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第5章 母の沈黙
第1話「違和感の予感」
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日曜日の朝、恭介は実家に電話をかけた。みどりの郷でのボランティア活動を通して、高齢者の方々と接する中で、ふと母の顔が浮かんできたからだ。
最後に実家を訪れたのは、いつだっただろう。三ヶ月前の法事以来だから、もう半年近く経っている。
「もしもし、母さん?恭介だけど」
「あら、恭介。どうしたの?珍しいわね」
母の声は明るかった。でも、恭介の胸の奥に、微かな違和感が生まれた。声のトーンに、いつもの元気さとは違う何かが混じっている気がした。
「最近どう?体調は大丈夫?」
「ええ、元気よ。お父さんも相変わらずだし」
母の答えは淀みなかった。でも、恭介には何か引っかかるものがあった。
「今日、ちょっと顔を見せに行ってもいい?」
「もちろん。待ってるわ」
電話の向こうで、母の声が少し上ずったように聞こえた。恭介は胸の奥のざわめきを感じ続けていた。母は何かを隠している。そんな直感が、恭介の心を離れなかった。
電車に揺られながら、恭介は子どもの頃の記憶を辿っていた。
小学生の頃、恭介が学校でいじめられていた時期があった。毎日学校に行くのが辛くて、朝になると胃が痛んだ。クラスメイトの冷たい視線、聞こえてくる陰口。どれも恭介の心を削っていった。
でも、母には何も言えなかった。心配をかけたくなかったから。
ある日、恭介が泣きながら帰宅すると、母は何も聞かずに抱きしめてくれた。温かい腕の中で、恭介は全てを話した。いじめのこと、つらいこと、消えてしまいたいと思ったこと。
母は最後まで黙って聞いてくれた。そして、こう言ってくれたのだ。
「大丈夫。あなたは一人じゃないわ」
その時の母の体温、柔らかい声、そして安心感。全てが今でも鮮明に蘇ってくる。
今度は自分が母の話を聞く番なのかもしれない。恭介はそう思いながら、電車の窓の外を見つめていた。
-----
実家のドアを開けると、懐かしい匂いが恭介を包んだ。母が作る料理の香り、木の床の匂い、そして家族の生活の匂い。三十八年間を過ごした家の匂いは、恭介の心を落ち着かせてくれた。
「お邪魔します」
「いらっしゃい。梓さんと子どもたちは?」
「今日は一人で来たんだ。母さんとゆっくり話したくて」
母は少し驚いた表情を見せたが、すぐに笑顔になった。でも、その笑顔の奥に、恭介は何か影のようなものを感じた。目の下に薄いクマができている。少し痩せたようにも見える。
リビングに座ると、母がお茶を入れてくれた。湯呑みを手に取った時、恭介は母の手が少し震えているのに気づいた。
「母さん、大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ。最近ちょっと疲れてるだけ」
母は笑顔で答えたが、その笑顔はどこか作られたもののように見えた。
最初は何気ない会話が続いた。陽菜と美月の成長、恭介の仕事、父の趣味。でも、恭介の胸の奥では、ずっと違和感が渦巻いていた。
母は明るく振る舞っているが、時々視線が遠くを見つめる。笑顔の間に、ほんの一瞬だけ表情が曇る。そんな微細な変化を、恭介は見逃さなかった。
「お父さんは?」
「庭の手入れをしてるわ。すぐに戻ってくると思うけど」
母の声に、また微かな震えがあった。恭介は、みどりの郷で学んだ「聴く」技術を思い出した。相手の言葉だけでなく、表情、声のトーン、体の動き。全てが何かを語っている。
厚生労働省の調査によれば、高齢者の介護を担う家族の約六割が「相談相手がいない」と感じているという。地域や家族の中で孤立し、一人で問題を抱え込んでしまうケースが増えている。
母も、何かを一人で抱え込んでいるのではないだろうか。
「母さん」
恭介は優しく声をかけた。
「何か困ってることない?俺、ちゃんと聞くから」
母は湯呑みを持つ手を止めた。その静止した時間が、まるで永遠のように長く感じられた。
「別に、何もないわよ。どうして?」
母の声は明るかった。でも、その明るさの奥に、恭介は深い疲れと不安を感じ取っていた。
リビングの時計が、静かに時を刻んでいる。母は何かを言いかけて、また黙った。その沈黙の重さが、恭介の胸を締め付けた。
窓の外では、父が庭の草を抜いている姿が見える。いつもと変わらない日曜日の午後。でも、恭介には確信があった。この家族に、何か大きな変化が起こりつつあるのだと。
母の震える手。遠くを見つめる視線。そして、言葉にならない沈黙。
恭介は、母が本当のことを話してくれるまで、ここで待ち続けようと決めた。
最後に実家を訪れたのは、いつだっただろう。三ヶ月前の法事以来だから、もう半年近く経っている。
「もしもし、母さん?恭介だけど」
「あら、恭介。どうしたの?珍しいわね」
母の声は明るかった。でも、恭介の胸の奥に、微かな違和感が生まれた。声のトーンに、いつもの元気さとは違う何かが混じっている気がした。
「最近どう?体調は大丈夫?」
「ええ、元気よ。お父さんも相変わらずだし」
母の答えは淀みなかった。でも、恭介には何か引っかかるものがあった。
「今日、ちょっと顔を見せに行ってもいい?」
「もちろん。待ってるわ」
電話の向こうで、母の声が少し上ずったように聞こえた。恭介は胸の奥のざわめきを感じ続けていた。母は何かを隠している。そんな直感が、恭介の心を離れなかった。
電車に揺られながら、恭介は子どもの頃の記憶を辿っていた。
小学生の頃、恭介が学校でいじめられていた時期があった。毎日学校に行くのが辛くて、朝になると胃が痛んだ。クラスメイトの冷たい視線、聞こえてくる陰口。どれも恭介の心を削っていった。
でも、母には何も言えなかった。心配をかけたくなかったから。
ある日、恭介が泣きながら帰宅すると、母は何も聞かずに抱きしめてくれた。温かい腕の中で、恭介は全てを話した。いじめのこと、つらいこと、消えてしまいたいと思ったこと。
母は最後まで黙って聞いてくれた。そして、こう言ってくれたのだ。
「大丈夫。あなたは一人じゃないわ」
その時の母の体温、柔らかい声、そして安心感。全てが今でも鮮明に蘇ってくる。
今度は自分が母の話を聞く番なのかもしれない。恭介はそう思いながら、電車の窓の外を見つめていた。
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実家のドアを開けると、懐かしい匂いが恭介を包んだ。母が作る料理の香り、木の床の匂い、そして家族の生活の匂い。三十八年間を過ごした家の匂いは、恭介の心を落ち着かせてくれた。
「お邪魔します」
「いらっしゃい。梓さんと子どもたちは?」
「今日は一人で来たんだ。母さんとゆっくり話したくて」
母は少し驚いた表情を見せたが、すぐに笑顔になった。でも、その笑顔の奥に、恭介は何か影のようなものを感じた。目の下に薄いクマができている。少し痩せたようにも見える。
リビングに座ると、母がお茶を入れてくれた。湯呑みを手に取った時、恭介は母の手が少し震えているのに気づいた。
「母さん、大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ。最近ちょっと疲れてるだけ」
母は笑顔で答えたが、その笑顔はどこか作られたもののように見えた。
最初は何気ない会話が続いた。陽菜と美月の成長、恭介の仕事、父の趣味。でも、恭介の胸の奥では、ずっと違和感が渦巻いていた。
母は明るく振る舞っているが、時々視線が遠くを見つめる。笑顔の間に、ほんの一瞬だけ表情が曇る。そんな微細な変化を、恭介は見逃さなかった。
「お父さんは?」
「庭の手入れをしてるわ。すぐに戻ってくると思うけど」
母の声に、また微かな震えがあった。恭介は、みどりの郷で学んだ「聴く」技術を思い出した。相手の言葉だけでなく、表情、声のトーン、体の動き。全てが何かを語っている。
厚生労働省の調査によれば、高齢者の介護を担う家族の約六割が「相談相手がいない」と感じているという。地域や家族の中で孤立し、一人で問題を抱え込んでしまうケースが増えている。
母も、何かを一人で抱え込んでいるのではないだろうか。
「母さん」
恭介は優しく声をかけた。
「何か困ってることない?俺、ちゃんと聞くから」
母は湯呑みを持つ手を止めた。その静止した時間が、まるで永遠のように長く感じられた。
「別に、何もないわよ。どうして?」
母の声は明るかった。でも、その明るさの奥に、恭介は深い疲れと不安を感じ取っていた。
リビングの時計が、静かに時を刻んでいる。母は何かを言いかけて、また黙った。その沈黙の重さが、恭介の胸を締め付けた。
窓の外では、父が庭の草を抜いている姿が見える。いつもと変わらない日曜日の午後。でも、恭介には確信があった。この家族に、何か大きな変化が起こりつつあるのだと。
母の震える手。遠くを見つめる視線。そして、言葉にならない沈黙。
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