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伯爵家が払った代償
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私の結婚は、一言でいうと介護契約といえるものだった。
愛だとか幸福だとか、そんなものはどこにもなくて、気持ちとしては奴隷になったにも等しい。
我が家は貧しい男爵家だし、お相手は宗主家の伯爵様だし、初めから選択の余地などまったく無い話だ。
家が私を売ったのだと考えれば腹も立つはずなのに、不思議と心は静かだった。
もとより、実家に惜しまれるような価値が私にあったとも思えない。
ようするに、私の未来は十七歳で幕が閉ざされたのだ────
「ミモザお嬢様、ようこそお越し下さりました。旦那様が自室にてお待ち申しております」
伯爵家に到着した私に、この家の執事長は深々とお辞儀をした。
「本日よりお世話になりますわ」
私も丁寧にお辞儀を返したが、執事が私を歓迎していないことは直ぐにも分かった。
なにせ伯爵様の御年齢は四十五歳にもなられる。
後妻として伯爵家に迎えられた私と、伯爵様の歳の差を気にするのは当然だし、社交界はそういう噂に尾ひれを付けるのが大好きでもある。
なら執事が、伯爵家の体面を気にして私を疎ましく思うのも、彼が職務に忠実なせいだと言えるだろう。
「伯爵様のご加減はどうですか?」
「あまり芳しくはありません」
伯爵様は十年ほど前から病を患い続けられていて、ずっと病床での生活を強いられていると聞いた。
まともな結婚生活など端から諦めていたけれど、病人のいる家に漂うこの特別な匂いには、いささか閉口してしまう。
子供の頃に一度だけ父に連れられて、伯爵様のお見舞いに来たことがあったのだけれど、まさかその時の『怖そうなおじ様』が私の夫になるとは思わなかった。
運命とはなんと残酷で、気持ちの悪いものなのだろうか。
「今は旦那様のお加減がよろしくないので、婚礼の儀の日取りは、ご体調の様子を見なから決めるとのことです」
「そうですか……」
正直、婚礼の儀など私はしたくない。どうせ出席者たちから同情と好奇の混じった目で見られ、見世物にされるだけの催しだ。
もっとも伯爵様が病状を押してまでして行うとも思えないので、私の勘ではその儀式は立ち消えになると思う。
すると執事は私を伯爵様の自室へと案内しながら、振り返りもせずに言ったのだった。
「それに……ジョバンニ様もまだ戦場からお戻りになられておりませんので」
ジョバンニか、懐かしいな。彼はこの伯爵家の一人息子で私と同い歳。
子供の頃はよく二人で遊んでいて、大人しく優しい少年だった。
でもある時からジョバンニが私を避けるようになったのは、二人の間にあった秘密を、彼が恐れるようになったからだ。
『いいか、これはお医者さんごっこという遊びだ』
『はい……』
実は私と彼には、子供が持つ他愛のない性的興味から、お互いの身体をいたずらし合う遊びに夢中になった時期がある。
だけどジョバンニは、それがいけないことだと知らなかったらしい。私は初めから知っていたけれど、彼はそうではなかったのだ。
だから彼は自分の罪に気づいたとき、急に恐れをなして私から逃げ出してしまった。
ふふ……当時の私はそんな彼を、意気地なしだとがっかりしたっけ。
「ミモザ、俺はお前との間に子を成すつもりはない。家督問題の火種になるようなものは不要だからだ。分かるな?」
到着の挨拶をしにきた私に、病床の伯爵様が初めて言った言葉がそれであった。
たしかに本心なのであろうが、今の彼がそのような行為が出来るとも思えなかった。それほどに衰弱しきっている。
もしかしたら男性のプライドが彼にそう言わせたのかもしれないが、どのみち私は伯爵様に男性としての役割を求めていない。
大人しく介護されてくれればいいなとだけ思う。
そうしてひと月が経った。伯爵様のお世話をしていて気がついたのだけれど、これは伯爵様本人も相当に辛いに違いない。
食事の手伝いはまだしも、身体の清掃や下の世話をされるのは、人としての尊厳が切り裂かれる。
王家などはそれらの世話も平気で使用人たちにさせる事もあると聞くが、やんごとなき御方たちは、もはや人の感覚を超越しているのかとも思う。
ともかく私は、伯爵様がなぜご自分の介護をさせるために、わざわざ結婚なさったのかが分かったような気がした。
たとえ形だけでの家族ではあっても、自身の不様の始末をするのが妻ならば、多少なりとも自尊心が傷つかずに済むと考えたのだろう。
「不快な箇所はございませんか?」
「ない。下がれ」
そう言って背を向けられた伯爵様を、私は彼の排泄物を手にしたまま見つめている。
この中年男性に、自分でも不思議なほど憐憫の情を抱かないのは何故なのか。
どうやら気持ちを理解できることが、すなわち同情に繋がるわけではないらしい。
その代わり不快感も感じなかった。なんというかこれは、そう、仕事なのだ。
伯爵家に凶報が届いたのは、それからすぐのことだった。
戦場でジョバンニが負傷したという。それもかなりな重傷らしい。
「よいか、このことはまだ旦那様にはお知らせするな! お身体に障るといけない」
執事は厳しく使用人たちにそう言いつけていたが、それも焼け石に水に終わるだろう。
果たして帰還したジョバンニは、両目の視力と右足を失っていた。
案の定、伯爵様は悲しみと失意で病を悪化させてしまう。
ジョバンニといえば命に別状はなかったが、もうこれまでのようには生きてはいけまい。
「やあミモザ。まさか君が僕の母上になるとは思わなかったよ」
視力を失っているにもかかわらず、ジョバンニは私の方へまっすぐ顔を向けて微笑んだ。
低く落ち着いた声音は、かつての少年のものよりずっと大人びていたけれど、話し方に滲む穏やかさは、あの頃と少しも変わっていない
「だけど君の姿を見れないのは残念だな。きっと美しい女性になっているのだろうね」
「まあ。でしたらがっかりさせずに済んだわけですわね」
「またそういう事を言う。君は変わらないんだな」
「そうかしら?」
「ああ、子供の頃から……ずっと意地悪だ」
それからひと月、ふた月と時が経ち、私は当然のようにしてジョバンニの介護もするようになる。
はじめの頃は彼にも抵抗があったようで、世話をしようとする私を幾度となく断っていた。
しかし使用人にされるのと家族である私にされるのとでは、やはり気持ちの重荷が違うのだろう。
やがてジョバンニは私以外の者に介護されることを、拒否するようになる。
それは伯爵様も同じであり、いつのまにかこの家にとって、私はなくてはならない者となっていた。
執事や使用人たちの態度も、十七歳の小娘にするものではもはやない。
それはまるで伯爵家の女主人にする態度そのものであった。
「ジョバンニ。さあ身体を拭いて差し上げますわ。足の包帯も取り替えましょうね」
「ありがとう、お母様」
「ミモザでよろしくてよ?」
「だけどさ、外聞というものが……」
ジョバンニは困ったようにも、照れたようにも見える顔でそう言うと、私の指示に素直に従いながら、ボタンを手探りして服を脱ぐ。
「じゃあ二人でいる時だけね」
「う、うん、そうだね。なんだか秘密をもったような気持ちだな」
「ふふ、そうですわね。まるであの日のようですわ」
途端、ジョバンニは心臓が跳ねたような表情をみせ、顔を赤らめる。
「……それって」
「ええ」
「君も、憶えていたんだね」
彼が見えない目で私を探しながらそう呟いたのに、私はあたかも医者が触診するかのようにして、露わになった素肌の胸に手を当てる。
「さあ、お医者さまごっこを致しましょう」
そっと耳元に口を寄せて囁いた私の声に、ジョバンニは見えない目を彷徨わせながら、震える手で私にそっと触れたのであった。
愛だとか幸福だとか、そんなものはどこにもなくて、気持ちとしては奴隷になったにも等しい。
我が家は貧しい男爵家だし、お相手は宗主家の伯爵様だし、初めから選択の余地などまったく無い話だ。
家が私を売ったのだと考えれば腹も立つはずなのに、不思議と心は静かだった。
もとより、実家に惜しまれるような価値が私にあったとも思えない。
ようするに、私の未来は十七歳で幕が閉ざされたのだ────
「ミモザお嬢様、ようこそお越し下さりました。旦那様が自室にてお待ち申しております」
伯爵家に到着した私に、この家の執事長は深々とお辞儀をした。
「本日よりお世話になりますわ」
私も丁寧にお辞儀を返したが、執事が私を歓迎していないことは直ぐにも分かった。
なにせ伯爵様の御年齢は四十五歳にもなられる。
後妻として伯爵家に迎えられた私と、伯爵様の歳の差を気にするのは当然だし、社交界はそういう噂に尾ひれを付けるのが大好きでもある。
なら執事が、伯爵家の体面を気にして私を疎ましく思うのも、彼が職務に忠実なせいだと言えるだろう。
「伯爵様のご加減はどうですか?」
「あまり芳しくはありません」
伯爵様は十年ほど前から病を患い続けられていて、ずっと病床での生活を強いられていると聞いた。
まともな結婚生活など端から諦めていたけれど、病人のいる家に漂うこの特別な匂いには、いささか閉口してしまう。
子供の頃に一度だけ父に連れられて、伯爵様のお見舞いに来たことがあったのだけれど、まさかその時の『怖そうなおじ様』が私の夫になるとは思わなかった。
運命とはなんと残酷で、気持ちの悪いものなのだろうか。
「今は旦那様のお加減がよろしくないので、婚礼の儀の日取りは、ご体調の様子を見なから決めるとのことです」
「そうですか……」
正直、婚礼の儀など私はしたくない。どうせ出席者たちから同情と好奇の混じった目で見られ、見世物にされるだけの催しだ。
もっとも伯爵様が病状を押してまでして行うとも思えないので、私の勘ではその儀式は立ち消えになると思う。
すると執事は私を伯爵様の自室へと案内しながら、振り返りもせずに言ったのだった。
「それに……ジョバンニ様もまだ戦場からお戻りになられておりませんので」
ジョバンニか、懐かしいな。彼はこの伯爵家の一人息子で私と同い歳。
子供の頃はよく二人で遊んでいて、大人しく優しい少年だった。
でもある時からジョバンニが私を避けるようになったのは、二人の間にあった秘密を、彼が恐れるようになったからだ。
『いいか、これはお医者さんごっこという遊びだ』
『はい……』
実は私と彼には、子供が持つ他愛のない性的興味から、お互いの身体をいたずらし合う遊びに夢中になった時期がある。
だけどジョバンニは、それがいけないことだと知らなかったらしい。私は初めから知っていたけれど、彼はそうではなかったのだ。
だから彼は自分の罪に気づいたとき、急に恐れをなして私から逃げ出してしまった。
ふふ……当時の私はそんな彼を、意気地なしだとがっかりしたっけ。
「ミモザ、俺はお前との間に子を成すつもりはない。家督問題の火種になるようなものは不要だからだ。分かるな?」
到着の挨拶をしにきた私に、病床の伯爵様が初めて言った言葉がそれであった。
たしかに本心なのであろうが、今の彼がそのような行為が出来るとも思えなかった。それほどに衰弱しきっている。
もしかしたら男性のプライドが彼にそう言わせたのかもしれないが、どのみち私は伯爵様に男性としての役割を求めていない。
大人しく介護されてくれればいいなとだけ思う。
そうしてひと月が経った。伯爵様のお世話をしていて気がついたのだけれど、これは伯爵様本人も相当に辛いに違いない。
食事の手伝いはまだしも、身体の清掃や下の世話をされるのは、人としての尊厳が切り裂かれる。
王家などはそれらの世話も平気で使用人たちにさせる事もあると聞くが、やんごとなき御方たちは、もはや人の感覚を超越しているのかとも思う。
ともかく私は、伯爵様がなぜご自分の介護をさせるために、わざわざ結婚なさったのかが分かったような気がした。
たとえ形だけでの家族ではあっても、自身の不様の始末をするのが妻ならば、多少なりとも自尊心が傷つかずに済むと考えたのだろう。
「不快な箇所はございませんか?」
「ない。下がれ」
そう言って背を向けられた伯爵様を、私は彼の排泄物を手にしたまま見つめている。
この中年男性に、自分でも不思議なほど憐憫の情を抱かないのは何故なのか。
どうやら気持ちを理解できることが、すなわち同情に繋がるわけではないらしい。
その代わり不快感も感じなかった。なんというかこれは、そう、仕事なのだ。
伯爵家に凶報が届いたのは、それからすぐのことだった。
戦場でジョバンニが負傷したという。それもかなりな重傷らしい。
「よいか、このことはまだ旦那様にはお知らせするな! お身体に障るといけない」
執事は厳しく使用人たちにそう言いつけていたが、それも焼け石に水に終わるだろう。
果たして帰還したジョバンニは、両目の視力と右足を失っていた。
案の定、伯爵様は悲しみと失意で病を悪化させてしまう。
ジョバンニといえば命に別状はなかったが、もうこれまでのようには生きてはいけまい。
「やあミモザ。まさか君が僕の母上になるとは思わなかったよ」
視力を失っているにもかかわらず、ジョバンニは私の方へまっすぐ顔を向けて微笑んだ。
低く落ち着いた声音は、かつての少年のものよりずっと大人びていたけれど、話し方に滲む穏やかさは、あの頃と少しも変わっていない
「だけど君の姿を見れないのは残念だな。きっと美しい女性になっているのだろうね」
「まあ。でしたらがっかりさせずに済んだわけですわね」
「またそういう事を言う。君は変わらないんだな」
「そうかしら?」
「ああ、子供の頃から……ずっと意地悪だ」
それからひと月、ふた月と時が経ち、私は当然のようにしてジョバンニの介護もするようになる。
はじめの頃は彼にも抵抗があったようで、世話をしようとする私を幾度となく断っていた。
しかし使用人にされるのと家族である私にされるのとでは、やはり気持ちの重荷が違うのだろう。
やがてジョバンニは私以外の者に介護されることを、拒否するようになる。
それは伯爵様も同じであり、いつのまにかこの家にとって、私はなくてはならない者となっていた。
執事や使用人たちの態度も、十七歳の小娘にするものではもはやない。
それはまるで伯爵家の女主人にする態度そのものであった。
「ジョバンニ。さあ身体を拭いて差し上げますわ。足の包帯も取り替えましょうね」
「ありがとう、お母様」
「ミモザでよろしくてよ?」
「だけどさ、外聞というものが……」
ジョバンニは困ったようにも、照れたようにも見える顔でそう言うと、私の指示に素直に従いながら、ボタンを手探りして服を脱ぐ。
「じゃあ二人でいる時だけね」
「う、うん、そうだね。なんだか秘密をもったような気持ちだな」
「ふふ、そうですわね。まるであの日のようですわ」
途端、ジョバンニは心臓が跳ねたような表情をみせ、顔を赤らめる。
「……それって」
「ええ」
「君も、憶えていたんだね」
彼が見えない目で私を探しながらそう呟いたのに、私はあたかも医者が触診するかのようにして、露わになった素肌の胸に手を当てる。
「さあ、お医者さまごっこを致しましょう」
そっと耳元に口を寄せて囁いた私の声に、ジョバンニは見えない目を彷徨わせながら、震える手で私にそっと触れたのであった。
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