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第1話

忠直は慷き慨る 第十一幕

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「……くそっ! 流石にこの数は……」
「泣き言言うな、デクマ。今ここで戦えるのは俺たちだけなんだからな!」
「わかっているさ! だが、限度ってものが……」
「……道行みちゆき定めしは射られしほむら! アイファイファー!!」

 森の外。
 慟哭、悲鳴、阿鼻叫喚冷めやらぬ5頭の巨大猪による蹂躙劇のその最中。

 慌てふためく生徒たちを守ろうと必死に交戦していたクゴットとデクマに手詰まり感が出てきたまさにその時、生徒たちを襲おうとしていた1頭の巨大猪の足元に、複数の炎の矢が射られたことで、猪の進路がやや斜めに変化する。

 その炎の出所を見たクゴットの瞳に映るのは、ポムカの姿であった。

「君は……」
「エル!」
「はいな! グロックウォール!!」

 一方のポムカ。
 すぐそばにいたエルに向かって指示を出すと、エルもまた先程も使っていた魔術を用いて、猪の行く手を遮るのではなく進路を変更させるように土の壁を築き上げる。

 その完成品を見たポムカはこれでいいと頷くと、「クゴット先生!!」と少し驚いた表情のクゴットに一点を指差しながら声をかける。

「……なるほど。では、ローヴァエイティア!」

 その場所、そしてその真意に気付いたクゴットは、炎の矢を避け土の壁に沿うように動いた猪の背後からクリスタルによるレーザーを放つ。

 そうして、一本の太いレーザーをお尻に放たれた猪は、痛みに耐えかねるとある方向に向けて勢いよく走り出す。

 そして、すぐ目の前にいた猪を押し飛ばすように体当たりすると……。


 ブオォォォォォ!!!


 そのまま2頭で先程空いた大穴に向けて落ちて行ってしまうのだった。

「おお、なるほど! ……ならば!!」

 それを見ていたデクマは猪のどてっぱらに素早く潜り込むと、その怪力を誇るかの如く猪を持ち上げる。
 頭上でジタバタと暴れる猪などなんのそのと、ゆっくりしかし着実に穴に向けて歩いて行ったデクマは射程範囲に入ったと、ついに猪を穴に向けた投げ捨てたのであった。

「どうだ!!」
「相変わらず無茶苦茶だな」

 しかし、これで残りは2頭。

 今までの状況からは一気に改善されたとクゴットたちにも余裕が生まれ、「すまない。助かった」とポムカたちに感謝を伝えることができていた。

「いえ。こういうの、慣れてますんで」
「そうなのか?」
「ええ、まぁ。慣れたくはなかったですが……」

 慣れというのは勿論、さっきバーベキューをしていた時に言っていた、実戦を学んでおいた方がいいという名目での魔獣退治の話だ。

 そうして、いちいちあいつの言う通りになっているのが癪だとポムカ。
 しかし、それでも感謝はせざるを得ないとどこか不満げながらも自分に喝を入れている。

「一応、他の子の避難はナーセルたちに任せてあるんで、後は全力でやっちゃっても大丈夫ですよ」

 そう言われたクゴットたちがチラッと後ろを見ると、確かに生徒たちは既にだいぶ遠くまで避難しており、殿しんがりとしてナーセル、フニン、ルーレが居るのが見て取れた。

「そうか。……なら」
「ああ! 後は2匹、片付けるだけだな!!」

 今まで散々動きづらい戦闘をさせられていた教師2人。
 しかし、その制約の全てが無くなった今、肩の荷が下りたと気合を入れなおす。

「私たちは先生たちのフォローよ」
「はいな!」

 敬礼スタイルでポムカの言葉を受け入れたエル。

 その愛らしさに少し微笑んだポムカは、「……そっちも頑張りなさいよね」と単身森の奥へと向かって行ってしまったルーザーに思いを馳せつつ、クゴットが攻撃していた猪に向けて炎の魔術を放つのであった。



 ……まさかその魔術がキッカケで、あのような惨劇が起きてしまうとは微塵も思わずに。

 ◇ ◇ ◇

 そこでは意地と意地のぶつかり合いが行われていた。

 ノーガードによる殴り殴られ蹴り蹴られ。
 時に顔面を、時には腹を、腕を脚を胸をと殴られていく両者――ルーザーの場合は敵の手や足が大きすぎるためにその一撃は全身を打たれている訳だが。

 それでもその顔に悲壮感はなく、決意もなく、ただ単にその殴り合いだけが全てというような無機質な殴り合いを互いに続けていた。


 ……だが。
 それが続いたのも数分の事。


「「うぉぉぉぉ!!!!!」」

 男たちの徒手空拳渾身の一撃
 しかしてルーザーのそれよりも威力の高い一撃が、ルーザーの一撃を凌駕するかに思われたが……。


 ドンッ!


 伸ばした腕。
 互いにぶつかり合った拳が、そのどちらもの勢いを殺してしまっていた。

「なっ!? 何故……!?」
「……そうかい。それじゃあ、これで終わりにすっか!」

 手を伸ばしたままの男の懐に勢いよく入り込んだルーザー。

「安心しろ。つまらねぇ終わりにはしねぇからよ!」
「っ!」

 そうして、後ろに大きく振りかぶった右足に雷を纏わせたルーザー。
 先程とは違い、足全体を大きくするかの如く雷を集めていく。

「これで最後だ! 雷絶虚歩らいぜつこほう大脚だいきゃく! 蹴華しゅうか!! 鑿炛踐さっこうせん!!!」

 大地を大きく抉りながら蹴り付けられた巨大な雷の足が、男を思い切り上空高く蹴り上げ吹き飛ばす。

「ぐぁぁぁぁぁっ!!」

 その衝撃に今の男が耐えられる術はない。
 その上昇に今の男には為す術がない。

 そうして遥か高く、そして遠くまで蹴り飛ばされた男は自由落下の名のもとに森の木々をクッションとしながら地面に叩きつけられると、そのまま立ち上がることすら出来ないのであった。

 ◇ ◇ ◇

「こ、今度は何!?」

 森の中で必死に己の生存をかけて戦っていた複数人の生徒たち。

 そんな彼らの耳に届いた最初の爆音、引き続いての轟音は、彼らに見えない恐怖心を植え付けてしまっている。

「わからないよ!! そもそも急に木や猪が小さくなったと思ったら、また猪はデカくなるし! しかもさっきよりも大きくなって! ……でも、今はそんなこと気にしてる場合じゃないだろ!?」
「……って、そうだよな! 戦わなくちゃ!!」

 しかし、それでも今の彼らは挫けない。
 というか挫けられない。

 なにせ、挫けてしまった先の未来など、目の前にいる巨大すぎる猪の存在によって明るいはずがないのだから。

 だからこそ、立ち上がった少年少女たちの新たな物語が幕を開けようとした、まさにその時。


 シュ~


「……え?」

 巨大猪がその体躯を小さいものへと変化させていく。

「ま、また小さくなった?!」

 その状況に慌てふためく生徒たちだが、一方で小さくなった猪は複数人の生徒たちを見るや否や、恐れをなしたように逃げ出してしまう。

「……もしかして……助かった?」
「いや、また大きくなるかも知れないぞ?!」
「そうだね。でも、とりあえず今は森の外を目指そう。今ならきっと逃げられる!」
「ああ!!」

 慢心はしないと生徒たち。
 なにせ、小さくなった猪が再び大きくなるという目に一度遭ってしまっているのだから。

 そうして、負け犬ルーザーの勝利によって逃げる必要は無いと知り得ない少年少女たちは、懸命に森の外へと走り出すのであった。

 ◇ ◇ ◇

「……よう、満足したか?」
「……ぐっ」

 男のもとにやってきたルーザー。

 男の様子を気にすべくやってきてみると、そこでは男がまだ立ち上がろうともがいていたが、残念なことに立ち上がることはできておらず、空を仰ぎ見る姿勢のまま動けずにいたのだった。

「俺……は、まだ……」
「やめとけやめとけ。お前の体はもうボロボロなんだからな。……あぁ、外側の話じゃねぇぞ。内側の話だ」
「?」
「……もしかして、聞いてねぇのか? お前が飲んだやつのこと」

 意外というように男を見つめるルーザーに男。

「あの、薬の、ことか?」

 出づらくなった声で、ルーザーの言葉に返事をしている。

「ああ。あれは魔薬まやくって言ってな、液状化させたマナを体内に入れることでパワーアップできるってんで魔領あっち側じゃ魔術の強化に重宝されてたんだが……副作用で体の中がボロボロになっちまうんだと。それをテメェはあんだけ一気に飲んだんだ。そりゃ、そんな風にもなるわな」

 そうして限界が来てしまったからこそ、男の最後の攻撃も力が尽きたように相殺されてしまったのだとも。

 何故そんなことを知っているのかと言われれば、昔に勇者として魔領デスティピアに乗り込んだ時に、魔人たちがそれを使っていたのを知っているからだ。
 ……そして、それを使った者たちの末路も。

 だからこそ、ルーザーは男が大量に服用していた際に慌てていたのだった。

「……そう、か……」

 もはや男は何故ルーザーがそれを知っているのかと尋ねる気はないようだ。
 なにせ悟ってしまっているのだから……自分の末期が近いことを。

 だからこそ必要無いと口にはしなかったのだ。

「この復讐(ねがい)は……もはや、叶うことは……ないの、だな……」
「そうだな。……叶っていいものかどうかは別として、な?」
「……ふっ。そう、だな。お前なら、そう、言うだろう、な……」

 そうして、男はその姿を人間のものへと戻し始める。
 ――敗北を自覚した証の如く。

「……なぁ、それはそうと1つ聞きたいんだが……お前に魔薬を渡したのって誰?」
「あれ、か? あれは、たまたま出会った、男に……貰った、のだ」
「たまたま出会った男?」
「名は確か……トゥスリフ、という。そいつと、そいつに紹介された、名は知らぬ男に、この力も……」
「トゥスリフか……聞いたことねぇな」

 もしかしたら知っている魔人あるいはその関係者だったかも知れないとルーザー。
 しかし、自分の記憶と照合した結果、その者は知らないと結論付ける。

「ちなみにその、名前は知らないって奴はどんな……って、な!? お、お前、その体!」

 それでも何かしらの情報は欲しいとさらに質問したルーザーだったが、突如男の体が風化し消え始めたことで、驚きを露わにしてしまう。

「気にするな……これは、そういう物だ。言っただろう? 一度死んで、手に入れた力だ、と。どういう原理かは、知らないが、な……」

 ルーザーが覚えていたかどうかは定かではないが、確かに男は言っていた。
 それがこういうことだったとはルーザーも思いもしなかっただろう。

 すると、崩れ行く体から何かが落ちそうになったことで、男はあることを口にする。

「お前を見込んで、一つ……頼まれて、欲しいことが、ある……」
「あん?」
「これ、を……あのお方の、元に……」

 そうして、懐から取り出したのは煌びやかなペンダント。
 青い宝石が装飾されたとても美しい代物で、男が持つにはやや不釣り合いな物だった。

「これは?」
「……約束。勇気が出る……おまじ、ない」
「おまじない?」



 それは男が少年だった頃にエニエと交わした小さな約束。



「エニエ様……俺たち、本当に自由になれるのかな?」
「どうしたのですか? 急に」
「確かにエニエ様は優しいし、魔術でもエニエ様より優れた奴なんてこの家にはいないけど……でも……」

 もはや日課となっていた屋根の上でのエニエとの夜の逢瀬に心癒されていた少年だったが、そうして心が解きほぐされつい油断してしまったのか、不意に弱音を吐いてしまっていた。

 勿論、こんなことをエニエに言ったところで意味はないと本人だって自覚している。
 それどころかエニエ自身の不安を煽ってしまったのではないかとすら思ってハッとする。

 ……それでも少年は、不安でたまらなかったのだ。

 自分が自由になれることではなく、そんな風に自分たちのために戦おうとしてくれているエニエのことが。
 彼女の行く末を考えるとたまらなく不安になってしまっていたのだった。

「……そう、ですね。確かに難しいことかも知れません」

 そんな少年の一言に、エニエは率直な感想を述べる。
 彼女もまた嘘をついたところで意味はないと悟っていたから。

「奴隷制度なんてものは私の家族うちに限ったことではありませんし、たとえここで成功しても後が続くことはないでしょうから、結局は1人で戦わねばなりません。だからといって十三騎族の方々を頼ろうにも、あなたたちを殺されて証拠を隠されてしまえば、あとは私が制裁を受けるのを待つだけ、なんてことにもなりましょう」

 言葉を紡ぐたび、顔に影を差していくエニエ。

 無論、彼女だって自分のやろうとしていることの危険さを理解しているのだ。

 不安がない訳がない。
 楽観視などできようはずもない。

 だからこそ、こうして徐々に沈んだ表情になっているのだから。

「じゃ、じゃあやっぱ危険なんじゃ!?」
「……でも、不可能だとは思っていません」
「え?」

 そんな彼女を慮り、何とか言葉を紡いだ少年だったが……不意に笑顔を見せるエニエ。
 その笑顔には決して無理やり笑ってみせた感じはないと、少年は少し唖然としてしまう。

「知ってますか? 厄災獣やくさいじゅうをたった1人で打ち倒したというのお話しを」
「厄災獣!? それって確か、100人規模の軍隊を複数投入してようやく倒せるかどうかっていう魔獣だよね?」
「ええ。倒すことは叶わず、もしも出会ったのならそれこそ逃げることしかできない。我々人間が自然の生み出す災害に敵わないのと同じように……もしも襲われたらただ運が無かったと諦めるしかない災害級の獣――それが厄災獣」
「そんな化け物1人でなんて……」
「嘘じゃありませんよ? ジグリアード領の奥山に住み着いてしまったという飛衃ひはいの厄災獣……それをたった1人で倒されてしまったそうなのです」

 しかし、それは普通ならあり得ないことかも知れないとエニエ。
 ――だけど、実際に起こったことなのだとも。

「だからこそ、私は思ったのです……やろうと思えば出来ないことなど何も無いのだと。出来ないと諦めているからこそ、願いはかなわないのだと」

 空に一等いっとうきらめく星を見つめるエニエ。
 それはまるで勇者の示した明るい未来輝きをあの星から感じているかのように。

「もしかして……それでエニエ様は俺たちに自由をくれると?」
「……お恥ずかしい話ではありますが……はい、その通りです。勇者様の活躍を聞くまで尻込みしていたこの気持ちですが……聞いてしまったのなら覚悟を決めなければならないのだと、ようやく決心がついたのです。私も……叶わないと思われることを叶えたいと」

 優しい笑顔を向けた少女は再び遠くを見つめるも、その決意溢れる瞳には優婉ゆうえんさも清艶せいえんさも鮮麗せんれいさも可憐さもない1人の戦士としての覚悟が見て取れた。

「エニエ様……」
「……まぁ、怖いものは怖いですけどね。そんな決断をしたら……そんな未来を勝ち取ろうと行動してしまったら……私はどうなってしまうのか、なんて……。でも、それでも私は叶えたいと願ってしまったのです。勇者様に背中を押していただいたこの気持ちに嘘はつきたくないのだと、思ってしまったのです。だから……」

 しかし、少年にニヘラっと笑って見せたエニエは、震える手を誤魔化すかの如く、自分の手を固く握りながらも、それでも止まる気はないのだと語って見せる。

 だって、今のこの状況は間違っているんだから。
 誰かが誰かを虐げ利用するなんて、認められる訳がないのだから、と。

「……」

 それでも心配だという風に少女に視線を送る彼。

 無論、彼女の願いは応援したい。

 でも、それを後押しするだけの力が自分にも、そして変えられるだけの力が彼女にもないことは百も承知だ。
 ――だからこそ、心配でたまらない。

 自分の事なんてどうでもいいからどうにかして止めてもらえる方法はないものかと、どうにかしてやめると言ってくれる手段はないものかと、そんなことすら考えてしまっているのが今の彼だった。

 でも、それを口にすることは少女の決意を否定する振る舞いだ。
 彼自身が最も忌避する浅ましい願望だ。

 だから彼は何も言えないでいる。

 是も非もどちらも嘘になってしまうのだから。 

「……では、約束しましょう」

 そんな彼の表情にエニエは何かを察したのか、首につけていた煌びやかなペンダントを外すと何故かそれを男の首にかけ始める。

 自らに無防備に近づいてきた少女の鼻腔をくすぐる優しくて甘い匂いに少し胸を高鳴らせつつ、「これは?」と首にかけられた物を手にした少年。

「亡き母との唯一の思い出の品です。他の物は今のお母様には全て捨てられてしまったので……。それをあなたとの誓いにしましょう。もしも……もしも私が約束を破った暁には……夢を叶えることが出来なかったその日には……それを壊してください、と」
「で、出来ないよ! そんなこと!」

 エニエの言葉に慌ててペンダントを外そうとする少年。
 しかし、エニエはその手を優しく握ると、その明眸で諭すように少年を見つめる。

「大丈夫ですよ、アルクウ。それは私なりの覚悟のようなものです。それを壊されたくないと思えていれば……その間ずっと、私は立ち止まらなくて済む。……勇気が湧いてくる。そして……あなたもまた私を信じられる。でしょ?」
「それは……」
「だからこれを勇気の出るおまじないとしましょう。私と、あなただけの」
「俺とエニエ様の……」
「ですから、それまでの間は大事に持っていてください……約束、ですよ?」

 器量の良い温顔。
 柔和な相好。

 それは世界で一番敬愛している人のずっと見ていたいと思う瞬間であった。

 だからこそ、少年は決意する――彼女を信じようと。
 そして……。

「……わかった。この身に代えてもこの首飾りは大切にする。けど……」
「けど?」
「……エニエ様にだけ辛い思いはさせない! エニエ様は俺が守るよ! これからも、その先も! ずっとずっと!」

 それは少年の恋慕に似た覚悟。
 絶望しかなかった自分に希望をくれた人への恩返し。

 たとえ自分の身がどうなろうとも、全てをなげうってでも守りたい人を守ろうという決意の言葉。

「アルクウ……」
「家の連中がどんなことをしてきたって、俺が必ず守るから!! だから……だから! この命を懸け……」

 この命を懸けて。
 そう言おうとしていたアルクウを唐突に抱きしめてしまうエニエ。

「エ、エニエ様!?」
「ありがとう、アルクウ……」
「あ、あの、エニエ様?! ダ、ダメだよ……俺、その、汚いし……」
「汚くなんてありませんよ……その心根は、私が知る誰よりも美しいですから」
「エニエ様……」

 ボサボサの頭。
 粗末な身なり。

 確かにお世辞にも綺麗とは言い難い姿の少年アルクウだが、その彼の温もりを感じるように、冷めそうだった心を温めなおしてもらおうとしているかのように、ギュッと、しかして優しくエニエは彼を抱きしめ続ける。

 ともすれば溢れ出しそうになる涙をひた隠し、震えそうになる声を整えて。

「……約束ですよ? 必ず、私を守ってくださいね」

 本当は誰かにそう言って欲しかったのかもしれない言葉。
 それを言ってもらえた嬉しさをアルクウに告げたエニエなのであった。

「……うん。必ず……必ず守るから。だから、俺を側に居させてよ。ずっと、側に……」
「ええ……」

 恐れ多いと理解しながら、それでもそうせずにはいられないとアルクウもまた、エニエの腰の手を回して抱きしめ返す。
 最初は遠慮しがちだった抱擁も徐々に力強くしていくものの、エニエは何も言わずに受け入れる。

 かけがえのない時間。
 二人だけの秘密の時間。

 ずっとこんな時が続けばいいのにと、願わずにはいられない時間をただ黙って受け入れているアルクウだったが、それは過ぎたる贅沢かもしれないと不意に彼女から離れてしまう。

「「……」」

 互いの温もりに名残惜しさを感じつつ、その振る舞いの気恥ずかしさから、どちらからともなく視線を外してしまう両者。

「……あ、えっと。……そ、そうです! いい機会ですし、まずはその言葉遣いを直していきましょうか」

 そんな折、そのこそばゆさを誤魔化すかのように唐突なことを言い出したエニエ。

「言葉遣い?」
「私の従者たるもの。そのような言葉遣いではいけませんから」

 それは彼女なりの照れ隠し。
 ほぼ告白だったと言って差し支えない言葉を言われた彼女が……ついそんなアルクウに甘えてしまったかの如く抱き着いてしまった彼女ができた、たった一つの照れ隠し。

「って、言われても……俺は何をすれば……」

 そんな彼女の言葉に本気でどうすればとアルクウ。

「そうですね……では、まずその『俺』というのをやめて『私』と言ってみてください。まずは一歩ずつ変えていきましょう。私と同じように」
「わ、わかった。俺……いや、私も頑張る、ます……あ」

 慌てて直してみた言葉遣いだが、それ以外の部分でつまづき照れてしまう。

「ふふっ。大丈夫、ちゃんと待ってますから。……ね?」
「……はい。必ず、俺……いや、私はエニエ様の力になるから!」

 自身の失態に柔らかな笑みを見せたエニエ。

 そのほほ笑みは、彼が最も大切にしたいと願った笑顔。
 そんな表情を、いつも曇りがちだった顔から再び引き出せたと彼は、満面の笑みで返事をしている。

「ええ。期待してますよ。アルクウ」

 その笑顔には自分も心休まるとエニエ。


 ……そうして。

 最愛たるエニエの物質的な温もりに。
 言語を介した触れあいに。

 暖かさを感じたすぐのちに、彼はエニエと別れることになってしまったのだった。



「これを、ニシュリット領、セイゲース地区の……あのお方の、お墓に……」

 家の者が一応作っていたという簡素な墓に持って行って欲しいとアルクウは、ルーザーに向けてペンダントを突き付ける。

「……ったく、断りずれぇもん出してきやがって」

 その姿、言葉に仕方ないとばかしに受け取ったルーザーは、「わ~ったよ。……ついでに何か伝えることはあるか?」と乗り掛かった舟だとアルクウに尋ねる。

「……そう、だな」

 空を見上げ、過去を思い、そして何を言うべきかと目を閉じた男。

 思い起こすのは勿論、あの少女の笑顔。
 自分が大好きだった、敬愛していたあの方への想いだけ。


 ――ならば、言うことなど決まっている。


「……あなたのおかげで、俺……私は……アルクウは、自由になれました、と……」

 自由。
 それは男が欲してやまなかったもの。

 ――否、それは少し正しくない。

 正しくは、少女から受け取りたかったもの。

 腐敗が酷い貴族の社会に咲いた一輪の泥中の蓮。
 一羽しかいなかった鶏群一鶴けいぐんのいっかく
 埋もれ過ぎた珠玉しゅぎょくの瓦礫にあるが如き可憐な少女。

 エニエ。

 そのたった一人の愛した少女から……その手自らで。

 だからこそ男が、アルクウが本当に自由になったのかはわからない。
 本当に欲しかったものはもう手に入らないのだから。

 それでも男は自由になれたと言った。
 エニエを気遣ったのか、それとも本心からかはわからない。

「そうかい……わかったよ。その言葉、必ず伝えてやるさ。この俺の……の名に懸けてな」

 だけど……いや、だからこそルーザーは……スレッドは自分の名に懸けて誓ったのだ。


 必ず届けると。
 アルクウが自由になれたと伝えるために。


「スレット……アルバント?」

 意図せず口にしたルーザーの真名まな
 その彼にとって……いや、彼らにとって特別な名を聞いたアルクウは、目をみはりながらルーザーを見つめている。

 それはエニエという少女が改革を志したキッカケであり、アルクウがその決意に希望を見出した特別な名前。


 勇者――スレット・アルバント。


 史上最強と目された人類最強の剣士。

 魔術を使わずに敵をなぎ倒し、魔人たちにとっては最大の敵でもあったことから彼らに『正義の厄災』とまで皮肉られた男の名を聞いたアルクウは、不意に笑みをこぼしてしまう。


 道理で強い訳だ。
 道理で勝てない訳だ。

 道理で……こんな自分にも優しい訳だ、と。


 ルーザーは言っていた、魔薬を飲めばどうなることかを。

 つまり、彼は知っていたのだ。
 ……アルクウの破滅の時が近いことを。

 それでもつまらない終わりにはしないと、森を焦がすほどの技を自分に放ったのだ。
 必要が無い一撃を。

 自分の最後を。
 この戦いを。
 無様な覚悟を。

 つまらないものにしないために。

 それには何の見返りだって無いはずだ。
 何も自分は渡せないのだから。

 それでもルーザーはそれをやってのけた。

 その様は……
 見返りを求めず戦う様は……

 聞き及んでいた自分の憧れだった人の背中を押した特別な人と同じだった。

 だからだろうか。

 霞みゆく視界に、音も聞こえなくなった耳、温もりも感じれない肌、そして風化していく体と、希望も何もない状態であったにもかからわず、ただ一言、こうアルクウが告げたのは。



 ありがとう、と。



 きっとルーザーことスレット・アルバントにはその真意は伝わってはいないだろう。
 なにせ彼は見返りを求めなかったことに定評があるのだから。

 だからこそ、あの日の少女の決意を知ることは無かったはずだ。
 少年との約束なんて知る由もなかったことだろう。

 それでも……それでもアルクウは告げたのだ。

 ならば、スレットが答える言葉は決まっている。

「……ああ、気にすんな」

 スレットの言葉は彼に聞こえたのだろうか?
 その返事は彼にとって満足のいくものだったのだろうか?

 命果てる間際の彼ではそれを確かめる術は無い。

 ただ一つ見て取れることがあったとするのなら……。


 日の光に包まれながら風化していった彼の顔が、安らぎに満ちていたことだけだった。

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