しずつ人間らしい心と笑顔を取り戻していった。 しかし五年後。辺境を襲った疫病を救うための緊急要請を通じ、エリシアは冷酷だった元夫ロルフと再会してしまう。しかも隣にいる娘の青い瞳は彼と瓜二つだった。 「すまない。私は父としての責任を果たす」 かつての合理主義の塊だった元夫は、自らの過ちを深く悔い、家の権益を捨ててでも母子を守る「強固な盾」になろうとする。娘のクララもまた、危機から救ってくれた彼を「パパ」と呼び始めてしまい……。 だが、どんなに後悔されても、どんなに身を挺して守られても、一度完全に壊された関係が元に戻ることは絶対にない。エリシアが真の伴侶として選ぶのは、凍えた心を溶かし、温かい日常を共に歩んでくれたリュシアンただ一人だった。 これは、全てを奪われた一人の女性が母として力強く成長し誰にも脅かされることのない「本物の家族」と「静かで確かな幸福」を自分の手で選び取るまでの物語。

ローザとフラン ~奪われた側と奪った側~

水無月あん
恋愛
私は伯爵家の娘ローザ。同じ年の侯爵家のダリル様と婚約している。が、ある日、私とはまるで性格が違う従姉妹のフランを預かることになった。距離が近づく二人に心が痛む……。 婚約者を奪われた側と奪った側の二人の少女のお話です。 5話で完結の短いお話です。 いつもながら、ゆるい設定のご都合主義です。 お暇な時にでも、お気軽に読んでいただければ幸いです。よろしくお願いします。

地獄の業火に焚べるのは……

緑谷めい
恋愛
 伯爵家令嬢アネットは、17歳の時に2つ年上のボルテール侯爵家の長男ジェルマンに嫁いだ。親の決めた政略結婚ではあったが、小さい頃から婚約者だった二人は仲の良い幼馴染だった。表面上は何の問題もなく穏やかな結婚生活が始まる――けれど、ジェルマンには秘密の愛人がいた。学生時代からの平民の恋人サラとの関係が続いていたのである。  やがてアネットは男女の双子を出産した。「ディオン」と名付けられた男児はジェルマンそっくりで、「マドレーヌ」と名付けられた女児はアネットによく似ていた。  ※ 全5話完結予定  

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

私を裏切った夫が、後悔しているようですが知りません

藤原遊
恋愛
政略結婚として、公爵家に嫁いだ私は 愛のない夫婦関係を「仕事」だと思い、正妻の役目を果たしてきた。 夫が愛人を持つことも、 その子を屋敷に迎え入れることも、黙って受け入れてきた。 けれど―― 跡取りを、正妻の子ではなく愛人の子にする。 その言葉を、人前で軽く口にした瞬間。 私は悟ったのだ。 この家では、息子を守れないと。 元々、実家との間には 「嫡子以外の子は実家の跡取りにする」という取り決めがあった。 ならば話は簡単だ。 役目を終えた私は、離縁を選ぶ。 息子と共に、この家を去るだけ。 後悔しているようですが―― もう、私の知るところではありません。

処理中です...