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2章
(21)紫色の瞳
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時は少し遡る。
リョーホが医務室の方へと走り抜けた後、ギルド内では陣風と暴風が荒れ狂っていた。
最初はリョーホが逃げられるよう手加減をしていたが、ギルド内の避難誘導が完了した途端、アンリの攻撃は苛烈なものになった。斬撃で壁や床を破壊しようが建物が崩れようがお構いなし。ダウバリフも大剣を存分に振り回して応戦したため、ものの数分でギルドは倒壊寸前になっていた。
二人は崩れ落ちてくる瓦礫ごと斬撃に巻き込みながら外へと飛び出した。アンリは『陣風』で空中を飛びダウバリフと距離を取ったが、その時目に写った無数の炎に思わず目を見開いた。
どこを見渡しても、炎と煙が空を曇らせながらエラムラの里に蔓延っている。煙の足元ではエラムラとスキュリアの狩人たちが戦いを繰り広げ、広場の方では集められた民間人が里の外へ誘導されているところだった。どうやら、リョーホが危惧していたスキュリアの奇襲は見事に成功してしまったらしい。
「チッ」
アンリは舌打ちを零しながら、昼間から姿の見えないエトロへ文句をまくし立てた。
バルド村を出発する前、いきなりエトロに呼び出されて嫌な予感はしていたが、こんなことに巻き込まれるなら事前に教えてほしかった。当初の予定では、リョーホにエラムラへの道順を覚えてもらい、頃合いを見て竜王討伐に巻き込むだけの話だったではないか。
エトロがベアルドルフに相当な恨みを抱いているのをアンリは知っていた。しかし、エトロの復讐劇に手を貸す気なんてさらさらなかった。エトロもそれが分かっていたから、だまし討ちのような真似をしてアンリをエラムラに連れてきたのだろう。
よりにもよって、アンリが今相手しているのは、一人で竜王を討伐した守護狩人『略奪のダウバリフ』だ。
かつてダウバリフが活躍していた時代は、武器の素材となる鉱物が全く取れず、医療技術も進んでいないような、ドラゴン討伐自体が困難だった。逸話によると、ダウバリフはテララギの里のスタンピードを一人で凌ぎ切ったという。しかもその手に握られていたのは安物の剣一本だけだったらしい。
実際に戦ってみれば、その逸話が誇張されたものではないと良く分かる。年老いて、右手の指が掛けてもなお、ダウバリフは恐ろしく強かった。アンリがまだ殺されていないのも、できるだけ近距離戦闘にならぬよう立ち回っているからでしかない。
「ぬぅん!」
ダウバリフが大剣を振るい、空中にいるアンリへと迫る。
「死ね!」
空中で弓から解き放った『陣風』が、螺旋を描きながらダウバリフの心臓へ吸い込まれる。しかし、ダウバリフは大剣の腹で難なく受け止めると、逆に風を刃で巻き取りながら打ち返してきた。
アンリは返ってきた風を短剣でかき消し、地面に着地しながら舌打ちをした。
ダウバリフの持つメンディヴィアの大剣。
あれが持つ菌糸能力のせいで、アンリは決定打を打つことができなかった。
ドラゴンから高純度で抜き取られた菌糸は、武器に加工してもその能力を発揮する。メンディヴィアの尾を使ったあの大剣も例外ではなく、ダウバリフの任意で凶悪な能力を発動し続けている。
メンディヴィアの菌糸能力は『溶解』。触れたものを溶かし、菌糸をほぐし、自分の菌糸と混ぜ合わせることで一時的に能力を奪う。
あの能力のせいで、アンリが放つ『陣風』のことごとくが打ち消されてしまう。かといってエランの剣で打ちかかろうものなら、武器に入ったエランの菌糸とリョーホの菌糸が解されて使い物にならなくなる。遺品をこれ以上摩耗させるわけにもいかず、近距離戦はどうしても避けなければならなかった。
しかし。弓から高出力の風を打ち込んでも大剣の前では無意味だ。矢が尽きてそこら辺の瓦礫を代用しても、大剣の『溶解』速度が勝るため傷一つつけられない。
「クソったれ」
相性の悪さに毒吐きながらアンリはダウバリフから距離を取り続ける。ダウバリフもまた遠隔の攻撃手段を持たないため、逃げ続けるアンリへの決定打がない。互いに膠着状態の中、広場の方で鈴の音が響き渡った。
「ロッシュか!」
アンリは薄く口を広げるように笑った。
ロッシュの『響音』は、余所者の敵にしか牙を剥かない殺戮兵器だ。普段からロッシュの『響音』に触れている里の人間や鈴持ちの人間は、鈴から響く周波数に適合するため効果を発しない。逆に、周波数と符合しない余所者の脳みそは頭蓋に流れ込んだ振動によって死亡する。まさに大勢の敵を潰すにはもってこいの能力だ。
現在、エラムラの里の中では裏切り者に手引きされたスキュリアの狩人が溢れかえっている。先ほど響き割った鈴の音で、スキュリアの狩人はほぼ壊滅状態に陥っただろう。
しかし、アンリの予想に反してロッシュの鈴の音は二度、三度と続いて止まなかった。
「なんだ?」
地面に着地し周囲を見渡せば、血を吹き出しすスキュリアの狩人が何人か見える。だがまだ生きている狩人の方が遥かに多い。
「ワシらも対策を練った。それだけのことよ」
「……なるほどね。小細工を使うなんてベアルドルフらしくもないけど、そこまで腐ったか」
アンリは渋面になりながら悪態をつく。
一撃必殺ができないのならば、ロッシュは仲間を巻き込まぬように『響音』出力を調整しなければならない。そのためにはロッシュが肉眼で敵を知覚する必要があった。
しかしエラムラは炎と煙に包まれており、敵を見つけるのも一苦労だ。ロッシュがエラムラ最強の守護者といえど、ここまでされては里を守り切るのは難しいだろう。
ロッシュの能力の弱点を知る人間は、里の中枢に関わる者のみ。アンリは諸事情で『響音』の詳細を知っていたが、関係者間では厳重な箝口令が敷かれていたはずだ。
それでも情報が漏れたのなら理由は一つ。
「裏切り者がもう一人……か。やっぱり来るんじゃなかったな」
「なんじゃ、まさか怖気づいたとでも言わんじゃろうな」
指の欠けた右手で手招きしながら、ダウバリフが挑発的に笑う。
アンリは小さく嘆息すると、両足を広げながら弓を打起こした。
「いいや。あんた殺してさっさと帰らせてもらうよ。もともとこれは俺の仕事じゃないんだ」
無手のまま弦を弾き、指先から菌糸能力を発動。
ただ空中を漂うだけだった風が一瞬にして矢へ作り替えられ、甲高い音を立てながらダウバリフへ迫る。しかしこれもまた大剣に阻まれ、先ほどと同様に『溶解』され、アンリの下へ打ち返される。
だがアンリは避けない。向かい来る不可視の矢を短剣で受け止め、そのままダウバリフを真似るように打ち返した。
勢いを増した矢は、しかして大剣で再び咀嚼され、返ってくる。
アンリもまた風を纏わせた短剣で打ち返す。
徐々に二人のラリーは加速し、軌道上の地面をえぐりながら往復した。矢を受け止めるだけで、地面に突きたてた両足がズルズルと後ろに下がる。風に巻き込まれた瓦礫はすべて粉に代わり、時折アンリの腕を掠めて鮮血を散らした。
お互いに決定打がないのなら、我慢比べだ。直撃すればただでは済まない暴風に火力を足し続け、受け止めきれなかった方が死ぬ単純な勝負。ダウバリフもアンリの思惑に気づいているようで、威風堂々と両足を広げ、大剣で風を絡めとりながら打ち返し続ける。
短剣より遥かに重い大剣を振り回し続ければ、ダウバリフとてかなり体力を削られるだろう。右手の指が足りないのならなおのこと、加速し続ける暴風を弾き返すのも辛いはずだ。
だが、ダウバリフは冷や汗を掻くだけで不敵な笑みを浮かべたままだった。
「オマエは里の者ではないじゃろう。なぜ戦い続ける」
「戦う理由って今必要ある?」
「意味もなく戦う愚行なぞ、獣でもやらんじゃろうて」
「一理ある」
アンリはそう答えながら獰猛に笑う。こちらも打ち返すのが辛くなってきたが、もともと『陣風』を生み出しているのはアンリの菌糸。そして短剣に残ったエランの菌糸がアンリと呼応しているため、いくら風が暴れ回ろうと制御下に置ける自信がある。人の能力を奪い取るだけの『溶解』が、本物に勝てるわけがない。
さあ、早くその暴風に飲まれてしまえ。たとえダウバリフが耐え切れずに受け流したとしても、ここまで膨れ上がった暴風がアンリの手元から離れれば周囲一帯が吹き飛ぶだろう。疲労しきったダウバリフが逃げ切れるわけがない。
アンリの勝負に乗った時点でダウバリフの負けは決まっているのだ。
「もう勝った気になっているようじゃな」
ダウバリフに心中を言い当てられ、アンリは笑みを消した。
このまま受け止めてはいけない、と本能から警鐘が鳴らされ、アンリは短剣ではなく弓を構えた。暴風がダウバリフに打ち返される前に、矢で起爆してしまえば──。
「ワシには戦う理由がある。孫のため、息子のため、そして、これから萌立つ命のため!」
アンリが矢を打つより早く、暴風が大剣から解き放たれる。即座にアンリは空中へ飛び上がり、同時にこちらへ迫る暴風を矢で起爆させた。
大気が歪むほどの圧縮された空気が、風船のようにはじけ飛ぶ。
瞬間、内包された斬風が周囲を叩き潰し、切り刻みながら拡散した。爆心地にあった地面と瓦礫はクレーターとなり、遠いものは風圧で吹き飛ばされながら粉砕される。さらに風は留まることを知らず、里の広場にあった噴水の水を上空へたたき上げ、付近の狩人も宙へ投げ飛ばした。
爆音が膜となって、アンリの肌を通り抜ける。それから数秒後、真空となった爆心地へ大気がなだれ込み、落雷のごとき轟音を立てながら圧縮を始めた。
空気が物凄い速さで流れ、身体が持っていかれそうになる。眩い閃光を迸らせる爆心地からアンリは目を逸らしつつ、逆風を生み出して建物の陰に隠れた。
ここまで菌糸能力を酷使するのは久しぶりだ。自分が想定していた以上の規模だったが、ダウバリフを仕留めきれたとは思えなかった。
爆発させる前に見せたダウバリフの気迫は、並大抵の覚悟では出せぬ代物だ。それほどの男がここで終わるはずがない。
やがて大気の収束が収まり、轟音で馬鹿になった鼓膜から耳鳴りが始まった。建物の陰からそっと爆心地を覗いてみるが、ダウバリフの姿はどこにもなかった。広場の噴水は原型をとどめないほど粉々にされ、全壊したギルドの残骸も他の建物の残骸と入り混じってゴミ山になっている。
民間人が里の外に避難していて本当に良かった。アンリも逃げていなければ、今頃あの建物の残骸のように目も当てられない死体になっていただろう。
気づけば里を包み込んでいた炎は消えていた。黒い煙ですら真っ新に吹き荒らされ、山の向こうからは沈みかけた夕日の残光が差し込んでいる。西の空ではすでに星が輝いていた。
アンリは壁に寄りかかりながら短く嘆息し、右手の短剣と左手の弓を構えながら背後を振り返った。
「想像以上の威力じゃった」
「そう思うなら死んでほしかったなぁ」
壊れかけの建物の屋根から差し込む赤い光が、ダウバリフの白黒の頭髪を照らし出す。さらにその足元では、辛うじて人間と分かる肉塊が転がっていた。死体を盾にして、左腕をズタズタに切り裂かれながらも、ダウバリフは平然とアンリの前に立っていた。
「それ、スキュリアの狩人でしょ。良心とか痛まないのかい?」
「さて、な。オマエも無傷とは行かんかったようじゃが」
血を被ったダウバリフの目がアンリの左足を見る。爆風に巻き込まれたアンリの左足からは折れた骨が突き出しており、壁に寄りかかっていなければ立っていられなかった。たった一瞬逃げ遅れただけでこのザマだ。
せめて止血してからダウバリフと対面したかったが、そう上手くはいかないらしい。『陣風』で空中移動すればまだ戦えないこともないが、下手に動き回れば失血死してしまう。
アンリは策略を巡らせた後、ずるずると壁に背中を預けたまま座り込んだ。意地を通してまでこれ以上戦う理由がなかった。それだけのことだ。
ダウバリフは無防備になったアンリを見ても襲い掛かってくることはせず、大剣を地面に突きさして重く息を吐いた。それから、左腕から血を垂らしながらこう問いかけてくる。
「オマエを殺すのは惜しい。どうじゃ、ワシらと共に来ぬか」
「冗談。貧乏くさいスキュリアより、エラムラの方がいいに決まってるじゃん」
「巫女の正体を知ってもなお、そう言えるかの」
「……どういう意味だい」
痛む左足の傷を押さえながらダウバリフを睨む。死にかけの赤い夕陽に照らされたダウバリフは、紫色の瞳を光らせながら髭を震わせた。
「ワシらの瞳はな、この世の歪みが見えるのよ」
光が徐々に山の陰に沈み、建物の中も暗くなっていく。エラムラの里は未だ争いの声が聞こえてくるが、血を失っているせいか、ダウバリフ以外の声がすべて遠い世界の出来事のように思えてきた。
「人間に芽生えた菌糸と、その胞子。それらが放つ生気というものを、ワシらは見ることができる。活気のある街ともなれば、命の息吹はそれはそれは美しいのじゃ。……しかし、人間の中に交じって化け物がおるんじゃ。どんなに美しい息吹も一瞬で枯らしてしまうほどの、昏く底が見えぬ、海のごとき死の色じゃ」
日が落ちて、紫色の瞳が暗がりで爛々と輝く。
見るだけでその人の魂の色が分かるなんて、眉唾物もいい所だ。しかしダウバリフのしゃがれた声色には全く欺瞞がなく、表情に出せぬほどに限界まで張りつめた憎しみが真実を物語っていた。
「お主らには巫女が生きている人間に見えるようじゃが、ワシの衰えた目でも巫女の正体がはっきり見える。あれは異常じゃ。この世のものではない。存在してはならん」
「……巫女様が化け物だから、ベアルドルフはミカルラ様を殺して、娘のハウラ様も殺そうとしているってことかい」
「その通りじゃ。そしてシャルと共にいたリョーホもまた……悍ましい化け物よ」
ダウバリフの気配が揺らぐ。いや、揺らいだのはアンリの意識だ。傷口を抑え込む握力も失われていき、衣服に自分から流れ出した血が吸い込まれている感覚がする。じわじわと黒ずんでいく視界の中で、ダウバリフはどこか悲しそうに虚空を見上げる。
「息子がアレを見たら、まさしく煉獄の権化と見紛うじゃろう。あれほど歪んだ魂はワシでも見たことがない」
まるで惜しむような声だ。巫女たちに抱く者とは別種の感情に違和感を抱く。同じ化け物であるならば、巫女と同様にリョーホも憎まれるべきであろう。そうでなくては、エラムラの差別に耐え続けられるわけがない。
ダウバリフの不可解な行動はこれだけではなかった。最初にリョーホに切りかかったときも、アンリが立ち去るのを待っていれば確実に殺せたはずだ。なのにそうしなかったのは、まるでアンリにリョーホを守ってほしいと言わんばかりではないか。
その迷いはシャルのためなのか、それとも……。
アンリは思考を巡らせ、次いで仄かに笑いながら言葉を紡いだ。
「俺は見たものしか信じられない質でね。魂がどうとか、長々と説明されても全く理解できないんだ。それに……」
弓を地面に突き立て、杖代わりにしながら立ち上がる。貧血で頭がくらりとしたが、楽な体制から抜け出せたおかげで微睡みかけた意識がはっきりしてきた。
「もし本当に、巫女様の魂が化け物だったとしてもだよ。彼女たちがエラムラの人々に与えてくれたものは本物だよ。結界の中で毎日平穏な夜を迎えられるだけで十分じゃないか」
「それが人を騙くらかすためだと思わんのか?」
「ドラゴンの恐怖から解放されるなら、化け物でも利用した方が得じゃないか」
狩人は里や村をドラゴンから守りはするが、ドラゴンとの共生を諦めたわけではない。実際に北東ではあえてドラゴンの巣に暮らし、他のドラゴンから身を守っている里もある。
エラムラの里もそれと同じことだ。里の主がドラゴンだろうと化け物だろうと、人間が一番生き残れる方法を選ぶ。狩人はそうやって生存領域を広げてきたのだ。
「それで、どうする?」
アンリが問い掛ければ、ダウバリフは地面に突きさしていた大剣を重々しく引き抜いた。夜闇を吸い込んだ大剣はますます黒く、まるで闇そのものが具現化したような姿だ。肩に担ぐために振るわれただけで、大剣の周りで風が唸り、紫色の菌糸が酷薄な殺意を漲らせる。
「お主は、確実に仕留める。その次はあの化け物じゃ」
アンリは深々と嘆息すると、壁に触れていた背中を引き延ばした。
「リョーホを殺したらシャルちゃん悲しむんじゃない?」
「……人を失う痛みなんぞ、あの娘は慣れておるわい」
「ああ、そう」
化け物はどっちなんだか。
内心でぽつりと呟くのを最後に、無駄な思考をそぎ落とした。
エランの短剣を腰のベルトにしまい、弓の足踏みをして腰の重心を調整する。弓は真っすぐと、胸を押し出すように弦を弾き、張りが均等になるように狙いを定める。
『陣風』
菌糸から生み出された風がアンリの手の中で透明な矢を形作る。圧縮された大気は陽炎のように揺らぎ、これまでと比較にならぬ嵐の気配を纏っていた。
「撃つか。このワシを」
風の向こうでダウバリフが嗤った。
弦を離せば、一瞬でアンリの命は消し飛ぶだろう。
この一撃は大剣で難なく打ち返され、アンリは自分の放った『陣風』によってミンチになる。たとえ運よく生き残ったとしても、大剣に叩き潰されて終わりだ。
それでも撃つと決めた。
アンリは目を眇めながら風の勢いを強める。強風に巻き込まれ、後ろで結ってある茶髪がうなじで暴れている感触がする。願掛けのために伸ばし続けてきた茶髪は何年もの間、度重なる戦いに巻き込まれてきたせいで肩から下まで伸びた例がない。
そして今もまた、斬撃を伴う風に切り刻まれて茶髪が徐々に短くなっていく。
膨れ上がった『陣風』がやがて臨界点を突破し、弦を握るアンリの指が解き放たれようとした瞬間。
「──ダウバリフ。潮時ダ」
「ふん、傭兵崩れが……しかし……」
闖入者の制止と、軽やかな鈴の音色がアンリの意識に割り込む。同時に頭の中で鈴の音が反響し、急にアンリの全身から力が抜け始めた。収束していた『陣風』がじわじわと穴の開いた桶のように中身を失っていき、アンリが力尽きる頃にはただの風となって霧散していた。
「邪魔しやがって……」
崩れ落ちるアンリを、牧師じみた黒服の男が受け止める。その袖下では木製の鈴がカラコロと音を立てて揺れていた。
「アンリさん。立派な囮役でしたよ」
「……なったつもりはなかったけど、そんな気はしてましたよクソ」
「口が悪いですね」
アンリは制御を取り戻す手を動かし、ふらつきながらロッシュを押しのけようとした。ロッシュは逆にアンリの襟首をつかんで立ち直させると、眼前にいるダウバリフと謎の男へと目を向けた。
乱入してきた男は奇妙な格好をしていた。肩には乾いた血で染め抜いたような棘だらけの棍棒が担がれており、柄の先から垂れた鎖がじゃらじゃらと男の腰に巻き付いている。全身が隙間なく鎧で覆われているため、男の容貌はうかがい知れない。獣のように前にせり出した頭部は普通の人間より大きく、兜の隙間からは生臭い血の匂いがした。
「そこの鎧の方、顔を見せてもらえますか」
「…………」
「黙っているとはいい度胸です」
ロッシュは笑顔を絶やすことなく右手の鈴を鳴らした。鈴の音が半壊した建物内に反響するが、ダウバリフの耳から少量の血が噴き出すだけで、鎧の男は全く動じていなかった。
ロッシュが肉眼で知覚しているというのに効果がない。つまりこの男は、エラムラの人間だ。
「……なるほど。裏切り者はあなたでしたか。ですが全く記憶にない音です。側近でもない人間がどうやって僕の弱点を見つけたのですか?」
「……話す気は、ナイ」
刹那、ロッシュが前触れなくアンリの顔の前に右手をかざす。それと同時に鎧の男の方から飛んできた鎖がロッシュの右手首を打ち砕いた。ロッシュに庇われなかったら、今頃アンリは頭蓋を打ち砕かれていただろう。
「……ふむ」
ロッシュが面白そうに目を細める。
──その時にはすでにダウバリフたちの姿は消えていた。
ダウバリフの出血は相当なものだったが、床には移動した血の痕跡すらない。これではどの方角に逃げたかも分からず、追うのは不可能だ。
「逃げられましたね」
「……手を抜いてたの間違いじゃないですか?」
「否定はしませんよ。生かして捕まえなければ意味がありませんから」
ロッシュは飄々と返答しながら、瓦礫を跨ぐようにして外に出た。空はすっかり黒く染まり、里のあちこちではまだ炎が燃えている。ロッシュはそれらを見渡した後、鈴を鳴らしながらアンリを振り返った。
「アンリさん。左足の治療が終わったら貴方にも働いてもらいますからね」
「はー……じゃあ肩貸してください」
「もちろんです」
いい笑顔で頷くロッシュに、アンリは辟易としながら手を伸ばした。
その時、薄明の塔から轟音が響き渡った。
リョーホが医務室の方へと走り抜けた後、ギルド内では陣風と暴風が荒れ狂っていた。
最初はリョーホが逃げられるよう手加減をしていたが、ギルド内の避難誘導が完了した途端、アンリの攻撃は苛烈なものになった。斬撃で壁や床を破壊しようが建物が崩れようがお構いなし。ダウバリフも大剣を存分に振り回して応戦したため、ものの数分でギルドは倒壊寸前になっていた。
二人は崩れ落ちてくる瓦礫ごと斬撃に巻き込みながら外へと飛び出した。アンリは『陣風』で空中を飛びダウバリフと距離を取ったが、その時目に写った無数の炎に思わず目を見開いた。
どこを見渡しても、炎と煙が空を曇らせながらエラムラの里に蔓延っている。煙の足元ではエラムラとスキュリアの狩人たちが戦いを繰り広げ、広場の方では集められた民間人が里の外へ誘導されているところだった。どうやら、リョーホが危惧していたスキュリアの奇襲は見事に成功してしまったらしい。
「チッ」
アンリは舌打ちを零しながら、昼間から姿の見えないエトロへ文句をまくし立てた。
バルド村を出発する前、いきなりエトロに呼び出されて嫌な予感はしていたが、こんなことに巻き込まれるなら事前に教えてほしかった。当初の予定では、リョーホにエラムラへの道順を覚えてもらい、頃合いを見て竜王討伐に巻き込むだけの話だったではないか。
エトロがベアルドルフに相当な恨みを抱いているのをアンリは知っていた。しかし、エトロの復讐劇に手を貸す気なんてさらさらなかった。エトロもそれが分かっていたから、だまし討ちのような真似をしてアンリをエラムラに連れてきたのだろう。
よりにもよって、アンリが今相手しているのは、一人で竜王を討伐した守護狩人『略奪のダウバリフ』だ。
かつてダウバリフが活躍していた時代は、武器の素材となる鉱物が全く取れず、医療技術も進んでいないような、ドラゴン討伐自体が困難だった。逸話によると、ダウバリフはテララギの里のスタンピードを一人で凌ぎ切ったという。しかもその手に握られていたのは安物の剣一本だけだったらしい。
実際に戦ってみれば、その逸話が誇張されたものではないと良く分かる。年老いて、右手の指が掛けてもなお、ダウバリフは恐ろしく強かった。アンリがまだ殺されていないのも、できるだけ近距離戦闘にならぬよう立ち回っているからでしかない。
「ぬぅん!」
ダウバリフが大剣を振るい、空中にいるアンリへと迫る。
「死ね!」
空中で弓から解き放った『陣風』が、螺旋を描きながらダウバリフの心臓へ吸い込まれる。しかし、ダウバリフは大剣の腹で難なく受け止めると、逆に風を刃で巻き取りながら打ち返してきた。
アンリは返ってきた風を短剣でかき消し、地面に着地しながら舌打ちをした。
ダウバリフの持つメンディヴィアの大剣。
あれが持つ菌糸能力のせいで、アンリは決定打を打つことができなかった。
ドラゴンから高純度で抜き取られた菌糸は、武器に加工してもその能力を発揮する。メンディヴィアの尾を使ったあの大剣も例外ではなく、ダウバリフの任意で凶悪な能力を発動し続けている。
メンディヴィアの菌糸能力は『溶解』。触れたものを溶かし、菌糸をほぐし、自分の菌糸と混ぜ合わせることで一時的に能力を奪う。
あの能力のせいで、アンリが放つ『陣風』のことごとくが打ち消されてしまう。かといってエランの剣で打ちかかろうものなら、武器に入ったエランの菌糸とリョーホの菌糸が解されて使い物にならなくなる。遺品をこれ以上摩耗させるわけにもいかず、近距離戦はどうしても避けなければならなかった。
しかし。弓から高出力の風を打ち込んでも大剣の前では無意味だ。矢が尽きてそこら辺の瓦礫を代用しても、大剣の『溶解』速度が勝るため傷一つつけられない。
「クソったれ」
相性の悪さに毒吐きながらアンリはダウバリフから距離を取り続ける。ダウバリフもまた遠隔の攻撃手段を持たないため、逃げ続けるアンリへの決定打がない。互いに膠着状態の中、広場の方で鈴の音が響き渡った。
「ロッシュか!」
アンリは薄く口を広げるように笑った。
ロッシュの『響音』は、余所者の敵にしか牙を剥かない殺戮兵器だ。普段からロッシュの『響音』に触れている里の人間や鈴持ちの人間は、鈴から響く周波数に適合するため効果を発しない。逆に、周波数と符合しない余所者の脳みそは頭蓋に流れ込んだ振動によって死亡する。まさに大勢の敵を潰すにはもってこいの能力だ。
現在、エラムラの里の中では裏切り者に手引きされたスキュリアの狩人が溢れかえっている。先ほど響き割った鈴の音で、スキュリアの狩人はほぼ壊滅状態に陥っただろう。
しかし、アンリの予想に反してロッシュの鈴の音は二度、三度と続いて止まなかった。
「なんだ?」
地面に着地し周囲を見渡せば、血を吹き出しすスキュリアの狩人が何人か見える。だがまだ生きている狩人の方が遥かに多い。
「ワシらも対策を練った。それだけのことよ」
「……なるほどね。小細工を使うなんてベアルドルフらしくもないけど、そこまで腐ったか」
アンリは渋面になりながら悪態をつく。
一撃必殺ができないのならば、ロッシュは仲間を巻き込まぬように『響音』出力を調整しなければならない。そのためにはロッシュが肉眼で敵を知覚する必要があった。
しかしエラムラは炎と煙に包まれており、敵を見つけるのも一苦労だ。ロッシュがエラムラ最強の守護者といえど、ここまでされては里を守り切るのは難しいだろう。
ロッシュの能力の弱点を知る人間は、里の中枢に関わる者のみ。アンリは諸事情で『響音』の詳細を知っていたが、関係者間では厳重な箝口令が敷かれていたはずだ。
それでも情報が漏れたのなら理由は一つ。
「裏切り者がもう一人……か。やっぱり来るんじゃなかったな」
「なんじゃ、まさか怖気づいたとでも言わんじゃろうな」
指の欠けた右手で手招きしながら、ダウバリフが挑発的に笑う。
アンリは小さく嘆息すると、両足を広げながら弓を打起こした。
「いいや。あんた殺してさっさと帰らせてもらうよ。もともとこれは俺の仕事じゃないんだ」
無手のまま弦を弾き、指先から菌糸能力を発動。
ただ空中を漂うだけだった風が一瞬にして矢へ作り替えられ、甲高い音を立てながらダウバリフへ迫る。しかしこれもまた大剣に阻まれ、先ほどと同様に『溶解』され、アンリの下へ打ち返される。
だがアンリは避けない。向かい来る不可視の矢を短剣で受け止め、そのままダウバリフを真似るように打ち返した。
勢いを増した矢は、しかして大剣で再び咀嚼され、返ってくる。
アンリもまた風を纏わせた短剣で打ち返す。
徐々に二人のラリーは加速し、軌道上の地面をえぐりながら往復した。矢を受け止めるだけで、地面に突きたてた両足がズルズルと後ろに下がる。風に巻き込まれた瓦礫はすべて粉に代わり、時折アンリの腕を掠めて鮮血を散らした。
お互いに決定打がないのなら、我慢比べだ。直撃すればただでは済まない暴風に火力を足し続け、受け止めきれなかった方が死ぬ単純な勝負。ダウバリフもアンリの思惑に気づいているようで、威風堂々と両足を広げ、大剣で風を絡めとりながら打ち返し続ける。
短剣より遥かに重い大剣を振り回し続ければ、ダウバリフとてかなり体力を削られるだろう。右手の指が足りないのならなおのこと、加速し続ける暴風を弾き返すのも辛いはずだ。
だが、ダウバリフは冷や汗を掻くだけで不敵な笑みを浮かべたままだった。
「オマエは里の者ではないじゃろう。なぜ戦い続ける」
「戦う理由って今必要ある?」
「意味もなく戦う愚行なぞ、獣でもやらんじゃろうて」
「一理ある」
アンリはそう答えながら獰猛に笑う。こちらも打ち返すのが辛くなってきたが、もともと『陣風』を生み出しているのはアンリの菌糸。そして短剣に残ったエランの菌糸がアンリと呼応しているため、いくら風が暴れ回ろうと制御下に置ける自信がある。人の能力を奪い取るだけの『溶解』が、本物に勝てるわけがない。
さあ、早くその暴風に飲まれてしまえ。たとえダウバリフが耐え切れずに受け流したとしても、ここまで膨れ上がった暴風がアンリの手元から離れれば周囲一帯が吹き飛ぶだろう。疲労しきったダウバリフが逃げ切れるわけがない。
アンリの勝負に乗った時点でダウバリフの負けは決まっているのだ。
「もう勝った気になっているようじゃな」
ダウバリフに心中を言い当てられ、アンリは笑みを消した。
このまま受け止めてはいけない、と本能から警鐘が鳴らされ、アンリは短剣ではなく弓を構えた。暴風がダウバリフに打ち返される前に、矢で起爆してしまえば──。
「ワシには戦う理由がある。孫のため、息子のため、そして、これから萌立つ命のため!」
アンリが矢を打つより早く、暴風が大剣から解き放たれる。即座にアンリは空中へ飛び上がり、同時にこちらへ迫る暴風を矢で起爆させた。
大気が歪むほどの圧縮された空気が、風船のようにはじけ飛ぶ。
瞬間、内包された斬風が周囲を叩き潰し、切り刻みながら拡散した。爆心地にあった地面と瓦礫はクレーターとなり、遠いものは風圧で吹き飛ばされながら粉砕される。さらに風は留まることを知らず、里の広場にあった噴水の水を上空へたたき上げ、付近の狩人も宙へ投げ飛ばした。
爆音が膜となって、アンリの肌を通り抜ける。それから数秒後、真空となった爆心地へ大気がなだれ込み、落雷のごとき轟音を立てながら圧縮を始めた。
空気が物凄い速さで流れ、身体が持っていかれそうになる。眩い閃光を迸らせる爆心地からアンリは目を逸らしつつ、逆風を生み出して建物の陰に隠れた。
ここまで菌糸能力を酷使するのは久しぶりだ。自分が想定していた以上の規模だったが、ダウバリフを仕留めきれたとは思えなかった。
爆発させる前に見せたダウバリフの気迫は、並大抵の覚悟では出せぬ代物だ。それほどの男がここで終わるはずがない。
やがて大気の収束が収まり、轟音で馬鹿になった鼓膜から耳鳴りが始まった。建物の陰からそっと爆心地を覗いてみるが、ダウバリフの姿はどこにもなかった。広場の噴水は原型をとどめないほど粉々にされ、全壊したギルドの残骸も他の建物の残骸と入り混じってゴミ山になっている。
民間人が里の外に避難していて本当に良かった。アンリも逃げていなければ、今頃あの建物の残骸のように目も当てられない死体になっていただろう。
気づけば里を包み込んでいた炎は消えていた。黒い煙ですら真っ新に吹き荒らされ、山の向こうからは沈みかけた夕日の残光が差し込んでいる。西の空ではすでに星が輝いていた。
アンリは壁に寄りかかりながら短く嘆息し、右手の短剣と左手の弓を構えながら背後を振り返った。
「想像以上の威力じゃった」
「そう思うなら死んでほしかったなぁ」
壊れかけの建物の屋根から差し込む赤い光が、ダウバリフの白黒の頭髪を照らし出す。さらにその足元では、辛うじて人間と分かる肉塊が転がっていた。死体を盾にして、左腕をズタズタに切り裂かれながらも、ダウバリフは平然とアンリの前に立っていた。
「それ、スキュリアの狩人でしょ。良心とか痛まないのかい?」
「さて、な。オマエも無傷とは行かんかったようじゃが」
血を被ったダウバリフの目がアンリの左足を見る。爆風に巻き込まれたアンリの左足からは折れた骨が突き出しており、壁に寄りかかっていなければ立っていられなかった。たった一瞬逃げ遅れただけでこのザマだ。
せめて止血してからダウバリフと対面したかったが、そう上手くはいかないらしい。『陣風』で空中移動すればまだ戦えないこともないが、下手に動き回れば失血死してしまう。
アンリは策略を巡らせた後、ずるずると壁に背中を預けたまま座り込んだ。意地を通してまでこれ以上戦う理由がなかった。それだけのことだ。
ダウバリフは無防備になったアンリを見ても襲い掛かってくることはせず、大剣を地面に突きさして重く息を吐いた。それから、左腕から血を垂らしながらこう問いかけてくる。
「オマエを殺すのは惜しい。どうじゃ、ワシらと共に来ぬか」
「冗談。貧乏くさいスキュリアより、エラムラの方がいいに決まってるじゃん」
「巫女の正体を知ってもなお、そう言えるかの」
「……どういう意味だい」
痛む左足の傷を押さえながらダウバリフを睨む。死にかけの赤い夕陽に照らされたダウバリフは、紫色の瞳を光らせながら髭を震わせた。
「ワシらの瞳はな、この世の歪みが見えるのよ」
光が徐々に山の陰に沈み、建物の中も暗くなっていく。エラムラの里は未だ争いの声が聞こえてくるが、血を失っているせいか、ダウバリフ以外の声がすべて遠い世界の出来事のように思えてきた。
「人間に芽生えた菌糸と、その胞子。それらが放つ生気というものを、ワシらは見ることができる。活気のある街ともなれば、命の息吹はそれはそれは美しいのじゃ。……しかし、人間の中に交じって化け物がおるんじゃ。どんなに美しい息吹も一瞬で枯らしてしまうほどの、昏く底が見えぬ、海のごとき死の色じゃ」
日が落ちて、紫色の瞳が暗がりで爛々と輝く。
見るだけでその人の魂の色が分かるなんて、眉唾物もいい所だ。しかしダウバリフのしゃがれた声色には全く欺瞞がなく、表情に出せぬほどに限界まで張りつめた憎しみが真実を物語っていた。
「お主らには巫女が生きている人間に見えるようじゃが、ワシの衰えた目でも巫女の正体がはっきり見える。あれは異常じゃ。この世のものではない。存在してはならん」
「……巫女様が化け物だから、ベアルドルフはミカルラ様を殺して、娘のハウラ様も殺そうとしているってことかい」
「その通りじゃ。そしてシャルと共にいたリョーホもまた……悍ましい化け物よ」
ダウバリフの気配が揺らぐ。いや、揺らいだのはアンリの意識だ。傷口を抑え込む握力も失われていき、衣服に自分から流れ出した血が吸い込まれている感覚がする。じわじわと黒ずんでいく視界の中で、ダウバリフはどこか悲しそうに虚空を見上げる。
「息子がアレを見たら、まさしく煉獄の権化と見紛うじゃろう。あれほど歪んだ魂はワシでも見たことがない」
まるで惜しむような声だ。巫女たちに抱く者とは別種の感情に違和感を抱く。同じ化け物であるならば、巫女と同様にリョーホも憎まれるべきであろう。そうでなくては、エラムラの差別に耐え続けられるわけがない。
ダウバリフの不可解な行動はこれだけではなかった。最初にリョーホに切りかかったときも、アンリが立ち去るのを待っていれば確実に殺せたはずだ。なのにそうしなかったのは、まるでアンリにリョーホを守ってほしいと言わんばかりではないか。
その迷いはシャルのためなのか、それとも……。
アンリは思考を巡らせ、次いで仄かに笑いながら言葉を紡いだ。
「俺は見たものしか信じられない質でね。魂がどうとか、長々と説明されても全く理解できないんだ。それに……」
弓を地面に突き立て、杖代わりにしながら立ち上がる。貧血で頭がくらりとしたが、楽な体制から抜け出せたおかげで微睡みかけた意識がはっきりしてきた。
「もし本当に、巫女様の魂が化け物だったとしてもだよ。彼女たちがエラムラの人々に与えてくれたものは本物だよ。結界の中で毎日平穏な夜を迎えられるだけで十分じゃないか」
「それが人を騙くらかすためだと思わんのか?」
「ドラゴンの恐怖から解放されるなら、化け物でも利用した方が得じゃないか」
狩人は里や村をドラゴンから守りはするが、ドラゴンとの共生を諦めたわけではない。実際に北東ではあえてドラゴンの巣に暮らし、他のドラゴンから身を守っている里もある。
エラムラの里もそれと同じことだ。里の主がドラゴンだろうと化け物だろうと、人間が一番生き残れる方法を選ぶ。狩人はそうやって生存領域を広げてきたのだ。
「それで、どうする?」
アンリが問い掛ければ、ダウバリフは地面に突きさしていた大剣を重々しく引き抜いた。夜闇を吸い込んだ大剣はますます黒く、まるで闇そのものが具現化したような姿だ。肩に担ぐために振るわれただけで、大剣の周りで風が唸り、紫色の菌糸が酷薄な殺意を漲らせる。
「お主は、確実に仕留める。その次はあの化け物じゃ」
アンリは深々と嘆息すると、壁に触れていた背中を引き延ばした。
「リョーホを殺したらシャルちゃん悲しむんじゃない?」
「……人を失う痛みなんぞ、あの娘は慣れておるわい」
「ああ、そう」
化け物はどっちなんだか。
内心でぽつりと呟くのを最後に、無駄な思考をそぎ落とした。
エランの短剣を腰のベルトにしまい、弓の足踏みをして腰の重心を調整する。弓は真っすぐと、胸を押し出すように弦を弾き、張りが均等になるように狙いを定める。
『陣風』
菌糸から生み出された風がアンリの手の中で透明な矢を形作る。圧縮された大気は陽炎のように揺らぎ、これまでと比較にならぬ嵐の気配を纏っていた。
「撃つか。このワシを」
風の向こうでダウバリフが嗤った。
弦を離せば、一瞬でアンリの命は消し飛ぶだろう。
この一撃は大剣で難なく打ち返され、アンリは自分の放った『陣風』によってミンチになる。たとえ運よく生き残ったとしても、大剣に叩き潰されて終わりだ。
それでも撃つと決めた。
アンリは目を眇めながら風の勢いを強める。強風に巻き込まれ、後ろで結ってある茶髪がうなじで暴れている感触がする。願掛けのために伸ばし続けてきた茶髪は何年もの間、度重なる戦いに巻き込まれてきたせいで肩から下まで伸びた例がない。
そして今もまた、斬撃を伴う風に切り刻まれて茶髪が徐々に短くなっていく。
膨れ上がった『陣風』がやがて臨界点を突破し、弦を握るアンリの指が解き放たれようとした瞬間。
「──ダウバリフ。潮時ダ」
「ふん、傭兵崩れが……しかし……」
闖入者の制止と、軽やかな鈴の音色がアンリの意識に割り込む。同時に頭の中で鈴の音が反響し、急にアンリの全身から力が抜け始めた。収束していた『陣風』がじわじわと穴の開いた桶のように中身を失っていき、アンリが力尽きる頃にはただの風となって霧散していた。
「邪魔しやがって……」
崩れ落ちるアンリを、牧師じみた黒服の男が受け止める。その袖下では木製の鈴がカラコロと音を立てて揺れていた。
「アンリさん。立派な囮役でしたよ」
「……なったつもりはなかったけど、そんな気はしてましたよクソ」
「口が悪いですね」
アンリは制御を取り戻す手を動かし、ふらつきながらロッシュを押しのけようとした。ロッシュは逆にアンリの襟首をつかんで立ち直させると、眼前にいるダウバリフと謎の男へと目を向けた。
乱入してきた男は奇妙な格好をしていた。肩には乾いた血で染め抜いたような棘だらけの棍棒が担がれており、柄の先から垂れた鎖がじゃらじゃらと男の腰に巻き付いている。全身が隙間なく鎧で覆われているため、男の容貌はうかがい知れない。獣のように前にせり出した頭部は普通の人間より大きく、兜の隙間からは生臭い血の匂いがした。
「そこの鎧の方、顔を見せてもらえますか」
「…………」
「黙っているとはいい度胸です」
ロッシュは笑顔を絶やすことなく右手の鈴を鳴らした。鈴の音が半壊した建物内に反響するが、ダウバリフの耳から少量の血が噴き出すだけで、鎧の男は全く動じていなかった。
ロッシュが肉眼で知覚しているというのに効果がない。つまりこの男は、エラムラの人間だ。
「……なるほど。裏切り者はあなたでしたか。ですが全く記憶にない音です。側近でもない人間がどうやって僕の弱点を見つけたのですか?」
「……話す気は、ナイ」
刹那、ロッシュが前触れなくアンリの顔の前に右手をかざす。それと同時に鎧の男の方から飛んできた鎖がロッシュの右手首を打ち砕いた。ロッシュに庇われなかったら、今頃アンリは頭蓋を打ち砕かれていただろう。
「……ふむ」
ロッシュが面白そうに目を細める。
──その時にはすでにダウバリフたちの姿は消えていた。
ダウバリフの出血は相当なものだったが、床には移動した血の痕跡すらない。これではどの方角に逃げたかも分からず、追うのは不可能だ。
「逃げられましたね」
「……手を抜いてたの間違いじゃないですか?」
「否定はしませんよ。生かして捕まえなければ意味がありませんから」
ロッシュは飄々と返答しながら、瓦礫を跨ぐようにして外に出た。空はすっかり黒く染まり、里のあちこちではまだ炎が燃えている。ロッシュはそれらを見渡した後、鈴を鳴らしながらアンリを振り返った。
「アンリさん。左足の治療が終わったら貴方にも働いてもらいますからね」
「はー……じゃあ肩貸してください」
「もちろんです」
いい笑顔で頷くロッシュに、アンリは辟易としながら手を伸ばした。
その時、薄明の塔から轟音が響き渡った。
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【作者より、感謝を込めて】
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そして、この物語を見つけ出し、最高の形で世に送り出してくださる、担当編集者様、イラストレーターの市丸きすけ先生、全ての関係者の皆様に、心からの感謝を。
本当に、ありがとうございます。
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