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第一章 壬生の狼 其の四
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土方が京都守護職を出た頃には昼を過ぎていた。
土方は、狼顔を拘束している廃寺に戻る前に屯所に立ち寄った。見張りをしている沖田、そして狼顔の男に昼飯がいるだろうと思い、まかないの隊士に握り飯を作らせるためだ。
自分にしては妙な気遣いをする……土方は思った。
普段なら決してこんなことはしない。人を気遣うなど自分には無縁の話。ましてや狼顔は下手人、尋問相手に情けをかける必要はない。だが、あの狼顔が激昂した後、絞り出すように放った言葉が妙に胸の奥を突く。
「俺は違う……俺は野良犬でも狼でもない。……人だ」
獣のごとく獰猛な姿からは想像できないほど弱弱しく、それでいて、人ということにこだわる強い意志……いや、強い意志ではない。あれは、人と思わなければ自分が自分でなくなってしまいそうな焦りや不安、そして深い悲しみが入り交じった声だった。あの声には、暗闇の中で消えそうな小さな光を必死で握りしめている……そんな哀れみが漂っていた。
そこまで考えて、土方は胸の奥に訴えかけてくるものの正体がわかった。
……あれは昔の俺だ。
「俺は違う……こんなことをするために生きてるんじゃない……俺は侍だ」
多摩にいた頃、家業を助けて薬の行商に出る毎日の中、置かれた身分や立場に押しつぶされまいと、侍になるという小さな光を必死で握りしめていたあの頃の自分……狼顔の素性はわからないが、彼の言葉に秘められた鬱屈した気持ちに、そんな昔の自分を無意識に重ね合わせていることに、土方は気がついた。
隊士が笹にくるんでくれた握り飯を小さな風呂敷に手早く包むと、土方は足早に台所を出た。その背中を「トシ」と大きな声が呼び止めた。近藤だった。
佐々木といい、近藤といい、今日は間の悪い時に人と出くわす日らしい……土方は自分の悪運を心底呪ったが、近藤はそんな土方の心の内も知らず、明るく話しかけた。
「どこへ行く?」
「例の事件の聞き込みだ」
土方は嘘をついた。
近藤に嘘をつくのは気がひけたが、狼顔のことは何もわかっていないに等しい。近藤に話すのはもう少し詳しいことがわかってからと決めた以上やむを得ないと自分に言い聞かせた。
「副長直々とは精が出るな。よろしく頼む」
近藤はそう言って去ろうとしたが、振り返って改めて尋ねた。
「そうだ。総司がどこにいるか知らんか?」
この問いには、さすがの土方もギクッとした。
沖田は今、自分の仕事の片棒を担いでいる。しかもそれは近藤には秘密にしていることだ。その沖田の所在を聞かれるとは思いもよらなかったが、ここは平静を装い、しれっとかわすしかない。
「総司に何か用か?」
「いや、特にないんだが、待機してる一番隊の中に姿が見当たらん。隊士に聞いたら、自由にしていいと命じて一人で消えてしまったと言うんだ。まったく、どこをほっつき歩いてやがるのか……」
下手に話すと墓穴を掘ると土方が黙っていると、近藤が土方の持っている包みに気づいた。
「何だそりゃ、握り飯か?」
土方が見ると、風呂敷の端から握り飯をくるんでいる笹の葉が少しはみだしている。急いで包んだせいか、しっかり包み切れていなかったらしい。
「ゆっくり飯を食う暇がなくて。どこかで合間に……」
土方はもっともらしく答えたつもりだが、うしろめたいところに動揺が追い打ちをかけ、どこか歯切れの悪い言い方になってしまった。
だが幸いにも、近藤はそんな土方のささいな動揺に気づかなかったらしい。
「そうか。動き回るのは結構だが、飯だけはちゃんと食えよ」
と、笑いながら土方の肩をポンと叩き、屯所の中へ消えていった。
「ふう……」
土方は安堵のため息をついた。
他の人間ならいざ知らず、盟友の近藤に隠し事をすることがこれほど気疲れするものなのかと土方は改めて思い知った。
こんなことなら、さっさと狼顔に洗いざらい吐かせ、近藤さんに全部話しちまった方がよっぽど気が楽だ……そう思った土方は、風呂敷からはみ出た笹の葉を乱暴に押し込み、廃寺に向かって足早に歩き出した。
◯
土方が廃寺に着くと、本堂にあがる階段に腰かけた沖田が、虫とじゃれているのが見えた。
「見張りは?」
「大丈夫です。彼は眠ってます」
「眠ってるからって目を放せば見張りにならんだろう」
言いながら、土方はすぐさま本堂の中を覗き込んだ。暗がりの中、柱の下で縛られたまま首を垂れている狼顔が見えた。
「土方さんが出かけてから変わったことはありません。話しかけても何も答えないし」
見張りが相当退屈だったらしく、沖田は伸びをしながらあくびまじりで説明したが、
「そうだ、一つだけ」
と何かを思い出し、懐から鈴を取り出した。
それは、土方が狼顔の足元に置いた鈴だった。
「これを無下に扱うなと叱られちゃったんですよ。汚い床に置きっ放しにするくらいなら、しっかりしまっておけって。だから僕が拾って、土方さんに預けておくと言っておきました」
そう言いながら、沖田は土方に鈴を手渡した。
土方は鈴を受け取りながら、これが狼顔にとって重要なものであることを改めて感じた。鈴があの男の素性に大きく関係していることは間違いない。頃合いを見て、鈴に関して詳しく尋ねる必要がありそうだ。土方がそんなことを考えていると、沖田が風呂敷包みに気づいた。
「何です?それ」
「昼飯だ」
「わあ、嬉しいなあ!お腹がぺこぺこだったんですよ」
沖田はそう言いながら、土方から受け取った風呂敷包みをニコニコと解き、握り飯をくるんだ笹を開いた。
「おいしそう!しかもこんなにいっぱい!」
「半分は奴のだ」
そう言った土方を沖田が意外そうに見た。
「珍しい。土方さんらしからぬ心遣いですね」
その言葉に、昔の自分と狼顔を重ねていることを見透かされた気がして、居心地が悪くなった土方は、「尋問を再開する」と話を逸らすように本堂に入っていった。そんな土方の照れ隠しにニヤリとする沖田は、握り飯を頬張りながらあとに続いた。
土方が頭を垂れて眠っている狼顔に「起きろ」と声をかけると、狼顔はゆっくり目を開き、顔をあげた。
「よく眠れたか……?」
「……」
「お前の言う京都遠征隊を調べた。その隊は確かに会津藩に存在した。お前が名乗った男がその隊にいたかは、名簿を調べてもらっている」
「……」
「だが、その隊は半年前、京都へ向かう途中で消息を絶ち、三十名の隊士は行方がわからないらしい」
「……」
「となると、改めてお前は怪しい。消息を絶った男の名を語る偽物かも知れんからな」
「……」
狼顔は沈黙したまま、土方の話を聞いている。
「お腹が減ってるなら、これどうぞ。土方さんからの差し入れです」
沖田が狼顔に握り飯を差し出した。
「こう見えて優しいところがあるでしょ?」
そう言って笑いながら横目でチラッと自分を見る沖田を押し返し、土方は話を戻した。
「お前は本当にその隊にいたのか? だとしたら、なぜ隊は消息を絶った?」
「……」
変わらず沈黙を続ける狼顔に土方は言い放った。
「だんまりを決め込むのは構わん。だが、話す以外に身の証を立てる術はない……お前が人である証を立てたいならな」
その言葉に狼顔の瞳がギラッと光った。
土方は、その光を見逃さなかった。この男にとって、人であることは自分の生きる証なのだ。
「さあ話せ、お前が人である証を」
狼顔は土方をジッと睨みつけていたが、ゆっくり目を落とし、やがて静かに口を開いた。
「これから話すことを本当に信じて──」
と話し始めた時、耳をつんざく轟音が本堂に響き渡った。
それは腐りかけた壁がぶち破られた音だった。そして同時に、飛び込んできた巨大な影が土方に向かって一直線に襲いかかってきた。
土方も沖田も一瞬何が起こったかわからなかったが、襲い来る敵から反射的に飛びのき、抜刀して構えた。
攻撃をかわされた影が、体制を立て直してゆっくり振り返る。壁にできた大きな穴から差し込む外光が照らし出したのは、浪人笠を被った侍……というより相撲取り、いや、それを遥かに凌ぐ大巨漢の男であった。
男は、被っていた浪人笠を乱暴に投げ捨てた。明らかになった顔に、一同は目を奪われた。血走った目を土方に向けるその男は、人の着物を着た獣……羆の顔を持つ異形の者だった。
「……嚥獣(のけもの)」
異形の男を見た狼顔が呟いた。
その言葉に一瞬気をとられた土方の隙をつき、《羆顔》が鋭い爪を立て、襲いかかった。飛び出した沖田が攻撃を弾き、土方を守るように構えながら目を輝かせた。
「狼顔に続いて羆顔とはますますおもしろい」
誘うように剣を向ける沖田めがけて、羆顔が突っ込む。大きく振りかぶった羆顔の攻撃を沖田が身を沈めてかわすと、頭上をすりぬけた獣の手が沖田の背後にある柱を叩き折った。
沖田は、沈んだ姿勢から素早く剣を斬り上げるが、羆顔は横薙ぎにそれを払い、剣を弾き返した。沖田は弾かれた力を利用して受け身をとり、体制を立て直して間合いをとった。
「大きい割に動きがいい」
「気をつけろ、総司」
土方は沖田と並んで構えた。
「わかってます。こいつの動きはもう見切りました」
そう言って、剣を構え直した沖田が、ゴホッ!……ゴホゴホッ! と、突然激しくせき込んだ。
「総司!」
苦しそうにせきをしながら膝をつく沖田に土方が駆け寄った。
肩で息をしながら口を押さえる沖田の手に吐血した血が滲んでいる。
沖田は労咳を患っていた……。労咳とは、肺が菌に侵される病である。治療が難しく、かかった者は絶対安静、無理をすれば命を縮める。沖田の病状はまだそれほど重くないが、こうして突発的に発作が現れ、それはいつ襲ってくるかわからない。この病は沖田が抱える爆弾であり、天才剣士が持つ唯一の弱点であった。
「大丈夫です……」
笑顔を作って土方を見る沖田の顔は青ざめている。彼が大丈夫でないことは、土方も十分わかった。
「下がってろ。こいつは俺が……」
そんな二人に羆顔が容赦なく襲いかかる。土方は、沖田を守るように迎え撃ち、自分に注意を引きつけながら羆顔の攻撃をかわし、腕や肩を斬りつけた。
だが、相手は獣の力を持つ異形の者、生半可な斬りこみではびくともしない。羆顔は土方が斬りこんだ剣を素手で受け止め、がっちり握り込んだ。土方は剣を奪われまいと抗うが、羆顔は握り込んだ剣を大きく振りほどき、土方ごと勢いよく弾き飛ばした。ふっ飛ばされた土方は、柱に縛られた狼顔の足元に激しく体を叩きつけられた。
「ううッ……」
叩きつけられた衝撃はすさまじく、すぐさま起き上がることはできない。もしかすると、あばらの二~三本は折れているかも知れない。
動けぬ土方に向かって、羆男がゆっくりと歩き出した。
「土方さん……」
沖田は、土方を守らんと立ち上がったが、再び発作に襲われ、がくりと膝をついた。
羆顔に抵抗する術はもはや二人にない……と、思われたその時、倒れた土方の頭上から声が降ってきた。
「縄を解け!」
見上げると、熱を帯びた狼顔の瞳と目があった。
「解け!早くッ!」
狼顔は急きたてるが、土方は拒んだ。
「お前を逃がすわけにはいかん」
「逃げるものか! 俺がこいつを倒す!」
「何……?」
ゆっくり近づいてくる羆顔をチラッと見ながら、土方は狼顔に言い放った。
「こいつはお前を助けに来た仲間だろう?」
「違う! こいつは仲間じゃない!」
「信用できん」
「今、証明する。こいつを倒し、俺が潔白である証を立てる!」
狼顔は叫んだ。
羆顔は間近に迫っている。次に襲われれば、動けぬ土方は確実に命を落とす。
「早く縄を!」
「……」
土方は狼顔の呼びかけに応えない。
羆顔は土方の目前まで来ると立ち止まり、倒れて動けない獲物をなめ回すように見下ろした。そして、獣の咆哮をあげ、とどめの一撃を振りおろした。
その刹那、土方の剣が一閃……! 同時に狼顔を縛る縄が真っ二つに切れた。
土方と狼顔は、鋭い爪を間一髪でかわし、両脇に飛びのいた。
「やられるところだったぞ!」
狼顔は土方に言い放つと、手を覆っていた布切れを牙で乱暴に噛み破った。バラバラちぎれる布の中から鋭い爪が姿を現した。
渾身の一撃をかわされた羆顔がゆらりと振り返った。
狼顔は、自由になった爪を武器のように構え、羆顔に問うた。
「お前も嚥獣か?」
羆顔は答えるかわりに咆哮をあげ、狼顔に襲いかかった。
力任せに腕を振り、尖った爪で狼顔を切り裂こうする羆熊。その攻撃をしなやかな動きで俊敏にかわし、鋭い爪で果敢に切りかかる狼顔。両者隙のない一進一退の攻防が土方の目の前で激しく繰り広げられる。
こいつらの戦いは、人の形をして着物を纏ってはいるが、人同士の斬り合いとは明らかに違う……まさに、狼と羆の野生の戦い。獣の力がぶつかりあう生死を賭けた戦いだ……戦い慣たれ土方でさえ、思わず目を見張るほど、二人の戦いぶりは凄惨で異質な気迫に満ちていた。
羆顔の懐に飛び込んだ狼顔の爪が、羆顔の胸を大きく切り裂いた。羆顔は痛みに悲鳴のような鳴き声をあげるが、すぐに気を取り直し、狼顔を羽交い絞めにすると、強烈な力で首を絞めあげた。
「ガ……ガルル……」
羆顔の爪が食い込む首に血が滲む。狼顔は、苦しげな唸り声をあげながら、自分を締め上げる腕をひっかき、あがいた。だが、羆顔はビクともしない。
抵抗むなしく、息の詰まった狼顔が気を失いかけたその時、
「ウガア!」
羆顔が大きな叫び声をあげ、狼顔を手放した。
見ると、羆顔の腰から腹にかけ、深々と刺さった剣が貫いている。それは、狼顔を助けんと、なんとか立ち上がった土方が放った渾身の一撃だった。
羆顔は、剣の刺さった傷口からどくどく血を滴らせながらゆっくり振り返り、怒りに血走った目で土方を睨むと、力任せに踏みつけた。
「うがッ……!」
苦しみの声をあげる土方をいたぶるように、羆顔は更に足に力を込める。
最後の力を振り絞り、急所を狙って一撃必殺に賭けたが、仕留めそこなったらしい……土方は踏みつけられる痛みに耐えながら、自分がこれ以上動くことはもはやできないと悟り、死を覚悟した。
その瞬間、土方を踏みつける羆顔の足が緩んだ。
見上げると、羆顔の頭に狼顔がとりついている。気を失いかけた狼顔だったが、正気を取り戻して飛び上がり、最後の力を振り絞って羆顔に食らいついたのだ。
羆顔は必死で振り払おうとするが、狼顔は決して離れない。そして、口から大きく生えた牙で激しく噛みつくと、羆顔の首を力任せに食いちぎった。
「ウガアアアアアアアーッ!」
首を大きく食いちぎられた羆顔が呻き声をあげ、暴れ出した。
首から血を吹き出しながら狼顔を乱暴に振り落とすと、本堂の中をのたうちまわり、勢いあまって本堂の扉に激突、そのまま扉をぶち破って倒れ伏せた。その体は、しばらくビクンビクンと痙攣していたが、やがて動かなくなった……。
「はあ……はあ……」
肩で息をする狼顔は、血まみれの牙がむき出しになった口を拭うと、その場にガクリと膝をついた。
痛みをこらえながら体を起こした土方は、壁にもたれて座っている沖田に声をかけた。
「大丈夫か、総司?」
「はい。すみません、肝心なところで……」
すぐ立ち上がれるというほどではないが、沖田の発作は収まり、幾分元気を取り戻したようだ。沖田の無事を確かめた土方は、狼顔に声をかけた。
「そっちは?」
「なんとか生きている。それより、見ろ」
狼顔は絶命した羆顔に目をやった。
「お前が俺に見せた獣の毛……あれはおそらくこいつのだ」
それを聞いた土方は、懐に入れていた獣の毛を取り出し、羆顔の体に生えている毛と照らし合わせた。
土方の持つ毛と羆顔に生えている毛は一致した。狼顔の毛は一見よく似ているが、改めて見ると、色合いや長さが確かに違う。狼顔の言う通り、惨殺現場に落ちていた獣の毛は、羆顔のものだ。指先からのびた五本の鋭い爪も、その幅や大きさから考えて、土方が見分した骸にあった傷跡と一致するに違いない。先の戦いで見せた羆顔の腕力なら、頭蓋を一撃で砕くこともたやすいだろう……土方は、羆顔が叩き折った柱に目をやりながら、眼の前に倒れている羆顔が一連の事件の下手人であることを確信した。
「俺の潔白はこれで証明された」
狼顔の声に土方が目を向けた。……その瞬間!
「うがあああ!」
一同の背後に倒れていた羆男が雄叫びをあげ、突然立ち上がった。
予期せぬ事態に、一同は臨戦態勢をとる暇もなく、いや、正確には、全ての力を使い果たし、動くことがでなかった。
万事休すとなった土方達にとどめを刺さんと、羆顔が大きく手を振り上げた。
だが、鈍い斬撃音と共に、その動きがピタリと止まった。そして、脳天から勢いよ
く血を吹き出しながら、羆顔は手を振り上げた姿勢のままゆっくり前に倒れた。
状況がわからず、倒れた羆顔を呆然と見る土方達に声が聞こえた。
「よくわからねえが、お前らを襲おうとしたってことは、敵で間違いねえな」
見ると、脳天を割られて倒れ伏せた羆顔の向こう……本堂の階段に、剣を振り下ろした姿の近藤が立っていた。
「……近藤さんがどうして?」
土方は、安堵と驚きが入り交じった声で尋ねた。
「お前の様子が変なんで後をつけたら、こいつに出くわしてな……」
足元に倒れる羆顔を見下ろし、近藤は経緯を話し始めた。
近藤は、屯所で会った土方の様子がおかしいことに気づいていた。そして、土方が屯所を出ると、気づかれぬよう後をつけることにした。
だが、しばらくすると、その自分をつけている存在に気がついた。それは、浪人笠を深く被り、顔を隠した大巨漢の男だった。近藤は、尾行をまこうと道をはずれたが。その男は、道をはずれた近藤ではなく、土方の後をつけてゆく。つけられているのが土方だと知った近藤は、そのあとを追うことにした。
だが、近藤の追跡に気づいたのか、男は雑木林に入ると道を変え、行方をくらませてしまった。男を探すうちに近藤は道を見失ったが、獣が唸るような声が聞こえてきた。声を頼りに廃寺までたどり着くと、先の男が本堂の扉をぶち破って飛び出してきたところだった。
「しかし、こいつの顔がこんなだとは思いもよらなかったぜ」
そう言う近藤だが、羆顔の容姿に別段驚く様子はない。沖田と同じく、肝が据わっているのか、それとも感覚が常人と違うのか、こんな変わった輩も世の中にはいるのかくらいの物言いである。
「で、トシ。こいつは一体何なんだ?」
近藤は、改めて土方に尋ねた。
「わからねえ。だが、一連の暗殺事件の下手人であることは間違いない」
「ほお……。で、そっちのは? なんだか似たようなのがいるが」
と言いながら、近藤は狼顔をジロリと見た。
その眼光の鋭さに狼顔は思わず身を固くした。本当は、近藤と土方が話している隙に逃げおうせるつもりだった。だが、近藤が発する威圧感に呑まれてしまい、いつのまにか逃げる機会を失ってしまっていた。
「この人は悪い人じゃありません。僕らを助けてくれたんです」
沖田がゆっくり立ち上がりながら近藤に言った。
「そうか。ま、聞きてえことは山ほどあるが、詳しいことは後でゆっくり聞こう。それより、まずはお前らに、俺に黙ってコソコソやってたことを詫びてもら……」
「詫びはあとだ、近藤さん」
土方の神妙な声が近藤の言葉を遮った。
「これを見ろ」
一同は、土方の指さす方を見た。指先には、さっき近藤が倒した羆顔が倒れていたが、血にまみれたその顔は、羆のそれではなく、無精ひげを生やした人相の悪い男の顔に変わっていた。
「どうなってんだ、トシ!」
さすがの近藤もこれには驚いた。
土方は狼顔に尋ねた。
「お前ならわかるだろう」
「……」
狼顔は答えなかった。
いや、土方の声が耳に入らなかったのかも知れない。
彼は、人の顔になった「元」羆顔の男をただジッと見つめていた。その瞳に言いようのない悲痛の色を深く浮かべながら……。
…続く
土方は、狼顔を拘束している廃寺に戻る前に屯所に立ち寄った。見張りをしている沖田、そして狼顔の男に昼飯がいるだろうと思い、まかないの隊士に握り飯を作らせるためだ。
自分にしては妙な気遣いをする……土方は思った。
普段なら決してこんなことはしない。人を気遣うなど自分には無縁の話。ましてや狼顔は下手人、尋問相手に情けをかける必要はない。だが、あの狼顔が激昂した後、絞り出すように放った言葉が妙に胸の奥を突く。
「俺は違う……俺は野良犬でも狼でもない。……人だ」
獣のごとく獰猛な姿からは想像できないほど弱弱しく、それでいて、人ということにこだわる強い意志……いや、強い意志ではない。あれは、人と思わなければ自分が自分でなくなってしまいそうな焦りや不安、そして深い悲しみが入り交じった声だった。あの声には、暗闇の中で消えそうな小さな光を必死で握りしめている……そんな哀れみが漂っていた。
そこまで考えて、土方は胸の奥に訴えかけてくるものの正体がわかった。
……あれは昔の俺だ。
「俺は違う……こんなことをするために生きてるんじゃない……俺は侍だ」
多摩にいた頃、家業を助けて薬の行商に出る毎日の中、置かれた身分や立場に押しつぶされまいと、侍になるという小さな光を必死で握りしめていたあの頃の自分……狼顔の素性はわからないが、彼の言葉に秘められた鬱屈した気持ちに、そんな昔の自分を無意識に重ね合わせていることに、土方は気がついた。
隊士が笹にくるんでくれた握り飯を小さな風呂敷に手早く包むと、土方は足早に台所を出た。その背中を「トシ」と大きな声が呼び止めた。近藤だった。
佐々木といい、近藤といい、今日は間の悪い時に人と出くわす日らしい……土方は自分の悪運を心底呪ったが、近藤はそんな土方の心の内も知らず、明るく話しかけた。
「どこへ行く?」
「例の事件の聞き込みだ」
土方は嘘をついた。
近藤に嘘をつくのは気がひけたが、狼顔のことは何もわかっていないに等しい。近藤に話すのはもう少し詳しいことがわかってからと決めた以上やむを得ないと自分に言い聞かせた。
「副長直々とは精が出るな。よろしく頼む」
近藤はそう言って去ろうとしたが、振り返って改めて尋ねた。
「そうだ。総司がどこにいるか知らんか?」
この問いには、さすがの土方もギクッとした。
沖田は今、自分の仕事の片棒を担いでいる。しかもそれは近藤には秘密にしていることだ。その沖田の所在を聞かれるとは思いもよらなかったが、ここは平静を装い、しれっとかわすしかない。
「総司に何か用か?」
「いや、特にないんだが、待機してる一番隊の中に姿が見当たらん。隊士に聞いたら、自由にしていいと命じて一人で消えてしまったと言うんだ。まったく、どこをほっつき歩いてやがるのか……」
下手に話すと墓穴を掘ると土方が黙っていると、近藤が土方の持っている包みに気づいた。
「何だそりゃ、握り飯か?」
土方が見ると、風呂敷の端から握り飯をくるんでいる笹の葉が少しはみだしている。急いで包んだせいか、しっかり包み切れていなかったらしい。
「ゆっくり飯を食う暇がなくて。どこかで合間に……」
土方はもっともらしく答えたつもりだが、うしろめたいところに動揺が追い打ちをかけ、どこか歯切れの悪い言い方になってしまった。
だが幸いにも、近藤はそんな土方のささいな動揺に気づかなかったらしい。
「そうか。動き回るのは結構だが、飯だけはちゃんと食えよ」
と、笑いながら土方の肩をポンと叩き、屯所の中へ消えていった。
「ふう……」
土方は安堵のため息をついた。
他の人間ならいざ知らず、盟友の近藤に隠し事をすることがこれほど気疲れするものなのかと土方は改めて思い知った。
こんなことなら、さっさと狼顔に洗いざらい吐かせ、近藤さんに全部話しちまった方がよっぽど気が楽だ……そう思った土方は、風呂敷からはみ出た笹の葉を乱暴に押し込み、廃寺に向かって足早に歩き出した。
◯
土方が廃寺に着くと、本堂にあがる階段に腰かけた沖田が、虫とじゃれているのが見えた。
「見張りは?」
「大丈夫です。彼は眠ってます」
「眠ってるからって目を放せば見張りにならんだろう」
言いながら、土方はすぐさま本堂の中を覗き込んだ。暗がりの中、柱の下で縛られたまま首を垂れている狼顔が見えた。
「土方さんが出かけてから変わったことはありません。話しかけても何も答えないし」
見張りが相当退屈だったらしく、沖田は伸びをしながらあくびまじりで説明したが、
「そうだ、一つだけ」
と何かを思い出し、懐から鈴を取り出した。
それは、土方が狼顔の足元に置いた鈴だった。
「これを無下に扱うなと叱られちゃったんですよ。汚い床に置きっ放しにするくらいなら、しっかりしまっておけって。だから僕が拾って、土方さんに預けておくと言っておきました」
そう言いながら、沖田は土方に鈴を手渡した。
土方は鈴を受け取りながら、これが狼顔にとって重要なものであることを改めて感じた。鈴があの男の素性に大きく関係していることは間違いない。頃合いを見て、鈴に関して詳しく尋ねる必要がありそうだ。土方がそんなことを考えていると、沖田が風呂敷包みに気づいた。
「何です?それ」
「昼飯だ」
「わあ、嬉しいなあ!お腹がぺこぺこだったんですよ」
沖田はそう言いながら、土方から受け取った風呂敷包みをニコニコと解き、握り飯をくるんだ笹を開いた。
「おいしそう!しかもこんなにいっぱい!」
「半分は奴のだ」
そう言った土方を沖田が意外そうに見た。
「珍しい。土方さんらしからぬ心遣いですね」
その言葉に、昔の自分と狼顔を重ねていることを見透かされた気がして、居心地が悪くなった土方は、「尋問を再開する」と話を逸らすように本堂に入っていった。そんな土方の照れ隠しにニヤリとする沖田は、握り飯を頬張りながらあとに続いた。
土方が頭を垂れて眠っている狼顔に「起きろ」と声をかけると、狼顔はゆっくり目を開き、顔をあげた。
「よく眠れたか……?」
「……」
「お前の言う京都遠征隊を調べた。その隊は確かに会津藩に存在した。お前が名乗った男がその隊にいたかは、名簿を調べてもらっている」
「……」
「だが、その隊は半年前、京都へ向かう途中で消息を絶ち、三十名の隊士は行方がわからないらしい」
「……」
「となると、改めてお前は怪しい。消息を絶った男の名を語る偽物かも知れんからな」
「……」
狼顔は沈黙したまま、土方の話を聞いている。
「お腹が減ってるなら、これどうぞ。土方さんからの差し入れです」
沖田が狼顔に握り飯を差し出した。
「こう見えて優しいところがあるでしょ?」
そう言って笑いながら横目でチラッと自分を見る沖田を押し返し、土方は話を戻した。
「お前は本当にその隊にいたのか? だとしたら、なぜ隊は消息を絶った?」
「……」
変わらず沈黙を続ける狼顔に土方は言い放った。
「だんまりを決め込むのは構わん。だが、話す以外に身の証を立てる術はない……お前が人である証を立てたいならな」
その言葉に狼顔の瞳がギラッと光った。
土方は、その光を見逃さなかった。この男にとって、人であることは自分の生きる証なのだ。
「さあ話せ、お前が人である証を」
狼顔は土方をジッと睨みつけていたが、ゆっくり目を落とし、やがて静かに口を開いた。
「これから話すことを本当に信じて──」
と話し始めた時、耳をつんざく轟音が本堂に響き渡った。
それは腐りかけた壁がぶち破られた音だった。そして同時に、飛び込んできた巨大な影が土方に向かって一直線に襲いかかってきた。
土方も沖田も一瞬何が起こったかわからなかったが、襲い来る敵から反射的に飛びのき、抜刀して構えた。
攻撃をかわされた影が、体制を立て直してゆっくり振り返る。壁にできた大きな穴から差し込む外光が照らし出したのは、浪人笠を被った侍……というより相撲取り、いや、それを遥かに凌ぐ大巨漢の男であった。
男は、被っていた浪人笠を乱暴に投げ捨てた。明らかになった顔に、一同は目を奪われた。血走った目を土方に向けるその男は、人の着物を着た獣……羆の顔を持つ異形の者だった。
「……嚥獣(のけもの)」
異形の男を見た狼顔が呟いた。
その言葉に一瞬気をとられた土方の隙をつき、《羆顔》が鋭い爪を立て、襲いかかった。飛び出した沖田が攻撃を弾き、土方を守るように構えながら目を輝かせた。
「狼顔に続いて羆顔とはますますおもしろい」
誘うように剣を向ける沖田めがけて、羆顔が突っ込む。大きく振りかぶった羆顔の攻撃を沖田が身を沈めてかわすと、頭上をすりぬけた獣の手が沖田の背後にある柱を叩き折った。
沖田は、沈んだ姿勢から素早く剣を斬り上げるが、羆顔は横薙ぎにそれを払い、剣を弾き返した。沖田は弾かれた力を利用して受け身をとり、体制を立て直して間合いをとった。
「大きい割に動きがいい」
「気をつけろ、総司」
土方は沖田と並んで構えた。
「わかってます。こいつの動きはもう見切りました」
そう言って、剣を構え直した沖田が、ゴホッ!……ゴホゴホッ! と、突然激しくせき込んだ。
「総司!」
苦しそうにせきをしながら膝をつく沖田に土方が駆け寄った。
肩で息をしながら口を押さえる沖田の手に吐血した血が滲んでいる。
沖田は労咳を患っていた……。労咳とは、肺が菌に侵される病である。治療が難しく、かかった者は絶対安静、無理をすれば命を縮める。沖田の病状はまだそれほど重くないが、こうして突発的に発作が現れ、それはいつ襲ってくるかわからない。この病は沖田が抱える爆弾であり、天才剣士が持つ唯一の弱点であった。
「大丈夫です……」
笑顔を作って土方を見る沖田の顔は青ざめている。彼が大丈夫でないことは、土方も十分わかった。
「下がってろ。こいつは俺が……」
そんな二人に羆顔が容赦なく襲いかかる。土方は、沖田を守るように迎え撃ち、自分に注意を引きつけながら羆顔の攻撃をかわし、腕や肩を斬りつけた。
だが、相手は獣の力を持つ異形の者、生半可な斬りこみではびくともしない。羆顔は土方が斬りこんだ剣を素手で受け止め、がっちり握り込んだ。土方は剣を奪われまいと抗うが、羆顔は握り込んだ剣を大きく振りほどき、土方ごと勢いよく弾き飛ばした。ふっ飛ばされた土方は、柱に縛られた狼顔の足元に激しく体を叩きつけられた。
「ううッ……」
叩きつけられた衝撃はすさまじく、すぐさま起き上がることはできない。もしかすると、あばらの二~三本は折れているかも知れない。
動けぬ土方に向かって、羆男がゆっくりと歩き出した。
「土方さん……」
沖田は、土方を守らんと立ち上がったが、再び発作に襲われ、がくりと膝をついた。
羆顔に抵抗する術はもはや二人にない……と、思われたその時、倒れた土方の頭上から声が降ってきた。
「縄を解け!」
見上げると、熱を帯びた狼顔の瞳と目があった。
「解け!早くッ!」
狼顔は急きたてるが、土方は拒んだ。
「お前を逃がすわけにはいかん」
「逃げるものか! 俺がこいつを倒す!」
「何……?」
ゆっくり近づいてくる羆顔をチラッと見ながら、土方は狼顔に言い放った。
「こいつはお前を助けに来た仲間だろう?」
「違う! こいつは仲間じゃない!」
「信用できん」
「今、証明する。こいつを倒し、俺が潔白である証を立てる!」
狼顔は叫んだ。
羆顔は間近に迫っている。次に襲われれば、動けぬ土方は確実に命を落とす。
「早く縄を!」
「……」
土方は狼顔の呼びかけに応えない。
羆顔は土方の目前まで来ると立ち止まり、倒れて動けない獲物をなめ回すように見下ろした。そして、獣の咆哮をあげ、とどめの一撃を振りおろした。
その刹那、土方の剣が一閃……! 同時に狼顔を縛る縄が真っ二つに切れた。
土方と狼顔は、鋭い爪を間一髪でかわし、両脇に飛びのいた。
「やられるところだったぞ!」
狼顔は土方に言い放つと、手を覆っていた布切れを牙で乱暴に噛み破った。バラバラちぎれる布の中から鋭い爪が姿を現した。
渾身の一撃をかわされた羆顔がゆらりと振り返った。
狼顔は、自由になった爪を武器のように構え、羆顔に問うた。
「お前も嚥獣か?」
羆顔は答えるかわりに咆哮をあげ、狼顔に襲いかかった。
力任せに腕を振り、尖った爪で狼顔を切り裂こうする羆熊。その攻撃をしなやかな動きで俊敏にかわし、鋭い爪で果敢に切りかかる狼顔。両者隙のない一進一退の攻防が土方の目の前で激しく繰り広げられる。
こいつらの戦いは、人の形をして着物を纏ってはいるが、人同士の斬り合いとは明らかに違う……まさに、狼と羆の野生の戦い。獣の力がぶつかりあう生死を賭けた戦いだ……戦い慣たれ土方でさえ、思わず目を見張るほど、二人の戦いぶりは凄惨で異質な気迫に満ちていた。
羆顔の懐に飛び込んだ狼顔の爪が、羆顔の胸を大きく切り裂いた。羆顔は痛みに悲鳴のような鳴き声をあげるが、すぐに気を取り直し、狼顔を羽交い絞めにすると、強烈な力で首を絞めあげた。
「ガ……ガルル……」
羆顔の爪が食い込む首に血が滲む。狼顔は、苦しげな唸り声をあげながら、自分を締め上げる腕をひっかき、あがいた。だが、羆顔はビクともしない。
抵抗むなしく、息の詰まった狼顔が気を失いかけたその時、
「ウガア!」
羆顔が大きな叫び声をあげ、狼顔を手放した。
見ると、羆顔の腰から腹にかけ、深々と刺さった剣が貫いている。それは、狼顔を助けんと、なんとか立ち上がった土方が放った渾身の一撃だった。
羆顔は、剣の刺さった傷口からどくどく血を滴らせながらゆっくり振り返り、怒りに血走った目で土方を睨むと、力任せに踏みつけた。
「うがッ……!」
苦しみの声をあげる土方をいたぶるように、羆顔は更に足に力を込める。
最後の力を振り絞り、急所を狙って一撃必殺に賭けたが、仕留めそこなったらしい……土方は踏みつけられる痛みに耐えながら、自分がこれ以上動くことはもはやできないと悟り、死を覚悟した。
その瞬間、土方を踏みつける羆顔の足が緩んだ。
見上げると、羆顔の頭に狼顔がとりついている。気を失いかけた狼顔だったが、正気を取り戻して飛び上がり、最後の力を振り絞って羆顔に食らいついたのだ。
羆顔は必死で振り払おうとするが、狼顔は決して離れない。そして、口から大きく生えた牙で激しく噛みつくと、羆顔の首を力任せに食いちぎった。
「ウガアアアアアアアーッ!」
首を大きく食いちぎられた羆顔が呻き声をあげ、暴れ出した。
首から血を吹き出しながら狼顔を乱暴に振り落とすと、本堂の中をのたうちまわり、勢いあまって本堂の扉に激突、そのまま扉をぶち破って倒れ伏せた。その体は、しばらくビクンビクンと痙攣していたが、やがて動かなくなった……。
「はあ……はあ……」
肩で息をする狼顔は、血まみれの牙がむき出しになった口を拭うと、その場にガクリと膝をついた。
痛みをこらえながら体を起こした土方は、壁にもたれて座っている沖田に声をかけた。
「大丈夫か、総司?」
「はい。すみません、肝心なところで……」
すぐ立ち上がれるというほどではないが、沖田の発作は収まり、幾分元気を取り戻したようだ。沖田の無事を確かめた土方は、狼顔に声をかけた。
「そっちは?」
「なんとか生きている。それより、見ろ」
狼顔は絶命した羆顔に目をやった。
「お前が俺に見せた獣の毛……あれはおそらくこいつのだ」
それを聞いた土方は、懐に入れていた獣の毛を取り出し、羆顔の体に生えている毛と照らし合わせた。
土方の持つ毛と羆顔に生えている毛は一致した。狼顔の毛は一見よく似ているが、改めて見ると、色合いや長さが確かに違う。狼顔の言う通り、惨殺現場に落ちていた獣の毛は、羆顔のものだ。指先からのびた五本の鋭い爪も、その幅や大きさから考えて、土方が見分した骸にあった傷跡と一致するに違いない。先の戦いで見せた羆顔の腕力なら、頭蓋を一撃で砕くこともたやすいだろう……土方は、羆顔が叩き折った柱に目をやりながら、眼の前に倒れている羆顔が一連の事件の下手人であることを確信した。
「俺の潔白はこれで証明された」
狼顔の声に土方が目を向けた。……その瞬間!
「うがあああ!」
一同の背後に倒れていた羆男が雄叫びをあげ、突然立ち上がった。
予期せぬ事態に、一同は臨戦態勢をとる暇もなく、いや、正確には、全ての力を使い果たし、動くことがでなかった。
万事休すとなった土方達にとどめを刺さんと、羆顔が大きく手を振り上げた。
だが、鈍い斬撃音と共に、その動きがピタリと止まった。そして、脳天から勢いよ
く血を吹き出しながら、羆顔は手を振り上げた姿勢のままゆっくり前に倒れた。
状況がわからず、倒れた羆顔を呆然と見る土方達に声が聞こえた。
「よくわからねえが、お前らを襲おうとしたってことは、敵で間違いねえな」
見ると、脳天を割られて倒れ伏せた羆顔の向こう……本堂の階段に、剣を振り下ろした姿の近藤が立っていた。
「……近藤さんがどうして?」
土方は、安堵と驚きが入り交じった声で尋ねた。
「お前の様子が変なんで後をつけたら、こいつに出くわしてな……」
足元に倒れる羆顔を見下ろし、近藤は経緯を話し始めた。
近藤は、屯所で会った土方の様子がおかしいことに気づいていた。そして、土方が屯所を出ると、気づかれぬよう後をつけることにした。
だが、しばらくすると、その自分をつけている存在に気がついた。それは、浪人笠を深く被り、顔を隠した大巨漢の男だった。近藤は、尾行をまこうと道をはずれたが。その男は、道をはずれた近藤ではなく、土方の後をつけてゆく。つけられているのが土方だと知った近藤は、そのあとを追うことにした。
だが、近藤の追跡に気づいたのか、男は雑木林に入ると道を変え、行方をくらませてしまった。男を探すうちに近藤は道を見失ったが、獣が唸るような声が聞こえてきた。声を頼りに廃寺までたどり着くと、先の男が本堂の扉をぶち破って飛び出してきたところだった。
「しかし、こいつの顔がこんなだとは思いもよらなかったぜ」
そう言う近藤だが、羆顔の容姿に別段驚く様子はない。沖田と同じく、肝が据わっているのか、それとも感覚が常人と違うのか、こんな変わった輩も世の中にはいるのかくらいの物言いである。
「で、トシ。こいつは一体何なんだ?」
近藤は、改めて土方に尋ねた。
「わからねえ。だが、一連の暗殺事件の下手人であることは間違いない」
「ほお……。で、そっちのは? なんだか似たようなのがいるが」
と言いながら、近藤は狼顔をジロリと見た。
その眼光の鋭さに狼顔は思わず身を固くした。本当は、近藤と土方が話している隙に逃げおうせるつもりだった。だが、近藤が発する威圧感に呑まれてしまい、いつのまにか逃げる機会を失ってしまっていた。
「この人は悪い人じゃありません。僕らを助けてくれたんです」
沖田がゆっくり立ち上がりながら近藤に言った。
「そうか。ま、聞きてえことは山ほどあるが、詳しいことは後でゆっくり聞こう。それより、まずはお前らに、俺に黙ってコソコソやってたことを詫びてもら……」
「詫びはあとだ、近藤さん」
土方の神妙な声が近藤の言葉を遮った。
「これを見ろ」
一同は、土方の指さす方を見た。指先には、さっき近藤が倒した羆顔が倒れていたが、血にまみれたその顔は、羆のそれではなく、無精ひげを生やした人相の悪い男の顔に変わっていた。
「どうなってんだ、トシ!」
さすがの近藤もこれには驚いた。
土方は狼顔に尋ねた。
「お前ならわかるだろう」
「……」
狼顔は答えなかった。
いや、土方の声が耳に入らなかったのかも知れない。
彼は、人の顔になった「元」羆顔の男をただジッと見つめていた。その瞳に言いようのない悲痛の色を深く浮かべながら……。
…続く
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