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17 北海の孤島 フェロー諸島

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 水温計は遂に110度を超えた。もう一刻の猶予もない。
「こちらアカツキ三番、燃料10L切りました。まずいです。すごくまずいです」
 松岡もいよいよ限界らしい。見渡すばかりの冷たい海が二人を飲み込まんと広がっている。
「うーん……そろそろ、おっ右手前方」
 池永中尉の言葉に右前方に視線を向けると、雲の向こうから海面ではない薄暗い塊が見えてきた。
「フェロー諸島だ。行きにも見かけた」
 豆粒のように小さな島々が、大海の中に浮いていた。行きは島の北側を通ったが、帰りは母艦の移動分南側へ針路をずらしていた。こうしてみると彼らの航法はそれほどずれてはいなかった。

「みんな、あの島まで頑張ろう。寒中水泳よりはずっとマシだよ」
 あそこに脚を降ろすことが出来れば、冬の海で凍えて溺れ死ぬ運命から逃れられる。昨日まで名前すら知らなかった島が、今や輝いて見える。
「お前達、出撃前に云われたこと覚えているな」
 フェロー諸島は不時着地点として想定されていたので、簡単な説明は受けていた。デンマーク王国領だが、現在デンマーク本国はブランドル帝国に占領されている。島が降伏しているかは不明。ブランドル軍が駐留している可能性もある。要するによく判らなかった。
「不時着は南側の島、夜中に味方の潜水艦が救けに来るからそれまで隠れてろ、でしたっけ」
 そんな敵か味方かよく判らない場所ではあったが、緊急時に不時着するには最適な場所にある島である。海軍も最低限の準備はしていた。
「降りましょう降りましょう。持ってくれよ」
 洋一も松岡も気が気でない。島と計器板とを視線が往復して忙しい。
「ようし、ちょっと見てくるからな」
 そう云うと熊木機が増速して降下していった。南側の細長い島を低空で通過して、そして戻ってくる。
「行けそうな草地があった。誘導してやる」
 先頭に付いた熊木機に三機が連なり、池永機が少し上からそれを見守っている。
 島を前にしたところで水温計が跳ね上がる。冷却水が無くなり、温度計の周りが蒸気だけになったのだろう。もう待ったなしだ。
「さ、先に降ろさせてください!」
 このまま順番に降りるところだが、悠長に待っていられない。あと何秒回していられるか。
「と、止まる。止まる。俺も待ってられない!」
 松岡の機体はプロペラが時々見えるようになっていた。
「しゃあないなぁ、二人とももう少し距離あけろ」
 脚を降ろして三機の十式艦戦が草地に向かって降下していった。
「同時に行く。ぶつけるんじゃないぞ。艦爆、少し待てるか」
「な、なんとか」
 判断すべき指標がないので福山は開き直ることにしたようだった。
 洋一たちの前に黄色い草原が広がっていた。うっすらと白いのは雪だろうか。何にせよ、真下はもう海では無い。
 意を決して洋一は点火スイッチを切った。前方から当たり前のように聞こえる爆音が無くなり、風を切る音だけが身体を包んでいた。操縦桿を少しだけ前に押して速度を稼ぐ。
 一瞬だけ視線を走らせると、松岡機も完全にプロペラが止まっていた。あっちの場合「止めた」のではなく「止まった」のだろうが。
 どの道もうやり直しはきかない。先導していた熊木機はそのまま前に飛び去り、二機の心臓を止めた十式艦戦は草地に向けて滑り降りていった。
 うっすらと雪化粧した背の低い草が目の前に迫る。風の流れに神経を集中し、洋一は静かに操縦桿を引いた。大気を掴んで、十式艦戦は一気に速度を落とす。そのままストンと下に落ちるが、脚のすぐ下は地面であった。
 主脚と尾輪が同時に接地する、三点式着陸。空母乗りなら身体に染み込んだ着陸はいざというときにも役に立った。速度を殺して接地して、そして雪煙を上げながら滑走した。ペダルの先にあるブレーキを踏み込むが、十式艦戦のブレーキは正直利きがあまり良くない。三点着陸で減速しておいて良かった。
 整地してないので妙に揺れる。なんとなくノルマンに派遣されていたときのことを思い出した。あの時も滑走路は元牧場だった。
「丹羽君、松岡君、左に寄せて。止まる前に滑走路を空けるんだ」
 そういえばもう一機降りるんだっけ。エンジンを止めてしまったので、行き脚が止まったら動けなくなる。停止寸前にブレーキを緩め、左に曲がった。
 草をかき分けて進み、その後はブレーキをかけるまでも無く止まった。いつもならエンジンが冷めるまで低回転アイドリングで待つのだが、今回はその必要も無い。奇妙なほどの静寂に包まれた。
 操縦席から立ち上がると、同じく顔を出していた松岡と眼が合った。二人して大きく頷いた。
 なんとか、死なずに済んだ。
 見上げると、一周回ってきた九式艦爆が滑り込んできた。少し乱暴に接地したが、固定脚は頑丈であった。
 無事に着陸した彼らの上空を、二機の十式艦戦が通過する。
「我々は母艦に戻る。夜には迎えが来るはずだから、それまで頑張るんだ」
 二機は西南西へと機首を向けた。
「お前ら、運を信じて待つんだぞ」
 名残に翼を振って、彼らは空母〈翔覽〉が待つ方角へ飛んでいった。無線を切ると洋一は地上へと降り立った。少し冷たいが、固い地面がそこにはあった。
 突き刺すような寒さと、冬枯れの草の匂いが彼らを包む。それと、少し獣臭いような。見回すと向こうの方で白く蠢くものがあった。
「おい松岡、ヒツジだ、ヒツジ」
 十頭以上の白い毛の塊が身を寄せ合うようにして佇んでいた。もしかして実物を見るのは初めてかもしれない。自分達が見知らぬ異国に来たことを改めて実感した。
「なるほど、暖かそうだなぁ」
 防寒服の襟を立てながら松岡も近づいてくる。暖かい毛を持っていない人間は着込むしかない。ヒツジたちは見知らぬ機械と見知らぬ人間を見ていたが、興味を無くしたように足下の草を食べ始めた。
 触れないかな。近づこうと洋一が足を踏み出したところで、ヒツジより背の高い影に気づいた。
 人影だった。黒っぽい外套に毛糸の帽子をかぶっている。大柄では無いはずなのに頭の位置は洋一たちよりも少し高い。よく見ると茶色い馬に乗っていた。じっとこちらを見ている。
「おーい」
 声をかけた途端、その人影は背を向け、どこかへと走り去ってしまった。その後ろをヒツジたちが追いかけていった。
「人、住んでたんだな」
「無人島じゃないんだから、デンマーク領とか云ってただろ」
 とはいえ洋一も昨日まで存在すら知らなかったぐらいである。
「……少尉、今村少尉!」
「おっといけない」
 同期の福山の声が耳に入ったので、二人は九式艦爆へと駆け寄った。
 福山は後部座席に覆い被さって中を覗き込んでいた。
「しっかりしてください今村少尉!」
 中で半身を血に染めた少尉が後ろに向けた座席に寄りかかったまま動かない。
「引きずりだそう。手伝うぞ」
 その両側から洋一と松岡が手を突っ込み、飛行服の襟の辺りを掴む。縛帯をもう片方の手で掴み、三人がかりで少尉を引きずり出した。なんとか少尉を草地に横たえさせた。
「少尉、少尉!」
 福山は懸命に話しかけるが、反応は無い。松岡は同期の肩をゆっくりと叩いた。
「もう、死んでるぞ」
 出血しすぎて白くなった顔は、疲れ切って眠ってしまったようだった。経験が浅い洋一たちにも判るような死に顔だった。
 数秒してようやく事実を受け入れた福山は、がっくりと肩を落とした。
「……初陣だったんだよ今日が。いい人だったんだよ。士官だけど俺にも優しくしてくれた、いい人だったんだよ」
 配属されたばかりの若い少尉は、恐らく高射砲の弾片を胸の辺りに受けて、事切れていた。しばらくは喋っていたと云うことは、失血死だろうか。眠ったような表情から、死の瞬間は穏やかであったと信じたい。
「整えてやろうぜ」
 地面に横たえ、胸の前で手を合わす。顔に付いていた血を拭ってやると本当に眠ったようであった。襟の辺りを整えると、三人は並んで物言わぬ上官に敬礼した。
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