彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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室内で掃除をしている男性従業員は放っておいていいのかと困惑しながらも弱気に訊ねた。すぐに片付くだろうと答えて部屋の隅に設けられた小さな更衣室を借りる。目隠しの垂幕の奥で彼はもう少し店長の気持ちを考えたほうがいいというふうなことを躊躇いがちに言った。適当な肯定の形をとって意図の分からない主張を躱す。店長と男性従業員そして裏方を欠いても時間通りに店は開いた。石黄も亡くなり目的を見失ったまま、この仕事を年齢制限まで表で働きその後は裏方として生涯の職にしてしまおうかとさえ思いはじめてきていた。この日ひとりめの客が極彩の待つ個室に入ってくる。さらさらとした茶髪に少し荒れた肌。大きな瞳は純真ばかりで苦手だった。
「ご主人…」
 落ち着きなくもじもじしながら客は俯いていた。店の教え通りに手枷を足元に投げる。勤務中に何度も投げるため金具はすぐ壊れ、皮革部分の真っ赤な塗装も剥げてしまい頻繁に買い換えいているらしかった。
「人の言葉を喋るのはおよし!相応しい格好になるのよ」
 床に鞭を叩きつける。客はびくりと身を竦めた。もう一度鞭を鳴らした。
「…やる気あるのかしら!小僧っ子!ここは相談室じゃないのだからね。お脱ぎよ」
 まだ少年ともいえる客は目を白黒させる。
「御主人…っ」
 極彩は彼に背を向け、座るためだけに置かれた卓に腰を下ろして鞭を撫でた。
「御主人…あの…」
 掌で床叩き棒を弄ぶ。
「脱いで四つ這いになるまで口を利かないんだから、小僧っ子!早くその手枷を付けなさいよ」
 客のほうを一瞥もせずに極彩は叫んだ。甘やかさない態度が素敵なのだと「加虐娘・女豹倶楽部 通信」という広告の新たな案内冊子に記されていた。
「本当に…色街で、働いていたのですね…」
 客の独り言には何の反応も示さず備品を磨いた。場所代や人件費も込みの代金は安くはないというのに客は女豹倶楽部を愉しむ気はないらしかった。
「こういう、人の気持ちを煽る商売は業が深いです。辞めましょうよ、何か、不満なんですか」
 極彩は踵の高い靴を脱ぎ、葡萄果汁飲料を注いだ。
「お飲み!それで許してあげる。次に小生意気な口を利いたらブタ小屋だよ、小僧っ子」
 彼は靴に手を伸ばす。極彩は鞭を叩いた。
「誰が人間みたいに手を使っていいなんて言ったの!ブタが!生意気に!ブタの御霊みたまに申し訳なく思いながら飲むのよ。ワタシが見ていてあげますからね、惨めに靴を舐める恥ずかしい姿をね!」
 叩かれるために壁に張られた補強板を叩き棒で鳴らした。真っ赤に塗られているが何度も塗り直されている。凹んだ痕が照っていた。客は憤激を帯びた音のたび肩を跳ねさせ、目を固く閉じ、耳を塞いでひどく怯えた。女豹倶楽部の特色を理解していないらしかった。互いの役割を通り越し個人の軸まで揺らめいている怖がり方で、乱れた感覚で息を呑んだり吐いたりした。しかし極彩は容赦なく壁を叩く。鞭を鳴らす。
「御主人…怖いです。その音、嫌」
「黙りなさい!」
 叫んで叩いた。瞳が天井に引っ張られ、彼は泡を吹きながらぷつりと意識を手放してしまった。
 
 色街の組合によって失神した客は近くにある診療所へ担架で運ばれた。今日は閉めるか?と店長は冗談めかして言った。極彩は店のひとりひとりに謝って控室に戻される。男性従業員が寝椅子に座った彼女の対面に腰を下ろした。さっきの人、真珠ぱぁるちゃんのこと貰いに来たって言ってたんですけど。気拙げに頬を掻いてその男性従業員は言った。色に狂ってでもいるのでしょう。紅玉るびぃさんに手を出したばかりではありませんか。男性従業員はまだ納得していないようだった。本当は真珠ぱぁるちゃんてどっかのお嬢様じゃないんですか。まだ訊くことに覚悟はついていない様子だた、まさか。極彩は鼻で嗤って誤魔化す。お嬢様なら良かったのですけれど。そう付け加える。相手は無理矢理に同意を示した。真珠ぱぁるちゃん、育ち良さそうなところあったからてっきり…。彼は慌てて謝った。事態が落ち着きをみせ、帰りに客の見舞いに行くという支配人へ日当はすべて彼の見舞金に充てるよう頼むと通常の業務に戻った。閉店時間になり店長に絡まれながら帰路に就く。真珠ぱぁるちゃんの接客は天下一だからな。イミ分からないで来ちまうヤツたまにいるんだよ。ちょっと今日は運がなかったな。店長は一方的に気休めの言葉を並べ、ひとり満足して自宅前で別れる。極彩はそのまま真っ直ぐ暗い道を進み淡藤との口約束を思い出す。焼菓子店の前で以前ぶつかった男女と再びすれ違う。女の顔にぴんときた。蕎麦切山の妊婦だった。しかし親しげに肩を寄せ合い、腰を抱く男は山で会った夫とは違っていた。女は驚愕に目を見開いて隣の男の手を引いた。しかし極彩はすでに「蕎麦切山で会いましたよね」と口に出していた。反応からして相手も極彩を知っているようだった。見た目ではすでに腹には何も宿していないらしかった。男の手が女に触れて距離を埋める。その男はやはり山で会った情けない雰囲気のある夫ではなかった。むしろ正反対なくらいだった。堂々としてどこか威圧感があり、額が広く恰幅のいい、身形は資産家を思わせるような出で立ちをしている。時間が止まったような感じがあった。男は幾分怪しげに極彩を見下ろす。それを連れに挨拶をしない無礼者に向けるものだと解釈した。極彩は彼へ適当な紹介をしようとした。女は焦ったように男を極彩から切り離した。積もる話があるのだと彼女は言って不言通りの大路の外れに腕を引いた。知らない人よ。全然知らない人。女は早口だった。極彩は訳が分からず眉根を寄せた。この辺りに住んでいるたんですか。話を振り出しに戻すつもりで訊ねた。女は目をカッと開いた。貴方には関係のないことですよね。女は狼狽しながら言った。突き放しているのか、確認しているのかも分からない調子で極彩も曖昧な響きを持って肯定する。彼女はもう正気ではない感じがあった。誰にも言わないでちょうだい。慌ただしくその目は様々なものを追っては瞬時に別のものに移り、言い終える前に極彩を鋭く睨んだ。言う相手もおらず、誰かに話すという発想すらもなかった。話題を変えようと、彼女を庇って負傷した群青の無事と近況を伝えた。女はろくに話を聞いている感じがなかった。覚えていないか、興味がないことなのかもしれない。腹の子のことを訊ねようと思ったが、不穏な予感がそれを許さなかった。身籠ったからといって無事に生まれているとは限らないのだと何かの書物に記されていた気がする。
 極彩はふと彼女から目を逸らした。路地の時に子供がひとり、2人を窺っていることに気付いた。女の感情的な口調と落ち着きのない態度を一旦区切らせ、子供のほうへ歩いた。全体的に青白い感じがあった。路地のほうへ喋りかけている極彩に女は何事か訊ねた。子供がみていたのだと教えた。周囲を見回してみるも親らしき者が見当たらない。子供は話しかけている極彩よりもその奥にいる女を見上げていた。彼女はやめてよ、と言った。素直に謝る。やめてよ。女はまたやめてよ、と言った。極彩はまた謝った。子供を亡くしたばかりの母親だ。もしかすると見つかったのかも知れないが、極彩の知る限り、木賊とくさという男児はすでに蕎麦切山で死去している。山に籠っている修験者の話した子供と同一人物であるのなら。
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