彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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「紅、桜花さくら観に行きたい?」
 木蘭寺にも桜花の木があった。天藍から言われた会の場所は早苗川埋立跡地の土手で、他にも淡香寺にも大きな桜花の木が植えられていたことを覚えているが、そこには足が向きそうになかった。紅の返事次第で料理を作って2人で出掛けるのも吝かでない。しかし彼は小さく首を横に振った。癖のある毛を撫でて抱き寄せる。
「そう。でも気が変わったらいつでも言ってね」
『自分を刺した女と出歩きたいと思う人、いる?顔にキズもあんのにさ』
 極彩は華奢な体躯に絡ませた腕を解いた。
「たまには外、出たいでしょ」
 声は掠れてしまう。小さな顔に嵌まった大きな目は彼女を見上げるだけだった。


 求婚者が持ってきた白い薔薇そうびは日が経つにつれ薫った。ひとつの花瓶には収まらず、居間や寝室、台所の各所に分けて囲まれるように置かれている。鼻は慣れることなく、桜に対する苦々しい感情から逃れられなくなってしまう。やることがあるときはまだ気が紛れたものだが、家事を終えてしまうと卓袱台の前に座って庭を視界に入れながら息苦しい己の行いに浸っていた。そうしているうちにどれくらいの時が流れたのかは分からなかったが日差しの具合からするとそう長くはないようだった。客人が訪れたらしく部屋の隅で項垂れている紅が音もなく立ち上がった。極彩も引戸の叩かれる音を聞いて玄関へ出る。訪問者は薄紅色の衣を身に纏う杏だった。可憐な色味が彼の厳つさも帯びた華麗で小粋な体型に不釣り合いだったが、言葉を交わしたことがあればその意外にも柔和な内面をよく表しているようでもあった。杏は極彩と並ぶように出てきた紅を一瞬だけ気にしたが、すぐに適当な挨拶をした。唇に走った傷は相変わらずで消える様子もなかったが、他に目立った外傷は見当たらない。極彩は急かすように居間へ案内する。杏は彼女へあわ饅頭の包みを渡した。座布団を出して杏に茶を淹れた。紅は自発的に隣室へ移動したようで居間に戻ってきた頃には姿を消していた。
「もう怪我は大丈夫なんですか」
「ああ…白梅は元気に…しているのか?」
「はい」
「…なら良かった。大変だったろう」
 杏は湯呑を嬉しそうに握る。
「いいえ。わたしはどこも痛めていませんから」
「肉体的な…話だけではなく。だが…無理はしないことだ。怖くなったら、抑えないほうがいい」
 わずかな機微はあるが表情に乏しい顔が柔らかく微笑んだ。極彩は鼻の奥が沁みていくのを感じる。
「ありがとうございます」
「柘榴も…心配していた。杏は、白梅と…会わない方がいいと思っていた。あの日のことを…思い出さないように」
 肉体の反射が如く極彩は否定していた。
「そんなことはありません。会いに来てくださって嬉しいです。柘榴さんの言うことを信じていなかったわけではありませんが、一目見ないことには落ち着かないものですから。ただ、こちらから先に窺えずすみません」
「気にするな…まだあまり、自由も利かない身なのだろう?」
 薄い色をした傷が緩やかに撓む。
「いただいたお菓子、出しますね」
 一度台所へ逃げてしまう。安堵が込み上げ、同時に、助からなかった者や助かる見込みの無さそうな者、生涯の傷をを負った者たちの光景がまた生々しく目蓋の裏に貼り付き、処理の追い付かない感情に呑まれかける。大きく息を吐いてから冷えた水を口にした。盆に粟饅頭3つと尖匙を添えて杏とその向かいに小皿を出し、隣室にも運んでいった。紅には細心の注意を払うように言って茶と共に菓子を置いた。
「外は…もう桜花さくらが咲いている。長春小通りの東の並木道の桜花は見事だった。…機会があれば、観に行ってみるといい…杏のおすすめだ」
「そうですか。もし行くのなら木蘭寺にしようと思っていたものですから。機があればそちらにします」
 杏は隣室の襖を見てからそう言った。花見についてはすでに紅から断られているが気が変わるかも知れない。ただ極彩はその傍に自分が立つことに引け目を感じるのだった。
「それとも…みんなで行くか?柘榴たちも誘って…銀灰と、桜と…胡桃は…来られるだろうか…」
 杏は指を折って共通の親しい人物を挙げた。極彩は口を開いたまま固まってしまう。杉染台にはもう顔を出せないのだと知る。
「……桜花が散る前に行けると良いですけれど」
 建前でさえ快諾できずにいた。杏は無表情に戻り一度湯呑へ視線を落としてから彼女に向き直る。
微笑わらえない…話だった…すまない」
「…え?」
「柘榴から…2人の話は白梅の前でするな…と。だが…白梅といてこの2人の話をしないのはかえって不自然だ…杏は上手くやれなかった。嫌な話題を振ったかも知れない…」
 彼は申し訳なさそうに眉を下げた。粟饅頭を極彩は小さく刻んだ。餅に似た弾力と粘り気のある生地には粟の色味が残っている。中には漉餡こしあんが詰まっていた。
「いいえ、そんな…気を遣わせるようなことをしてしまって、何と言っていいか…」
「そういうことも…ある。何があったかまでは…聞いていないが…聞くつもりもない。だから…話さなくていい。互いに考えがあるのだから…仕方ないのかも知れない」
 杏も彼女につられるように小さく切った粟饅頭を口にする。彼は「美味い」と呟いた。沈黙が流れる。何か話さなくてはならないという焦りや義務感が彼と居ると不思議と湧かなかった。そして相手もまたそう感じ、承知しているようだった。
「柘榴は…銀灰を息子とか…弟みたいに思っている。歳も離れているから…杏のことよりも心配する。父親ともそれなりの交友があったから、尚更。だから…きっと、もしかしたら、行き過ぎたことを白梅に対して…言ったかもしれない。あまり気にしないほしい…何というか…ああ見えて柘榴も、自省的なところがあるから…白梅に幾度となく…無理難題を吹っ掛けたとか、何とか」
 杏は菓子を切る手元を注意しながら喋った。反対に極彩の手は止まっている。口に合わないわけではなかった。なめらかな舌触りも弾力のある食感も素朴な穀物の甘味も好みなくらいだった。
「そんなことは…わたしのほうこそ歯切れの悪い受け答えしかできずに…」
 尖匙が粟の練り込まれた生地を割る。一度歪んでから弾みを持って断たれる。
「銀灰のについては…暴走し過ぎる節があることは…自他ともによく分かっているから、白梅は…そう卑下しなくていい…」
 最後の一口を食べ終え杏は両手を合せて礼をした。そして喉を潤す。話に一区切りがつき、極彩も粟饅頭を食べ終える。彼は極彩の後ろにある窓から裏庭の木々を眺めていた。
「…桜が…色街で働き始めた。後から知る前に…先に伝えておく。本人たちからは…口止めされてはいるが…」
「柘榴さんからも聞いています。どんな店かはご存知ですか。そこまではまだ聞いていないのです」
 杏は幼い仕草で首を傾げた。
「兎の耳を付けた女たちが…踊る場所らしい。桜は客に…酒を運んだり会計する仕事だと…言っていた。桜自身が…身を売るというような…ものではないらしい、が…まだ新しい店らしい。杏もよく分からない」
 色街の娼婦区域よりも不言通り寄りに並ぶ店はまだその営業形態が新しく、店の特色によって区々まちまちだった。愛庭館めいていかんや女豹倶楽部もそこにある。噂では飲食店のように見せかけ、客の傍で妖艶な体勢をとったり、故意的に肌や肌着を晒しながら接客・配膳するという店もあるらしかった。
「その店の名は…?」
晴流兎麗歌はるうららか
 杏は少し自信のなさそうに店名を告げた。看板や冊子でならば目にしたかも知れないと思ったものの極彩も初めて聞く店だった。
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