あの日、自遊長屋にて

灰色テッポ

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ハ 師走

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 師走になった今日、江戸では三日三晩降り続いた雪がようやく止み、毒気を雪が吸い取ったかのような澄んだ空気が町を包んでいた。人々は例年より早い雪が止んだ事にほっとはしたが、それも束の間、この年の瀬を無事に渡りきるために江戸の町民たちは一斉に駆けずり回りだした。

 この時代は家賃や生活費といったものをツケで支払う習慣であり、その清算が盆と暮れに訪れる。庶民はその返済と回収を済ませてはじめて、正月をめでたく迎えられたのである。それに加えて近年の物価の高騰がなおさら彼らを追い詰め、また悩ませてもいたようだ。

 八助一家は幸いな事に暢気な師走を過ごせそうであった。それは鳴き蝉の権太の若衆わかいしが約束通り見舞を持って謝りにきたからであって、八助やお梶などはその見舞金の多額さにむしろ恐縮してしまい、自分たちがうけた被害などは忘れてしまったかのように頭を下げていた。
 貧しい者たちの卑屈さとみる者もいるだろうが、自遊長屋の人たちはそんな人の好い八助一家を微笑ましく思ったものである。

 相楽は朝から口入れ屋へ行き、何とか正月を迎えることが出来るだけの仕事にありつこうと必死のようであったが、士分の相楽を雇ってくれるところはなかなか見つからない。

 当時ははっきりとした身分制があり、士分のままでは農工商の仕事には就けない決まりがある。もちろん場合によっては黙認されることも多かったが、それでも相楽がなかなか仕事を貰えなかったのは、そういう理由から仕方がないことでもあった。

(これでは年が越せぬ……)

 用心棒以外の仕事を探してもらっていた相楽であったが、もはや背に腹は代えられぬとばかりに、この日とうとう用心棒の仕事を引き受けてしまったようだ。


 用心棒の仕事といえば驚いたことがあった。鳴き蝉の権太が相楽の世話になっている口入れ屋へ用心棒の依頼をしてきたのだ。むろんお目当ては相楽である。賭場に相楽と夜吉が乗り込んだ日からすぐの話で、相楽は断ったが、裏社会のその情報力には思わず感嘆してしまったものだ。

 もっとも口入れ屋と裏社会とは綿密に繋がっていることを考えれば、それも驚くことではなく、現に相楽自身が鳴き蝉の権太の賭場の場所を知ったのも、この口入れ屋からであったことを考えると、むしろ当然と云えたかも知れない。



 お花は朝餉の片付けをしていた。洗い物をする水が氷のように冷たく感じ、あかぎれした指先でその水を使うには、ちょっと勇気をださなければならなかったろう。

(もう師走かぁ、すっかり冬になっちまったのねえ……)

 そう思うとぐずぐずと不決断でいた今日までの自分に、お花は少しうんざりするのであった。何を不決断でいたかといえば、ちょうど八助が鳴き蝉の権太の若衆に嬲られた日に、相楽のことで閃いたことがあったお花の思案にである。

(うん、今日こそ大家さんに相談してみよう)

 お花は心の中で自分をそう励ますと、居間でお茶を啜っている虎蔵に、「おとっつあん、ちょっと大家さんのとこに行ってくるわね」と云って襷を外した。

 お花が大家の菜衛門の部屋の前でおとないを告げると、すぐに中から菜衛門が顔を出し、「おや、お花坊、私になにか用かね?」と云って頬笑む。

「はい……あの、ちょっと、ご相談があるんです」

 いつになく緊張した様子のお花をみて、菜衛門はわざとおどけた様に目を丸くさせ、「ほうほう、それはもしかして縁談の話ですかな?」と云って白い歯をみせた。


 菜衛門はもう七十一歳になる老人なのだが、未だに自分の歯が全部揃っていることが自慢である。彼がこの自遊長屋の大家を始めたのは、長屋が一度焼けた頃より昔のはなしで、今の住人たちはみんな菜衛門より古くはない。
 何かと親身に世話を焼いてくれる菜衛門を、それこそ本当の親のように慕っている住人たちであったが、だからと云って菜衛門は決して住人たちの個人的な事情にまで顔を突っ込もうとはしない。
 そういう絶妙の距離感で人との関係を保っているのは、まさに江戸っ子の真骨頂といえるだろう。

「もう……ちがいますっ」お花が少し頬を赤らめてそう云った顔から、わずかに緊張が抜けたのが見てとれた。

「ふむ、まあ、お上がんなさい」


 お花は菜衛門がお茶の用意をしだすと、そんなことは自分がしますと立ち上がったが、菜衛門はそれを許さなかった。「いいから、いいから」そう云って自分の湯呑と女物の湯飲みにお茶を注ぐ手つきは、それを楽しんでいるようにも見える。

 女物の湯飲みは、もう二十年も前に先立たれた連れ合いのものか、それとも嫁いでいった娘のものか、お花にはちょっと判りかねたが、桜の花びらが染め付けられたその湯呑をお花は可愛いなと思った。

「おいしいお茶ですね」そう云って一口啜ったお花は、ゆっくりと相談の内容を菜衛門に話し出したようだ。

 菜衛門はお花が話している間ずっと目を瞑り、うんうんと頷いている。一通り話が終わると、「なるほど……」と云ってお花を見つめ、「それはお花坊が自分で思いついたことなのかな?」と訊いた。

「はい、そうです」お花はこくりと頷く。

「浅知恵だと笑われそうですが、自分なりに考えてみたんです」

「なに、なかなか良い話だ」菜衛門はそう云って自慢の白い歯を見せ、「実はな、あの日、八助が災難にあって戻ってくる少し前、わたしは相楽さんにおかしな質問をするお花坊の様子をみていてね、おおよそお花坊がそのようなことを考えているのではないかと思っていたんですよ」

(あっ、やっぱりそうだったんだ)

 なんとなくそんな気もしていたお花は、人を良く見ている菜衛門のことをあらためて感心した。

 そのお花の話というのはこういう事である。自遊長屋の敷地には空いた土地がある。それは地主の牡丹屋笠次郎が前の大火のあと長屋を建て直した際に、それまでより部屋の戸数を減らして、その分ひと部屋の間取りを広くしたのだが、その時に少し空地ができたのだ。
 お花はその空地を使いたいと考えた。そこに寺子屋を建てて長屋の子はもちろん、近所の子供たちをも集めて、相楽に師匠になってもらい、読み書きや計算などを教えてもらってはどうかと。そのようなことを菜衛門に相談したのである。

 むろんお花が寺子屋の経営に興味があった訳ではないことは、お分かりのことと思う。その真意はつまるところ、相楽が寺子屋の師匠となれば、いつも娘の雫の傍に居られるようになると思ったところにある。それに安定した収入も得られるだろうし、もう用心棒みたいな危険な仕事もしないですむのだから。

 菜衛門はお茶を啜りながら、お花の話をもう一度自分なりに噛み締めるようにした。

 二度三度と独り頷いてみせながら「なるほど、なるほど」と呟くと、お花の目を不意に見つめて云う、「もう少し早くお花坊が私に相談に来ると思っていましたが、なにか躊躇する訳でもありましたかな?」

「いえ、あたしが愚図だから……」こう言葉を濁したものの、果たしてそれはお花にとって図星であった。

「愚図ということはあるまいて、話してみなさい」

 そう云って頬笑む菜衛門の顔を見ていると、お花もついには苦笑いをし、「ほんと大家さんには敵いませんわね」といって話し出す。もともと隠したいという訳でもなかったのだが、まだ自分から話すには少し勇気が足りなかったのだ。

「実はあたし、相楽さんがどこかに御仕官なさりたいんじゃないかと思って……もしそうだとしたら、寺子屋の話は相楽さんにとって重荷になりますでしょ……」

「ふむ、それはもっともですな。まあしかし、それは相楽さんに確かめてみれば済む話じゃないかね?」

「ええ、そうなんですけど、あとひとつ……」お花はそう云うとしばらく黙ってしまった。

 そしてようやく決心をしたというふうにゆっくりと口を開くと、「あとひとつ……もしかしたら」と菜衛門の目を見つめ、「相楽さんがもし、尊皇攘夷とかにご熱心だとしたら、その大事なおこころざしの前に、寺子屋の師匠なんて話はご不快かもしれませんし、なんか怒られそうで……」と胸の内を打ち明けたものだ。

 ちょっとお花の気にしすぎの様に思えるかもしれないが、そうではない。この時代、まるで熱病のように流行した勤皇熱は不遇をかこってきた浪人たちにとって、自身の居場所となるべき重要な思想であったといえる。とは云うものの、己の不満の捌け口としてその思想を利用していた浪人が大半であり、本当の意味で尊皇攘夷を標榜した者は多くない。

 とにかくお花の心配は相楽が浪人である以上、杞憂ではすまされない当時の実感なのであった。

「そうですか」と、目を瞑って頷いた菜衛門は少し思案するような顔をした、「まさか怒られることはないでしょうが、確かに相楽さんにそのようなお考えがあってもおかしくはありませんな」

「はい……」

「しかしそれも確かめてみる以外にないでしょう、お花坊の素直な気持ちをお伝えすれば、相楽さんもきっと真面目に応えてくださるはずですよ」

「ええ、そうしてみようと思います」

 お花は菜衛門にそう頷いてみて思った。もし本当に相楽が勤皇の志士であったとき、(あたしは自分の知らない相楽さんをみてどう思うのかしら──)

 やはりそれを知るのが怖いお花であったが、その考えは顔には出さずに打ち消したようだ。
 菜衛門はにっこりと頬笑み、「相楽さんがもし寺子屋をなさってくれると仰ったら、その時はわたしも牡丹屋の旦那様へ空地と費用のことで精一杯掛け合ってまいりましょう」そう頼もしげに白い歯を見せるのであった。

 菜衛門の部屋を出ると、お花は真直ぐに相楽の部屋へと向かった。今日も口入れ屋へ相楽は行っているはずであったが、いつも通りだともう帰ってきていて、部屋にいる時分なのである。

(しっかり話さなくっちゃ)お花は自分にそう言聞かせて井戸端の方へと歩いていった。

 そのお花の横を長屋の子供たちが嬌声をあげながら走りぬけていく。みんなで鬼ごっこでもしているのだろと思ったとき、お花のお尻に何かがあたって、おもわず小さく叫んでしまった。振り向いてよく見るとそこには尻餅をついている雫がいた。

「まあ、雫ちゃん、大丈夫だった?」

 しかめっ面をしながらおでこをさすっている雫は、「ねーね、だめでちょ! おにおっこのじゃなでちょ!」そう苦情を云ったものだ。

 お花は雫を立たせてやり、着物についた砂を払いながら「ごめんね、うっかりしたわね」と謝ると、「お父様はお帰りになられたかしら?」と雫に訊いた。

まなよまだよ」雫はお花への返答もそこそこに、再びずっと先へ行ってしまった子供たちを追いかけて、たどたどしく走っていく。そんな雫のうしろ姿をみていると、お花はなんとか寺子屋の話しが纏まればいいなと思うのであった。

 その日は結局、夕闇が迫りだしたころに相楽は長屋に戻り、虎蔵の家で預かってもらっていた雫を迎えにきた。どうやら昼から酒を飲んでいたらしく、少し不自然な感じの陽気さで、「いつも申し訳ない」と、お花に挨拶をする。

「ちょっと仕事の付き合いで酒を過ごしてしまいましてな、実は恥ずかしながら、明日の朝からの用心棒の仕事を引き受けましたもので……」

 相楽はなんとも決まりが悪そうな顔をして頭を掻くと、「いやだいやだと云いながら、また元の鞘ですよ」とお花に笑ってそうこぼす。

「そうですか……」

「いや、愚痴ですなこれは、失礼いたしました。ところでお花殿にお願いがあるのですが」

「はい?」

「年明けの正月の初めの頃まで、雫を預かって頂くことは難しいでしょうか?」

「それはかまいませんけど……どこか遠いところでのお仕事なんですか?」

「いや場所は木場なのですが、泊り込みというのが条件でして、そのぶん賃金もいいものですから、いやはや勝手を申しておりますのは承知なのですが……どうも、あれで……」

 相楽が恐縮しきっている姿をみて、お花は相楽の生活がかなり困窮しているのだと悟った。そしてこれ以上話さすのは罪だとおもい、頬笑みながら「大丈夫ですよ、雫ちゃんのことは心配いりません」と軽やかに請け負ったのだった。

「かたじけない」

 そう云った相楽の顔は少し哀しげで、お花はもう今日は寺子屋のことを話すことはできないなと思ったようだ。少し残念な気もしたが、それより今は相楽の気持ちを考えると気の毒で、胸が一杯になってしまっている。

 寺子屋のことは、(今度木場まで自分が行ってお話ししよう、その時に相楽さんのお返事を伺えばいいことだもの)そう思うお花なのであった。
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