彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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 無精髭を剃ったばかりの張りのある顎を撫でながら中年男は肩腰に首だけ曲げた。ふと何の気なしに結婚式場でこの者から聞いた話を思い出す。そこから導かれたひとつの疑問。
「菖蒲殿は、わたしたちの後見人をご存知なんですか」
 相談されていた可能性は低い。叔父は謀反人だ。そして菖蒲は不信感を口にしようとも結局のところ城の人間だ。
「知っている、というほど確定的ではありません。ただ、もし、極彩さんを若様から遠ざけたいとなった時に任せる相手として心当たりはあります。ただやはり、飽くまでもボクの推測に過ぎませんので口にするのは控えさせていただきたいものです」
「ではもうひとつだけ訊かせてください。その御人は菖蒲殿からみて、銀灰くんを預けるに足る人ですか」
 彼は極彩が思うよりも間を置いた。それが肯定か否定か二択のうちの答えだった。
「不安を与えるつもりはないのですけれども、この質問にはできるだけ誠実にお答えしたいのです。もしその後見人がボクの予想どおりの人であるならば、結論から申し上げて彼はろくでなしです。節操なしの甲斐性なしに足が生えているような人です。そこに呑んだくれときた」
 菖蒲はまた庭を眺めた。癖のある毛は整えたようだが結婚式場で会った時よりも甘かったらしく、すでに好き放題外に跳ねていた。
「そうでしたか。分かりました。ありがとうございます」
「いいえ、いいえ。気を付けていってらっしゃいませ」
 極彩は頭を軽く下げてから門へ出、天晴組に用件を告げた。商店街は近くにあったが遠回りをする。目頭が熱くなる。城で純真無垢な若者を連れ歩いていた日々が懐かしかった。もう戻れないのだろう。関係も、取り巻いていた環境も大きく変わってしまった。他人からいとこへ、いとこから弟になった少年の傍にすらももう居られない。大通りに出る前に大雑把に目元を拭い、人混みに彼女も溶けていった。

 桜が屋敷を訪れてから数日が経った。その間極彩は深いな夢ばかりみた。汗で背を濡らし、冷たく小さな手が重苦しく粘りついた泥のような感覚から掬い上げ、朝を迎えている。知らず知らずのうちに魘され、彼の浅過ぎるほどの睡眠を妨害しているような気がして極彩は傍らに座る紅へ謝った。緋色の大きな瞳は彼女を少しの間透かすように見つめたかと思うと途端に興味を失う。このようにして目が覚めるともう一度寝る気も起こらず、早朝ながらも活動の支度をはじめた。
 夢は決まって女が森へ男児を連れて行くところから始まった。繋いでいた親子と思しき手が離れ、指が暗い森の入口を示す。弓と矢だけを持ち、木々の中奥深くへ進んでいく。この子供には見覚えがあった。しかしいつどこで会ったのか、それが思い出せない。この子供を知っているということさえ不確実なものだった。また別の夢では、やはりこれもどこかで見た覚えのある気の弱げな男が藪の中で女を暴くというものだった。日常を過ごしながら掠れ、忘れかけていた苦々しく痛ましい記憶が蘇る。溜息を吐いた極彩を紅は見つめるだけだった。
「少し早いけど、朝ごはん作るから待っててね」
 彼の赤茶色の癖毛を撫で付け、布団を上げてから台所へ向かう。粥を作っている間、味噌を熱湯で溶いている間、目覚めているというのに胸苦しい夢の中のことが頭から離れない。毎朝の決まった作業の邪魔になった。粥に入れる卵を割った際に殻が混入したり、味噌汁に入れる豆腐の存在を切ったまま忘れてしまう。著しく集中力が低下していた。もう誤魔化せない。怪我をする前に紅の朝食を用意した。鍋に入れる時機を失った豆腐は冷凍した長ネギを添え醤油をかけた。紅の食事を見守りながら昨晩残したままの洗濯物を畳んでいく。今日は少し天気が悪かった。顔面の傷が緩やかながらも疼いている。紅の切断された腕は傷まないのかと心配になった。彼女の記憶が正しければ鎮痛剤は救急箱の最上段奥の隅にあったはずだ。
「紅。腕のところ、痛くなったら言うんだよ。薬あるからね」
 畳み終えた洗濯物の山を片付けながら食器の音も立てず朝飯を食らう紅に声を掛ける。小さな頭が頷いた。彼が食事を終えると極彩は少し硬くなった米に生卵と醤油をかけて短時間で朝食を済ませた。早起きした分の眠気が訪れ、卓袱台に伏せて少しの間目を閉じていた。肩に柔らかな物が掛けられる。上体を起こすと紅の膝掛だった。無表情と視線がぶつかるが彼はすでに定位置になっている部屋の角に戻っていた。
「ありがとう。使わせてもらうね」
 彼はもう項垂れ、極彩は目を閉じようとした。だが卓袱台の上に時雨塗りの短刀が置かれていることに気付いて目を見開く。この刀自らがここまで歩いてきたとは到底考えづらかった。とすると運べたのは紅しかいない。極彩は彼の姿を確認しようとしたが、やめた。桃花褐の助言のとおり手入れをし、いましめを解いてから奇声を発することはなくなった。次の段階として自ら歩行が可能になったのかも知れない。滑稽な発想を一蹴して極彩は短刀を卓の上から降ろした。また浅い眠りに落ち、深く沈んでしまう。また恐ろしい夢がはじまった。見覚えのある男児が軽装で森に入り、溌剌とした様子は怯えに変わり、幾度か振り返りながらやがて崖から転落する。その流れをどこかで目にしたような、或いは耳にしたような気がして意識が浮上する。彼の名が出てきかけている。天気の悪い庭が目の間に広がっている。横を向くと紅がいる。男児の名はもやがかかったように出てこない。この男児を知っているのは夢の中だけのことだったのか、それとも現実だったのかはっきりさせられなかった。だが思い出そうとする執念を捨てると染み出るようにその名が脳裏に現れた。木賊とくさだ。その両親にも会っている。しかし夢に過ぎなかった。脈絡のない作り話に整合性を取ろうと知った情報から欠落した部分を補ったに違いない。何故木賊の母親が子を森に置き去りにしたなどとこの夢は語るのだろう。後ろめたさが極彩の中に湧いた。
日が高く昇る時間になっても今日の空は暗かった。淀んだ雲が一面を覆っている。この屋敷にいる理由も、そうなるまでに至った経緯も忘れ、考えもせず庭の木々を眺めぼんやり過ごしていた。紅が傍にいる。緋色の双眸と視線がぶつかった。この生活を失いたくない。諦めに似た答えが出てきそうなところで玄関扉が叩かれる。訪問者は天晴組の羽織を身に纏っていた。淡藤だ。彼は恭しく揖礼する。まだ年若い組員も一緒だった。
「どうしました」
「若様からの書簡を預かっております。ご査収のうえ、ご対応のほどよろしくお願いいたします」
しかと受け取りました」
 書状を受け取る。それには天藍の印字と見違えるほどの正確無比な字で極彩の名が記されている。金糸の練り込まれた紐を解き、内容を一読する。「勝鬨かちどき桜花さくらを愛でる会」という公的行事の参加を堅い文面で誘われている。極彩は淡藤の愛想のない顔をかまちから見下ろした。
「いかがなさいます」
「お断りします」
 蛇腹になっている書物を畳み、紐を縛り直す。
「ご理由をお伺いしたく存じます」
「個人的なものに過ぎません。わたしの参加する必要性が見当たらないからです。洗朱風邪や不言通りの爆破騒ぎがあって間もありませんから、そこに官吏やそのご家族・関係者でもないわたしが特別扱いのもと、どんちゃん騒ぎというのも気が引けて」
「承知しました。ではまた何かありましたら」
 淡藤は再び揖礼し、連れとともに引き返していく。外は桜花さくらの時期らしい。広い居間の端に小さく収まっている紅を一瞥する。彼も極彩を見ていた。
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